三七 精神の混乱について

質問
 私は、あなたのすべての講話を聴いてきました。あなたのすべての本を読んできました。もっとも熱心に訊きますが、あなたの言われるようにすべての思考が止み、すべての知識が抑圧され、すべての記憶が失われなければならないなら、私の生の目的は何でありうるのでしょうか。あなたはその存在の状態−あなたによれば、それが何であろうとも−を、私たちがそこに生きている世界と、どのように関係させるのでしょうか。そういう存在は、私たちの悲しい苦しい・痛ましい存在と、どんな関係があるのでしょうか。

 私たちはこの状態が何であるかを知りたいのです−それは、すべての知識、すべての認識者がないとき、ありうるだけです。この状態が、私たちの日常の活動の、日常の追求の世界と、どんな関係を持つのかを、私たちは知りたいのです。私たちは、今自分たちの生が何であるか−悲しく、痛ましく、常に恐れて、何も永久的なものがない−を知っています。私たちはそれをとてもよく知っています。この他の状態が、それとどんな関係を持つのかを、私たちは知りたいのです−私たちが知識を脇に置いて、自分たちの記憶などから自由になるなら、存在の目的は何でしょうか。
 私たちが今知っているような存在の目的は、何でしょうか−理論的にではなく現実に、
です。私たちの日常存在の目的は、何でしょうか。ただ生き残る・生き延びることなのではないでしょうか−そのすべての悲惨とともに、そのすべての悲しみと混乱、戦争、破壊などとともに、です。私たちは理論を考案できます。「これはあるべきではない。しかし何か他のものがあるべきだ」と、私たちは言えます。しかしそれらはすべて理論です。それらは事実ではありません。私たちが知っていることは、混乱、苦痛、苦しみ、終わりなき敵対です。私たちはまた、そもそも気づいているなら、これらがどうして生じるのかをも、知っています。生の目的は、個人としても、また集団的人間としても、瞬間瞬間、毎日、互いに破壊しあうこと、互いに搾取・利用しあうことです。私たちは、自分たちの寂しさ、悲惨のなかで、他の人たちを利用しようとします。私たちは自分たち自身から逃避しようとします−娯楽をとおし、神をとおし、知識をとおし、あらゆる形の信念をとおし、同一化をとおして、です。それが、私たちが今生きているような、意識的、無意識的な自分たちの目的です。もっと深くもっと広い彼方の目的、混乱の、取得のものではない目的があるでしょうか。その努力のない状態は、私たちの日常の生と何か関係を持つのでしょうか。
 確かにそれは、私たちの生と全く関係がありません。どうしてあるでしょうか。私の精
神が混乱し、苦悶し、寂しいなら、どうしてそれが、何かそれ自体のものではないものと、関係することができるでしょうか。どうして真理が偽りと、幻影と関係することができるでしょうか。私たちはそれを認めたくないのです。なぜなら、私たちの希望、混乱が、私たちに何かもっと偉大な、高尚なものを信じさせるからです−それは私たちと関係していると、言うのです。絶望のなかで、私たちは真理を求めます。それの発見のなかで、自分たちの絶望が消え去るであろうと願います。
 それで混乱した精神、悲しみに支配された・乗っ取られた精神、それ自身の空っぽ、寂し
さに気づいている精神は、決して、それ自体を越えているものを見つけられないことが、わかります。精神を越えているものは、混乱、悲惨の原因が追い払われたり理解されたりするとき、生じうるだけです。私が言ってきた、話してきたことすべては、自分たち自身をどう理解するのか、です。というのは自己認識なしには、他のものはないからです。他のものはただ幻影です。私たちは、瞬間瞬間、自分たち自身の総合過程を理解できるなら、そのとき自分たち自身の混乱をきれいに片づけるなかで、他のものが生じることが、わかるでしょう。そのときそれを経験することが、これと関係を持つでしょう。しかしこれは決してそれと関係を持たないでしょう。・仕切りのこちら側にあって、闇の中にあって、どうして光の、自由の経験を持てるでしょうか。しかしいったん・ひとたび真理の経験があるとき、そのときあなたはそれを、自分たちが生きているこの世界と関係させられるのです。
 私たちは愛が何であるかを決して知らなくて、常なる口論・論争、悲惨、葛藤・抗争だけを
知っていたなら、どうしてこのすべてのものではない愛を経験できるでしょうか。しかしいったん私たちがそれを経験したとき、そのときわざわざ関係を見出そうとしなくていいのです。そのとき、愛、智恵が機能します。しかしその状態を経験するには、すべての知識、蓄積された記憶、自己同一化された活動は止まなければなりません。そのため精神はどんな投影された感動の能力もないのです。そのとき、それを経験すると、この世界に行動があるのです。
 確かに、それが存在の目的です−精神の自己中心的な活動を越えてゆくことです。精神
により測ることのできないその状態を経験してしまうと、そのときそれを経験することこそが、内面の革命をもたらします。そのとき、愛があるなら、社会的問題はありません。愛があるとき、どんな種類の問題もありません。私たちはどう愛するのかを知らないから、社会的問題と、自分たちの問題をどう扱うのかについての哲学の体系を持つのです。これらの問題は、左のでも右のでも中間のでもどんな体系・体制によっても、決して解決できないと、私は言います。それらは−私たちの混乱、悲惨、自己破壊は−自己投影されないその状態を経験できるときだけ、解決できるのです。


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