三五 精神の静寂について

質問
なぜあなたは精神の静寂について語られるのでしょうか。そしてこの静寂とは何でしょうか。

私たちが何かを理解しようと思うなら、精神が静寂であることが、必要ではないでしょうか。私たちは問題を持つなら、それについて悩まないでしょうか。私たちはそれに入ります。それを分析します。それを理解することを願って、ずたずたに・断片に引き裂きます。そこで、私たちは、努力をとおし、分析をとおし、比較をとおし、何かの形の精神的格闘をとおして、理解するでしょうか。確かに、理解は、精神がとても静かであるときだけ、来るのです。私たちは、飢餓の、戦争の、または他のどんな人間の問題も、 [それと] 格闘すればするほど、それと葛藤すればするほど、ますますそれをよく理解するだろうと、言います。そこで、それは真実でしょうか。戦争−個々人の間の、社会の間の抗争−が、幾世紀の間続いてきました。内面と外面の戦争が常にあります。私たちは、さらなる葛藤・抗争により、さらなる格闘により、ずるがしこい尽力により、その戦争、その葛藤・抗争を解決するでしょうか。それとも私たちは、直接にその前にあるとき、事実と向き合うときだけ、問題を理解するのでしょうか。精神と事実の間に干渉する興奮・動揺がないときだけ、私たちは事実に向き合えるのです。それで私たちが理解すべきである・しようとするなら、精神が静かであることが重要ではないでしょうか。
「どのようにして精神は静かにできるのでしょうか」と、あなたは必然的に訊くでしょ
う。それが即時の応答なのではないでしょうか。「私の精神は興奮し・動揺しています。それでどうしてそれを静かにしておけるのでしょうか」と、あなたは言います。何かの体系が精神を静かにさせられるでしょうか。公式、修練は、精神を静かにさせられるでしょうか。できます。しかし精神が静かにさせられるとき、それは静けさでしょうか。それは静寂でしょうか。それとも精神は、観念の中に、公式の中に、文句の中に囲い込まれる・閉じ込められるだけでしょうか。そういう精神は死んだ精神なのではないでしょうか。そういうわけで、霊的、いわゆる霊的であろうとするほとんどの人たちは、死んでいるのです。なぜなら、彼らは自分たちの精神を静かであるように訓練してきたからです。彼らは静かである間、自分たち自身を公式の中に囲い込んだ・閉じ込めたのです。明白に、そういう精神は決して静かではありません。それは抑圧され、押さえつけられ・抑えられるだけです。
 精神は、それが静かであるときだけ、理解が来るという真理がわかるとき、静かです−
私はあなたを理解しようと思うなら、静かでなければならない。あなたに対して反応を持ってはならない。先入観を持ってはならない。自分の結論、自分の経験すべてを片づけて、あなたに面と向き合って出会わなければなりません。そのときだけ、精神が自分の条件づけから自由であるとき、私はほんとうに理解するのです。私がそれの真理がわかるとき、そのとき精神は静かです−そのときどのようにして精神を静かにさせるか、という問いはありません。真理だけが、精神をそれ自身の観念作用から解放できるのです。真理がわかるには、精神は、それが興奮・動揺しているかぎり、理解を得られないという事実を、悟らなければなりません。精神の静けさ、精神の平静さは、意志力により、願望のどんな作用によっても生み出されるものではありません。それが [産み出] されるなら、そのときそういう精神は、囲い込まれ・閉じ込められ、孤立しています。それは死んだ精神です。ゆえに適応性、柔軟性、すばやさの能力がないのです。そういう精神は創造的ではありません。
 私たちの問題は、そのときどのようにして精神を静かにさせるのかではなくて、あらゆる問題が私たちに生じるままに、それの真理がわかることです。それは、風が止むとき、静かになる池に似ています。私たちの精神は、私たちが問題を持つから、動揺しています。問題を避けるために、私たちは精神を静かにさせるのです。そこで精神はこれらの問題を投影してきました。それで精神から離れて問題はありません。精神がどんな感受性の着想でも投影し、どんな形の静寂でも実践するかぎり、それは決して静寂でありえません。静寂であることによってだけ、理解があることを、精神が悟るとき、そのときそれはとても静かになります。その静けさは課されません。修練されません。それは、動揺した精神が理解できない静けさです。
 精神の静けさを求める多くの人たちは、活動的な生から村へ、修道院へ、山へ退きます。
または観念の中へ退いたり、信念の中に閉じこもったり、自分たちに迷惑・面倒をかける人たちを避けたりします。そういう孤立は精神の静寂ではありません。観念における精神の閉鎖や、生をやっかいに・面倒にする人たちを避けることは、精神の静寂をもたらしません。蓄積をとおした孤立の過程がなくて、関係の過程全体についての完全な理解があるときだけ、精神の静寂が来るのです。蓄積は精神を老けさせ・古くします。蓄積の過程なしに、精神が新しいとき、新鮮であるとき、そのときだけ、精神の平静さを持つ可能性があるのです。そういう精神は死んでいません。それはもっとも活動しています。静寂な精神が最も活動的な精神です。しかしあなたはそれを実験し、それに深く入る気があるなら、静寂には思考の投影がないことが、わかるでしょう。思考はすべての水準で、明白に記憶の反応です。それで思考は決して創造の状態でありえないのです。それは創造性を表現するかもしれませんが、思考それ自体には決して創造性がありえません。静寂が、結果ではない精神の平静さがあるとき、そのとき、その静けさには、思考により動揺させられた精神が決して知ることのできないとてつもない活動、とてつもない行動があることが、わかるでしょう。その静寂には、定式化がありません。観念がありません。記憶がありません。その静寂は、「私」という過程全体の完全な理解があるときだけ、経験されうる創造の状態です。そうでないと、静寂は意味がありません。結果ではないその静寂においてだけ、永遠のものが発見されます−それは時間を超えています。


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