三四 些細な・取るに足りないことについて

質問
精神は何に携わる・従事するべきでしょうか。

葛藤がどのようにして生み出されるのかについての、とてもよい例・実例があります−あるべきものとあるがままとの間の葛藤です。初めに私たちは、あるべきもの、理想を確立します。それから、その様式に応じて生きようとします。精神は、高尚なものごと、反利己性、寛大さ、親切、愛に携わるべきだと、私たちは言います。それは様式、信念、あるべきもの、ねばならないものです。それで私たちはそれに応じて生きようとします。それであるべきものの投影と、現実−あるがままのものとの間に、葛藤が動き始めているのです。その葛藤をとおして、私たちは変容させられたいと願うのです。私たちはあるべきものと格闘しているかぎり、美徳があると感じます。徳がある・善であると感じます。しかしどちらが重要でしょうか−あるべきものとあるがままとでは。私たちの精神は何に携わっているのでしょうか−イデオロギ−的にではなく、現実にです。些細なものごとに [携わっているの]ではないでしょうか−自分がどのように見えるのか、野心、貪欲、妬み、うわさ話、残酷さに、です。精神は些細なものごとの世界に生きているし、高尚な様式を造り出している些細な精神は 、やはり些細なのではないでしょうか。問いは、精神は何に携わるべきかではなくて、精神は些細なものごとから自由になれるか、です。私たちはそもそも気づいているなら、そもそも探究しているなら、自分たち自身の特定の些細なものごとを、知っています−絶えざる話、精神の永続的なおしゃべり、あれこれについての心配、人々がしている [こと] やしていないことについての好奇心、結果を達成しようとすること、自分自身の増大・拡大を模索すること、などです。私たちはそれに携わっているし、それはとてもよく知っています。それは変容させられうるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。精神は何に携わるべきかを訊くことは、たんなる未熟さです。
 そこで、私の精神が些細であり、些細なものごとに携わっていることに気づくと、それはこの条件から自由になれるでしょうか。精神は、まさにその本性そのものにより、些細ではないでしょうか。記憶の結果を除いて、精神とは何でしょうか。何についての記憶でしょうか。どう生き残る・生き延びるのかについて [の記憶]−身体的にだけでなく、また心理的に、一定の性質、美徳の発達 [をとおし] 、経験を貯えておくこと [をとおし] 、それ自身の活動においてそれ自体を確立することをとおして [どう生き残るか]です。それは些細ではないでしょうか。記憶の、時間の結果である精神は、それ自体において些細です。それは、それ自身の些細なものごとから自由になるには、何ができるでしょうか。それは何かできるのでしょうか。どうかこれの重要性をわかってください。精神、すなわち自己中心的活動は、その活動から自由になれるでしょうか。明白に、できません。それがすることは何でも、やはり些細です。それは神について憶測できます。それは政治的体制を工夫・考案できます。それは信念を考案できます。しかしそれはやはり時間の領域の中に・圏内にあります。その変化は、やはり記憶から記憶へ [の変化] です。それはやはりそれ自身の制限に縛られています。精神はその制限を壊せるでしょうか。それともその制限は、精神が静かであるとき、それが活動していないとき、それ自身の些細なものごと−それらをどんなに偉大であると想像しようとも−を認識するとき、壊れるのでしょうか。精神がその些細なものごとを見てしまい、それらに充分に気づいて、そのためほんとうに静かになるとき− そのときだけ、
これら些細なものごとがなくなる可能性があるのです。精神は何に携わるべきかを、あなたが探究しているかぎり、それは些細なものごとに携わるでしょう−それが教会を建てようと、祈ろうと、神殿・聖堂に通おうと、です。精神自体が卑小で、小さいし、たんにそれは卑小であると言うだけで、あなたはその卑小さを解消しなかったのです。あなたはそれを理解しなければなりません。精神はそれ自身の活動を認識しなければなりません。そしてその認識の過程において、それが意識的、無意識的に築いてきた些細なものごとへの気づきにおいて、精神は静かになるのです。その静けさに、創造的状態があるし、これが、変容をもたらす要因です。


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