二八 知られたものと知られないもの

質問
 私たちの精神は、知られたものだけを知っています。私たちの中で、知られないもの、真実、神を見つけるように駆り立てるのは、何でしょうか。

あなたの精神は知られないものに向かって駆り立てるのでしょうか。私たちには、知られないもの、真実、神への衝動があるのでしょうか。どうかそれを真剣に考え抜いてください。これは修辞学的な問い・反語ではなくて、現実に見出しましょう。私たち各自には、知られないものを見出したいという内面の衝動があるのでしょうか。あるのでしょうか。どうしてあなたは知られないものを見つけられるでしょうか。あなたがそれを知らないなら、どうして見つけられるでしょうか。真実への衝動があるのでしょうか。それともそれはたんに知られたものへの拡大された願望でしょうか。私のいうことがどういう意味なのか、理解していますか。私は多くのものごとを知ってきました。それらは私に幸せ、満足、喜びをくれませんでした。それで今や私は、もっと大きな喜び、もっと大きな幸せ、もっと大きな生命力−何であれ−を自分にくれるであろう何か他のものを、欲しがっているのです。知られたもの−それは私の精神です−なぜなら、私の精神は知られているから、過去の結果であるからです−その精神が知られないものを求められるでしょうか。私は真実を、知られないものを知らないなら、どうしてそれを探求できるでしょうか。確かにそれは来なければなりません。私はそれを追ってゆけません・追いかけられません。私はそれを追ってゆくなら、何か自分が投影した知られたものであるものを、追っているのです。
 私たちの問題は、私たちの中で、知られないものを見つけるように自分たちを駆り立てるのは何なのかではありません−それは充分明らかです。それは、もっと安全で、もっと永久的で、もっと確立され、もっと幸せでありたい、騒乱・騒動から、苦痛、混乱から逃避したいという私たち自身の願望です。それが私たちの明白な駆動力です。その駆動力、その衝動があるとき、あなたは−ブッダに、キリストに、政治的とその他すべてに−すばらしい逃避、すばらしい避難所を見つけるでしょう。それは真実ではありません。それは知ることのできないもの、知られないものではありません。ゆえに知られないものへの衝動は、終わらなければなりません。知られないものへの探求は止まなければなりません−それは、累積する知られたもの、すなわち精神の理解がなければならないという意味です。精神は、知られたものとしてのそれ自体を理解しなければなりません。なぜならそれが、それが知っているすべてであるからです。あなたは、何か自分が知らないものについて考えられません。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。
 私たちの困難は、精神が知られたものに進んでいかないことです。それは、精神がそれ自体を [理解して] 、そのすべての動きが、どのように過去から現在をとおして未来にそれ自体を投影しているかを理解するときだけ、起きるのです。それは知られたものの一つの連続した動きです。その動きは終わりうるでしょうか。それは、それ自身の過程の機構が理解されるときだけ、精神がそれ自体とその働き、そのやり方、その目的、その追求、その要求を−表面的な要求だけでなく、深い内面的な衝動と動機を−理解するときだけ、終わりうるのです。これは全く困難な作業です。*あなたが見出すのは、ただ会議の中や講義においてや本を読むことにおいてではないのです。反対に、それは、思考のあらゆる動きへの常なる見守り、常なる気づきが要るのです−あなたが起きているときだけでなく、また眠っているときも、です。それは散発的な、部分的な過程ではなく、総合的な過程でなければなりません。
 また、意図が正しくなければなりません。すなわち、私たち皆が内面的に、知られないものを欲しがるという迷信の停止がなければなりません。私たちが皆神を求めていると考えることは、幻影です−私たちは [求めて]いません。私たちは光を探し求めなくていいのです。闇がないとき、光があるでしょう。闇をとおして、光は見つけられません。わたしたちにできるすべては、闇を造り出すそれらの障壁を取り去ることです。除去は意図に依ります。あなたは光を見るために、それらを取り去っているなら、そのとき何も取り去っていません。闇の代わりに光という言葉を用いているだけです。闇を越えて・の向こうを見ることさえも、闇からの逃避です。
 私たちは、自分たちを駆り立てているのは何なのかではなく、なぜ自分たちには、そういう混乱、そういう騒動、そういう闘争と敵対が−私たちの存在の愚かなものごとすべてが−あるのかを、考慮しなければなりません。これらがないとき、そのとき光があります。私たちはそれを捜さなくていいのです。愚かさが去ったとき、智恵があります。しかし愚かであって智恵を持とうとする人は、やはり愚かです。愚かさは決して英知になれません。愚かさが止むときだけ、英知、智恵があるのです。愚かであって智恵を [持とう]、賢くなろうとする人は、明白に、決してそうあることができません。何が愚かさなのかを知るには、表面的にではなく、充分に、完全に、深く、奥深く、それに入らなければなりません。愚かさの違った層すべてに入らなければなりません。その愚かさの停止があるとき、英知があります。
 ゆえに、知られたものより何かもっと多くのもの、何かもっと偉大なものがあるのかどうかを、見出さないこと [が重要です] ・見出すのではなくて−それが私たちを知られないものへと駆り立てているのです−私たちの中で、混乱、戦争、階級差別、俗物性・根性、名声の追求、知識の蓄積[を造り出し]、音楽をとおし、芸術をとおし、こんなに多くの仕方をとおして逃避を造り出しているのは何なのかを見ることが、重要です。確かに、それらをあるがままに見ること、あるがままの私たち自身に戻ってくることが、重要です。そこから私たちは、進めるのです。そのとき、知られたものを脱ぎ落とすことは、比較的たやすいのです。精神が静寂であるとき、それがもはや何かを願って、それ自体を未来へと投影していないとき、精神がほんとうに静かで、深く平和であるとき、知られないものが生じるのです。あなたはそれを探し求めなくていいのです。あなたはそれを招待できません。あなたが招待できるものは、あなたが知っているものだけです。あなたは知らない客を招待できません。あなたは自分が知っているものを招待できるだけです。しかしあなたは知られないもの、神、真実−何であれ−を知りません。それは来なければなりません。それは、田畑が健全であるとき、土が耕されているときだけ、来れるのです。しかしあなたは、それが来るために耕すなら、そのときそれを得ないでしょう。
 私たちの問題は、どのようにして知ることのできないものを求めるのかではなく、精神の累積する過程−それは常に知られたものです−を理解することです。それは困難な作業です。それは、そこに散漫の、同一化の、非難の感覚がない常なる注意、常なる気づきを、要求します。それはあるがままと共にあることです。そのときだけ、精神は静かでいられるのです。どれほどの量の瞑想、修練も、言葉の真実の意味で、精神を静かにさせられません。そよ風が止むときだけ、湖は確かに静かになるのです。あなたは湖を静かにさせられません。私たちの仕事・努めは、知ることのできないものを追求することではなくて、自分たち自身の中の混乱、騒動、悲惨を理解することです。そのとき、そのものがぼんやりと・かすかに生じます−そこに喜びがあるのです。


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