二六 古いものと新しいものについて

質問
私はあなたの言うことを聴くとき、すべてが明確で新しく見えます。家では、古いもの、鈍い落ち着きのなさが、自己を主張します。私の場合、何が間違っているのでしょうか。

 私たちの生において、現実に起きているのは何でしょうか。常なる挑戦と応答があります。それが存在であり、それが生なのではないでしょうか−常なる挑戦と応答です。挑戦はいつも新しくて、応答はいつも古いのです。私は昨日あなたに会いました。そしてあなたは今日私のところへ来ます。あなたは違っています。あなたは修正されています。あなたは変わりました。あなたは新しいのです。しかし私は、あなたが昨日あったのと同じあなたの映像を持っています。ゆえに私は新しいものを古いものの中に吸収します。私は新たにあなたに出会わないのです。昨日のあなたの映像を持っています。それで挑戦への私の応答は、いつも条件づけられるのです。あなたはここでは当分は、バラモン、キリスト教徒、高いカ−スト、−何であろうと−であるのを止めます−あなたはあらゆるものごとを忘れます。あなたはただ聴いて、熱中して、見出そうとしています。あなたは自分の日常の生を再開するとき、自分の古い自己になります−自分の仕事、自分のカ−スト、自分の体制、自分の家族に戻っています。言い換えれば、新しいものは古いものにより、古い習慣、慣習、観念、伝統、記憶の中に、いつも吸収されているのです。決して新しいものはないのです。というのは、あなたはいつも古いものでもって新しいものに出会っているからです。挑戦は新しいのですが、あなたは古いものでもって、それに出会うのです。この質問における問題は、いつのときも新しくあるように、どのようにして思考を古いものから自由にするか、です。あなたは花を見るとき、顔を見るとき、空、木、微笑を見るとき、どのようにして新たにそれと出会うのでしょうか。私たちがそれと新たに出会わないのは、なぜでしょうか。古いものが新しいものを吸収して、それを修正するのは、なぜでしょうか。あなたが家に帰るとき、なぜ新しいものは止むのでしょうか。
 古い応答は思考者から生じます。思考者はいつも古いものではないでしょうか。あなたの思考は過去に基づいているから、あなたが新しいものに出会うとき、それに出会っているのは思考者です。昨日の経験がそれに出会っているのです。思考者はいつも古いものです。それで私たちは違った仕方で同じ問題に戻って来るのです。どのようにして精神を、思考者としてのそれ自体から自由にするのか。どのようにして記憶を−事実に基づく・関する記憶ではなく、心理的な記憶、すなわち経験の蓄積を−根絶するのか。経験の残り滓からの自由なしには、新しいものの受容はありえません。思考を自由にすること、思考過程から自由であって、それで新しいものに出会うことは、困難なのではないでしょうか。なぜなら、私たちのすべての信念、すべての伝統、教育におけるすべての方法は、模倣、真似ること、記憶すること、記憶の貯え・貯蔵所を築き上げることであるからです。その記憶が常に新しいものに応答しています。その記憶の応答が、考えることと呼ばれます。その考えることが新しいものに出会うのです。それでどうして新しいものがありうるでしょうか。記憶の残り滓がないときだけ、新しさがありえるのです。経験が終わり、終了し・終結し、終わっていないとき、残り滓があるのです。すなわち経験についての理解が不完全であるときです。経験が完全であるとき、残り滓はありません−それが生の美しさです。愛は残り滓ではありません。愛は経験ではありません。それは存在の状態です。愛は永遠に新しいのです。ゆえに私たちの問題は−家においてさえも、常に新しいものに出会えるでしょうか。確かにできます。そうするには、思考に、感情に、革命をもたらさなければなりません。あらゆる出来事が、瞬間瞬間考え抜かれるとき、あらゆる応答が−たんにいいかげんに・何気なく見られ、投げ捨てられるのではなく−充分に理解されるときだけ、あなたは自由でありうるのです。あらゆる思考、あらゆる感情が完全にされ・完了され、最後まで考え抜かれるときだけ、蓄積する思考からの自由があるのです。言い換えれば、各思考と感情が考え抜かれ、終了・終結されるとき、終わりがあるのです。その終わりと次の思考の間に空間があるのです。その静寂の空間に、新生があり、新しい創造性が起きるのです。
 これは理論的ではありません。これは非実践的ではありません。あなたは、あらゆる思考と感情を考え抜こうとするなら、それはあなたの生において、とてつもなく実践的であることを、発見するでしょう。というのは、そのときあなたは新しいし、新しいものは永遠に永続するからです。新しいことは創造的ですし、創造的であることは幸せであることです。幸せな人は、自分が富裕であるか貧しいかに関心がありません。彼は社会のどんな水準、どんなカ−スト、どんな国に、自分が属しているかを気にしません。彼は指導者も、神も、寺院も、教会も [持ちません]、 ゆえに諍いも、敵も持ちません。
 確かにそれが、この現在の混沌の世界において、私たちの問題を解決するもっとも実践的な道ではないでしょうか。私たちが自分たちの意識の違った水準すべてにおいてこんなに反社会的であるのは、私たちが−私がその言葉を使っている意味において−創造的でないからです。私たちの社会的関係において、あらゆるものごととの関係において、とても実践的で効果的であるには、幸せでなければなりません。終わりがなければ、幸せはありえません。常なるなりゆきの過程があるなら、幸せはありえません。終わることのなかに、新生、再生・復活、新しさ、新鮮さ、喜びがあるのです。
 背景があるかぎり、精神、思考者が、自分の思考により条件づけられるかぎり、新しいものは古いものに吸収されるし、古いものは新しいものを破壊します。背景から、条件づける影響から、記憶から自由であるには、継続・連続性からの自由がなければなりません。思考と感情が完全に終わらないかぎり、継続性があります。あなたは思考をその終わりまで追求し、よってあらゆる思考、あらゆる感情を終わらせるとき、思考を完全にする・完了するのです。愛は、習慣、記憶ではありません。愛はいつも新しいのです。精神が新鮮であるときだけ、新しいものとの出会いがありうるのです。そして記憶の残り滓があるかぎり、精神は新鮮ではありません。記憶は心理的と共に事実に基づいています。私は事実に基づいた記憶についてではなく、心理的な記憶について話しています。経験が完全に理解されないかぎり、残り滓があります−それが古いものです。それが昨日のもの、過去であるものごとです。過去はいつも新しいものを吸収しているし、ゆえに新しいものを破壊しています。精神があらゆるものごとに新たに出会うのは、それが古いものから自由であるときだけです。そしてその中に、喜びがあるのです。


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