二五 観念をもたない行動について

質問
真理が来るために、あなたは観念をもたない行動を、主張されます。観念をもたずに、すなわち目的を視野にもたずに、いつのときも行動することは、可能でしょうか。

私たちの現在の行動は何でしょうか。私たちのいう行動とは、どういう意味でしょうか。私たちの行動−私たちがしたい、ありたいと思うこと−は、観念に基づいているのではないでしょうか。それが、私たちの知っているすべてです。私たちは観念、理想、約束・誓約、あるがままの自分たちとそうでないものについての様々な定式を持っています。私たちの行動の基礎は、未来の報賞か、罰への恐れです。私たちはそれを知っているのではないでしょうか。そういう行動は孤立させ、自己を閉鎖しています(孤立的、自己閉鎖的です)。あなたは美徳についての観念を持っていて、その観念に応じて、関係において生き、行動します。あなたにとって関係は−集団的でも個人的でも−理想に向かい、美徳に向かい、達成などに向かっている行動です。
 「私は勇敢でなければならない」、「私は模範に付いていかなければならない」、「私は慈悲深く・情け深くなければならない」、「私は社会的に意識しなければならない」、などといったように−私の行動が理想、すなわち観念に基づいているとき、その観念が私の行動を形造り、私の行動を導きます。私たちは皆「私が付いていかなければならない美徳の模範がある」と言います−それは、「私はそれに応じて生きなければならない」という意味です。それで行動はその観念に基づいています。行動と観念の間に大きな隔たり・深淵があります。分割があります。時間の過程があります。そうなのではないでしょうか。言い換えれば、私は慈悲深くないのです。愛していないのです。自分の心の中に許しがないのです。しかし慈悲深くなければならないと、感じるのです。それであるがままの私とあるべき私との間に隔たりがあるのです。私たちはいつのときも、その隔たりに橋を架けようとしています。それが私たちの活動なのではないでしょうか。
 では、もしも観念が存在しなかったなら、何が起きるでしょうか。一挙に、あなたは隔たりを取り去ってしまったのではないでしょうか。あなたはあるがままのあなたであるでしょう。「私は醜い。美しくならなければならない。どうすべきでしょうか」と、あなたは言います−それは観念に基づいた行動です。「私は慈悲深くない。慈悲深くならなければならない」と、あなたは言います。それであなたは、行動から分離した観念を導入します。ゆえにあるがままのあなたの真の行動 [・作用]は決してなくて、いつもあるであろうあなたの理想に基づいた行動があるのです。 愚かな人はいつも、自分は利口になろうとしていると、言います。彼は座って、なろうと働き、格闘して・もがいています。彼は決して止めません。「私は愚かだ」とは決して言いません。それで彼の行動、すなわち観念に基づいているものは、全く行動ではないのです。
 行動とは、すること、動くことという意味です。しかしあなたが観念を持つとき、それはたんに行動との関係において、観念作用が続いている、思考過程が続いているだけです。観念がなければ、何が起きるでしょうか。あなたは、あるがままのあなたです。あなたは慈悲深くありません・無慈悲です。あなたは許していません。あなたは残酷で愚かで無思慮です。あなたはそれと共にとどまれるでしょうか。あなたはそうするなら、そのとき何が起きるか、わかります。私は自分が慈悲深くなく愚かであるのを認識するとき、それがそうであることに気づくとき、何が起きるでしょうか。慈善の心がないでしょうか。智恵がないでしょうか。私が慈悲深くないことを、言葉ではなく、作為的にではなく、完全に認識するとき、自分が慈悲深くなくて愛がないのを認識するとき、まさにそのあるがままを見ることこそに、愛がないでしょうか。私は即時に慈悲深くならないでしょうか。私が清潔であることの必要性がわかるなら、それはとても単純です。私は洗いにゆきます。しかしそれが、私が洗うべきであるという観念であるなら(私は洗うべきであるということが観念であるなら)、そのとき何が起きるでしょうか。そのとき清潔さは延期されるか、または表面的です。
 観念に基づいた行動は、とても表面的です。全く真の行動ではありません。ただ観念作用だけです−それはたんに思考過程が続いているだけです。
 人間としての私たちを変容させ、革新、償い、変容をもたらす行動−何と呼ぼうと−そういう行動は観念に基づいていません。それは、賞罰の連続とはかかわりのない行動です。そういう行動は時間がありません。なぜなら、時間の過程、計算する過程、分割し、孤立化させる過程である精神が、その中に入ってこないないからです。
 この質問はあまりたやすく解決されません。あなたたちのほとんどは、質問をして、「はい」とか「いいえ」とかいう答えを期待します。「あなたのいうのはどういう意味でしょうか」というような質問をして、それから深く坐って、私に説明させることはたやすいです。しかし自分自身で答えを見出すことのほうが、はるかにもっと困難です−問題がなくなるほどに、それほど奥深く、それほど明晰に、なんの腐敗もなく問題の中に入ることのほうが、です。精神が問題に向き合ってほんとうに静寂であるとき、それは起こりうるだけです。問題は、あなたがそれを愛するなら、夕暮れと同じほど美しいのです。あなたは問題と敵対しているなら、決して理解しないでしょう。私たちのほとんどは敵対しています。なぜなら私たちは、結果に、進めば起きるかもしれないことに、怯えているからです。それで問題の意義と範囲・視野を失うのです。


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