二一 性について

質問
 私たちは逃避できない身体的、心理的必要としての性を知っています。そしてそれは、私たちの世代の私的な生における混沌の、根本原因であるように見えます。どうすれば私たちはこの問題を取り扱えるのでしょうか。

 私たちは、自分たちが触れるものは何でも、問題に変えてしまうのは、なぜでしょうか。私たちは神を問題にしました。愛を問題にしました。関係を、生きることを問題にしました。そして性を問題にしました。なぜでしょうか。なぜ、私たちがするあらゆることが問題、恐怖なのでしょうか。なぜ私たちは苦しんでいるのでしょうか。なぜ性が問題になってしまったのでしょうか。なぜ私たちは、問題とともに生きることに服従する・甘んじるのでしょうか。なぜそれらを終わらせないのでしょうか。なぜ来る日も、来る年も、自分たちの問題を持ち運ぶかわりに、それらに対して死なないのでしょうか。性は確実に今日的な意義のある・当を得た問題です。しかし第一の・主要な問題があります−なぜ私たちは生を問題にするのか、です。働くこと、性、金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること−知っているでしょう、生きることにかかわること全体を−なぜそれは問題なのでしょうか。それは本質的に、私たちがいつも特定の視点から、固定した視点から考えるから、 ではないでしょうか。私たちはいつも中心から周辺に向かって考えています。しかし周辺が、私たちのほとんどにとって中心であるし、そのため私たちが触れるどんなことも表面的です。しかし生は表面的ではありません。それは完全に生きることを要求します。私たちは表面的にだけ生きているから、表面的な反動・反応だけを知っているのです。私たちが周辺でするどんなことも、必然的に問題を造り出すにちがいありません。それが私たちの生です。私たちは表面的なもののなかで生きています。そして表面的なものの問題すべてとともに、そこで生きることに満足しています。私たちが表面的なもののなかで、周辺で生きるかぎり、問題は存在しています−周辺は「私」とその感動・感覚です。それは客観化されることも主観的になることもできます。それは普遍的なものと、国と、精神により作り上げられた何か他のものと同一化されることもできます。
 私たちが精神の領域の中で生きるかぎり、複雑さがあるにちがいありません。問題があるにちがいありません。それが、私たちが知っているすべてです。精神は感覚です。精神は蓄積された感覚と反応の結果です。それが触れるどんなものも、必ず悲惨、混乱、終わりなき問題を造り出します。精神−昼も夜も、意識的、無意識的に機械的に働いている精神−が、私たちの問題のほんとうの原因です。精神はもっとも表面的なものです。私たちは精神を育成することに、それをますます利口に、ますます微妙に、ますますずるがしこく、ますます不正直で曲がったものにすることに、数世代を使ってきましたし、自分たちの生全体を使います−そのすべては、私たちの生のあらゆる活動において明らかです。まさに私たちの精神の本性そのものが、不正直で曲がって、事実に向き合う能力がないことです。それが問題を造り出すものです。それが、問題自体であるものです。
 私たちのいう性の問題とは、どういう意味でしょうか。それは行為でしょうか、それとも行為についての思考でしょうか。確かに、それは行為ではありません。食べることが、あなたにとって問題でないのと同じように、性的行為は、あなたにとって問題ではありません。しかしあなたは、他に何も考えることがないから、一日中、食べることや何か他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。性的行為は問題でしょうか、それともそれは、行為についての思考でしょうか。なぜあなたはそれについて考えるのでしょうか。なぜあなたはそれを−自分が明白にしていることを−築き上げるのでしょうか。映画、雑誌、物語、女性たちの服の着方・着こなし方、あらゆることが、あなたの性についての思考を築き上げます。なぜ精神はそれを築き上げるのでしょうか。なぜ精神は、そもそも性について考えるのでしょうか。なぜでしょうか。なぜそれは、あなたの生において中心的論点になってしまったのでしょうか。こんなに多くのものごとが、あなたの注意を呼び起こし、要求しているとき、あなたは性についての思考に完全な注意を払うのです。何が起きるでしょうか。なぜあなたの精神は、こんなにそれに携わって・専心しているのでしょうか。なぜなら、それが究極の逃避の道・仕方であるからなのではないでしょうか。それは完全な自己忘却の道です。今のところ・さしあたり、少なくともその当座は・その瞬間は、あなたは自分自身を忘れられるのです−自分自身を忘れる他の道はないのです。あなたが生においてする他のあらゆることは、「私」、自己を強調するのです。あなたの事業、宗教、神、指導者たち、政治的、経済的行動、逃避、社会的活動、一つの党派に加わって他のを拒絶すること− そのすべてが、「私」を強調し、強さを与えているのです。すなわち、「私」の強調がない唯一つの行為があるのです。そのためそれが問題になるのではないでしょうか。ほんのわずかな瞬間・たった数秒間でも、究極の逃避への、自分自身の完全な忘却への道である唯一つのものごとが、あなたの生にあるとき、あなたはそれにすがりつくのです。なぜなら、それが唯一の、あなたが幸せである瞬間であるからです。あなたが触れる他のあらゆる論点は、悪夢に、苦しみと苦痛の源になるのです。それであなたは、完全な自己忘却を与えてくれる一つのものごとにすがりつくのです−それを幸せと呼ぶのです。しかしあなたがそれにすがりつくとき、それもまた悪夢になります。なぜなら、そのときあなたは、それから自由でありたい、その奴隷でありたくないからです。それであなたは再び・またもや純潔の、独身・禁欲の観念を、精神から考案するのです。そして抑圧をとおして、禁欲を守ろう・通そう、純潔であろうとします−そのすべてが、事実からそれ自体を切り離そう・断ち切ろうとする、精神の操作です。これもまた、何かになろうとしている「私」に、特定の強調を与えます。それであなたはまたもや、苦労に、困難に、努力に、苦痛に捕らわれるのです。
 あなたは、問題について考える精神を理解しないかぎり、性はとてつもなく難しく複雑な問題になります。行為自体は決して問題ではありえません。しかし行為についての思考が問題を造り出すのです。あなたは行為を守ります・保護します。あなたはだらしなく・いいかげんに生きたり、結婚に耽る・身を任せたりします。よって自分の妻を娼婦にしているのです−それは見たところ・外見上、すべてとても体裁よく見えます。それであなたはそれくらいにしておくことに満足するのです。確かに、あなたが「私」と「私の」−私の妻、私の子ども、私の財産、私の車、私の達成、私の成功−の過程と構造全体を理解するときだけ、問題は解決できるのです。あなたがそのすべてを理解して解決するまで、性は問題として残っているでしょう。あなたは、政治的、宗教的、どのようにでも野心的であるかぎり、野心−個人としてのあなた自身の名においてでであれ、国の、党派の、宗教と呼ぶ観念の名においてであれ−で養う・飼い育てることにより自己を、思考者を、経験者を強調しているかぎり、この自己拡大の活動があるかぎり、性的問題を持つでしょう。あなたは一方で自分自身を造り出し、飼い育て・養い、拡大しながら、他方で瞬間だけでも・当分の間だけでも、自分自身を忘れよう、自分自身を失おう・我を忘れようとしているのです。どうして二つが共存できるでしょうか。あなたの生は矛盾です−「私」の強調と「私」を忘れることは、です。性は問題ではありません。問題は、あなたの生におけるこの矛盾です。そして矛盾は、精神により橋渡しできません。なぜなら、精神自体が矛盾であるからです。あなたが自分の日常の存在の過程全体を、充分に理解するときだけ、矛盾は理解されうるのです。映画に行ってスクリ−ンの女性たちを見つめること、思考を刺激する本や半裸の写真を載せた雑誌を読むこと、女性たちを見るあなたの仕方、あなたの [視線] を捕らえる・つかむこそこそした視線・まなざし−これらすべてのものごとが、誤った自己の強調の仕方をとおして、精神を助長していると同時に、あなたは親切で、愛情を持って、優しくあろうとしているのです。二つは共存できません。霊的にせよそうでないにせよ、野心的である人は、決して問題なしではありえません。なぜなら、自己が忘れられるとき、「私」が存在していないときだけ、問題は止むからです。そして自己が存在していないその状態は、意志の行為 [・作用]ではありません。それはたんなる反応ではありません。性は反応になります。精神が問題を解決しようとするとき、それは問題をもっと混乱させ、もっとやっっかいに・面倒に、もっと苦痛にするのです。行為が問題ではなく、精神が−それは純潔でなければならないと言う精神が、問題です。純潔は精神のものではありません。精神はそれ自身の活動を抑圧できるだけです。抑圧は純潔ではありません。純潔は美徳ではありません。純潔は育成できません。謙虚さを育成している人は、確かに謙虚な人ではありません。彼は自分のうぬぼれ・高慢さを謙虚さと呼ぶかもしれません。しかし彼は高慢な・傲慢な人です。そういうわけで、彼は謙虚になろうと努めるのです。高慢さは決して謙虚さになれませんし、純潔は精神のものごとではありません−あなたは純潔になれません。愛があるときだけ、あなたは純潔を知るでしょう。愛は精神のものでも、また精神のものごとでもないのです。
 ゆえに、世界中でこんなに多くの人々を拷問にかけている性の問題は、精神が理解されるまでは、解決されえません。私たちは考えることを終わらせることはできません。しかし思考者が止むとき、思考は終わるのです。過程全体の理解があるときだけ、思考者は止むのです。思考者と彼の思考の間に分割があるとき、恐れが生じます。思考者がないとき、そのときだけ、思考に葛藤がないのです。言外に含まれていることは、理解しようとする努力を必要としません。思考をとおして、思考者が生じます。そのとき思考者は、自分の思考を形造ろう、制御しよう、それらを終わらせようとけんめいに努力します。思考者は架空の・虚構の実体、精神の幻影です。事実としての思考についての悟りがあるとき、そのとき事実について考える必要はないのです。単純で無選択の気づきがあるなら、そのとき事実に含まれているものが正体を現しはじめます。ゆえに事実としての思考は終わります。そのときあなたは、私たちの心と精神を食い尽くしている問題、私たちの社会構造の問題が、解決できるということが、わかるでしょう。そのとき性はもはや問題ではありません。それはそれの適切な持ち場があります。それは不純な・汚れたことではなく、また純粋な・浄らかなことでもありません。性はその持ち場があります。しかし精神がそれに支配的な・優越した持ち場を与えるとき、そのときそれは問題になるのです。精神は性に支配的な持ち場を与えます。なぜなら、それは何らかの幸せなしには生きられないからです。それで性は問題になるのです。精神がその過程全体を理解し、そして終わるとき、すなわち考えることが止むとき、そのとき創造があります。それは、私たちを幸せにする創造です。その創造の状態にあることは、至福です。なぜなら、それは、自己からとしての反応がない自己忘却であるからです。これは、日常の性の問題への抽象的な答えではありません。それが唯一の答えです。精神は愛を否定します。愛なしに、純潔はありません。あなたが性を問題にするのは、愛がないからです。


このページのトップへ戻る   トップページヘ戻る