十六 神への信念について

質問
 神への信念は、よりよい生活への強力な誘因・動機でした。なぜあなたは神を否定されるのでしょうか。なぜあなたは、神の観念への人の信仰を蘇らせ・復活させないのでしょうか。

 問題を、広く智恵をもって見つめましょう。私は神を否定していません−そうすることは愚かでしょう。真実を知らない人だけが、無意味な言葉に耽るのです。知っていると言う人は、知りません。瞬間瞬間真実を経験している人は、その真実を伝達する手段を持たないのです。
 信念は真理の否定です。信念は真理の障害です。神を信じることは、神を見つけることではありません。信じる者も信じない者もどちらも、神を見つけないでしょう。なぜなら、真実は知られないものであるからです。知られないものへのあなたの信や不信は、たんに自己投影です。ゆえに真実ではありません。あなたが信じているのを、私は知っています。そしてそれは、あなたの生においてほとんど意味がないのを、私は知っています。信じている多くの人たちがいます。何百万もの人たちが神を信じているし、慰安を受けています。まず最初に、なぜあなたは信じるのでしょうか。それがあなたに満足、慰安、希望を与えてくれるから、あなたは信じるのです。そしてそれが生に意義を与えてくれると、あなたは言うのです。現実には、あなたの信念はほとんど意義がありません。なぜなら、あなたは信じて搾取 [・利用]する、信じて殺す、普遍的な神を信じて、互いに殺し合うからです。富裕な人もまた神を信じています。彼は無慈悲に搾取し、金を蓄積します。それから寺院を建てたり、社会奉仕家・慈善家になったりします。
 広島に原子爆弾を落とした人たちは、神が自分たちと共にいると、言いました。ドイツを破壊しようとイギリスから飛んだ・飛行機に乗った人たちは、神が自分たちの副操縦士・操縦助士であると、言いました。独裁・指令者、総理大臣・首相、将軍、大統領、すべてが神について話しをします。彼らは神への測りしれない信仰を持っています。彼らは人のために奉仕をし、よりよい生を作っているでしょうか。自分たちは神を信じていると言う人たちは、世界の半分を破壊してきたのです。世界は完全な悲惨 [の状態]にあるのです。宗教的不寛容をとおして、信じる者と信じない者としての人々の分割がありますし、宗教戦争につながっています。それは、あなたがいかにとてつもなく政治的精神を持っているかを、表示しています。
 神への信念は、「よりよい生活への強力な誘因」でしょうか。なぜあなたはよりよい生活への誘因がほしいのでしょうか。確かにあなたの誘因は、清く単純に生きたいというあなた自身の願望であるにちがいないのではないでしょうか。あなたは誘因に頼るなら、みんなのために生を可能にすることに興味がないのです。あなたはたんに自分の誘因に興味があるのです−それは私の [誘因]とは異なっています−それで私たちは誘因のことでけんかするでしょう。私たちは、神を信じているからではなく、人間であるから、一緒に幸せに生きるなら、そのときみんなのためにものを産み出す・生産するための完全な生産の手段を共有するでしょう。智恵の欠如をとおして、私たちは神と呼ばれる超智恵の観念を受け入れるのです。しかしこの「神」、この超智恵は、私たちによりよい生活を与えてくれそうにありません。よりよい生活に導くものは智恵です。そして信念があるなら、階級分割があるなら、生産の手段が少数者の手中にあるなら、孤立化した国家 [・民族]と独立政権があるなら、智恵はありえません。このすべては明白に、智恵の欠如を表示しています。よりよい生活を妨げているのは、智恵の欠如であって、神への不信ではありません。
 あなたたちはみんな、異なった仕方で信じています。しかしあなたの信念は全く何の真実性もありません。真実は、あなたのあるがまま、あなたのすること、あなたの考えることです。あなたの神への信念は、たんに自分の単調な愚かな残酷な生からの逃避です。そのうえ・さらに、信念は必ず人々を分割します。ヒンドウ−教徒、仏教徒、キリスト教徒、共産主義者、社会主義者、資本主義者などがあります。信念、観念は分割するのです。それは決して人々を一つにまとめません。あなたは少数の人々を一つの集団にまとめるかもしれません。しかしその集団はもう一つの集団と対立しているのです。観念と信念は決して統合していません。反対に、それらは分離的で、崩壊的で、破壊的です。ゆえに、あなたの神への信念は、ほんとうは世界に悲惨を広げているのです。それはあなたに瞬間の慰安をもたらしたかもしれないけれども、現実には、戦争、飢饉、階級分割、分離した個人の無慈悲な行動という形で、あなたにもっと多くの悲惨と破壊をもたらしたのです。それであなたの信念は全く妥当性がありません。もしもあなたがほんとうに神を信じていたなら、もしもそれがあなたにとってほんとうの経験であったなら、そのときあなたの顔に微笑みがあるでしょう。あなたは人間を破壊していないでしょう。
 では真実とは何でしょうか。神とは何でしょうか。神は言葉ではありません。言葉はもの
ごと・実体ではありません。測ることのできない、時間のものではないものを知るには、精神は時間から自由でなければなりません−それは、精神が、神についてのすべての思考から、すべての観念から自由でなければならない、という意味です。あなたは、神や真理について何を知っているでしょうか。あなたはその真実について、ほんとうは何も知らないのです。あなたが知っているすべては、言葉 [です]、他の人たちの経験や、或る瞬間のあなた自身のかなり漠然とした・あいまいな経験です。確かに、それは神ではありません。それは真実ではありません。それは時間の領域を越えていません。時間を超えているものを知るには、時間の過程が理解されなければなりません−時間は思考過程、なりゆく・なろうとする過程、知識の蓄積です。それが精神の背景 [・地盤]全体です。精神自体が、意識と無意識、集団と個人両方の背景 [・地盤] です。それで精神は、知られたものから自由でなければなりません−それは、精神が静寂にされるのではなく、完全に静寂でなければならない、という意味です。結果としての [静寂] 、決然とした・決断された行動から、実践から、修練から出てきたものとしての静寂を達成する精神は、静寂な精神ではありません。強いられ、制御され、形造られ、枠にはめられ、静かにしている精神は、静寂な精神ではありません。あなたは、一定時間、精神を表面的に静寂であるよう強いることに、成功するかもしれません。しかしそういう精神は、静寂な精神ではありません。あなたが思考の過程全体を理解するときだけ、静寂が来るのです。なぜなら、過程を理解することが、それを終わらせることであるからです。思考の過程の終わりが、静寂の始まりです。
 精神が、上の水準でだけでなく根本的に、ずっととおして−意識の表面的な [水準]とともにより深い水準でも−完全に静寂であるときだけ、そのときだけ知られないものが生じうるのです。知られないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが経験されうるのです−静寂以外に何も [経験]されえません。精神が静寂以外に何かを経験するなら、それはたんにそれ自身の願望を投影しているだけです。そういう精神は静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的、無意識的などんな形でも、思考が動き [の状態]にあるかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的とともに無意識的な記憶からの自由です。精神が使われず・使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時間のないもの、永遠のものが、たしかに生じるのです。その状態は、覚えておく状態ではありません−覚えておく、経験する実体はありません。
 ゆえに、神や真理−何であれ−は、瞬間瞬間生じるものです。それは、精神が様式に応
じて修練されるときではなく、自由と自発性の状態においてだけ、起きるのです。神は精神のものごとではありません。それは自己投影をとおして来ません。それは、美徳、すなわち自由があるときだけ、来るのです。美徳は、あるがままの事実に向き合うことです。事実に向き合うことは至福の状態です。精神が、それ自身のどんな動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影がなく、至福に満ちて、静かであるときだけ−そのときだけ、永遠のものが生じるのです。


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