十三 憎しみについて

質問
 私は完全に・完璧に正直であるなら、ほとんどあらゆる人を恨み、ときには憎んでいることを認めなければなりません。それは私の人生をとても不幸せに、苦痛にしています。私は、自分がこの恨み、この憎しみであることを、知的には理解しています。しかし、それに対処(抵抗)できません。私に対処法を示してもらえませんか。
K
 私たちのいう「知的に」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何かを知的に理解しているというとき、それはどういう意味でしょうか。知的理解というようなものがあるのでしょうか。それともそれは、精神がたんに言葉を理解するだけということでしょうか。なぜなら、それが、私たちが互いに疎通し合う唯一の道であるからです。私たちはいったいどうやって・どんなふうに何かを、たんに言葉の上で、精神的に、本当に理解できるのでしょうか。それが、明らかでなければならない最初のことです−いわゆる知的理解は、理解にとって妨害でないのかどうか [ということが、] です。確かに理解とは統合的であって分割されず部分的ではないでしょう。私は何かを理解するかしないか、どちらかです。「私は何かを知的に理解している」と自分自身に言うことは、確かに理解にとって障壁です。それは部分的過程ですし、ゆえにそもそも・全く理解ではありません。
 そこで疑問はこうです−「恨み、憎んでいる私は、どのようにしてその問題から自由であるべきか、 [それに] 対処すべきか」です。私たちは問題にどのように対処するのでしょうか。問題とは何でしょうか。確かに、問題とは、何か動揺させるものです。
 私は恨んでいます、憎んでいます。私は人々を憎んでいるし、それが苦痛の原因になります。それに気づいています。私はどうすべきでしょうか。それは私の人生においてとても動揺させる要因です。私はどうすべきでしょうか。どのようにして本当にそれから自由になるべきでしょうか−ただちょっとの間(瞬間的に)それを脱ぎ捨てる(脱却する)のではなく、根本的にそれから自由になるのです。私はそれをどうすべきでしょうか。
 それが私にとっての問題です。なぜなら、それは私を動揺させるからです。もしもそれが私を動揺させるものでなかったなら、私にとって問題ではないのではないでしょうか。それが苦痛、動揺、心配の原因になるから、それは醜いと思うから、私はそれを取り除きたいのです。ゆえに私が嫌っているものは、動揺なのではないでしょうか。私は違ったとき、違った気分で、違った名前を、それに付けます。ある日、私はそれをこれだと呼び、他の日、何か他のものだと呼びますが、願望は、基本的に動揺させられないことです。そうではないでしょうか。楽しみは動揺させないから、私はそれを受け入れます。私は楽しみから自由になりたくないのです。なぜなら動揺がないからです−少なくとも今のところは(さしあたりは)。しかし憎しみ、恨みは、私の生においてとても動揺させる要因ですし、それらを取り除きたいのです。
 私の関心事は動揺させられないことです。そして決して動揺させられない仕方を見つけようとしています。なぜ私は動揺させられるべきでないのでしょうか。見出すには、動揺させられなければならないのではないでしょうか。見出すには、ものすごい激変・変動、騒動、心配を経なければならないのではないでしょうか。私は動揺させられないなら、眠ったままでいるでしょうし、おそらくそれが、私たちのほとんどがたしかに欲しいものです−められ・静められること、眠りにつかされる(安楽死させられる・麻酔をかけられる)こと、どんな動揺からも逃げること、孤立、隔離(隠遁)、安全を見つけることです。私は動揺させられることを気にしないなら−本当に、ただ表面的にだけでなく、動揺させられることを気にかけないなら−なぜなら私は見出したいからです−そのとき憎しみに向かう、恨みに向かう私の態度は、変化を受けるのではないでしょうか。動揺させられることを気にかけないなら、そのとき名前は重要ではないのではないでしょうか。「憎しみ」という言葉は重要ではないのではないでしょうか。また人々に対する「恨み」も重要ではないのではないでしょうか。なぜなら、そのとき私は、その経験を言葉にすることなしに、恨みと呼ぶその状態を、直接に経験しているからです。
 憎しみと恨みがそうであるように、怒りはとても動揺させる性質です。私たちのほとんどは、怒りを言葉にすることなく、直接にそれを経験しないのです。私たちがそれを言葉にしないなら、それを怒りと呼ばないなら、確かに違った経験があるのではないでしょうか。私たちはそれを用語づけるから、新しい経験を縮小・削減したり、それを古いものの用語に固定させるのです。ところが、私たちがそれに名づけないなら、そのとき直接に理解される経験があるのです。この理解が、その経験に変容をもたらすのです。
 卑しさ(賤しさ)を例に取りましょう。私たちのほとんどは、賤しいとしても、それに気づいていません−お金のことについて卑しい、人を許すことについて卑しい、ご存じでしょう、ただ卑しいことです。私たちはきっとそれに慣れ親しんでいると思います。そこでそれに気づくと、どのようにしてその性質から自由になろうとしているでしょうか−寛大になることではありません。それは重要な点ではありません。卑しさから自由であるとは、寛大という意味を含んでいます。あなたは寛大にならなくてもいいのです。明白に、それに気づいているにちがいありません。あなたは自分の社会・協会、友人に大きな寄付をすることにおいてとても寛大であるが、より多くのチップを払うことについてひどく卑しいかもしれません−ご存じでしょう。私のいう「卑しい」とはどういう意味なのかを。人はそれを意識していません。それに気づくとき、何が起きるでしょうか。私たちは意志を使って・行使して寛大であろうとします。それに打ち勝とうとします。私たちは自分たち自身を修練して寛大であろうとする、等々です。しかし結局、何かであろうとする意志の行使は、やはりより大きな輪のなかの卑しさの一部です。ですから私たちはそれらのことを何もしないで、それに用語を付けないで、たんに卑しさの含む意味に気づくだけなら、そのとき根元的変容が起きるということが、わかるでしょう。
 どうかこれを実験してみてください。初めに、動揺させられなければなりません。私たちのほとんどが動揺させられることを好まないのは明白です。私たちは生の様式を見つけてしまったと考えます−大師、信念、何であろうと−。そしてそこに身を落ち着かせるのです。それはよい官僚職を得て、残りの人生をそこで働く・職務を果たすのに似ています。それと同じ精神をもって、私たちは取り除きたいと思う様々な性質に接近するのです。私たちは動揺させられること、内面的に安全でないこと、依存していないことの重要性がわからないのです。確かに、あなたが発見するのは、わかるのは、理解するのは、安全でないことにおいてだけ、ではないでしょうか。私たちは沢山のお金を持つ気楽な人のようになりたいのです。彼は動揺させられないでしょう。動揺させられたくないのです。
 動揺は、理解にとって本質的・必要不可欠です。安全を見つけようとするどんな試みも、
理解にとって障害です。私たちが何か動揺させているものを取り除きたいと思うとき、それは確かに障害です。私たちは一つの気持ち・感情を名づけることなしに直接に経験できるなら、そこに沢山のことを見つけるだろうと、私は思います。そのときもはや、それとの戦いはありません。なぜなら経験者と経験されるものは一つであるからです。それは本質的です。経験者が感情、経験を言葉にするかぎり、自分自身をそれから分離して、それについて決定を下します(それに対して作用します)。そういう行動は作為的な幻影の行動です。しかし言葉にすることがなければ、そのとき経験者と経験されるものは一つです。その統合は必要ですし、根元的に向き合わなければなりません。


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