八 気づきについて


質問
 気づきと内省の間の違いは何でしょうか。そして気づきにおいて、気づくのは誰でしょうか。

 初めに、私たちのいう内省とはどういう意味なのかを、検討しましょう。私たちのいう内省とは、自分自身の中を見る、自分自身を検討する、という意味です。なぜ自分自身を検討するのでしょうか。改善する・向上させるため、変えるため、修正するため、です。あなたは何ものかになるために内省します。そうでないと内省に耽らないでしょう。もしも修正したい、変えたい、あるがままのあなたより他の何ものかになりたいという願望がなかったなら、あなたは自分自身を検討しないでしょう。それが、内省のための明白な理由です。私は怒ります。すると怒りを取り除いたり、怒りを修正したり変えるために、私は自分自身を内省し、検討します。内省−それは、自己の応答、反応を修正したり変えたいという願望です−があるところ、いつも視野に目的があるのです。その目的が達成されないとき、不機嫌さ、憂鬱さがあるのです。ゆえに内省は必ず憂鬱さを伴います。あなたは内省するとき、自分自身を変えるために自分自身の中を見るとき、いつも憂鬱の波があるということに、気づいたことがあるかどうか、私は知りません。あなたが [それと] 戦わなければならない不機嫌な波が、いつもあるのです。あなたはその気分などに打ち勝つために、再び自分自身を検討しなければならないのです。内省は [そこに]解放のない過程です。なぜならそれは、あるがままを何かそうではないものに変容させる過程であるからです。 私たちが内省するとき、その特定の行動に耽るとき、明白に、それがまさに起きていることです。その行動にはいつも蓄積過程 [があり] 、それを変えるために何かを検討している「私」があり、そのためいつも二元的葛藤 [があり、]ゆえに挫折の過程があるのです。決して解放はありません。そしてその挫折を悟ると、憂鬱さがあるのです。
 気づきは全く異なっています。気づきは非難なき観察です。気づきは理解をもたらします。なぜなら、非難も同一化もなくて、静寂な観察があるからです。私は何かを理解したいなら、観察しなければなりません。批判してはなりません。非難してはなりません。楽しみとしてそれを追求したり、楽しみでないとしてそれを避けたりしてはなりません。たんに事実についての静寂な観察があるだけでなければなりません。視野に目的がなくて、生じるままにあらゆるものごとへの気づきがあります。非難、同一化、正当化があるとき、その観察と、その観察の理解は止みます。内省は自己改善です。ゆえに内省は自己中心性です。気づきは自己改善ではありません。反対にそれは、そのすべての奇妙な性向、記憶、要求、追求を持った自己の、「私」の終わりです。内省には、同一化と非難があります。気づきには、非難も同一化もありません。ゆえに自己改善はありません。二つの間には広大な違いがあります。
 自分自身を改善したいと思う人は、決して気づけません。なぜなら改善は、非難と結果の達成という意味を含んでいるからです。ところが気づきには、非難のない、否定も受け入れもない観察があります。その気づきは外側のものごとから始まります−気づくこと、対象と、自然と接触することです。初めに、自分のまわりのものごとへの気づきがあります−対象に、自然に、それから人々に敏感であることです−それは関係という意味です。それから観念への気づきがあります。この気づき−ものごとに、自然に、人々に、観念に敏感であることは、分離した過程から作り上げられているのではなく、一つの単一の・統一された過程です。それはあらゆるものごとの [観察]、自分自身の中に生じるままのあらゆる思考、感情、行動の常なる観察です。気づきは非難的ではないので、蓄積がありません。あなたは規範を持つときだけ、非難するのです−それは蓄積が [ある]、ゆえに自己の改善がある、という意味です。気づきは、人々との、観念との、ものごととの関係における自己、「私」の活動を、理解することです。その気づきは瞬間瞬間です。ゆえにそれは実践できません。あなたが一つの事を実践するとき、それは習慣になります。気づきは習慣ではありません。習慣的である精神は鈍感・無感覚です。特定の行動の溝・轍の中で機能している精神は、鈍く、柔軟でありません。ところが気づきは常なる柔軟性、鋭敏さを要求します。これは難しくありません。あなたが何かに興味があるとき、あなたが自分の子供、妻、植物・草木、木々、鳥たちを見つめることに興味があるとき、それが、あなたが現実にすることです。あなたは非難なく、同一化なく観察します。ゆえにその観察には、完全な親交があります。観察者と観察されるものは、完全に親交 [の状態]にあります。これは、あなたが深く、奥深く何かに興味があるとき、現実に起きるのです。
 こうして気づきと、内省の自己拡大的な改善の間には、広大な違いがあるのです。内省は挫折に、さらなるもっと大きな葛藤につながります。ところが気づきは、自己の行動からの解放の過程です。それは、あなたの日常の動きに、あなたの思考に、あなたの行動に気づくこと、そして他の人に気づくこと、彼を観察することです。あなたは誰かを愛しているとき、何かに深く興味があるときだけ、それができるのです。私が自分自身を、自分の存在全体を、たった一つか二つの層ではなく自分自身の内容全体を知りたいとき、そのとき明白に、非難はないにちがいありません・あってはなりません。そのとき私は、あらゆる思考に、あらゆる感情に、気分すべてに、抑圧すべてに対して [扉を] 開いていなければなりません。そしてますます拡大する気づきがあるにつれて、隠れた思考の動き、動機、追求すべてからのますます大きな自由があるのです。気づきは自由です。それは自由をもたらします。それは自由を生み出します。ところが内省は葛藤を、自己閉鎖の過程を育成します。ゆえに、それにはいつも挫折と恐れがあるのです。
 質問者はまた、誰が気づくのかを知りたいのです。あなたがどんな種類のでも奥深い経験をするとき、何が起きているでしょうか。そういう経験があるとき、あなたは自分が経験していることに気づいているでしょうか。あなたは怒っているとき、怒りや嫉妬や喜びのほんの瞬間に、自分が喜んでいる・うれしいことや怒っていることに気づいているでしょうか。経験者と経験されるものがあるのは、経験が済んでいるときだけです。そのとき、経験者が経験されるものを、経験の対象を観察するのです。経験の瞬間には、観察者も観察されるものもどちらもないのです。経験することだけがあるのです。私たちのほとんどは経験していません。私たちはいつも経験する状態の外側にいるのです。ゆえに誰が観察者なのか、気づいているのは誰なのかについてのこの疑問を、訊ねるのです。確かにそういう疑問は間違った疑問なのではないでしょうか。経験している・経験があった瞬間、気づいている人物も、彼がそれに気づいている対象もどちらもないのです。観察者も観察されるものもどちらもなくて、ただ経験している状態だけがあるのです。私たちのほとんどは、経験する状態に生きることは極めて難しいことを、見つけます。なぜなら、それはとてつもない柔軟性、すばやさ、高度の敏感さを要求するからです。そして私たちが結果を追求しているとき、成功したいとき、目的を視野に持つとき、計算しているとき−そのすべてが挫折をもたらします−それは否定されるのです。何も要求せず、目的を求めていなくて、結果と共にそのすべての含蓄を捜し出していない人、そういう人は常に経験する状態にあるのです。そのときあらゆるものが動きを、意味を持ちます。何も古くありません。何も焼け焦げていません。何も反復的ではありません。なぜなら、あるがままは決して古くないからです。挑戦はいつも新しいのです。古いのは、挑戦に対する応答だけです。古いものはさらなる残り滓を造り出します-それが記憶、観察者です−彼は観察されるものから、挑戦から、経験から、自分自身を分離するのです。
 あなたはとても単純に、とてもたやすく、自分自身でこれを実験できるのです。今度あなたが怒ったり、嫉妬したり、欲張ったり、暴力的であったり−何であろうと−するとき、自分自身を見守ってください。その状態には、「あなた」はいません。その存在の状態だけがあるのです。瞬間、一瞬後、あなたはそれを用語づけ、名づけ、それを嫉妬、怒り、貪欲と呼ぶのです。それであなたは即時に、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものを造り出したのです。経験者と経験されるものがあるとき、そのとき経験者は経験を修正しよう、変えよう、それにまつわるものごとを覚えていよう、などとするのです。ゆえに自分自身と経験されるものの間の分割を維持するのです。あなたはその感情に名づけないなら−それは、あなたが結果を求めていない、非難していない、たんに静かに感情に気づいている、という意味です−そのとき、感情の、経験のその状態には、観察者がなく、観察されるものがないということが、わかるでしょう。なぜなら、観察者と観察されるものは共通の現象であって、そのため経験することだけがあるからです。
 ゆえに、内省と気づきはまったく異なっています。内省は挫折に、さらなる葛藤につながります。というのは、それには変化への願望という意味が含まれているし、変化はたんに修正された継続であるからです。気づきは、 [そこに]非難のない、正当化や同一化のない状態です。ゆえに理解があります。その受動的で鋭敏な気づきの状態には、経験者も経験されるものもどちらもないのです。
 内省は一つの形の自己改善、自己拡大ですが、それは決して真理につながりえません。なぜなら、それはいつも自己閉鎖の過程であるからです。ところが、気づきは、 [そこに]真理が−あるがままについての真理、日常の存在についての単純な真理が−生じうる状態です。私たちが遠くへ行けるのは、私たちが日常の存在の真理を理解するときだけです。あなたは遠くへ行くには近くから始めなければなりません。しかし私たちのほとんどは飛びたい、近くにあるものを理解せずに、遠くから始めたいのです。私たちは近いものを理解するにつれて、近いものと遠いものの間に距離がないのを見つけるでしょう。距離はありません−始まり・初めと終わりは一つです。


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