六 孤独[寂しさ]について


質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
あなたは今まで一人であろうとしたことがあるでしょうか。あなたはそうしようとするとき、それがどんなにとてつもなく難しいか、一人であるにはどんなにとてつもない智恵がなければならないかを、感じるでしょう。なぜなら、精神は(どうしても)私たちを一人にさせないからです。精神は落ち着かなくなります。それは逃避するのに忙しいのです。それで私たちは何をしているのでしょうか。私たちはこのとてつもない空虚を、知られたもので充たそうとしているのです。私たちは、どのように活動的であるか、どのように社交的であるかを発見します。私たちは、どのように研究するか、どのようにラジオをつけるかを、知っています。私たちは、自分たちの知らないものを、知っているもので充たしているのです。私たちは、その空っぽ [の空しさ] を、様々な種類の知識、関係やものごとで充たそうとします。そうではないでしょうか。それが私たちの過程です。それが私たちの存在です。そこであなたは、自分が何をしているかを悟るとき、それでもその空虚を充たせると思うでしょうか。あなたは、この孤独の空虚を充たすあらゆる手段を、試してきました。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。あなたは映画を試してみましたが、成功しませんでした。ゆえに自分のや書物を追いかけたり、社会的に・社交的にとても活動的になったりします。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。それともたんにそれを覆い隠しただけでしょうか。たんに覆い隠しただけなら、それはやはりあります。ゆえに戻ってくるでしょう。あなたはすっかり[全く]逃避することができるなら、アシュラム [保護施設・避難所] に閉じ込められるか、とてもとても鈍感になるか、です。それが世界で起きていることです。
この空っぽ [の空しさ] 、この空虚は、充たすことができるでしょうか。できないなら、私たちはそれから逃げ出し、それから逃避できるでしょうか。一つの逃避が無価値であることを経験し、わかったなら、ゆえに、他のすべての逃避が無価値ではないでしょうか。空っぽ [の空しさ] を、これで充たすかあれで充たすかどうかは、大事なことではありません。いわゆる瞑想もまた逃避です。あなたが逃避の仕方を変えることは、あまり大事なことではありません。
 ではあなたは、この孤独についてどうすべきかを、どのようにして見つけるのでしょう
か。あなたは逃避するのを止めてしまったとき、どうすべきかを見つけられるだけです。そうではないでしょうか。あなたが進んであるがままと向き合おうとするとき―それは、あなたがラジオをつけてはならないという意味です。それは、あなたが文明に背を向けなければならないという意味です―そのとき、その孤独は終わります。なぜなら、それは完全に変容しているからです。それはもはや孤独ではありません。あなたがあるがままを理解するなら、そのとき、あるがままが真実[のもの]です。精神は、あるがままを見ることを連続的に避け、逃避し、拒んでいるから、それ自身の障害を造り出すのです。私たちは、見ることを妨げているほど、あまりに多くの障害を持っているから、あるがままを理解しないのです。ゆえに真実から逃げているのです。これらすべての障害は、あるがままを見ない[ようにする]ために精神によって造り出されてきたのです。あるがままを見るには、たいへんな(行動の)能力と行動への気づきを必要とするだけでなく、またあなたが築き上げてきたあらゆるものごと―あなたの銀行預金、あなたの名前、文明と呼ばれるあらゆるものごと−に背を向ける、という意味です。あるがままを見るとき、どのように孤独が変容するかが、わかるでしょう。


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