第二十章 時間と変化


 私は、時間とは何であるかについて、少し話したいように思います。なぜなら、時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさと意義は、私たちが時間の過程全体を理解するときだけ経験されうると、私は思うからです。結局私たちは、各自が自分自身のやり方で、幸せの、豊かさの感覚を求めています。確かに、意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではありません。愛と同じように、そういう生は時間がないのです。時間のないものを理解するには、私たちは時間をとおしてそれに接近するのではなく、むしろ時間を理解しなければなりません。時間のないものに到達し、実現し、掴む手段として、時間を利用してはなりません。それが、私たちが自分たちの生のほとんどを費やしていることです−時間のないものを把握しようとすることに時間を費やすことです。ですから、私たちのいう時間とはどういう意味なのかを理解することが、重要です。なぜなら、時間から自由であることは可能であると、私は思うからです。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、とても重要です。
 私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味があります-年代的継起・連続の [意味] 、分、時間、日、年の意味においてではなく、心理的な記憶の意味における時間です。私たちは時間によって生きています。私たちは時間の結果です。私たちの精神は、多くの昨日の産物です。そして現在は、たんに過去から未来への通路です。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいています。時間なしには、私たちは考えられません。なぜなら、思考は時間の結果であるからです。思考は多くの昨日の産物です。記憶なしに思考はありません。記憶は時間です。というのは、二種類の時間、年代的なものと心理的なものがあるのです。時計による昨日としての [時間] と、記憶による昨日としての時間があるのです。あなたは年代的な時間を拒絶できません。それは不合理でしょう。あなたは列車に乗り遅れるでしょう。しかし、年代的な時間から離れて、いったいほんとうに何か時間があるのでしょうか。明白に、昨日としての時間はあります。しかし精神がそれについて考えるような時間はあるでしょうか。確かに、時間、心理的な時間は、精神の産物です。思考の基礎なしに、時間はありません−時間はたんに今日と結合した昨日としての記憶です−それが明日を型どるのです。すなわち、昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出しているのです−それもやはり思考の過程、精神の道です。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらします。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのでしょうか。そして私たちは、精神のものであるその時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのでしょうか。私が言いましたように、幸せは昨日のものではありません。幸せは時間の産物ではありません。幸せはいつも現在に、時間のない状態にあるのです。あなたは恍惚を[経験するとき] −創造的喜びを、一連の明るい雲が暗い雲によって取り囲まれるのを−経験するとき、その瞬間には時間がないということに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。即時の現在だけがあるのです。精神が、現在において経験した後に入ってきて、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出すのです。ですから時間はもっと多くによって造り出されます。時間は取得です。時間はまた執着です−それもやはり精神の取得です。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること−すなわち記憶−は、確かに、時間のないものを開示しません。
 変容は時間の事柄でしょうか。私たちのほとんどは、時間は変容のために必要であると考えることに、慣れています。私は何ものかである。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。私は貪欲であるとともに、混乱、敵対、葛藤・抗争、悲惨という貪欲の結果でもあります。変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要であると、私たちは考えます。つまり時間は、何かもっと偉大なものに進化する、何ものかになる手段として考えられているのです。問題はこうです。(自分は)暴力的で、貪欲で、妬んでいて、怒っていて、不道徳で、気性が激しいのです。あるがままを変容させるには、時間が必要でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはあるがままを変えたい、または変容をもたらしたいのでしょうか。なぜでしょうか。なぜなら、あるがままの私たちは、私たちを不満にさせるからです。それは葛藤、動揺を造り出します。そしてその状態を好まないので、私たちは何かもっとよいもの、何かもっと高尚な、もっと理想的なものが欲しいのです。ゆえに私たちは変容を願望します。なぜなら、苦痛、不快、葛藤があるからです。葛藤は時間によって打ち勝たれるでしょうか。それは時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 [の状態] にあるのです。葛藤を取り除くには、あるがままのあなたを変えるには、二十日、または二十年かかるだろうと、あなたは言うかもしれません。しかしその時間の間、あなたはやはり葛藤 [状態] にあるのです。ゆえに時間は変化をもたらさないのです。私たちは、性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけです。この点を理解することが重要であると、私は思います。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界−すなわち社会−における苦痛、動揺を引き起こす原因になります。そしてこの動揺の状態−貪欲や暴力と呼ばれるもの−を意識すると、私たちは「私は時間をかけて・そのうちそれを取り除くだろう。非暴力を実践するだろう。妬まないことを実践するだろう。平和を実践するだろう」と、私たち自身に言うのです。そこで、あなたは非暴力を実践したいのです。なぜなら、暴力は動揺、葛藤・抗争の状態であるからです。そしてあなたは時間をかけて非暴力を獲得して葛藤・抗争に打ち勝つだろうと、思うのです。何が現実に起きているでしょうか。葛藤の状態にあると、あなたは葛藤のない状態を達成したいと思います。では、その葛藤のない状態は、時間の、時の継続の結果でしょうか。明白に違います。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、あなたはやはり暴力的でありつづけるし、ゆえにやはり葛藤 [状態] にあるからです。
 私たちの問題は、葛藤、動揺は、数日であれ数年であれ幾つもの生涯であれ、時の期間において打ち勝たれうるだろうか [ということ] です。「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と、あなたが言うとき、何が起きるでしょうか。まさに実践こそが、あなたが葛藤 [状態] にあるということを、示しているのではないでしょうか。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、あなたは実践しないでしょう。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要であるし、その抵抗のために時間を持たなければならないと、あなたは言います。しかし、まさに葛藤への抵抗こそが、それ自体一つの形の葛藤です。あなたは、貪欲、妬み、暴力と呼ぶものの形での葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ−を費やしています。しかしあなたの精神は、やはり葛藤 [状態] にあります。ですから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要なのです。そのときあなたは、あるがままのあなた−暴力それ自体である心理的動揺−であることができるのです。
 何かを、何か人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要でしょうか。何が本質的でしょうか。静かな精神なのではないでしょうか。理解することにしっかりと向けられている精神です。それは、排他的である、集中しようとしている精神ではありません−それもまた抵抗の努力です。私がほんとうに何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態があります。あなたは、愛している音楽を聴きたい、または絵を見たいとき− [それに対する] 感性を持っています−あなたの精神の状態は何でしょうか。即時に静けさがあるのではないでしょうか。あなたは音楽を聴いているとき、あなたの精神はそこいらじゅうさまよいません。あなたは聴いています。同様に、あなたは葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていません。あなたは単にあるがまま−すなわち葛藤−に直面しています。そのとき即時に静けさが、精神の静寂が訪れます。あなたはもはやあるがままを変容させる手段として時間に頼りません。なぜなら、その過程の偽りが分かるからです。そのとき、あるがままと直面しています。そしてあるがままを理解することに興味があるので、当然・自然に、静かな精神があります。その鋭敏でありながら受動的な精神の状態に、理解があるのです。精神が葛藤 [状態]にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえません。私はあなたを理解したいなら、明白に、あなたを非難してはなりません。変容をもたらすのは、その静かな精神、その静寂な精神です。精神がもはや抵抗していない [とき] 、もはやあるがままを避けていない、もはや切り捨てたり、咎めたりしていないで、単に受動的に気づいているとき、そのとき、その精神の受動性において−あなたが本当に問題に入り込むなら−変容が訪れるということを、見つけるでしょう。
 革命は、今可能なだけです−未来にではありません。革新は今日です−明日ではありません。あなたは私が言ってきたことを実験してみるなら、即時の革新、新しさ、新鮮さの質があるということを、見つけるでしょう。なぜなら、精神は興味があるとき、 [理解したいと] 願望したり、理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂であるからです。私たちのほとんどにとっての困難は、理解しようとする意図を持たないことです。なぜなら、私たちはもしも理解したなら、それが私たちの生に革命的作用 [・行動] をもたらすかもしれないということを、恐れているからです−ゆえに私たちは抵抗するのです。私たちが時間や理想を段階的・漸進的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構です。
 こうして革新は、現在において可能なだけです−未来にではなく、明日ではありません。それをとおして幸せを獲得したり、真理や神を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけです。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きています。時間は私たちの困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人、そういう人は当然、理解しようとする意図を持ちます。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静かです。精神が静寂で平静であり、何の答えも何の解決も求めていない [とき] 、また抵抗したり避けたりしていないとき−革新がありうるのは、そのときだけです。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるからです。そして解放するのは真理です−自由であろうとするあなたの努力ではありません。


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