第十七章 精神の機能(作用・役割)


 あなたは自分自身の精神を観察するとき、いわゆる精神の上の(ほうの)水準だけではなくて、また無意識をも見守っているのです。あなたは、精神が現実に何をするのかを見ているのではないでしょうか。それが、あなたが究明できる唯一の仕方です。それが何をするべきか、それがどのように考えたり行動したりするべきか、などを重ね合わせないでください。それは(結果的に)たんなる発言をすることになるでしょう。すなわち、あなたは、精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまうのです。または、あなたは何か高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまうのではないでしょうか。あなたがブッダやキリストやXYZを引用するなら、追求すべて、考えることすべて、究明すべてに終わりがあるのです。ですからそれに対して用心し・警戒しなければなりません。あなたは私と一緒にこの自己の問題を究明しようとするなら、これらすべての精神の微妙さを、脇へ置かなければなりません。
 精神の機能とは何でしょうか。それを見出すには、あなたは、精神が現実に何をしているのかを知らなければなりません。あなたの精神は何をするのでしょうか。それはすべて考える過程なのではないでしょうか。そうでないと、精神はないのです。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はありません。私たちは、日常の生で用いる精神、また私たちのほとんどが意識していない精神が、私たちの問題に関して何をするのかを、見出さなければなりません。私たちは、あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければなりません。
 では、あるがままの精神はどんな機能をしているでしょうか。それは現実には孤立(化)の過程なのではないでしょうか。根本的に、それが思考の過程なるものです。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なままです。あなたは自分自身の考えを観察するなら、それが孤立した断片的な過程であるのが、わかるでしょう。あなたは、あなたの反応に応じて考えています−あなたの記憶、経験、知識、信念の反応、です。あなたはそのすべてに反応しているのではないでしょうか。根本的革命がなければならないと、私が言うなら、あなたは即時に反応します。あなたは、霊的 [・精神的] にしろそうでないにしろ、有利な投資を持っているなら、その「革命」という言葉に反対するでしょう。それであなたの反応は、あなたの知識、信念、経験に依存しているのです。それは明白な事実です。色んな形の反応があります。「私は兄弟のように(親しく)しなければならない」、「私は協力しなければならない」、「私は仲良くしなければいけない」、「私は親切でなければならない」、など。これらは何でしょうか。これらはすべて反応です。しかし、考えることの根本的反応は、孤立(化)の過程です。あなたは、あなたたち各自は、自分自身の精神の過程を見守っているのです−それは、あなた自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味です。これらすべては安全を与えてくれるのではないでしょうか。それらは安全を与え、考える過程に強さを与えてくれるのです。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけです−その自己を高いと [呼ぼうと] 低いと呼ぼうと、です。私たちの宗教すべて、私たちの社会的認可すべて、私たちの法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにあるのです。そしてその反対に、全体主義的国家があるのです。あなたが無意識の中にもっと深く入ってゆくなら、そこでもまた、働いているのは同じ過程です。そこでは私たちは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体なのです。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望があるのです。
 精神の機能は、私たちが知っているように、日常機能しているように、孤立(化)の過程ではないでしょうか。あなたは個人的な救いを求めていないでしょうか。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしています。またはまさにこの生・世において、あなたは偉大な人、偉大な作家であろうとしています。私たちの傾向全体は分離することです。精神はそれ以外に何かできるでしょうか。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、可能でしょうか。それは不可能です。それで私たちは精神を崇拝するのです。精神はとてつもなく重要です。あなたは、自分がほんの少しずるがしこく、ほんの少し鋭敏で、蓄積した情報と知識を少し持った瞬間、自分がどんなに社会で重要になるのかを、知らないでしょうか。知的にすぐれている人たち、法律家・弁護士、大学教授、演説者、偉大な作家、説明家、解説者を、あなたがどんなに崇拝するか、知っているでしょう!あなたは知性と精神を育成してきたのです。
 精神の機能は分離することです。そうでないと、あなたの精神はないのです。私たちは幾世紀の間この過程を育成してきたので、私たちは協力できないことがわかるのです。私たちは、経済的でも宗教的でも権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけです。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、どのようにして協力がありうるでしょうか。どのようにして何かをするために智恵が集まりうるでしょうか。それはほとんど不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いるのです。私たちが集まりたい、一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなるのです。
 この分離的な考え−集団的な形でも個人的な形でも−「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たないでしょう。私たちは常なる抗争と戦争を持つでしょう。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか、です。思考は言葉に表す [過程] と反応の過程ですが、それはいったい自己を破壊できるのでしょうか。思考は反応以外の何ものでもありません。思考は創造的ではありません。そういう思考はそれ自体を終わりにできるでしょうか。それが、私たちが見出そうとしていることです。私がこれらの線に沿って−「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」−考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練しているのです。それは孤立(化)の過程ではないでしょうか。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではないのです−それ [智恵] からのみ、協力がありうるのです。
 あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考−すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの−は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください−それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります−すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します−自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
 あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること−これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です−そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです−たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
 私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です−あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません−それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
 協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています−それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。


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