第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか


 思考は私たちの問題を解決してきませんでしたし、いつか [解決] するだろうとは、私は思いません。私たちは、自分たちの複雑さからの抜け出し方を示してもらうために、知性に頼ってきました。知性がずるがしこく、恐ろしく大きく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなるのです。そして観念は私たち人間の問題のどれも解決しないのです。それらは [これまで] 決して [解決] してこなかったし、これからも決して [解決] しないでしょう。精神は解決法ではありません。思考のやり方は明白に、私たちの困難からの抜け出し方ではありません。私たちは初めに、この考える過程を理解するべきであるように、私には見えます。するとおそらく越えてゆくことができるでしょう−というのは、思考が止むとき、おそらく私たちは、自分たちの問題−個人的なものだけでなく、集団的なもの−を解決するのを助けてくれるであろう道を、見つけることができるでしょうから。
 考えることは私たちの問題を解決してきませんでした。利口な人たち、哲学者、学者、政治的指導者は、私たち人間の問題−それは、あなたともう一人との、あなたと私自身との間の関係です−のどれも、ほんとうに解決したことがありません。これまで私たちは、問題を究明するのを助けるために、精神、知性を使ってきました。それにより解決を見つけたいと願っているのです。思考はいったい私たちの問題を解消できるのでしょうか。思考は、実験室のなかや製図板の上でないかぎり、いつも自己を保護し、自己を永続させ、条件づけられていないでしょうか。その活動は自己中心的ではないでしょうか。そしてそういう思考は、思考自体が造り出した問題のどれかを、いったい解決できるのでしょうか。精神−すなわち問題を造り出したものは、それ自体が生み出したそれらのものごとを、解決できるのでしょうか。
 確かに、考えることは反応です。私があなたに質問をするなら、あなたはそれに応答します−あなたは、あなたの記憶、先入観、しつけ、気候・風土、あなたの条件づけの背景全体に応じて、応答します。あなたはそれらに応じて返答します。あなたはそれらに応じて考えます。この背景の中心が、行動の過程における「私」です。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになるのです。どんな種類の解決も−たとえどんなに利口でも、どんなによく考え抜かれても−人と人との間、あなたと私の間の葛藤・抗争を、決して終わりにすることができないのです。これを悟り、思考がどのように [発生し] 、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのです。
 それが問題の一つなのではないでしょうか。思考は私たちの問題を解決できるでしょうか。問題をよく考えることによって、あなたはそれを解決したことがあるでしょうか。経済的、社会的、宗教的などんな種類の問題でも、考えることによって今までほんとうに解決されたことがあるでしょうか。あなたが日常の生で、一つの問題について考えれば考えるほど、それはますます複雑に、優柔不断に、不確実になるのです。そうではないでしょうか−私たちの現実の、日常の生では。あなたは問題の一定の面を考え抜くなかで、他の人の視点がもっと明確に見えるかもしれません。しかし思考は問題の完全性と充足が見えないのです−それは部分的に見えるだけです。部分的な答えは完全な答えではありません。ゆえにそれは解決ではないのです。
 私たちは問題をよく考えれば考えるほど、究明し、分析し、議論すればするほど、それはますます複雑になるのです。それで問題を包括的に、全体的に見ることは可能でしょうか。どのようにしてこれは可能でしょうか。なぜなら、それが私たちの主要な困難であるように、私には見えるからです。私たちの問題は増加しつつあります−差し迫った・一触即発の戦争の危険があります。私たちの関係には、あらゆる種類の動揺があります−どのようにして私たちはそのすべてを、全体として包括的に理解できるのでしょうか。明白にそれは、私たちが全体として−区画・区分においてではなく、分割してではなく−それを見られるときだけ、解決できるのです。それはいつ(どんなとき)可能でしょうか。確かにそれは、考える過程が終わってしまったとき、可能であるだけです−その [考える過程の] 源は、「私」、自己に [ある] 、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にあるのです。私たちはこの自己を理解できるでしょうか−分析することによってではなく、あるがままのものごと見ること [により] 、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって [理解できるでしょうか] −結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって [理解できるでしょうか] 。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、私たちはそれを見つめられるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。私たちの各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わるでしょう!
 自己は思考が解決できない問題です。思考のものではない答えがあるにちがいありません。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと−ただ気づくことで十分です。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にあるのです。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、私たちはやはり思考の領域の中にあります−すなわち「私me」、「私I」、自我の、何であれ [それの] 領域の中にあるのです。
 精神の活動が存在しているかぎり、確かに愛はありえません。愛があるとき、私たちはどんな社会的問題も持たないでしょう。しかし愛は何か取得されるものではありません。精神は、新しい思考、新しい道具・装置、新しい考え方 [を取得するの]と同じように、それを取得しようと求めることはできます。しかし思考が愛を取得しようとしているかぎり、精神は愛の状態にありえません。精神が無欲の状態であろうと求めているかぎり、確かにそれはやはり貪欲なのではないでしょうか。同様に精神が、[そこに] 愛のある状態にあるために、願い、願望し、実践するかぎり、確かにそれはその状態を否定するのではないでしょうか。
 この問題、この複雑な生きることの問題が見えて、私たち自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき−私たちが深くそれを悟るとき、そのとき確かに、個人的でも集団的でもない智恵の状態があるのです。そのとき個人と社会、個人と共同体、個人と真実との関係の問題は止むのです。なぜなら、そのとき智恵だけがあるからです−それは個人的・人格的でも非個人的・非人格的でもないのです。私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみであると、私は感じます。それは結果ではありえません。それは、私たちがこの考えることの過程全体、総体を−意識的な水準においてだけでなく、また意識のより深い隠れた水準においても−理解するときだけ、生じるのです。
 これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静かな精神、とても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければなりません。それが私たちの困難の一つです−なぜなら思考は散漫になってしまったからです。私は何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいいのです−私はそれを見つめるのです。私はそれについて考え [始め] 、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ているのです。それで思考は、あなたが問題を持つとき、散漫になるのです−思考は観念、意見、判断、比較です−それは、私たちが問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げるのです。不幸にも私たちのほとんどにとって、思考はあまりに重要になってしまったのです。あなたは「どのようにして私は考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして私は空白の精神を持てるのか」と、あなたは言います。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいることです。あなたの本能的反応はそれを拒絶することです。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神、開けた精神は、とても直接的に、とても単純に、問題を見つめられるのです。それでただ一つの解決であるのは、私たちの問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力です。そのためには、静かな精神、平静な精神がなくてはなりません。
 そういう精神は、実践、瞑想、制御の結果ではありません。最終産物・成果ではありません。それは、「私」の、思考のどんな努力もなく、どんな形の修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じるのです。それは、私が考える過程全体を理解するとき−どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じるのです。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛があるのです。そして私たち人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。


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