第十五章 思考者と思考


 私たちの経験すべてには、いつも経験者、観察者がいます−それ [経験者、観察者]が 自分自身のためにもっともっと多くのものを集めたり、自分自身を否定したりしています。それはまちがった過程ではないでしょうか。そしてそれは創造的状態をもたらさない追求ではないでしょうか。それがまちがった過程であるなら、私たちはそれを完全に一掃して、脇へ置くことができないでしょうか。それは、私が経験するときだけ [生じうる]−思考者として経験するのではなく−私が偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうるのです。
 私が経験をしているかぎり、私が [何かに] なろうとしているかぎり、この二元的行動 [・作用] があるにちがいありません。思考者と思考が [ある] 、二つの分離した過程が働いているにちがいありません。統合はありません。集団的に、個人的に、国家的になど、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもあるのです。普遍的に、これが過程です。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落があるにちがいありません。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけです。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は、二つのものに橋を架けることです。
 行動の意志はいつも二元的です。分離的であるこの意志を乗り越えて、 [そこに] この二元的行動 [・作用] のない状態を発見することは、可能でしょうか。それは、[そこに] 思考者が思考である状態を、私たちが直接的に経験するとき、見つけられるだけです。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考えます。しかしそうなのでしょうか。私たちはそうであると考えたいように思うのです。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるからです。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなることです。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因があるのです。私たちは、真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求しています。
 思考者と思考の間に分割はあるのでしょうか。それらが分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費され [ムダになり] ます。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求しています。思考者は自分の思考から分離していると、私たちは考えます。私たちは、自分が貪欲・欲張りで、所有欲が強く、残忍・野蛮であることを見つけるとき、このすべてであるべきでないと考えます。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとします。ゆえに努力をして「なろう」とします。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある [ところの] 偽りの幻影を追求します。ところが、ただ一つの過程だけがあるのです。そこに、退廃・堕落の根本的要因があると、私は思います。
 一つの実体だけがあって、二つの分離した過程−経験者と経験−のないときのその状態を経験することは、可能でしょうか。そのときおそらく私たちは、創造的であることがどんなことであるのか、人がどんな関係にあっても、どんなときにも [そこに] 退廃・堕落のない状態がどんなものであるのかを、見出すでしょう。
 私は貪欲です。私と貪欲は二つの違った状態ではありません。ただ一つのものだけがあるのです−すなわち貪欲です。私は、自分が貪欲であることに気づくなら、何が起きるでしょうか。私は社会的な理由のため、または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力をします。その努力はいつも小さな制限された環・循環のなかにあるでしょう。私はその環を拡大するかもしれませんが、それはいつも制限されています。ゆえに退廃・堕落する要因が(そこに)あるのです。しかし私はもう少し深く厳密に・きっちりと見るとき、努力の作り手(努力をする者)が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることが、わかるのです。そしてまた「私」と貪欲は分離して存在していないこと、ただ貪欲だけがあることが、わかるのです。私は、自分が貪欲であること、貪欲である観察者はなく、私自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき私たちの疑問全体は全く違ってくるのです。それに対する私たちの応答は全く違ってくるのです。そのとき私たちの努力は破壊的ではありません。
 あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたがするどんな行動も貪欲であるとき、あなたはどうするでしょうか。不幸にも私たちはそういう線に沿って考えません。「私」、上位の実体、制御し支配している兵士・戦士がいるのです。私にとって、その過程は破壊的です。それは幻影です。私たちはなぜそうするのかを知っています。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割します。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではなく、私が全く貪欲であるなら、そのとき何が起きるでしょうか。確かにそのとき全く違った過程が働いています−違った問題が生じています。創造的であるのは、その問題です−[そこには] 肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がないのです。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければなりません。その状態には、努力の作り手・努力をする者がいません。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではありません。あなたはそのようにしてそれに取りかかるなら、見失うでしょう−決して見つけないでしょう。重要であることは、努力の作り手と、彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかることです。それは、途方もなく大きな理解力、見守りを必要とします。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るにはです−高いものは安全 [であり] 、永久の実体です−しかし [それは] やはり思考 [の過程] とゆえに時間の過程にとどまっています。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることが、わかるでしょう。


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