第十四章 関係と孤立


  生は経験−関係における経験−です。孤立 [の状態] において生きられません。ですから生は関係ですし、関係は作用 [・行動] です。それでどうすれば関係すなわち生を理解するためのその能力を持てるのでしょうか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 [でもあるの] ではないでしょうか。生は関係です−それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現されます。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つでしょう。ですから私たちの問題は能力ではなくて―というのは、能力は関係から独立していない(関係に依存していないわけではない)からです―むしろ関係[について]の理解です−それ[理解]が自然に、すばやい柔軟性、すばやい適応、すばやい応答のための能力を生み出すでしょう。
 関係は確かに、あなたが [そこに] 自分自身を発見する鏡です。関係なくして、あなたはありません。有る[・生きる]ことは関係することです−関係することが存在です。あなたは関係においてだけ存在しているのです。そうでないとあなたは存在していません−存在は意味がありません。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではありません。あなたは関係しているから存在しているのです。それで葛藤を引き起こす [原因になる] のは、関係[について]の理解の欠如です。
今、関係[について]の理解はありません。なぜなら私たちは関係を、たんに達成を促進し、変容を促進し、なりゆきを促進する手段としてだけ使うからです。しかし、関係は自己発見の手段です、なぜなら関係は有る[・生きる]ことであるからです。それが存在です。関係なくして、私はありません。私自を理解するには、私は関係を理解しなければなりません。関係は、[そこに] 私自身が見える鏡です。その鏡は歪んでいることもあるし、有るものを映し出して「あるがまま」であることもあります。しかし私たちのほとんどは、関係のなかに、その鏡のなかに、むしろ見たいと思うものごとが、見えるのです。私たちはあるがままが見えないのです。私たちはむしろ理想化し、逃避したいのです−その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたいのです
 そこで私たちは自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることが、わかるでしょう。私たちはほんとうは他の人に関心がないのです。私たちはそれについて大いに話すけれども、現実には関心がないのです。その関係が私たちを喜ばせて[満足させて]くれる限り、避難所を与えてくれる限り、満足させてくれる限りにおいてだけ、私たちは誰かと関係しているのです。しかし関係に動揺があった瞬間―それ [動揺] が私たち自身に不愉快さを生み出します―私たちはその関係を切り捨てます。言い換えれば、私たちが喜んでいる限りにおいてだけ、関係があるのです。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれません。しかし、あなたはほんとうに自分の生をとてもきっちりと・しっかりと検討するなら、それが事実であると、わかるでしょう。そして事実を避けることは無知において生きることですし、それは決して正しい関係を産み出せません。私たちは自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかります− [その壁越しに] 他の人を見て観察するのです。しかし、私たちはいつもその壁を保持・確保してその裏にとどまります―それが心理的な壁、物質的な壁、経済的な壁や国家[・民族]主義的な壁であっても。私たちは壁の裏で孤立 [の状態] において生きる限り、他の人との関係はありません。そして私たちは閉じこもって・閉鎖的に生きています。なぜならそのほうがもっと喜びがあるからです−私たちはそのほうがもっと安全であると思うのです。世界がこんなに引き裂かれ[分裂し]、こんなに多くの悲しみ、こんなに多くの苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため私たちは私たち自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思うのです。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立(化)の過程です。そして明白にそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築きます。それがまさしく世界中で起きていることです。あなたは自分の孤立にとどまって、壁越しに手を伸ばし、それを国家[・民族]主義、同胞愛、などと呼びます。しかし現実には独立政権、軍隊が継続[存続]するのです。あなたはやはり[なお・依然として]自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思うのです―それは不可能です。あなたが境界を持っているかぎり―国家[・民族]的でも経済的でも宗教的でも社会的でも−世界に平和はありえないということは明白な事実です。
  孤立(化)の過程は力への探求の過程です−個人的に力を求めていようと、人種的、国家[・民族]的集団のため [に力を求めて] であろうと、孤立(化)があるにちがいありません。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるからです。結局それが、各自が欲しいものなのではないでしょうか。 [人は、そこで] 自分が支配できる強力な地位が欲しいのです―家庭でも、事務所・職場でも、官僚制度[体制・機構]でも。各自が力を求めています。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立するでしょう−それもまた明白です。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつあるのではないでしょうか。これを理解することがとても重要であると、私は思います。なぜなら、平和な世界 [が欲しい] 、戦争のない、ぞっとするような破壊のない、測り知れない規模の壊滅的な悲惨のない世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから、ではないでしょうか。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていません。ゆえにそういう人はどんな国籍・国家[民族]、どんな旗にも縛られていません。彼は旗を持ちません。
 孤立 [の状態] において生きているようなものはありません―どんな国も、どんな人も、どんな個人も孤立 [の状態]において 生きられません。けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てるのです。国家[・民族]主義者は災い・呪われた者です。なぜなら、彼はまさに自分の国家[・民族]主義的 [精神] 、愛国精神そのものをとおして、孤立の壁を造り出しているからです。彼は他の国に対して壁を築くほど、あまりに祖国と同一化しているのです。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるでしょうか。その何かが常にあなたの壁を叩いているのです。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争 [状態] にあるということを、表示しています。ですから国家[・民族]主義は孤立の過程であり、力への探求から出てきたものですが、 [それは] 世界に平和をもたらせません。国家[・民族]主義者であって同胞愛について話をする人は、嘘をついているのです。彼は矛盾の状態に生きているのです。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界 [・世間] で生きられるでしょうか。明白にできます。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうします。何かもっと偉大なもの―党派、国、人種、宗教、神―とのこの同一化が、力への探求です。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいのです。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいというその欲望が、力への欲望です。
  関係は自己を露呈する過程です。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がありません。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解することです。そのとき関係は孤立(化)の過程 [になるの] ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになるのです。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まりです。


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