十一章 単純さ(質素・簡素)


 私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます−わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
 単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです−ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします−車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです−人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
 信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
 ゆえに、中で始めなければなりません-排他的にではなく、外的なものを拒絶するのではありません。あなたは、外的なものを理解することにより、どうして外側に抗争、格闘、苦痛が存在するのかを見出すことにより、確かに、内的なものに至ります。それをますます究明するにつれて、自然に、外側の抗争と悲惨を生み出すところの心理状態に入るのです。外側の表現は、ただ私たちの内側の状態の表示であるだけです。しかし内側の状態を理解するには、外的なものをとおして接近しなければなりません。私たちのほとんどはそうします。内的なものを理解するなかで−排他的にではなく、外的なものを拒絶することによってではなく、外的なものを理解し、そして内的なものに思いがけず出会うことによって−私たちは、自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になるということを、見つけるでしょう。かくも本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さです。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すからです。敏感でなく、鋭敏でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もありません。私たち自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にするのです。政府により、自分自身により、達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も−どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つにちがいありません。外側では、あなたは順応して、とても多くの宗教的な人たちがするように単純さの外観を装うかもしれません。彼らは色んな修練を実践し、色んな組織に加入し、特定の流儀で瞑想をする、などです−すべてが単純さの外観を装っています。しかしそういう順応は単純さに役立ちません。どんな種類の強制も決して単純さに導けません。反対に、あなたは抑圧すればするほど、代用するほど、昇華するほど、ますます単純でなくなるのです。しかしあなたは昇華、抑圧、代用の過程を理解すればするほど、ますます単純である可能性が大きくなるのです。
 私たちはとてつもなく博識で利口になることによってではなく、単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑なのです。単純な人は、複雑な人よりはるかにもっと直接的に見えて、もっと直接的な経験をします。私たちの精神は、事実について、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、私たちは単純である [能力] 、私たち自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまったのです。これらの問題は、新しい接近法を要求します。そしてそれらは、私たちが単純で [あり] 、内側で本当に単純であるときだけ、そのように接近できるのです。その単純さは、ただ自己認識をとおし、私たち自身を理解することをとおしてだけ、訪れるのです。私たちの考え [方]と感じ方、私たちの思考の動き、私たちの応答 [を理解する] 。いかに私たちが恐れをとおして世論に、他の人たちが言うことに、ブッダやキリストや偉大な聖者たちが言ったことに順応するか−そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示しています− [を理解することをとおして、です] 。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはないのです。
 単純であることなしに、敏感でありえません−木々に、鳥たちに、山々に、風に、世界で私たちのまわりで起きていることすべてに対して。単純でなければ、ものごとの内側の暗示に対して敏感でありえません。私たちのほとんどは、意識の上のほうの水準で、あまりに表面的に生きています。そこでは私たちは思慮深くあろう、または智恵を持とうとします−それは宗教的であることと同義です。そこでは私たちは強制をとおし、修練をとおして、自分たちの精神を単純にしようとします。しかしそれは単純さではありません。私たちが上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしないのです。私たちの意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難です。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、私たちの存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないからです−それは、あらゆるほのめかし、あらゆる暗示に目覚めている、という意味です−私たちの恐れ、希望に気づいて、 [それらを] 究明し、それらからますます自由になる [という意味です] 。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、私たちは自分たちが直面する多くの問題を解決することができるのです。
 知識は私たちの問題を解決しそうにありません。あなたは、例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれません−あなたは知っていると、私は言いません。またはあなたはそれを確信しているかもしれません。しかし、それは問題を解決しません。死は、あなたの理論により、情報により、または確信によって棚上げできません。それ [死] は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的です。
 これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければなりません。なぜなら、私たちの問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけであるからです。そして直接の経験をするには、単純さがなければなりません−それは敏感さがなければならない、という意味です。精神は、知識の重みにより鈍らされます。精神は、過去により、未来により鈍らされます。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、私たちの環境が常に私たちに加えてくる強力な影響と圧力に対処できるのです。
 こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ−ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき−そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき−どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく−そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです−この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。
 問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです−育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。


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