第九章 自己とは何か


 私たちのいう自己とはどういう意味なのか、知っているでしょうか。観念、記憶、結論、経験、色々な形の名づけることのできる、名づけることのできない意図、あろうとする、あるまいとする意識的な尽力、無意識の [蓄積された記憶]− 人種、集団、個人、氏族の−蓄積された記憶、行動において外部に投影されていても、美徳として霊的・精神的に投影されていても、です。そのすべての全体が、それ [自己という言葉]により私のいう意味です。このすべてを求める奮闘が自己です。それには競争、ありたいという願望が含まれています。その過程全体が自己です。そして私たちはそれに向き合うとき、それが邪悪なものであることを現実に知っています。私は「邪悪」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分割するからです。自己は自己閉鎖的です。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させす。私たちはこのすべてを知っています。また私たちは、自己がない [ときの] それらのとてつもない瞬間をも知っています−そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きるのです。
 経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要であるように、私には見えます。私たちは熱心であるなら、この経験の問題を理解すべきです。そこで私たちのいう経験とはどういう意味でしょうか。私たちはいつのときも経験をします−印象です。そして私たちはそれら印象を翻訳します。それらに応じて反応したり行動したりします。私たちは計算高くてずるい、などです。客観的に見られるものとそれに対する私たちの反応との間には、常なる相互作用が [あり] 、意識と、無意識の [諸々の] 記憶の間にも相互作用があるのです。
 私の [諸々の] 記憶に応じて、私は自分が見るどんなものにも、感じるどんなものにも反応します。私が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きているのではないでしょうか。何か見られるものへの反応、応答が経験です。私はあなたを見るとき、反応します。その反応に名づけることが経験です。私がその反応に名づけないなら、それは経験ではありません。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守ってください。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はありません。私はあなたを認識しないなら、どうしてあなたに会う [という] 経験ができるでしょうか。それは単純で正しく聞こえます。それは事実ではないでしょうか。すなわち、私は自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験をしたということをどうして知ることができるでしょうか。
 それから色々な願望の投影があります。私は保護されたい、内側に安全を得たいと願望します。あるいは大師、導師(グル)、教師、神を得たいと願望します。そして私は自分が投影したものを経験します。すなわち私は形を取った [願望] 、それに名をつけた願望を投影したのです。それにたいして反応するのです。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」「私は大師に会ったことがある」「私は大師に会ったことがない」と言わせるのです。あなたは、経験に名づける過程全体を知っています。願望が経験と呼ぶものなのではないでしょうか。
 私が精神の静寂を願望するとき、何が起きているでしょうか。何が起きるでしょうか。私は色んな理由のために、静寂な精神、静かな精神を持つことの重要性がわかります。なぜなら、ウパニシャッドがそう言ってきたし、宗教書がそう言ってきたし、聖者たちがそう言ってきたし、また時々私自身も静かであることがどんなに良いかを感じるからです。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるからです。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなにすてきか、どんなに楽しいかを感じるのです。願望は静寂を経験することです。私は静寂な精神を持ちたいのです。それで、「私はどうすればそれを得られるのか」と訊くのです。私は、あれこれの書物が瞑想について言うことと色々な形の修練を知っています。それで修練をとおして、私は静寂を経験しようと求めるのです。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立したのです。
 私は何が真理なのかを理解したいのです。それが私の願望、私のあこがれです。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が [後に] 続きます。なぜなら、私はそれについてたくさん読んできたからです。私は多くの人々がそれについて話すのを聞いてきました。宗教書はそれを叙述してきました。私はそのすべてが欲しいのです。何が起きるでしょうか。まさにそのほしがること、まさに願望が投影されるのです。そして私は経験します。なぜなら、その投影された状態を認識するからです。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばないでしょう。私はそれを認識するし、それを経験します。そしてその経験が自己、「私」に強さを与えるのではないでしょうか。それで自己は経験のなかに立てこもるのです。そのときあなたは、「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はある」、「神はない」と言うのです。特定の政治体制が正しく、他のすべてはそうでないと、あなたは言うのです。
 それで経験はいつも「私」を強めているのです。あなたが経験のなかに立てこもるほど、ますます自己が強められるのです。このことの結果として、あなたは一定の性格の強さ、知識、信念の強さを持ちます−それを他の人たちに見せびらかすのです。なぜなら、あなたは彼らがあなたほど利口ではないことを知っているから、あなたは文筆 [の才能] や弁舌の才能を持っているし、ずるがしこいからです。自己がやはり作用しているから、それであなたの信念、あなたの大師たち、あなたのカ-スト、あなたの経済的体制はすべて孤立化の過程です。ゆえにそれらは争いをもたらすのです。あなたはそもそもこのことにおいて真剣または熱心であるなら、この [自己という] 中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければなりません。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならないのです。
 精神、自己が投影しないこと、願望しないこと、経験しないことは可能でしょうか。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかります。それでもそれらを肯定的行動と呼ぶのではないでしょうか。それが肯定的な生き方と呼ばれるものです。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定です。あなたはそれでいいのでしょうか。私たちは、あなたと私は個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるでしょうか。では何が自己の解消をもたらすのでしょうか。宗教 [的集団]と その他の集団は同一化を提供してきたのではないでしょうか。「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」 [ということ] が、彼らの言うことです。しかし確かに同一化もやはり自己の過程です。より大きなものは単に「私」の投影です−それを私は経験するし、ゆえにそれは私を強めるのです。
 色んな形の修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけです。私たちは自己を解消するであろう要素を見つけられるでしょうか。それともそれは間違った擬問でしょうか。それが、私たちが基本的に欲しいものです。私たちは、何か「私」を解消するものを、見つけたいのではないでしょうか。色んな手段−すなわち同一化、信念等−があると、私たちは思います。しかしそれらのすべては同じ水準にあるのです。一つが他のものより勝れているわけではありません。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるからです。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ−が見えるでしょうか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消する仕方を見つけたいのです。あなたは自分自身にこう訊ねたことがあるにちがいありません−「私は、『私』がいつのときも機能し、私自身にだけでなく私のまわりの皆に対していつも心配、恐れ、挫折、絶望、悲惨をもたらしているのがわかる。その自己が部分的にではなく完全に解消されることは可能だろうか」と。私たちはその根に遡り、それを破壊できるでしょうか。それが真に機能する唯一の道なのではないでしょうか。私は部分的に智恵があるのではなく、統合された仕方で智恵があるようになりたいのです。私たちのほとんどは [色んな] 層において智恵があるのです−あなたはたぶん一つの仕方で、私は何か他の仕方で、です。あなたたちのうち或る者は営業の仕事に、他の或る者は事務の仕事に智恵がある、などです。人々は違った仕方で智恵があるのです。しかし私たちは統合的 [融和的] に智恵はないのです。統合的 [融和的] に智恵があるということは、自己を持っていないという意味です。それは可能でしょうか。
 自己が今完全に不在であることは可能でしょうか。あなたはそれが可能であることを知っています。必要な要素、要件は何でしょうか。それをもたらす要素は何でしょうか。私はそれを見つけられるでしょうか。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信しています。それで私は、 [そこにおいて] 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないでしょうか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることを必要とします−そのためそれはすり抜けてしまわないのです。私はとても熱心です−自己を解消したいのです。私はそう言うとき、自己を解消するのは可能であることを知っているます。「私はこれを解消したい」と言った瞬間、そこにはやはり自己 [について] の経験があるのです。それで自己は強められるのです。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのでしょうか。創造の状態はそもそも自己の経験ではないということがわかります。創造は [そこに] 自己がないときです。なぜなら、創造は知的ではなく、精神の [もの] ではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるからです。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、 [そこに] 創造が起こりうる状態にあることは可能でしょうか−それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味です。問題はこれなのではないでしょうか。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験です。精神が認識しないことは可能でしょうか。それは、自己の経験である [静寂] 、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけです。
 自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのでしょうか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的 [・精神的] 実体があるのでしょうか。私たちは [そういうものが] あると思うのではないでしょうか。ほとんどの宗教的な人たちは、そういう要素があると思うのです。唯物論者たちは言います−「自己が破壊されることは不可能である。それは政治的、経済的、社会的に条件づけられ抑制されうるだけである。私たちはそれを一定の様式の中にしっかりと抑えられるし、壊せる。ゆえにそれは高い生に、道徳的な生に導くように [することができる] 、何ごとにも邪魔しないで社会的様式に付いていくよう、たんに機械としてだけ機能するようにすることができる」と。それを、私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人たちがいます−私たちはそう呼ぶけれども、彼らはほんとうは宗教的ではありません−彼らは言います「基本的にそういう要素がある。私たちはそれと接触できるならなら、それが自己を解消するだろう」と。
 自己を解消するような要素はあるのでしょうか。どうか私たちが何をしているのかを、わかってください。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいるのです。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるだろうか、わかるでしょう。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素−すなわち神と呼ばれるもの−があってほしいと思うのです。では、精神が構想できるようなものはあるのでしょうか。あるかもしれないし、ないかもしれません。それは論点ではありません。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験ではないでしょうか。あなたが信じているとき、それが現実に起きていることではないでしょうか。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程ではないでしょうか。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影したのです。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をするのです。そういう経験は自己を強めるだけです。ゆえにあなたは何をしたのでしょうか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はやはりあるのです。なぜなら、あなたがそれを経験したからです。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動です−ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけです。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能しているのです。
 あなたは、自己の過程全体、ずるがしこい、とてつもない考案、智恵 [ がわかるとき]、同一化をとおし、美徳をとおし、経験をとおし、信念をとおし、知識をとおして、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき−精神がそれ自体が作った循環、檻のなかで動いていることがわかるとき、何が起きるでしょうか。あなたはそれに気づき、充分に認識するとき、そのときとてつもなく静かではないでしょうか−強制をとおしてではなく、どんな報賞をとおしてでもなく、どんな恐れをとおしてでもなく。あなたは、精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、あなたはそれを観察し、わかるとき、行動においてそれに完全に気づくとき、その地点に至るとき−イデオロギ−として、言葉としてではなく、投影された経験をとおしてではなくて、現実にその状態にあるとき−そのとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかるでしょう。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にあるのです。精神が創造していないとき、創造があるのです−それは認識できる過程ではありません。
 真実、真理は認識されるべきものではありません。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求−このすべては去らなければなりません。美徳の追求を意識している美徳の人は、決して真実を見つけられません。彼はとてもまともな人であるかもしれません。しかしそれは、真理の人、理解する人であるのとは全く異なっているのです。真理の人にとって、真理は生じたのです。美徳の人は正義の人です。正義の人は、何が真理なのかを決して理解できません。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから、彼は美徳を追求しているからです。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけです。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要なのです。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないでしょうし、すべての災いと悲惨の中心になるでしょう。しかしあなたと私が個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己の[もの] ではありません。自己は愛を認識できません。「私は愛している」とあなたは言います。しかしそのとき、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はないのです。しかしあなたが愛を知るとき、自己はないのです。愛があるとき、自己はないのです。


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