第八章 矛盾


 私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態−私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと−があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません−それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです−それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
 そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が−あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が−あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です−形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が−対立する欲望、対立する興味、対立する追求が−あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
 問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに−この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること−に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
 私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤−すなわち浪費−をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です−形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です−教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
 この常なるなりゆき、一つの状態に続いてもう一つに達することは、矛盾をもたらすのではないでしょうか。ゆえになぜ生を一つの永久的欲望としてではなくて、いつも互いに対立しあう [・反対しあう] 一連のはかない欲望として見ないのでしょうか。ゆえに精神は矛盾の状態になくてもいいのです。私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はありません。
 精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じるのです。すなわち精神が欲望すべてを動いてはかないものとして見るのではなくて、一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする−そのとき他の欲望が生じる、そのときだけ、矛盾があるのです。しかし欲望すべては、常なる動き [の状態] にあります。欲望の固定はありません。欲望に固定点はありません。しかし精神は固定点を確立します。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うからです。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤があるにちがいありません。あなたは到達したいのです。あなたは成功したいのです。あなたは、あなたの永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたいのです。ゆえにあなたは真理を求めていません。あなたは神を求めていません。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった体裁よく聞こえる言葉をおおいかぶせるのです。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼びます。最低点は飲酒です。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間にたいした違いはありません。社会的に、酒は悪いかもしれません。しかし満足への [願望] 、獲得への内側の願望のほうが、さらにもっと有害なのではないでしょうか。あなたはほんとうに真理を見つけたいなら、たんに言葉の水準でだけではなくて全く、極めて正直でなければなりません。あなたはとてつもなく明晰でなければなりません。あなたは進んで事実に向き合おうとしないなら、明晰でありえません。
 そこで何が私たち各自に矛盾をもたらすのでしょうか。確かにそれは、何ものかになりたいという願望なのではないでしょうか。私たちは皆何ものかになりたいのです-世間で成功したい、内側で結果を達成したいのです。私たちが時間という見地、達成という見地、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾があるにちがいありません。結局、精神は時間の産物です。思考は昨日に、過去に基づいています。思考が時間の領域の中で機能し、未来という [見地] 、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾があるにちがいありません。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないからです。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因−すなわち矛盾−からの自由の可能性があるのです。
 ゆえに私たちの考える過程全体を理解することが [本質的・] 不可欠なのではないでしょうか。というのは、私たちが矛盾を見つけるのは、そこであるからです。思考自体が矛盾になってしまったのです。なぜなら、私たちは自分たち自身の総合過程を理解してこなかったからです。そしてその理解は、私たちが自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能です−自分の思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに [気づくの] です−それは極めて困難です。そのときだけ、こんなに有害でこんなに苦痛なその矛盾の解消が、あるのです。
 私たちが心理的な結果を達成しようとしているかぎり、内側に安全を欲しがるかぎり、私たちの生には矛盾があるにちがいありません。私たちのほとんどはこの矛盾に気づいているとは、私は思いません。または私たちは気づいているとしても、そのほんとうの意義がわからないのです。反対に、矛盾は私たちに生きる弾み [・刺激] を与えてくれるのです。まさに摩擦の要素こそが、私たちに生きていることを感じさせてくれるのです。努力、矛盾の格闘が、私たちに生命力 [・活力] の感覚を与えてくれるのです。そういうわけで私たちは戦争を愛しているのです。そういうわけで私たちは挫折の戦いを楽しむのです。結果を達成したいという願望−すなわち心理的に安全でありたいという願望−があるかぎり、矛盾があるにちがいありません。そして矛盾があるところ、静かな精神はありえません。精神の静けさは、生の意義全体を理解するに [本質的・] 不可欠です。思考は決して平静ではありえません。思考−すなわち時間の産物−は、時間のないものを決して見つけられません。時間を超えているものを決して知ることはできません。まさに私たちの考えるということの本性こそが矛盾なのです。なぜなら、私たちはいつも過去や未来という見地に立って考えているからです。ゆえに私たちは決して現在を充分に認識し、充分に気づいていないのです。
 現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業です。なぜなら精神はごまかさずに直接的に事実に向き合う能力がないからです。思考は過去の産物ですし、ゆえに過去や未来という見地に立って考えられるだけです。それは現在の事実に完全に気づくことはできません。思考−すなわち過去の産物−が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけですし、そういう考えはもっと多くの矛盾 [を造り出し] ゆえに葛藤・抗争、悲惨、混乱を私たちのなかに、ゆえに私たちのまわりに造り出すだけです。
 矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければなりません。あなたが事実と直面しているとき、どうして選択がありうるでしょうか。確かに、思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実 [について] の理解は不可能になります。ゆえに自己認識が理解の始まりです。自己認識なしには、矛盾と葛藤 [・抗争] は継続するでしょう。自分自身の過程全体、総体を知るには、どんな熟練者もどんな権威も必要ではありません。権威の追求は恐れを生み育てるだけです。どんな熟練者もどんな専門家も私たちに、自己の過程をどう理解するのかを教えられません。それは自分自身で研究しなければなりません。あなたと私はそれについて話しをすることにより互いに助け合うことはできます。しかし誰も私たちのためにそれを解き明かせません。どんな専門家もどんな教師も、私たちのために [私たちに代わって] それを探検できません。私たちは私たちの関係において−ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づけるのです。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見するでしょう。観念はたんに象徴としての思考の凝結化です。そして象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらすのです。
 こうして思考の様式があるかぎり、矛盾は継続するでしょう。様式を [終わらせ] 、そのため矛盾を終わらせるには、自己認識がなければなりません。この自己の理解は、わずかな者のために取っておかれた過程ではありません。自己は、私たちの日常の話し、私たちの考え [方]と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきものです。私たちはあらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解されるということがわかるでしょう。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうる [ところの] あの精神の平静の可能性があるのです。


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