第七章 努力


 私たちのほとんどにとって、私たちの生全体は努力に、何らかの種類の意志 [力] に基づいています。私たちは意志なき、努力なき行動を考えつくことはできません。私たちの生はそれに基づいています。私たちの社会的、経済的、いわゆる霊的 [・精神的] な生は一連の努力であり、いつも一定の結果に到達するのです。そして私たちは努力は本質的 [・不可欠] で必要であると思うのです。
 なぜ私たちは努力をするのでしょうか。それは単純に言うと、結果を達成し、何ものかになり、目標に達するためではないでしょうか。私たちは努力をしなければ、沈滞するであろうと思うのです。私たちは、それに向かって常に奮闘している [ところの] 目標について、観念を持っています。そしてこの奮闘が私たちの生の一部分になってしまったのです。私たちは自分たち自身を改めたいなら、自分たち自身に根本的変化をもたらしたいなら、古い習慣を除去しよう、習慣的、環境的影響などに抵抗しようと、ものすごい努力をします。それで私たちは、何かを見つけたり達成したりするため、そもそも生きるためのこの努力の連続に、慣れているのです。
 そういう努力すべては自己の活動ではないでしょうか。努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。私たちが自己の中心から努力をするなら、それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、もっと多くの混乱、もっと多くの悲惨を産み出すにちがいありません。それでも私たちは努力に次ぐ努力をしつづけるのです。私たちのほとんどは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をもきれいにかたづけないということを、悟っていません。反対に、それは私たちの混乱と悲惨と悲しみを増大させるのです。私たちはこれを知っています。それでも私たちは、何とかこの自己中心的な努力の活動を、意志の行動を突き破りたいと願いつづけるのです。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろうと、私は思います。幸せは努力をとおして来るでしょうか。あなたは今までに幸せであろうとしたことがあるでしょうか。それは不可能なのではないでしょうか。あなたは幸せであろうと格闘しますが、幸せはないのではないでしょうか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ません。あなたは耽溺するかもしれませんが、終わりに苦さがあるのです。あなたは抑圧したり制御したりするかもしれませんが、いつも隠れたところに闘争があるのです。ゆえに幸せは努力をとおして来ないし、また喜びも制御と抑圧をとおして来ないのです。にもかかわらず私たちの生すべてが一連の抑圧、一連の制御、一連の後悔に満ちた耽溺です。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの常に圧倒される、常なる格闘もあるのです。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をするのではないでしょうか。けれども愛や理解は闘争によって訪れるでしょうか。私たちのいう格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、とても重要であると、私は思います。
 努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味ではないでしょうか。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘しています。またはあるがままから逃げようとしたり、 [それを] 変容させたり修正したりしようとしています。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人です。それが真の満足です。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに [関係しているの] ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係しているのです。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識するとき、それに気づくときだけ、訪れうるのです。
 それで私たちは、努力とは、あるがままのものを、何かあなたがあって欲しいと願うものに変容させようとする闘争や格闘であることが、わかるのです。私は、純粋に技術的である工学や何かの発見や変容のように物理的な問題との格闘 [について] ではなく、心理的な格闘について話しているだけです。私は、心理的であり、いつも技術的なものに打ち勝つその格闘について、話しているだけです。あなたは、科学が私たちに与えてくれた無限の知識を使って、大いに注意を払ってすばらしい社会を築くかもしれません。しかし心理的闘争と格闘と戦いが理解されず、心理的響きと流れに打ち勝たないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、何度も繰り返し起きてきたように、必ず潰れてしまうのです。
 努力はあるがままからの逸脱です。私があるがままを受け入れた瞬間、格闘はないのです。どんな形の格闘や闘争も、逸脱の表示です。そして心理的に、私があるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱−すなわち努力−が存在するにちがいありません。
 初めに私たちは、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければなりません。創造は努力をとおしてあるのでしょうか。それとも創造は、努力の止むことをもってだけあるのでしょうか。あなたはいつ、書いたり、描いたり、歌ったりするのでしょうか。あなたはいつ、創造するのでしょうか。確かに、努力がないとき、あなたが完全に開いているとき、すべての水準で、あなたが完全な疎通 [の状態] にあり、完全に統合 [融和] しているときです。そのとき喜びがあるし、そのときあなたは歌ったり詩を書いたり絵を描いたり何かを作ったりしはじめのです。創造の瞬間は格闘から生まれません。
 おそらく私たちは創造性の問題を理解するなかで、私たちのいう努力とはどういう意味なのかを理解することができるでしょう。創造性は努力から出てきたものでしょうか。そして私たちは、自分たちが創造的であるそれらの瞬間において気づいているでしょうか。それとも創造性は、全くの自己忘却の感覚 [でしょうか] 、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚でしょうか。その状態は、苦労の [結果] 、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果でしょうか。あなたは何かをたやすくすばやくするとき、努力がなく、完全な格闘の欠如があるということに、今までに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。しかし私たちの生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、私たちは、 [そこにおいて] 闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できないのです。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければなりません。私たちのいう努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味なのではないでしょうか。私はこれです。私はあれになりたい。私はあれではない。あれにならなければならない。「あれ」になるなかに、闘争があり、戦い、葛藤、格闘があるのです。この格闘において私たちは必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心があるのです。私たちは対象に、人物に、観念に自己の充実 [・自己実現] を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求するのです。それで私たちはこの努力を必然的と受け取ったのです。それは−この何ものかになろうとする格闘は、必然的なのかどうか疑わしいと、私は思います。なぜこの格闘があるのでしょうか。どんな程度でも、どんな水準でも、充実への欲望があるところ、格闘があるにちがいありません。充実が、努力の裏の動機、推進力です。偉い経営者にも主婦にも貧しい人にも、このなろうとする [戦い] 、充実しようとする戦いが続いているのです。
 では、なぜ自己を充実させたいという欲望があるのでしょうか。明白に、充実したい、何ものかになりたいという欲望は、 [無である・] 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じるのです。私は何ものでもない [・無である] から、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘するのです。外側でも内側でも、私は人物やものごとや観念において自己を充実させようと格闘するのです。その空虚を充たすことが、私たちの存在の過程全体です。私たちは、空っぽで、内側で貧しいことに気づくと、外部に物を集めたり、内側の豊かさ [・富] を育成したりしようと格闘するのです。行動をとおし、観想をとおし、取得をとおし、達成をとおし、力などをとおして、その内側の空虚からの逃避があるときだけ、努力があるのです。それが私たちの日常の存在です。私は自分の不十分さ、自分の内側の貧しさに気づきます。そして私はそれから逃げ出そう、またはそれを充たそうと格闘します。この逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴うのです。
 そこで逃げ出そうとする努力をしないなら、何が起きるでしょうか。その寂しさ、その空っぽとともに生きます。そしてその空っぽを受け入れるなかで、闘争、努力とは何の関わりもない創造的状態が来るということを、見つけるでしょう。私たちがその内側の寂しさ、空っぽを避けようとしているかぎり、努力は存在しているのです。しかし私たちはそれを見つめ、それを観察するとき、あるがままを避けずに受け入れるとき、闘争すべてが止む存在の状態が来ることを見つけるでしょう。その存在の状態が創造性です。それは闘争の結果ではありません。
 しかしあるがまま−すなわち空っぽ、内側の不十分さ− [について] の理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれるのです。
 ゆえに私たちが知っているような行動は、ほんとうは反動であり、絶えざるなりゆき、すなわちあるがままの否定、回避なのです。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがまま [について] の理解に行動があるし、この行動が創造的存在です。あなたは行動においてあなた自身に気づくなら、これを理解するでしょう。あなたが行動しているままにあなた自身を観察してください。外側だけではなく、またあなたの思考と感情の動きをも見てください。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程−すなわち感情と行動でもあるもの−が、なるという観念に基づいていることがわかるでしょう。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来るのです。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかるでしょう。これがなろうとする努力です。なることはあるがままの直接的回避です。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、あなたは、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つけるでしょう。あなたが、とてつもない平静、組み立てられ、作り上げられていない平静、あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、あなたが内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそなのです。その平静の状態においてだけ、創造的存在があるのです。


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