第六章 信念


 信念と知識はとても密接に欲望に関係しています。そしておそらく、私たちはこれら二つの論点を理解できるなら、欲望がどのように働くかがわかり、その複雑さを理解できるのです。
 私たちのほとんどが熱心に受け入れ、当然のことと思っているものごとの一つは、信念の問題であるように、私には見えるのです。私は信念を攻撃しているのではありません。私たちがしようとしていることは、なぜ私たちは信念を受け入れるのかを見出すことです。そして、受け入れの動機、因果 [関係]を理解できるなら、そのときおそらく、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできるかもしれません。政治的、宗教的な信念、国家主義・民族主義的、他の色々な種類の信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すか [ということ] がわかります−それは明白な事実です。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしないのです。ヒンドウ−教の信念、キリスト教 [の信念] 、仏教の信念−無数の党派的、国家・民族的信念、色々な政治的イデオロギ−があり、すべてが互いに争い、互いに改心 [・改宗] させようとしています。明白に、信念は人々を分離し、不寛容を造り出していることが、わかります。信念をもたずに生きることは可能でしょうか。信念との関係において自分自身を研究できてこそ、それは見出せるのです。信念をもたずに、この世界で生きることは可能でしょうか-信念を変えるのではなく、一つの信念の代わりにもう一つを用いるのではなくて、すべての信念から全く自由であり、そのため毎分、生に新たに出会うことは、です。これが、結局、真理です−過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが。
 あなたは考慮するなら、信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れであるということが、わかるでしょう。もしも信念を持たなかったなら、私たちに何が起きるでしょうか。起きるかもしれないことに、とても怯えるのではないでしょうか。もしも、信念−神への、共産主義への、社会主義への、帝国主義への [信念] 、何らかの種類の宗教的定式、私たちが条件づけられている何らかの教義への信念−に基づいた行動の様式を持たなかったなら、全く途方に暮れた気持ちになるのではないでしょうか。そしてこの信念の受け入れは、その恐れ−ほんとうは [無であること・] 何ものでもないことへの [恐れ] 、空っぽであることへの恐れ−を覆いかくすことではないでしょうか。結局、カップは空っぽであるときだけ役に立つのです。そして信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神です。それはたんに反復的な精神です。その恐れ−その空っぽ [・空しさ] への恐れ、その寂しさへの恐れ、その沈滞への、達しないことへの、成功しないこと、達成しないこと、何ものかでないこと、何ものかにならないことへの恐れ−から逃避することが、確かに、なぜ私たちがこんなに熱心に貪欲に信念を受け入れるのかという理由の一つなのではないでしょうか。そして信念の受け入れをとおして、私たちは自分たち自身を理解するでしょうか。反対です。信念は宗教的でも政治的でも、明白に自分たち自身の理解を妨げるのです。それは、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕(スクリ−ン)として、作用するのです。そして私たちは信念をもたずに自分たち自身を見つめられるでしょうか。私たちがそれらの信念を、 持っている多くの信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているでしょうか。私たちは、信念−すなわち精神がそれ自身を [それと]同一化してきたもの−を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力があるのです−そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがあるのです。
 それは、この信念と知識の問題は、ほんとうにとても興味深い問題です。それは私たちの生においてなんととてつもない役割を演じるのでしょうか!私たちはいかに多くの信念を持っているのでしょうか!確かに、私がその [霊的という] 言葉を使えるなら、人は知的であるほど、文化的で [・教養が ] あるほど 、霊的 [・精神的] であるほど、理解する能力がないのです。現代の世界においてさえも、未開人は無数の迷信を持っています。思慮深いほど、目覚めているほど、鋭敏であるほど、おそらく信じることがないのです。それは、信念は束縛する [から] 、信念は孤立させるからです。そして、経済的、政治的世界、またいわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、世界中でそうであることがわかります。あなたは神があることを信じています。そしておそらく私は神がないことを信じています。またはあなたは [共産主義者や国家主義者として] あらゆるものごと [に対して] 、あらゆる個人 [に対して] 完全な国家統制を信じています。そして私は [資本主義者として] 民間企業とその他すべてを信じています。あなたは [一神教の信者として] 、唯一人の救い主がいるし、彼をとおしてあなたの目標を達成できるということを信じています。そして私はそんなふうに信じていません。こうしてあなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張しているのです。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をするのです−それは完全に無意味です。なぜなら、現実に信念こそが孤立の過程であるからです。あなたはバラモンです。私は非バラモンです。あなたはキリスト教徒です。私はイスラム教徒です、などです。あなたは同胞愛について話をし、私もまた同じ同胞愛、愛、平和について話をします。しかし現実には、私たちは分離しています。私たちは自分たちを分割しています。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられません。それは明らかでしょうか。それは言葉上はそうであるかもしれません。しかし、あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめるでしょう。
 欲望 [・願望] の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいないということが、わかります。なぜなら、明白にあなたは経済的、霊的 [・精神的] に [安全であるため] 、また内側でも安全であるために信じているからです。私は、経済的理由のために信じている人たちについて話してはいません。なぜなら、彼らは自分たちの仕事に依存するように育てられているし、ゆえに自分たちのために仕事があるかぎり、キリスト教徒、ヒンドウ−教徒−何でもかまいません−であるだろうからです。私たちはまた便宜のために信念にすがりつく人たちについても議論していません。おそらく私たちのほとんどにおいては、それは等しくそうなのです。便宜のために、私たちは一定のものごとを信じています。これら経済的理由は払いのけて、私たちはその中にもっと深く入らなければなりません。何でも経済的、社会的、霊的 [・精神的] なものを強く信じている人たちを [例に] 取り上げましょう。その裏の過程は、安全でありたいという心理的欲望なのではないでしょうか。そのとき継続したいという欲望があります。私たちはここで、継続があるのかないのかについては、議論していません。私たちは、信じようとする駆り立て、常なる衝動について議論しているだけです。平和の人、ほんとうに人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできないのではないでしょうか。彼は自分の欲望が、安全であるための手段としている働いているのがわかります。どうか反対側へ行って、私が無宗教を説いていると言わないでください。それはそもそも私の論点ではありません。私の論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争いがあるにちがいない、葛藤・抗争があるにちがいない、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということです−それは日常、見られます。それで私が、この過程が、信念−すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの−の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、私があれかこれかを信じるべきであるということではなくて、私が安全でありたいという欲望から自由になるべきであるということです。精神は、安全への欲望から自由でありうるでしょうか。それが問題です−何を信じるべきか、どのくらい信じるべきかではありません。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎません。
 精神は、意識的精神は、人は、この安全でありたいという欲望から自由でありうるでしょうか。私たちは安全でありたいし、ゆえに私たちの地所、財産、家族の助力が要るのです。私たちは信念の壁を築くことによって内側で、また霊的 [・精神的] にも安全でありたいのです−それは、この確実でありたいという渇望の表示です。個人としてあなたは安全でありたいというこの衝動、この渇望−すなわち何かを信じたいという欲望に自ずと表現されるもの−から自由でありうるでしょうか。私たちはそのすべてから自由でないなら、私たちが争いの源です。私たちは平和をもたらしていません。私たちは心に愛を持っていないのです。信念は破壊します。そしてこれは私たちの日常の生で見られます。 私はこの欲望の過程−すなわち信念にすがりつくことにおいて自ずと表現されるもの−に捕らわれているとき、私自身が見えるでしょうか。精神は信念から自由になれる−その代用を見つけるのではなくて、それから全く自由でありうるでしょうか。あなたはこれに対して言葉の上で「はい」とか「いいえ」とか答えられません。しかし、あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せるのです。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至るのです。明白に、あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはありません。あなたのささいな小さなものごとを気をつけて見守り、あなたが誰に会うべきか、何をすべきか、どのようにそれをすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたいのです。これは子どもっぽい未熟な考えです。あなたは、偉大な父が私たちみんなを見守っていると考えます。それは、あなた自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎません。それは明白に真実ではありません。真理は何か全く違ったものであるにちがいありません。
 私たちの次の問題は知識のそれです。知識は真理の理解にとって必要でしょうか。「私は知っている」と私が言うとき、含まれている意味は知識があるということです。そういう精神は、何が真実なのかを究明し探し出す能力があるでしょうか。さらに、私たちが知っているのは何でしょうか−それを私たちはとても誇りに思っていますが。現実に私たちが知っているのは何でしょうか。私たちは情報は知っています。私たちは [情報と経験、すなわち] 、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちています。あなたは「私は知っている」と言うとき、どういう意味でしょうか。あなたが知っているという認知は、事実の [認識] 、一定の情報の認識であるか、それともあなたがしたことのある経験であるか、です。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成します。そしてあなたは自分の背景、欲望、経験に応じて、自分が読んだものを翻訳しはじめます。あなたの知識は、 [そこに] 欲望の過程と類似した過程が働いている [ところの]ものです。信念のかわりに私たちは知識を代用します。「私は知っている。私は経験をした。それは反論できない。私の経験はそれです。私は完全にそれを信頼する」−これらは知識の表示です。しかしあなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを、見つけるでしょう。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めているのです。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなるのです。
 あなたは今までにこの知識の取得の問題について [考えたことがあるのか] -知識は究極的に、私たちが愛するのを [助けてくれるのか] 、私たち自身に葛藤を [産み出し] 、私たちの隣人との抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのかについて、考えたことがあるのかどうか、私は知りません。なぜなら、野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つであるからです。私たちが互いに平和に生きようとするなら、確かに、野心は完全に終わりにならなければなりません-政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的 [・精神的] 野心も、です。精神が、この知識の蓄積する過程、この知りたいという欲望から自由であることは、いったい可能でしょうか。
 これら二つ、知識と信念が、私たちの生においていかにとてつもなく強力な役割を演じるかを見つめることは、とても興味深いことです。見てください、いかに私たちが、莫大な知識と学識を持つ人たちを崇拝するのかを!あなたはその意味が理解できるでしょうか。あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならないのではないでしょうか。それは何か新しいものが見える能力がなければなりません。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでにあなたに知られている情報すべて、あなたの知識すべて、あなたの過去の記憶すべてを持ち込みます。そして明白にあなたは、新しいもの、古いものからではないものを見る能力、受け取る能力が何もなくなるのです。どうか即時にこれを細部へと翻訳しないでください。私は自宅にどう戻るのかを知らなければ、迷ってしまうでしょう。私は機械をどう動かすのかを知らなければ、ほとんど役に立たないでしょう。それは全く異なったことです。私たちはここでそれについて議論しているわけではありません。私たちは、安全への手段として使われる知識、何ものかでありたいという心理的、内側の願望について、議論しているのです。あなたは知識をとおして何を得るのでしょうか。知識の権威、知識の重み、重要性 [・尊大さ] 、威厳の感覚、生命力 [・活力] の感覚、等々でしょうか。「私は知っている」とか「ある」とか「ない」とか言う人は、確かに、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまったのです。
 そのとき、私たちの問題は、私が見るところ、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということです。そして精神が昨日から [自由で] 、昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能でしょうか。あなたは質問を理解していますか。個人としての私が、個人としてのあなたがこの社会に生きて、それでも私たちが育てられてきた信念から自由であることは、可能でしょうか。精神がそのすべての知識、そのすべての権威から自由であることは可能でしょうか。私たちは色々な聖典、宗教書を読みます。そこには何をすべきか、何をすべきでないか、どのようにして目標に到達すべきか、目標は何であるか、神は何であるかが、よく気をつけて叙述されています。あなたたちは皆それを暗記して知っているし、それを追求してきたのです。それが、あなたの知識です。それが、あなたが取得してきた [もの・] ことです。それが、あなたが学んできた [もの・] ことです。その道に沿って、あなたは追求します。明白に、あなたは自分が追求し求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真実でしょうか。それはあなた自身の知識の投影ではないでしょうか。それは真実ではありません。それを「今」−明日ではなくて今-悟り、「私はそれの真理がわかる」と言い、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の [過程] 、投影の過程により損なわれないということは、可能でしょうか。
 精神は信念から自由である能力があるでしょうか。あなたをそれにすがりつかせ、あなたに信じさせる原因の内側の本性を [理解する] −意識的な [動機] だけでなく、また無意識的な動機をも−理解するとき、あなたはそれから自由でありうるだけです。結局、私たちはたんに、意識的な水準で機能している表面的な実体ではないのです。私たちは無意識的な精神に機会を与えるなら、より深い意識的、無意識的活動を見出せるのです。なぜなら、それは意識的精神よりも応答がはるかに速いからです。あなたの意識的精神が静かに考え、聴き、見守っている間、無意識的精神は、はるかに活動的で、はるかに鋭敏で、はるかに受容性があるのです。ゆえにそれは答えを得られるのです。信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神、そういう精神は自由に考えることができるでしょうか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるでしょうか。どうか、信念は人々を [一つに] まとめると言わないでください。そうなりません。それは明白です。どんな組織化された宗教も、今までそうしたことはないのです。あなた自身の国のあなたたち自身を見てください。あなたたちは皆、信じる者です。しかしあなたたちは皆、 [一つに] まとまっているでしょうか。あなたたちは皆、 [一つに] 統合されているでしょうか。あなたたち自身がそうではないことを知っています。あなたたちはこんなに多くの些細な小さな党派、カ-ストに分割されています。無数の分割を知っています。過程は−東洋でも西洋でも−世界中で全く同じです。キリスト教徒はキリスト教徒を破壊し、些細な小さなものごとのために互いに殺し合い、人々を軍隊生活など、戦争の恐怖全体に駆り立てています。ゆえに信念は人々を [一つに] 統合しません。それはこんなに明らかです。それが明らかであり、それが真実であるなら、そしてあなたはそれがわかるなら、そのとき、それに付いていかなければなりません。しかし困難は、わたしたちのほとんどが [そのことが] わからないということです。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないからです。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しいのです-それが国家であろうと、カ−ストであろうと、 [国家主義・] 民族主義であろうと、大師や救い主や他の何であろうと、です。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる [能力がある] −それは一時的に瞬間であるかもしれませんが−能力があるのです。たとえ、それ [真理] がそれ [精神] にとって耐えられないときでさえ、それ [精神] は戻って行くのです。しかし一時的にわかることで充分です。あなたがそれを束の間の瞬間、わかるなら、それで十分です。なぜなら、あなたはそのとき、とてつもないことが起きていることがわかるでしょうからです。意識が拒絶するとしても、無意識が働いています。それは前進の瞬間ではありません。しかしその瞬間が唯一のものです。たとえ意識的な精神がそれに対して格闘するにもかかわらず、それはそれ自体の結果を持つでしょう。
 そこで私たちの疑問は−「精神が知識と信念から自由であることは可能でしょうか」、です。精神は知識と信念から作り上げられていないでしょうか。精神の構造は信念と知識ではないでしょうか。信念と知識は認識の過程、精神の中心です。過程は閉鎖的です。過程は意識的とともに無意識的です。精神はそれ自身の構造から自由でありうるでしょうか。精神は無くなりうるでしょうか。それが問題です。私たちが知っているような精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っています。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はありえません。あなたは平和について話をするかもしれません。あなたは政党を組織するかもしれません。あなたは屋上から [大声で] 叫ぶかもしれません。しかしあなたは平和を持てません。なぜなら、精神には、矛盾を造り出し、孤立させ分離させる基礎そのものがあるからです。平和の人、熱意の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできません。それはただ政治的、宗教的なゲ−ム、達成と野心の感覚です。これについてほんとうに熱心であり、発見したいと思う人は、知識と信念の問題に向き合わなければなりません。彼はその裏に行き、欲望−安全でありたいという欲望、確実でありたいという欲望−の過程全体が働いているのを、発見しなければなりません。
 新しいものが−真理であっても神であっても何であっても、それが−起こりうる状態にあるであろう精神は、確かに、取得すること、集めることを止めなければなりません。それは知識すべてを脇に置かなければなりません。知識の重荷を負った精神は確かに、真実であり、測ることのできないものを、とうてい理解できません。


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