第四章 自己認識


 世界の問題はあまりに巨大で、あまりに複雑なので、それらを理解し、そして解決するには、とても単純で直接的な仕方で接近しなければなりません。そして単純さ、直接性は、外側の境遇にも、また私たちの特定の先入観と気分にも、依存しません。私が指摘していたように、解決は、会議、青写真をとおし、古い指導者の代わりに新しい者を用いることなどをとおして見つけられるべきものではありません。解決は明白に、問題の造り手 [にある] 、人間たちの間に存在している過ち、憎しみ、途方もない誤解の造り手に、あるのです。この過ちの造り手、これらの問題の造り手は、個人、あなたと私です−私たちがそれについて考えるような世界ではないのです。世界はあなたと他の一人との関係です。世界は、何かあなたと私から分離したものではありません。世界、社会は、私たちが互いの間に確立する [関係] 、または確立しようと求める関係です。
 それであなたと私が問題なのです−世界が、ではありません。なぜなら、世界は私たち自身の投影ですし、世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならないからです。世界は私たちから分離していません。私たちが世界ですし、私たちの問題は世界の問題です。これはいくらひんぱんに反復しても、しすぎることはありません。なぜなら、私たちの精神性があまりに無精であるために、世界の問題は私たちの [関わるべき]事柄ではない、それらは国連により [解決され] 、または古い指導者の代わりに新しい者を用いることにより、解決されなければならないと考えるからです。そのように考えるのはとても鈍い精神性です。なぜなら、私たちは世界のこの恐ろしい悲惨と混乱、この常に差し迫った戦争に応じる [能力・] 責任があるからです。世界を変容させるには、私たちは私たち自身から始めなければなりません。そして私たち自身から始めるにあたって重要であることは、意図です。 [その] 意図は、私たち自身を理解することでなければなりません。他の人たちに彼ら自身を変容するのを [任せること] や、また左翼や右翼の革命をとおして修正された変化をもたらすのを任せておくことではありません。これが私たちの、あなたと私の責任 [・能力] であるということを、理解することが重要です。なぜなら、私たちの生きている世界がたとえどんなに小さくても、私たちが自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく私たちは広く世界に、他の人たちとの拡大した関係に、影響を及ぼすでしょうから。
 私が言いましたように、私たちは自分たち自身を理解する過程−それは孤立する過程ではありません−を見出そうとしています。それは世界 [・世間] から退くことではありません。なぜなら、あなたは孤立 [の状態]では生きられないからです。有る [・生きる] ことは関係することですし、孤立 [の状態]で生きているようなものはありません。葛藤・抗争、悲惨、闘争をもたらすのは、正しい関係の欠如です。私たちの世界がどんなに小さくても、私たちがその狭い世界で関係を変容させられるなら、それは、いつのときも外側に広大する波のようになるでしょう。その点が−どんなに狭くても、世界は私たちの関係であるということが、わかることが重要であると、私は思います。そして私たちはそこに変容を−表面的ではなくて根本的変容をもたらせるなら、そのとき活動的に世界を変容させはじめるでしょう。ほんとうの革命は、左翼のでも右翼のでもどんな特定の様式にも応じたものではありません。それは価値の革命−感覚的な価値から感覚的でない[価値] 、または環境的影響によって造り出されない価値への革命です。根本的革命、変容、革新をもたらすであろうこれら真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが本質的 [・不可欠] です 。自己認識は英知の始まりです。ゆえに変容や革新の始まりです。自分自身を理解するには、理解しようとする意図がなければなりません−それが、私たちの困難が入ってくるところです。私たちのほとんどは不満です。私たちは突然の変化をもたらしたいと願望するけれども、私たちの不満はたんに一定の結果を達成することに注がれるのです。私たちは不満であると、違った職を求めたり、たんに環境に屈服したりするのです。不満は私たちを燃え立たせ、生を [問わせ] 、存在の過程全体を問わせる原因になる代わりに、 [ 一定の結果を達成することに] 注がれます。よって私たちは平凡になり、存在の意義全体を見出そうとするあの衝動、あの強烈さを失っていくのです。ゆえに、自分たち自身でこれらのものごとを発見することが重要です。なぜなら、自己認識は他の一人によって与えてもらえないからです。それはどんな書物をとおしても見つけられるべきものではありません。私たちは発見しなければなりません。そして発見するには、意図、探求、探究がなければなりません。見出そう、深く探究しようとするその意図が弱かったり、存在していないかぎり、自分自身について見出したいというたんなる主張や思いつきの願いは、ほとんど意義がありません。
 こうして世界の変容は、自分自身の変容によってもたらされるのです。なぜなら、自己は人間存在の総合過程の産物、一部分であるからです。自己を変容させるには、自己認識が本質的 [・不可欠] です。あなたが何であるかを知ることなしに、正しい思考のための基礎はありません。あなた自身を知ることなしに、変容はありえません。自分自身をあるがままに知らなければなりません。ありたいと願うように−すなわち、たんに理想であり、ゆえに架空であり非真実であるところのもの−ではありません。変容させられるのは、あるがままだけです−あなたがありたいと願うものではありません。自分自身をあるがままに知ることは、とてつもない精神の鋭敏さを必要とします。なぜなら、あるがままは常に変容、変化を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、どんな特定の行動の様式にも繋がれていてはならないからです。あなたは何かに付いていこうとするなら、繋がれていてはだめなのです。あなた自身を知るには、 [そこに] すべての信念から、すべての理想化からの自由がある [ところの] 気づきが、精神の鋭敏さが、なくてはなりません。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるからです。あなたは自分が何であるかを知りたいなら、何か自分がそうでないものを想像したり信じていたりできません。私は欲張りで、妬んでいて、暴力的であるなら、たんに非暴力の、無欲の理想を持つだけでは、ほとんど価値がありません。しかし、自分が欲張りまたは暴力的であることを知るには、それを知って理解するには、とてつもない知覚を必要とするのではないでしょうか。それは思考の正直さ、明晰さを要求します。ところが、あるがままから離れて理想を追求することは逃避です。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げるのです。
あなたが何であるか [について] の理解は、たとえそれが何であろうと-醜かろうと美しかろうと、意地が悪かろうと邪(よこしま)であろうと-あなたが何であるか [について] の歪みのない理解が、美徳の始まりです。美徳は本質的 [・不可欠] です。というのは、それが自由を与えてくれるからです。あなたが発見できるのは、あなたが生きられるのは、美徳においてだけです。美徳の育成においてではありません−それはたんに体裁 [をもたらす] だけで、理解と自由をもたらしません。美徳があることと美徳を得ることとの間には違いがあります。美徳があることは、あるがまま [について] の理解をとおして訪れます。ところが美徳を得ることは、延期すること−あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すことです。ゆえに美徳を得るなかで、あなたはあるがままに対して直接的に作用することを避けているのです。理想の育成をとおしてあるがままを避けるこの過程が、美徳があると考えられているのです。しかしあなたはそれをきっちりと直接的に見つめるなら、それはそのようなものではないことがわかるでしょう。それはたんに、あるがままと面と向き合うことの延期にすぎません。美徳はあるがままでないものになることではありません。美徳はあるがまま [について] の理解ですし、ゆえにあるがままからの自由です。美徳は、急速に崩壊しかけている社会において本質的 [・不可欠] です。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければなりません。そして自由であるには、美徳がなければなりません。というのは、美徳なしには自由はないからです。美徳を得ようと奮闘している不道徳な人が、そもそも美徳を知ることができるでしょうか。道徳的でない人は決して自由でありえません。ゆえに真実が何なのかを決して見出せません。真実は、あるがままを理解することにおいてだけ、見つけられるのです。そしてあるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければなりません。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければなりません。そしてあるがままを理解することは極めて難しいのです。なぜなら、あるがままは決して止まっていない、静止していないからです。それはいつも動き [の状態] にあるのです。あるがままはあなたのあるがままです−あなたがありたいと思うものではありません。それは理想ではありません。なぜなら、理想は架空であるからです。それは現実に、瞬間瞬間、あなたがして、考え、感じていることです。あるがままが現実ですし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とします。しかし私たちはあるがままを非難しはじめるなら、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しないでしょう。私は誰かを理解したいなら、彼を非難できません。私は彼を観察し研究しなければなりません。私は自分が研究しているものそのものを愛さなければなりません。あなたは子どもを理解したいなら、その子を愛さなければなりません−非難してはなりません。あなたは彼と [一緒に] 遊び、彼の動き、彼の性向、彼の振るまい方を見守らなければなりません。しかし、あなたがたんにその子を非難し、抵抗し、咎めたりするだけなら、子ども [について] の了解はありません。同様に、あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければなりません。それが現実です。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ−的行動も、現実ではありません。それはたんにあるがままとは他の何かでありたいという願い、架空の願望にすぎません。
 あるがままを理解するには、 [そこに] 同一化や非難のない精神の状態を、必要とします−それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味です。私たちはほんとうに何かを理解したいと願望するとき、その状態にあります。興味の強烈さがあるとき、その精神の状態が生じます。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていいのです。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがあるのです。この気づきの状態は、興味が [あるとき] 、理解しようとする意図があるとき、来るのです。
 自分自身の基本的理解は、知識をとおし、経験の蓄積をとおして来ません−それはたんに記憶の育成にすぎません。自分自身の理解は瞬間瞬間です。私たちがたんに自己 [について] の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げるのです。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるからです。世界は私たちと私たちの活動と異なっていません。なぜなら、世界の問題を造り出すのは、あるがままの私たちであるからです。私たちの大多数にとっての困難は、私たちが自分たち自身を直接的に知らなくて、多くの人間の諸問題を解決するため体系 [体制]、方法、作業の手段を求めることなのです。
 では自分自身を知る手段、体系はあるのでしょうか。どんな利口な人も、どんな哲学者も、体系、方法を考案できます。しかし確かに、体系に付いていくことはたんに、その体系によって造り出された結果を産み出すだけなのではないでしょうか。私は自分自身を知る特定の方法に付いて行くなら、そのときその体系に必然的に伴う結果を得るでしょう。しかし結果は明白に私自身 [について] の理解ではないでしょう。すなわち、それをとおして私自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、私は自分の考え、活動を、様式に応じて形作るのです。しかし様式に付いていくことは自分自身 [について] の理解ではありません。
 ゆえに自己認識のための方法はないのです。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいます−それが私たちが皆ほしいものです。私たちは権威に付いていきます-人物のものでないなら、体系の、イデオロギ−の[権威]にです。なぜなら私たちは結果 [がほしい] −満足できるであろう、私たちに安全を与えてくれるであろうもの−が、ほしいからです。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくないのです。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したいのです。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への [願望] 、確実性への願望から出てきたものです。そして結果は明白に、自分自身 [について] の理解ではありません。私たちは方法に付いていくとき、私たちが願望するものを保証してくれる権威−教師、導師(グル)、救い主、大師−を持つにちがいありません。そして確かにそれは自己認識への道ではありません。
 権威は自分自身 [について] の理解を妨げるのではないでしょうか。権威、指導者の庇護のもとで、あなたは一時的に安全の感覚、幸福の感覚を持つかもしれません。しかしそれは自分自身の総合過程 [について] の理解ではありません。権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げます。ゆえに究極的に自由を破壊します。自由においてのみ、創造性がありうるのです。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうるのです。私たちのほとんどは創造的ではありません。私たちは反復的機械 [です] 、私たち自身のでも他の一人のでも一定の経験の歌、一定の結論と記憶を何度も繰り返し演奏しているたんなる蓄音機レコ−ドです。そういう反復は創造的な存在ではありません−しかしそれが、私たちのほしいものです。私たちは内側で安全でありたいから、常にこの安全のための方法と手段を求めているのです。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を [破壊し] 、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊するのです。
 確かに私たちの困難は、私たちのほとんどがこの創造性の感覚を失ってしまったということです。創造的であることは、私たちが絵を書いたり詩を書いたりして有名にならなければならない、という意味ではありません。それは創造性ではありません−それはたんに観念を表現する能力にすぎません−それを公衆は喝采したり無視したりするのです。能力と創造性は混同すべきではありません。能力は創造性ではありません。創造性は全く違った存在の状態なのではないでしょうか。それは、 [そこに] 自己が不在である状態、 [そこでは] 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、欲望の焦点ではない状態です。創造性は連続的な状態ではありません。それは瞬間瞬間、新しいのです。それは、[そこに] 「私」、「私の」がなく、思考がどんな特定の経験、野心、達成、目的、動機にも集中していない動きです。創造性−そこにのみ真実がありうるあの存在の状態 、すべてのものごとの創造者−があるのは、自己がないときだけです。しかしその状態は構想したり想像したりできません。それは定式化したりまねたりできません。それはどんな体系をとおしても、どんな哲学をとおしても、どんな修練をとおしても到達できません。反対に、それは、自分自身の総合過程を理解することをとおしてだけ、生じるのです。
 自分自身 [について] の理解は結果、頂上ではありません。それは関係−財産、ものごと、人々、観念と自分の関係−の鏡において、瞬間瞬間、自分自身が見えることです。しかし私たちは、鋭敏であること、気づくことは難しいことがわかります。そして方法に付いていくことにより、 [諸々の] 権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好みます。それで私たちの精神は疲れきり、疲労困憊し、無感覚になるのです。そういう精神は創造性の状態にありえません。その創造性の状態は、自己−すなわち認識と蓄積の過程であるもの−が無くなるときだけ来るのです。なぜなら、結局、「私」という意識は認識の中心ですし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるからです。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れています。なぜなら私たちは皆、何ものかでありたいからです。小さい人は大きい人でありたい、不徳な者は徳を持ちたい、弱くて目立たない者は力、地位、権威を渇望します。これが精神の絶えざる活動です。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できません。
 私たちのまわりの世界−悲惨、戦争、失業、飢餓、階級分裂、全くの混乱をともなうもの−を変容させるためには、私たち自身に変容がなければなりません。革命は、どんな信念やイデオロギ−に応じてでもなく、私たち自身の中で始まらなければなりません。なぜなら、観念に基づいたり、特定の様式への順応における革命は、そもそも明白に革命ではないからです。自分自身に基本的革命をもたらすには、関係において自分の思考と感情の過程全体を理解しなければなりません。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決です−もっと多くの修練、もっと多くの信念、もっと多くのイデオロギ−、もっと多くの教師たちを持つことではないのです。私たちは蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、私たち自身をあるがままに理解できるなら、そのときどのように、精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れるかということが、わかるでしょう。そしてその平静の状態においてだけ、創造性がありうるのです。


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