第三章 個人と社会


 私たちのほとんどが直面する問題は、個人はたんに社会の道具にすぎないのか、それとも社会の目的なのか、ということです。個人としてのあなたと私は、社会と政府によって使われ、指令され、教育され、制御され、一定の様式に会わせて形作られるべきものなのでしょうか。それとも社会、国家は個人のために存在しているのでしょうか。個人は社会の目的なのでしょうか。それとも彼はたんに教えられ、搾取 [・利用] され、戦争の道具として屠殺されるべき操り人形にすぎないのでしょうか。それが、私たちのほとんどが直面している問題です。それが世界の問題です-個人は、たんなる社会の道具、 [諸々の]影響力に型どられるべきおもちゃにすぎないのか、それとも社会は個人のために存在しているのか、ということが、です。
 あなたはこれをどのように見出そうとしているでしょうか。それは深刻な問題なのではないでしょうか。個人がたんに社会の道具にすぎないなら、そのとき社会のほうが個人よりはるかに重要です。それが真実であるなら、そのとき私たちは個性をあきらめて、社会のために働かなければなりません。私たちの教育体系全体が全く革命化され、個人は、使われ、破壊されるべき道具に変えられ、粛清され、取り除かれなければなりません。しかし社会が個人のために存在しているなら、そのとき社会の機能 [・役割] は、彼をどんな様式にも順応させることではなくて、彼に自由の感じ、衝動を与えることです。それで私たちは、どちらが偽りなのかを見出さなくてはなりません。
あなたはこの問題をどのように探究するのでしょうか。それは命がけの問題なのではないでしょうか。それは、右翼のでも左翼のでもどんなイデオロギ−にも依存していません。それが一つのイデオロギ−に依存しているなら、そのときそれはたんに意見の事柄にすぎません。観念はいつも憎しみ、混乱、葛藤・抗争を産み出します。あなたは、右翼や左翼の書物や、聖典に依存するなら、そのとき、ブッダのでもキリストのでも資本主義、共産主義のでも何でも、たんなる意見に依存するのです。それらは観念です、真理ではありません。事実は決して否定できません。事実についての意見は否定できます。私たちはその事柄の真理が何であるかを発見できるなら、意見に依存せずに行動することができるでしょう。ゆえに、他の人たちが言ったことを切り捨てることが必要なのではないでしょうか。左翼の人や他の指導者たちの意見は、彼らの条件づけから出てきたものです。それであなたは、自分の発見のために書物で見つけられることに依存するなら、たんに意見に縛られているにすぎません。それは知識の事柄ではありません。
 どのようにしてこれについての真理を発見すべきでしょうか。それに従って、私たちは行動するでしょう。これの真理を見つけるには、宣伝すべてからの自由がなければなりません。それは、あなたが意見に依存しないで問題を見つめる能力がある、という意味です。教育の仕事全体は個人を目覚めさせることです。これの真理がわかるには、あなたはとても明晰でなくてはならないでしょう。それは、あなたが指導者に依存できないという意味です。あなたは指導者を選択するとき、混乱 [の中] からそうするのです。それであなたの指導者もまた混乱しているのです。それが世界で起きていることです。ゆえにあなたはあなたの指導者に導きや助けを頼れないのです。
 問題を理解したいと願う精神は、問題を完全に、全体的に理解しなければならないだけではなく、それにすばやく付いていくことができなければなりません。なぜなら、問題は決して静止していないからです。問題はいつも新しいのです-飢餓の問題でも、心理的な問題でも、どんな問題でも、です。どんな危機もいつも新しいのです。ゆえに、それを理解するには、精神はいつも新鮮で、明晰で、その追求においてすばやくなければなりません。私が思うには、私たちのほとんどは、内側の革命の緊急性を悟っているのです−それのみが外的なもの、社会の根本的変容をもたらしうるのです。これが、私自身と真剣に意図を持つ人たち皆が専心している問題です。どのようにして社会に基本的、根本的変容をもたらすのかが、私たちの問題です。この外的なものの変容は、内的革命なしには起こりえません。社会はいつも静止しているから、この内側の革命なしに成し遂げられるどんな行動、どんな改革も、等しく静止的になるのです。それで、この常なる内側の革命なしには、希望はないのです。なぜなら、それなしには、外的行動は反復的、習慣的になるからです。あなたと他の一人との間の、あなたと私との間の関係の行動 [・作用] が社会です。そして、この常なる内側の革命、創造的、心理的変容がないかぎり、その社会は静止的になります。それは命を与える性質がありません。そして社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないからです。
 あなた自身と、あなたのなかとまわりの悲惨、混乱との[間の]関係は何でしょうか。確かにこの混乱、この悲惨は、それ自体で生じたのではありません。あなたと私がそれを造り出したのです。資本主義の [社会] でも共産主義の [社会] でもファシストの社会でもなくて、あなたと私が、私たちの互いとの関係においてそれを造り出したのです。あなたが中で何であるかが、外に、世界に投影されてきたのです。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常の存在ですることが、外側に投影されるし、それが世界を構成するのです。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との [間] 、私自身と他の一人との [間の] 関係が社会であるからです−社会は、私たちの関係の産物です−私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制限されて、国家主義・民族主義的であるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらすのです。
 あなたのあるがままが世界なのです。それであなたの問題は世界の問題なのです。確かにこれは単純で基本的な事実なのではないでしょうか。一人との、または多数との私たちの関係において、私たちはどういうわけか、いつのときもこの点を見過ごしているように見えます。社会を造り出すのは [あなたと私であること] 、自分たちの生き方によって混乱か秩序をもたらすのは、あなたと私であるということを忘れて、私たちは体系をとおし、体系に基づいた観念や価値における革命をとおして、変更をもたらしたいのです。それで私たちは近くから始めなければなりません。すなわち、私たちの生計の立て方に [露呈し] 、観念や信念との関係に露呈している [ところの] 私たちの日常の生存に、日常の思考と感情と行動に、自ら関心を持たなければなりません。これが私たちの日常の生存なのではないでしょうか。私たちは生計の手段に、仕事を得ること、お金を稼ぐことに関心がある。私たちは自分たちの家族と、自分たちの隣人たちとの関係に関心がある。そして観念に、信念に関心がある、ということです。そこで、あなたが私たちの従事していること [・職務] を検討するなら、それは基本的に妬みに基づいています。それはただ生計を立てる手段のみではありません。社会は常なる葛藤・抗争 [の過程] 、常になろうとする過程であるように、構成されているのです。それは貪欲に、妬みに−あなたより上位の人への妬みに基づいているのです。事務員は経営者になりたいのです−それは、彼がただ生計を、生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を取得することに関心があるということを、示しています。この態度は当然、社会に、関係に荒廃を造り出します。しかし、もしもあなたと私がただ生計に関心があるだけであったなら、私たちは、それを得る正しい手段を、妬みに基づかない手段を、見出すでしょう。妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つです。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているからです。それは究極的に政治につながります。両者は密接に関係しています。事務員は経営者になろうと努めるとき、戦争を産み出す [ところの] 武力外交の創造の要因になるのです。それで彼は直接的に戦争に対応する [能力・] 責任があるのです。
 私たちの関係は何に基づいているでしょうか。あなた自身と私自身との [間] 、あなた自身と他の一人との [間の] 関係−すなわち社会は、何に基づいているのでしょうか。確かに、愛に [基づいているの] ではありません−私たちはそれについて話をするけれども。それは愛に基づいていません。なぜなら、もしも愛があったなら、あなたと私の間に秩序があるでしょう、平和が、幸せがあるでしょうから。しかし、あなたと私との [間の] その関係には、尊敬の形を装う多大の悪意があるのです。もしも私たちが共に思考において、感情において等しかったなら、尊敬はないでしょう。悪意はないでしょう。なぜなら、私たちは弟子と教師としてではなく、また妻を支配している夫としてではなく、また夫を支配している妻としてでもなく、出会っている二人の個人であるであろうからです。悪意があるとき、支配したいという欲望−すなわち嫉妬、怒り、激情を喚起するもの−があります。そのすべてが、常なる葛藤・抗争を−すなわち私たちがそれから逃避しようとするものを−私たちの関係に造り出します。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出すのです。
 そこで、私たちの日常の生存の一部分である諸観念、信念、定式化に関しては、それらは私たちの精神を歪めていないでしょうか。というのは、愚かさとは何でしょうか。愚かさは、精神が造り出すそれらのものごとに、または手が産み出すそれらのものごとに、間違った価値を与えることなのです。私たちの思考のほとんどは、自己保護的な本能から発生するのではないでしょうか。私たちの諸観念は、ああ、それらのあまりに多くが、間違った意義、それら自体にはないものを受け取らないでしょうか。ゆえに、私たちは宗教的でも経済的でも社会的でも、どんな形でも信じているとき、神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、確かに、間違った意義を信念に与えているのです−それは愚かさを表示しています。というのは、信念は人々を統合せず、分割するからです。それで私たちは、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、平和か抗争を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかるのです。
 それで私たちの問題は、静止している社会 [がありうるの] と同時に、この常なる革命が起きている個人がありうるのかどうか、ということなのではないでしょうか。すなわち、社会の革命は、個人の内的、心理的変化から始まらなければなりません。私たちのほとんどは、社会構造に根本的変化 が [起こるのを] 見たいのです。共産主義的な [手段] または他のどんな手段をとおしてでも社会的革命をもたらすこと−それが、世界で起きている戦いの全体です。そこで、社会的革命−すなわち人の外的構造に関する行動−があるなら、その社会的革命がたとえどんなに根本的であるとしても、個人の内側の革命がなく、心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的なのです。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須なのです。というのは、内側の心理的革命のない、たんなる外的なものの変容は、ほとんど意義がないからです。すなわち、社会はいつも凝結し静止的になりつつあるし、ゆえにいつも崩壊しつつあるのです。たとえ法制度がどんなに多く、どんなに賢明に公布されるとしても、社会はいつも衰退の過程にあるのです。なぜなら、革命はたんに外側にではなく、内側に起こらなければならないからです。
 これを理解し、おろそかにしないことが重要であると、私は思います。外側の行動は成し遂げられたとき、終わっています、静止しています。個々人の間の関係、すなわち社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、ゆえに彼を等しく静止させ、反復的にするのです。これを悟ると、この事実のとてつもない意義を悟ると、同意や不同意の問題はありえません。社会はいつも凝結し、個人を吸収しつつあること、常なる創造的革命は、社会にではなく、外のものにではなく、個人にありうるだけだということは、事実です。すなわち創造的革命は、個人の関係−それが社会です−においてだけ起こりうるのです。私たちは、インド、ヨ−ロッパ、アメリカ、世界のあらゆる地域の現在の社会の構造が、いかに急速に崩壊しつつあるかが、わかります。そして私たちはそれを、自分たち自身の生の中で知っています。私たちは通りを進んでゆきながら、それを観察できるのです。私たちの社会がぼろぼろに崩れかけているという事実を、偉大な歴史家に教えてもらわなくていいのです。そして新しい社会を創造するには、新しい建築家、新しい築き手がなければなりません。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければなりません。そういう建築家はまだ存在していません。築き手は誰もいません。誰一人、観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させようとしていません。それが私たちの問題です。私たちは、社会がぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのが、わかります。そして建築家でなければならないのは、私たち、あなたと私なのです。あなたと私が価値を再発見して、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築かなければならないのです。なぜなら、私たちは職業的建築家、政治的、宗教的建設者に頼るなら、まさに前と同じ位置にいるであろうからです。
あなたと私が創造的でないから、私たちは社会をこの混沌に陥らせたのです。ですから、あなたと私が創造的でなければならないのです。なぜなら問題は切迫しているからです。あなたと私は、社会の崩壊の原因に気づいて、たんなる模倣にではなくて私たちの創造的理解に基づいた新しい構造を、創造しなければなりません。そこで、これは否定的考えという意味を含んでいるのではないでしょうか。否定的考えは、最高の形の理解です。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならないのです。なぜなら、問題−すなわちあなたと私が、社会の新しい構造を築くために、創造的でなければならないということ−への肯定的接近は、模倣的になるからです。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、私たちはそれを肯定的体系、肯定的定式、肯定的結論をもってではなく、否定的に究明し、検討しなければなりません。
 なぜ社会は、確かにそのとおりなのですが、ぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのでしょうか。基本的理由の一つは、個人が、あなたが創造的であるのを止めたということです。どういう意味なのかを説明しましょう。あなたと私は模倣的になってしまいました。外側でも内側でも、私たちは真似をしています。外側で、技術を学んでいるとき、言葉のレベルで互いに疎通しあっているとき、当然何らかの模倣、真似がなければなりません。私は言葉を真似ます。技師になるには、私は初めに技術を学び、それからその技術を橋を建てるために使わなければなりません。外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければなりません。しかし内側の心理的模倣があるとき、確かに私たちは創造的であるのを止めるのです。私たちの教育、私たちの社会構造、私たちのいわゆる宗教生活は、すべて模倣に基づいているのです。すなわち私は特定の社会的または宗教的定式にはまりこむのです。私はほんとうの個人であるのを止めてしまったのです。心理的に私は、ヒンドウ−教徒のでもキリスト教徒のでも仏教徒のでもドイツ人のでもイギリス人のでも、一定の条件づけられた応答を持ったたんなる反復的機械になってしまったのです。私たちの応答は、東洋のでも西洋のでも、宗教的でも唯物的でも、社会の様式に応じて条件づけられているのです。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣です。そして崩壊する要因の一つは指導者です−その本質そのものが模倣です。
 崩壊する社会の本性を理解するためには、あなたと私が、個人が創造的でありうるかどうかを探究することが重要なのではないでしょうか。私たちは、模倣があるとき崩壊があるにちがいないということがわかります。権威があるとき真似があるにちがいありません。そして私たちの精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければなりません。創造性の瞬間、それらのむしろ生き生きした興味のある幸せな瞬間には、反復の感覚がない、真似の感覚がないということに、あなたは気づいたことはないでしょうか。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せなのです。それで私たちは、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること−すなわち権威の崇拝−であるということが、わかるのです。


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