第二章 私たちは何を求めているのか


 私たちのほとんどが求めているのは何でしょうか。私たち各自が欲しいのは何でしょうか。特に、この落ち着きのない世界では、あらゆる人が、何らかの種類の平和、何らかの種類の幸せ、避難所を見つけようとしていますが、確かに、見出すことが重要ではないでしょうか−私たちが求めようとしているのは何なのか、私たちが発見しようとしているのは何なのかを。たぶん、私たちのほとんどは、何らかの種類の幸せ、何らかの種類の平和を求めているのです。騒乱、戦争、競争、闘争で苦しめられている世界で、私たちは何らかの平和がありうる避難所が欲しいのです。それが、私たちのほとんどが欲しいものであると、私は思います。それで私たちは追求し、一人の指導者からもう一人へ、一つの宗教組織からもう一つへ、一人の教師からもう一人へと向かうのです。
 そこで、私たちが求めているのは幸せでしょうか、それとも私たちが求めているのは、そこから私たちが幸せを引き出したいと願うところの何らかの種類の満足なのでしょうか。幸せと満足との間には違いがあります。あなたは幸せを求められるでしょうか。おそらく、満足は見つけられますが、確かに幸せは見つけられません。幸せは派生的です。それは、何か他のものの副産物です。それで、私たちは、何か多大のまじめさ、注意、思考、気づかいを要求するものに、私たちの精神と心を注ぐ前に、見出さなければならないのではないでしょうか−私たちが求めているのは何なのか、それは幸せなのか、満足なのかどうかを。残念ながら、私たちのほとんどは満足を求めていると、私は思います。私たちは満足したいのです。私たちは探求の終わりに充足感を見つけたいのです。
 結局、平和を求めているなら、それはとてもたやすく見つけられます。何らかの種類の大義に、 [一つの] 観念に、盲目的に身を捧げ、そこに避難できます。確かにそれは問題を解決しません。閉鎖的な観念でのたんなる孤立は、葛藤・抗争からの解放ではありません。それで、私たちは見出さなければならないのではないでしょうか−外側とともに内側にも、私たち各自が欲しいのは何なのかを。私たちはその事について明確であるなら、そのときどこへも、どんな教師にも、どんな教会にも、どんな組織にも行かなくていいのです。ゆえに私たちの困難は、自分たちの意図に関して自分たち自身において明確であること、ではないでしょうか。私たちは明確になれるでしょうか。そしてその明確さは、探求をとおし、他の人たち−最高の教師から街角を曲がった教会のふつうの説教師に至るまで−の言うことを見出そうとすることをとおして訪れるでしょうか。あなたは見出すために、誰かのところへ行かなければならないでしょうか。けれどもそれが、私たちのしていることではないでしょうか。私たちは無数の書物を読みます。私たちは多くの会合に出席して議論します。私たちは様々な組織に加わります−それにより、私たちの生の葛藤・抗争の、悲惨さの治療を見つけようとしています。または、私たちはそのすべてをしないとしても、見つけたと思うのです−すなわち私たちは、特定の組織、特定の教師、特定の書物が、私たちを満足させてくれると言うのです。私たちはそのなかに、あらゆる欲しいものを見つけたのです。そしてそこにとどまって、凝結し、閉じこめられるのです。
私たちは、このすべての混乱をとおして、何か永久的なもの、何か永続するもの、何か真実、神、真理と呼ばれるものを、求めていないでしょうか-何でも好きなものです。名前は大事ではありません。言葉は実体ではありません。確かです。それで、言葉に捕らわれないようにしましょう。それは専門の講師に任せておきましょう。私たちのほとんどには、何か永久的なものへの探求があるのではないでしょうか-何か私たちがすがりつけるもの、何か私たちに保証、希望、永続する熱狂、永続する確実性を与えてくれそうなものへの。なぜなら、私たち自身があまりに不確実であるからです。私たちは自分たち自身を知らないのです。私たちは、事実について、書物が言ってきたことについて、たくさん知っています。しかし私たちは自分たち自身では知らないのです。私たちは直接の経験を持っていないのです。
 そして永久的と呼ばれるのは何でしょうか。私たちが求めているもの、すなわち私たちに永久性を与えてくれるだろう、または与えてくれるだろうと願うものは、何でしょうか。私たちは、永続する幸せ、永続する満足、永続する確実性を求めていないでしょうか。私たちは、何か永遠に続くであろうもの、私たちを満足させてくれそうなものが、欲しいのです。私たちは、言葉と文句すべてを剥ぎ取って、現実にそれを見つめるなら、これが、私たちの欲しいものなのです。私たちは永久の楽しみ、永久の満足が欲しいのです−すなわち神、真理と呼ばれるもの、何であれ、です。
 たいへん結構です。私たちは楽しみが欲しいのです。おそらく、それ [その言い方] は、それ [私たちの実状] をとても粗雑に述べているかもしれません。しかしそれが、現実に私たちの欲しいものです-私たちに楽しみを与えてくれそうな経験、明日によって萎んでしまわない満足、です。そして私たちは色々な満足を実験してきました。そしてそれらはすべて消えてしまいました。そして私たちは今や、真実に、神に、永久の満足を見つけたいと願うのです。確かにそれが、私たちが皆求めているものです−利口な者と愚かな者も、理論家と何かを求めて奮闘している実際家も、です。そして永久の満足はあるのでしょうか。何か永続するようなものがあるのでしょうか。
 そこで、あなたは、永久の満足を求めて、それを神または真理または何であれ、 [そう] 呼ぶなら-名前は大事ではありません-確かに、あなたは理解しなければならないのではないでしょうか−あなたが求めているものを、です。あなたは、「私は永久の幸せ-神または真理または何でも好きなもの−を求めている」と言うなら、また探求している者、探求者、求める者をも理解しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、永久の安全、永久の幸せといったものは、ないかもしれないからです。真理は、何か全く違ったものであるかもしれません。それは、あなたが見、考え、定式化できるものとは全く違っていると、私は思います。ゆえに、私たちは何か永久のものを求める前に、求める者を理解することが、明白に必要ではないでしょうか。求める者は、彼が求めるものとは違っているのでしょうか。あなたが「私は幸せを求めている」と言うとき、求める者は、彼の探求の対象とは違っているのでしょうか。思考者は、彼の思考とは違っているのでしょうか。それらは分離した過程というより、むしろ共同の現象ではないでしょうか。ゆえに、それが本質的 [・不可欠] ではないでしょうか−彼 [求める者] が求めているのは何なのかを、あなたが見出そうとする前に、求める者を理解することが、です。
 それで、私たちは、平和、幸せ、真実、神、何であれ、他の誰かによって与えてもらえるのかどうかを、ほんとうにまじめに奥深く、自分たち自身に訊ねる時点に至らなければなりません。この絶えざる探求、この憧れが、あのとてつもない真実の感覚、あの創造的存在を−すなわち私たちがほんとうに自分たち自身を理解するとき訪れるものを、私たちに与えられるでしょうか。自己認識は、探求をとおし、他の誰かに付いていくことをとおし、何か特定の組織に属することをとおし、書物を読むことなどをとおして、訪れるでしょうか。結局、それが主要な論点ではないでしょうか-私が私自身を理解しないかぎり、私は思考のための基礎を持たないし、私のすべての探求はムダになるだろうということが、です。私は幻影の中に逃避できます。私は競争、闘争、格闘から逃げ出せます。私は他の一人を崇拝できます。私は他の誰かをとおして、自分の救いを捜せます。しかし、私が自分自身について無知であるかぎり、私が自分自身の総合過程に気づかないかぎり、思考のための、愛情のための、行動のための基礎を持たないのです。
 しかし、それは、私たちが最も欲しがりそうにないものです-私たち自身を知ることが、です。確かに、それが、私たちがその上に築ける唯一の基礎です。しかし、私たちは築ける前に、変化させうる前に、非難したり破壊したりできる前に、私たちのあるがままを知らなければなりません。出かけて行って、教師たち、導師(グル)たちを求め、取り替え、ヨ−ガを実習し、呼吸 [法] をし、儀式を執り行い、大師たちに付いていくこと、その他すべては、全く役立たないのではないでしょうか。それは意味がありません−たとえ私たちの付いていく人たちそのものが「あなた自身を研究しなさい」と言うとしても、です。なぜなら、私たちのあるがままが、世界であるからです。私たちが卑小で、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であるなら−それが、私たちが自分たちのまわりに造り出すものです。それが、私たちの生きている社会です。
 私たちは、真実を見つけ、神を見つける旅に出かける前に、行為できる前に、他の一人とどんな関係でも−すなわち社会を持てる前に、初めに自分たち自身を理解しはじめることが、本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。まじめな人は、特定の目標にどのように達するかにではなく、初めに、これに完全に関心のある人であると、私は考えます。なぜなら、あなたと私が、私たち自身を理解しなければ、どうして私たちは行動において、社会に、関係に、私たちがするどんなことにも、変容をもたらせるでしょうか。そして、それは明白に、自己認識は関係と対立するとか、関係から孤立するとかいう意味ではありません。それは明白に、大衆とは対照的に、他の一人と対照的に、私、個人の強調という意味ではありません。
 そこで、あなた自身を知ることなく、あなた自身の考え方と、なぜあなたが一定の事を考えるのかを知ることなく、あなたの条件づけの背景と、なぜあなたが芸術と宗教について、あなたの国とあなたの隣人について、あなた自身について一定の信念を持つのかを知ることなく、どうして何かについて真に考えられるでしょうか。あなたの背景を知ることなしに、あなたの思考の実体と、それがどこから来るのかを知ることなしには、確かに、あなたの探求は全く無効であり、あなたの行動は意味を持たないのではないでしょうか。あなたがアメリカ人であってもインド人であっても、またあなたの宗教が何であっても、何の意味もありません。
 私たちは、生の最終目的が何であるか、戦争、国家的・民族的敵対、葛藤・抗争、全体的紛糾状態−そのすべてがどういう意味なのかを見出せる前に、自分たち自身をもって始めなければならないのではないでしょうか。それはとても単純に聞こえます。しかし、それは極めて難しいのです。自分自身に付いて行くには、自分の思考がどのように作動するのかを見るには、とてつもなく鋭敏でなければなりません。そのため自分自身の考えることと応答と感情の複雑さに対してますます鋭敏になりはじめるにつれて、自分自身にだけでなく、関係のなかにある他の人に、より大きな気づきを持ちはじめるのです。自分自身を知ることは、行動すなわち関係において自分自身を研究することです。困難は、私たちがあまりに性急であることです。私たちは成功したいのです。私たちは目的に到達したいのです。そのため、学び、観察するための機会を、自分自身に与える時間もまたきっかけもないのです。あるいはまた私たちは色々な活動−生計を立てること、子供たちを育てること−に関与してきたり、また色々な組織の一定の責任を引き受けてきました。私たちは異なった仕方でこんなにも関与してきたので、そのため、観察し、学ぶべき自己反省のための時間がほとんど何もないのです。それでほんとうは、反動の責任は、他の人にではなく、自分自身にかかっているのです。世界中での「グル(導師)」と彼らの体系の追求、あれこれについての最新の書物を読むことなどは、私には全く空しく、全く無効に見えます。というのは、あなたは地球中をさすらうとしても、自分自身に帰って来なければならないからです。そして、私たちのほとんどは、総合的に自分自身に気づいていないので、自分たちの考えること、感じること、行うことの過程を、明確に見はじめることは、極めて難しいのです。
 あなたは自分自身を知れば知るほど、明確になるのです。自己認識には終わりがありません−あなたは達成に至りません。あなたは結論に至りません。それは終わりのない川です。それを学ぶにつれ、それにますます入って行くにつれて、平和を見つけるのです。精神が平静であるときだけ−課された自己修練をとおしてではなく、自己認識をとおして−そのときだけ、その平静さに、その静けさに、真実が生じうるのです。至福がありうるのは、創造的行動がありうるのは、そのときだけです。そして、この理解なしに、この経験なしに、たんに書物を読むこと、講話に出席すること、宣伝をすることは、あまりに幼稚である−あまり意味のないただの活動であるように、私には見えます。ところが、自分自身を理解し、それによりあの創造的幸せ、あの何か精神のものではないものの経験をもたらすことができるなら、そのときおそらく、私たちのまわりの即時の [・当面の] 関係に、そのため私たちの生きている世界に、変化がありうるのです。


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