『宝徳蔵般若経』


チベット語訳からの翻訳である。〔〕の中は理解のために他の註釈を参照して今回翻訳者が補足したものである

本文和訳

〔経典の名は、〕インドの言語で AArya-prajn~aa-paaramitaa-sam.caya-gaathaa. チベットの言語で'Phags pa Shes rab kyi pha rol tu phyin pa sDud pa thigs su bcad pa〔聖般若波羅蜜摂頌〕
〔翻訳者の礼拝、〕聖者文殊師利に帰命します。

序分
v.1)〔広・中・略の般若波羅蜜を広説なさったのに続いて、〕それからまた世尊は、〔王舎城の霊鷲山において〕彼ら四衆〔比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷および菩薩衆〕を正しく歓喜させんがために、またこの般若波羅蜜〔・智恵の完成〕を説き〔たいと決意なさって〕、そのときこれら偈頌を宣べられた。

第1章 一切相智性への発趣
v.1)最上の歓喜と尊敬と浄信を確立して、〔所知などの〕障、煩悩〔障〕を除去して〔所対治分の〕垢を越えて、〔世の〕衆生の利益に現に発趣した善良な者〔・菩薩〕の般若波羅蜜 − それを勇者たちが行ずるのを、聞くべきである。
v.2)〔例えば、娑婆世界の〕このジャムブ洲に〔、南へ流れるガンジスなど〕あらゆる河が流れて、花・実をつけた薬と森を生じさせる。無熱池に住する〔菩薩の化身の〕龍王、龍の主が拠って住している処 − それは、かの龍王の威力、吉祥である。
v.3)〔同じく〕勝者の声聞たちが、およそ法を説くのと、説明するのと正理をそなえて述べるのと、
最上の勝れたもの〔たる仏〕、安楽にするもの〔の方便〕とそれの果を得る − それらすべてもまた、如来という士夫の威力である。
v.4)なぜかというと、勝者が法の理趣を説かれたもの − それを、最上の人の弟子となった者は現に学ぶし、現前にしてから学んだとおりに説くのは、仏陀の威力により為されるが、自力の威力によってではない。
v.5)〔勝義として、行じられるものである〕最上の般若波羅蜜を認得しないし、〔行ずる者である〕菩薩を認得しないし、〔行ずるものである〕菩提心を認得しない〔、すべて自性により空である〕 − そういうことを聞いて迷わないし、怖れない − その菩薩が、善逝の般若〔・智恵〕を行ずる。
v.6)〔勝義として五蘊の〕色なく受なく想、思〔すなわち行〕なく、識が住することは微塵もない。彼は一切法に〔諦執により〕住しない。住すること無く行ずる。摂取することなく、諸々の善逝の正覚を得る。
v.7)遊行者シュレーニカが、智により認得することがなく、蘊が滅するし生ずるように、菩薩 − そのように法を知り、涅槃〔たる寂静の辺〕に触れない者 − 彼は、般若〔・智恵〕に住している。
v.8)またこの者は、「この般若は何なのか、誰のものなのか、何からであるのか」といって、この〔蘊など〕一切法は〔自性により〕空だと観察する。観察してから〔虚無だという〕萎縮がないし、怖れがない。かの菩薩は正覚に近いのである。
v.9)もし、〔諦空の理趣を〕知らないままに、色・想・受・思〔すなわち行〕・識の蘊を〔諦執により〕行ずるならば、「この蘊は空だ」と分別しても、菩薩は〔諦執の〕相を行じて、〔勝義として〕無生の処を信ずるわけではない。
v.10)〔勝義として〕色を行じない、受を行じない、想・思を行じない、識を行じない、〔何にも〕住することなく〔ただ言説として〕行ずる者 − 彼は、「行ずる」ということを認得しないし、般若〔・智恵〕が堅固である。無生の知を持つ者は、寂静であり最上である等持(三昧)に触れる。
v.11)菩薩 − そのようにここに自己が寂静に住する者 − 彼は、昔の仏により〔正覚へ〕授記されたものである。「私は等至〔に入定〕した」とか「〔等至から〕立った」という〔諦執による〕慢心が無い。なぜかというと、〔蘊など一切〕法の〔、勝義として空たる〕自性を遍知し〔、心一境に専注し〕ているからである。
v.12)そのように行ずるなら、諸々の善逝の〔説かれた〕智恵を行ずる。彼は〔諦執による〕行無きことが行であるとよく知っているから、およそ行ずる法 − それをもまた、〔勝義として〕認得することにならない。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
v.13)〔諦として現れるように〕有るのではないもの − それは、〔諦として〕無いというべきである。幼稚な者〔、凡夫〕たちはそれ〔ら所取の法〕を分別し、有る・無いとなす。〔諦として〕有る・〔言説としても〕無いのこの二つ〔の辺〕は、無い法である。菩薩〔すなわち〕これを知り〔輪廻から〕出離する者、
v.14)ここに五蘊を〔現れるが無い〕幻のようだと知るし、幻は他で、蘊は他だとしない、〔諦だと思い込む〕種々の想いを離れていて、寂静を行ずる者 − これが、〔道である〕最上の般若波羅蜜を行ずるのである。
v.15)善知識を持って〔止住と〕勝観〔の双運〕をそなえた者は、勝者たちの母〔・般若波羅蜜〕を聞いて、怖れは無いであろう。悪友を持って他者に頼る者 − 彼は〔この空性を聞く器ではない。例えば〕、水が触れた焼いていない器が壊れるようなもの〔である〕。
v.16)なぜこれは菩薩というのかというと、〔二障の〕執着を断つもの、すべてへの〔諦執による〕執着を尽きさせたいと欲する〔から〕。
諸々の勝者の無執着な正覚に触れる。よって、これは「菩薩」という名を得る。
v.17)なぜ彼を大薩?〔・摩訶薩〕というのかというと、有情の大衆の〔中で〕最上の者となっている。有情界の大きな〔誤った〕見を断つ。ゆえに、「大薩?」と呼ばれる。
v.18)大きな施と大きな知と大きな威力と、諸々の勝者の最上の大乗〔の道 − 六波羅蜜〕に〔入った、〕発趣したことと、〔所対治分に負けないために〕大なる鎧を被って、魔の誑かしを降伏する。ゆえに「大薩?」と呼ばれる。
v.19)例えば、幻術師が四つ辻に化作をして、大衆の幾千万(コーティ)の頭を斬るが、〔実は一人も殺されていない。〕それら殺される者のように、〔同じく、世の〕衆生すべては化作に似ていることを、菩薩は知っている。彼に怖れは無い。
v.20)色・想・受・思〔すなわち行〕・識は〔勝義として〕繋縛されていないし、解脱していない。有るのではない。そのように正覚に発趣して〔・入って、虚無に〕萎縮する心が無い。これが勝れた人たちの最上の鎧である。
v.21)なぜこれは菩薩の大乗というのかというと、彼はそれに乗って一切有情を〔無住〕涅槃させる − この乗は〔広大であり、〕虚空と似ていて、大きな無量宮。〔次第に当面と究竟の〕歓喜、幸福、安楽を現に得させる最上の乗〔である〕。
v.22)それに乗って各方へ往くもの〔、道または歓喜地などの菩薩〕は、不可得である。涅槃に往くと説かれているのは、〔勝義として〕往くことは認得されない。例えば、火が滅して、その火が去るべき〔方向〕は無いように、その因〔・理由〕により、〔障を断じた〕それは〔言説として〕「涅槃」と呼ばれる。
v.23)〔勝義として〕菩薩は前の辺際〔の因〕と後の辺際〔の果〕と現在〔の自体〕において認得されない。〔よって、自性により〕三世〔の諸法〕は清浄である。清浄であるものは、無為であり、〔分別の〕戯論が無い。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
v.24)〔善巧な〕賢者で了知する菩薩は〔清浄な地を得た〕或るとき、〔一切法の〕無生を思惟してこのように行ずるし、〔一切有情へ〕大悲を生じさせるが、〔諦として〕有情との想いが無い。これが最上の般若波羅蜜の行である。
v.25)もし、〔諦として〕有情との想い、苦との想いを生じさせて、「〔世の〕衆生の利益を為そう、苦を捨てよう」といって我と有情を妄分別するその菩薩 − これは、最上の般若波羅蜜を行ずるものではない。
v.26)〔五蘊に仮設されただけで自性空である〕我のように一切有情を知る。一切有情のように〔内外の〕一切法を知る。〔勝義としての〕無生と〔言説としての〕生との両者として分別しない。これが最上の般若波羅蜜を行ずることである。
v.27)諸世間に〔「これは色」などと〕あるかぎりの法の名を述べたすべてについて、生と正しき超越〔・滅との諦執〕とを捨てて、無死〔・甘露〕であり勝れたもの、それより他の無い智慧を、得た。ゆえに、これは「般若波羅蜜」という。
v.28)菩薩 − 疑いがなくそのように行じて智恵〔の波羅蜜〕を持った彼は、〔輪廻と涅槃の一切法の〕平等性に住することを、知るべきである。諸法は無自性であると遍知している。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。

第2章 帝釈(シャクラ)
v.1)〔菩薩は、諦執により〕色に住しない、受に住しない、想に住しない、思に住しない、識にも住しない。〔諦空だと証得して〕法性に住する者 − これが、最上の般若波羅蜜を行ずるのである。
v.2)〔苦諦に関して〕常と無常、楽と苦、浄と不浄、我と無我、〔他の諦の〕真如と同じく空、果〔の滅諦〕を得ることと阿羅漢の地に〔諦執により〕住しないし、独覚の地と同じく仏の地に〔さえも〕住しない。
v.3)導師〔である仏陀〕は無為界に住しないし、同じく有為〔界〕にもまた住しないし、無住を行ずる。そのように菩薩は〔諦執により所縁の〕住に住すること無く住する。住すること無き〔方軌による〕住である − これが住することだと、勝者は説かれた。
v.4)善逝の声聞になろう、独覚と同じく法王〔、仏陀〕になろうと欲する者たちは、〔法を決定する〕この忍に依らなくては、〔輪廻の海に墜ちて〕得ることができない。例えば、〔海に墜ちた者が、海の〕彼岸、此岸に往く渡し場が見えないのと同じ。
v.5)法を講説することと聞くことと説明されることなるものと、〔声聞の〕果を得た者と縁覚、同じく世間の主〔たる仏など〕、賢者、明晰な者により得られた涅槃なるもの − それのすべては、〔勝義として無く〕幻のようなものだと、如来は教えた。
v.6)〔一切法空を聞いて小知の者は恐れるが、〕これら四人はそれを怖れない − 〔すなわち、〕1)勝者の子〔・菩薩〕の、〔二〕諦に善巧であるもの、2)不退転の者、3)垢を除いて迷いを断じた阿羅漢、第四は善知識により摂取された者〔である〕。
v.7)そのように行ずる賢明な菩薩は、〔声聞の〕阿羅漢の地について学ばない。縁覚の地について学ばない。一切智性を期して仏法を学ぶ。〔二乗の道を〕学ぶのと学ばないのとについて学ばない者 − 彼が、学ぶのである。
v.8)色の増加・減少・摂取のために〔学ぶの〕ではない。〔さらに他の〕種々なる諸法を摂取するために学ばなくて、学んで一切智性をもまた摂取し、出離する − これが、功徳に歓喜する〔者の〕学び〔である〕。
v.9)色は〔空を悟る智恵・〕般若ではない。色に般若は無い。識・想・受・思〔すなわち行〕これらは般若ではない。これらにもまた般若は無い。これは虚空界と等しくて、別異が無い。
v.10)諸々の所縁の自性 − それは、辺際が無い。有情の自性なるもの − それもまた、辺際が無い。虚空界の自性 − それもまた、辺際が無い。〔世間を知る者・〕世間解の般若それも、辺際が無い。
v.11)「〔諦としての〕想は此岸である」と導師は宣説なさった。想を滅してから断じて彼岸に往く、想を遠離した者 − これは、随得する。彼らは〔証得の円満の〕彼岸に渡って〔、波羅蜜を得て〕から、教主の聖教〔どおりの修証〕に住する。
v.12)もし、教主もまたガンジスの砂ほどの〔無数の〕劫の間、住しておられて、「有情」という声を宣説なさっても、〔有情たちは〕本来清浄であるから、〔勝義として〕有情がどこに生ずることになろうか〔、生じないと知ること〕 − これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
v.13)「〔無量の過去世において〕私がこの最上の般若波羅蜜に順じて語る者であったそのとき、かつての最上士〔たる燃燈仏〕により、「未来世に〔おまえは〕仏になるであろう」と、私は授記された」と、勝者〔、釈迦牟尼〕はそう説かれた。

第3章 「波羅蜜の無量の功徳を受持することと塔廟に恭敬すること」
v.1)〔世間の〕主が〔それを〕行ずる般若波羅蜜これを尊敬し受持し了解する者〔 − 菩薩の〕彼を、〔外の〕毒と武器と火と水は害しない。魔と魔族は隙をもまた得ることにならない。、
v.2)或る者が、善逝が般涅槃なさった〔仏舎利を内蔵した〕塔廟を、〔金、銀、珊瑚、真珠など〕七宝から造って供養するし、ガンジスの砂ほど〔無数〕の善逝の仏塔それらにより、千の千万(コーティ)の国土を満たした。
v.3)観察し摂取した無辺の千万(コーティ)の諸国土に居るだけの有情彼らすべてが、他の作業を為さず、天の勝れた華、香と香油により、〔一日に朝、昼、夕の〕三時、劫またはそれ以上に供養する〔なら、福徳は大きい〕。
v.4)〔しかし、〕そこから十力の導師が生起することになる〔ところの〕善逝の母〔たる般若波羅蜜〕これを、経函に書写し、〔典籍と義を〕受持し、華・香油により恭敬したならば、〔先の〕塔廟を造って供養した福徳それは、一分にも及ばない。
v.5)勝者の般若波羅蜜これは大明呪。多くの有情界の〔愛別離など〕愁い、〔五取蘊など〕苦の法を〔すべて〕寂滅させる。およそ過去と〔現在の〕十方の世間の主たちは、この明呪を学んで、〔苦の病を鎮める〕無上の医王となった。
v.6)〔他者への〕利益と悲?×をもつことにより〔施しなどの〕行を行ずる者 − この明呪を学んでから、善巧である〔賢〕者は、正覚に触れる〔、得るであろう〕。〔天など有漏の〕有為の安楽と〔阿羅漢など無漏の〕無為の安楽なるもの − それら安楽すべては、これ〔般若波羅蜜の修証〕から生起したことを、知るべきである。
v.7)〔一つの〕種子は蒔かれてから、地に住するし、〔次第に〕生起することになる。〔因縁の〕集積を得てから、多種多様な色(しき)〔の果〕が生ずる。〔同じく施しなど〕五波羅蜜、〔力などの〕正覚の功徳のあらゆるもの − それらすべてもまた、般若波羅蜜〔の修証〕から生ずる。
v.8)転輪王がどの道から常に往くのか − その道こそから、〔彼の輪宝など〕七宝と軍勢すべては〔往く〕。〔同じく、〕勝者のこの般若波羅蜜がどこから往くのか − まさにそこから、〔大乗の〕功徳の法すべてが往くことになる。

第4章 功徳を述べる
v.1)勝者により質問をされて、帝釈天は答えを申し上げる − 「もし、ガンジスの砂ほど〔無数〕の仏国土において、そのすべてが勝者の〔仏〕舎利によりいっぱいに満たされても、〔それと般若波羅蜜との二つのうちで〕私はこの般若波羅蜜こそを受けとります。
v.2)なぜかというと、私は仏舎利を敬わないわけではありません。けれども、〔菩薩が〕般若波羅蜜を完全に薫習〔して成仏〕したことにより、〔仏舎利を〕供養します。例えば、国王に依る〔大臣などの〕人が〔他者による〕奉事を得るように、仏舎利は般若波羅蜜に依る。
v.3)〔また例えば、〕すべての功徳をそなえた無価の〔、価格を付けられない如意〕宝珠が、置かれた函それは、礼拝するにふさわしい。それ〔宝珠〕を出しても、函に対して歓喜する。それら功徳は宝珠の〔もの〕である。
v.4)同じく、最上の般若波羅蜜の功徳により、勝者が涅槃しても、舎利は供養を得る。よって、勝者の功徳を受持しようとする〔菩薩 − 〕彼は、〔書写、読誦や聞思修により〕般若波羅蜜を受けとるべきである。これが〔害・業と煩悩すべてからの〕解脱である。
v.5)〔六波羅蜜のうち、〕施しを施すことに〔因として〕先行するのが、般若〔・智恵〕である。戒・忍・精進・静慮も同様である。〔施しなどの〕善の法を損耗させないために〔正覚を廻向し、不可得として〕摂取するのである。これは〔発心などの〕一切諸法の一理趣を示す〔ものである〕。
v.6)例えば、〔この南〕ジャムブ洲に千の千万(コーティ)の種々の多様な樹の多くの色は、〔それらの〕陰たるものの数を述べる以外に、種々の〔色の〕陰は無いし、差別が有るわけではない。
v.7)同じく勝者の〔施・戒・忍・精進・静慮の〕五波羅蜜これらもまた、〔自体と作業は別であっても、般若波羅蜜に支えられたとき、〕般若波羅蜜の名こそを得ることになる。一切智性の〔獲得〕ために廻向されたなら、「〔仏の〕正覚〔へ行く道〕」という。この六つすべては、一つの味〔の自体と作業〕になる。

第5章 功徳
v.1)菩薩がもし、〔諸法は無自性だと〕よく知らないままに、色・想・受・思・識は無常であると説示するなら、贋物を行ずる。〔善巧な〕賢者はけっして〔、有自性だと取らえてから「無常」だといって〕諸法を滅させない。
v.2)そこに〔等至したなら、自性により〕色を縁じない、受を縁じない、想を縁じない、識を縁じない、思を縁じない〔・認得しない〕。〔蘊などの〕一切法は〔勝義として〕生無く空の理趣だと知る。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
v.3)〔例えば、〕或る者が、ガンジス河の砂ほど〔無数〕の仏国土に居るだけの有情すべてを、〔煩悩を断った声聞・独覚の〕阿羅漢に調伏し〔て果を得させ〕たこと〔は、福徳が大きい。しかし、それ〕より、この般若波羅蜜を書写して、最上の有情〔たる菩薩〕に経函を施した〔ならば、その〕福徳は、殊更に勝っている。
v.4)なぜかというと、彼ら最上の〔法を〕説く者〔・仏陀〕はこれを学んでから〔仏となり〕、一切法は〔自性により〕空であるとここ〔『般若波羅蜜経』〕に説く。それを聞いて、〔教化対象者たちのうち、〕声聞〔の種姓の者〕は速やかに解脱に触れる。〔独覚の種姓の者は〕縁覚の正覚と、〔菩薩の種姓の者は〕仏陀の正覚に触れる〔、得る〕。
v.5)〔例えば、種子から生じた〕芽が無くては、世間に幹の生起は有ることがない〔。それ〕なら、それに枝葉・華・果がなぜ生起するであろうか。〔同じく、〕菩提心が無くては勝者の出現は世間に無い〔。それ〕なら、果・帝釈天・梵天・声聞がなぜ生起するであろうか。
v.6)〔例えば、虚空に〕日輪がいつか光の網を放つ〔て昇る。〕そのとき、有情は〔各自の〕作業に勤める。同じく、〔取捨の処を努力なく明らかにできる〕賢者の智ゆえに世間に菩提心が生起したなら、〔彼の〕智慧により有情は、功徳の法を持つ。
v.7)例えば、無熱池に龍王がいないなら、このジャムブ洲に河がなぜ流れるであろうか。河が無いなら、華・果は生起することにならない。海にもまた多くの色の宝珠は無いことになる。
v.8)同じくここにもまた、菩提心が無くては、善逝の智慧がこれら世間すべてになぜ生起するであろうか。智慧が無いなら、功徳の増長は無いし、正覚は無いし、海に似た仏法ももまた無いことになる。
v.9)この世間において、あらゆる照明するもの〔・星〕、生き物〔・蛍など各自〕すべてが照明するために光を発したのより、日輪が一つの光を発したのは、はるかに勝っている。〔他の〕照明するものの集まりの光すべてによっては、〔太陽の光の〕一分にも及ばない。

第6章 随喜廻向
v.1)声聞衆がおよそ施しと戒と修習とに相応した福徳の資糧を生じさせたのも、菩薩が随喜する心一つ〔のときの福徳〕に対して、声聞衆の福徳の蘊は一分にも及ばない。
v.2)過去世のかつての千万(コーティ)の億(ナユタ)の諸仏、〔現在〕多くの無辺の幾千の千万(コーティ)の国土に住しておられるのと、また涅槃した〔さまを示した〕のとの世間の主たちは、〔衆生の〕苦を尽きさせるために宝の法を説く。
v.3)最初の最上の正覚への発心を生じさせてから、〔仏が示寂し、彼ら〕導師たちの正法が尽きるとき〔まで〕のその間に、彼ら勝者の福徳なるものは、〔因の位の〕波羅蜜と相応し、〔果の位の〕仏法なるものと、
v.4)また仏子〔、菩薩〕たちと声聞と有学と無学〔の者たち〕の〔生じさせられた〕有漏・無漏の善をまとめてから、菩薩は随喜するし、〔その善を尽きさせないよう、世の〕衆生〔の利益〕のための因〔、すなわち無上の〕正覚の〔逮得の〕ために、すべてを廻向する。
v.5)〔そのように全面的に〕廻向する者が、もし〔諦として、廻向をする〕心との想いが生起することになるし、〔その対境の〕正覚と想い、〔その利益のために〕廻向される有情と想うのなら、想いのゆえに〔有身見または諦執の〕見に住する心は、〔作業と作者と所作の〕三〔輪の実在〕に執着する。〔諦執による〕所縁が有るので、〔全面的な〕廻向に入ったわけではない。
v.6)もし、このように〔勝義として、廻向されるべき〕この法が滅していて尽きたことと、どこに廻向されるかのそれ〔、仏の正覚〕もまた尽きたことと、〔言説として以外、〕法により法へけっして廻向しないことを知っているなら、そのようによく知〔って、空性から廻向す〕る者は、〔全面的に〕廻向したのである。
v.7)もし〔三輪について諦だと思い込んで〕相だと為すならば、それは〔清浄な〕廻向ではない。無相であるなら、正覚に廻向するのである。〔例えば、〕毒と混ざった良い食べ物を食べる〔なら、害と益が生ずる〕。白の法を〔三輪に認得する、〕縁ずることも、それに似ていると、勝者は説かれた。
v.8)ゆえに、このように廻向することを学ぶべきである − すなわち、〔三世の〕彼ら勝者が〔自他の〕善それを知る〔知の〕行相なるもの、〔空なる果が〕生起する相なるもの〔を現前に見て、それ〕に随喜し〔、廻向なさる〕 − そのとおりに廻向すべきである。
v.9)そのように〔諦空であり幻のように〕福徳を正覚に廻向するのなら、毒が無い。仏陀を捨てないし、勝者が説かれたことを語る。そのように廻向する勇者〔、菩薩〕は〔、無量の福徳を摂取するから〕、世間の有所得のあらゆる菩薩すべてを、圧倒する。

第7章 地獄
v.1)導き手が無い千万の億(コーティ・ナユタ)の生来の盲人たちは、〔都に行きたいとしても〕道をもまた知らなくて、都城になぜ入ることになるのか。〔同じく〕般若〔・智恵による支え〕が無いなら、眼の無いこの〔布施などの〕五つの波羅蜜は、導き手が無いので、〔仏の〕正覚に触れる〔、得る〕ことができない。
v.2)〔いつか〕智恵により良く支えられた〔なら、〕そのとき、〔この五波羅蜜は〕眼を得たし、この〔波羅蜜の〕名を得る。例えば、〔天、人などの〕絵を描く〔他の〕作業が完了したが、眼のないものは、眼を描いていないかぎり、〔完成していないので、〕褒美を得ないように。
v.3)〔いつか〕有為・無為〔の法〕と黒・白の法が、〔勝義を伺察する〕智恵により滅していてから塵ほども縁じられない〔、認得されないと現証した〕とき、諸々の世間において般若波羅蜜(智恵の完成)〔と呼ばれるもの〕の数に入る。〔例えば、〕虚空は〔、障碍の所触を断じたのへ設定した以外、自力では〕どこにも少しも住していない、そのようなものである。
v.4)もしも、「私は勝者の〔般若・〕智恵を行じよう。〔生などの〕苦に触れている幾億(ナユタ)の有情を済度しよう」といって、〔諦として〕有情だと想い、妄分別する菩薩 − これは、最上の般若波羅蜜を行ずるものではない。
v.5)或る菩薩が、かつて行を行ずるとき、この波羅蜜を行じて、〔方便に善巧で〕賢明であり、〔この般若波羅蜜について〕惑いが無い − 聞いた直後に、それにより教主だとの想いを生ずる。それにより速やかに寂静なる〔仏陀の〕正覚を証得するであろう。
v.6)かつて行ずるときに、億(ナユタ)の仏陀に侍奉し〔、僧伽などその眷属に奉施し〕ても、勝者の般若波羅蜜を浄信しないなら、聞いてから智恵が小さい彼は、これを捨てる。捨ててから、帰依処が無くなった彼は、無間地獄に往く。
v.7)よって、もし仏の最上の智慧に触れたいと欲するのなら、この勝者の母を浄信すべきである。例えば、商人が宝の島へ渡ってから、〔自己の〕品物が尽きて〔宝を得ずに空手で〕再び戻るようなことになってはいけない。

第8章 清浄
v.1)色〔など五蘊の自性によって〕の清浄は、〔沙門果の各本分の垢についての〕果の清浄と知るべきである。果の〔各本分の垢たる諦執を対治分により断じた〕色の清浄であり、一切智性〔までの〕の清浄になる。一切智性は果の清浄と色の清浄であり、〔世俗として区別が説かれる以外、〕虚空界と等しい。無差別であり、断絶が無い。
v.2)勇者は行ずる般若波羅蜜〔、無住の道智〕により、三界を正しく越えたが、〔ただ業・煩悩から〕解脱したわけでもない。〔なぜなら、〕煩悩を〔断じて〕除去したが、〔悲と誓願の力により欲界、色界への〕生を示す。〔勝義として、業・煩悩による〕老と病と死は無いが、死去することを示す。
v.3)これら〔世の〕衆生は名と色の泥へ〔諦執により〕執着し、〔それにより業を積んで〕風輪のような輪廻の輪に彷徨う。〔世の〕衆生の錯乱は、鹿が罠にはまったのに似ていると知ってから、
〔菩薩、すなわち般若・〕智恵を持つ者は、虚空に鳥の〔行動する〕ように、〔輪廻に〕行動する〔が、過失に染まらない〕。
v.4)行が全く清浄である − 〔諦の思い込みにより〕色を行じないし、識・想・受・思〔すなわち行〕を行じないなら、そのように行ずる者は、〔諦の思い込みによる〕執着すべてを全く断ずるし、執着から解脱し、諸々の善逝の〔般若・〕智恵を行ずる。

第9章 賞讃
v.1)そのように行ずる善巧〔な賢者〕であり明晰である菩薩は、〔諦の思い込みによる〕執着を断ってから解脱し、無執着〔な円満な正覚〕に往く。〔例えば、〕太陽が〔日蝕のときの阿修羅〕ラーフの蝕を離れて、〔闇を破って〕煌々としているのと、火が放たれた草と木と森が焼かれるのと同じ。
v.2)一切諸法は自性〔により〕清浄であるし、全く清浄であると、菩薩が般若波羅蜜を見るなら、作者をも認得しないし、一切諸法をも認得しない〔と現証する〕。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。

第10章 功徳の摂取を述べる
v.1)勝者〔・世尊〕に対して〔神々の王、〕帝釈天は問うた − 菩薩は〔仏を得るために、智恵・〕般若を行ずることにどのように精進するのでしょうか。〔答えとして仏陀は宣べられた − 勝義として〕蘊・界に塵ほども精進をしないし、蘊に精進しない − それが、菩薩の精進である。
v.2)〔色など〕この法は〔自性により空であり、〕化作と幻術と似ていると聞いてから、惑いがないし、学ぶことに繰り返し加行する − その有情は、永らく大乗に発趣していると、知るべきである。〔彼は過去の〕多くの千万億(コーティ・ナユタ)の諸仏に対して特別に為したのである。
v.3)〔例えば、〕荒野の道の多くの由旬(ヨージャナ)に入っ〔て、往っ〕た人が、牛飼い、境目の森の円満が見えたなら、これらは村、都市が近いしるしだと思う。安息を得たし、盗賊の怖れは無い。
v.4)同じく、〔仏の〕正覚を求めたとき、諸々の勝者のこの般若波羅蜜を聞くこと〔、修習すること〕を得た者 − 彼は、〔今や正覚に近い、と〕安息を得たし、〔劣った道に墜ちるなどの〕怖れは無い。阿羅漢の地に〔墜ちるもの〕ではないし、縁覚の地に〔墜ちるもの〕ではない。
v.5)〔また例えば、〕或る人 − 海の水を見るために往く者が、もし〔前方に〕樹と森、山が見えるなら、今なお遠い。もし、〔それら〕しるしが見えないなら、「大きな海が近くなった」と思う。それに迷いはない。
v.6)そのように勝れた正覚へ出発し、勝者のこの般若波羅蜜を聞く者は知るべきである − 「導師〔・仏陀〕により現前に授記されていなくても、私は長くかからずに仏陀の正覚〔の法身〕に触れる〔、得る〕であろう」と。
v.7)〔また例えば、〕よき春の季節に茎・葉が出てきたなら、枝は長くかからずに葉・果・花を生じさせる。〔同じく〕般若波羅蜜これが、誰かの手に得られたなら、〔その人は〕長くかからずに、諸々の導師の正覚〔の受用身〕を得る。
v.8)例えば、身重の女が〔陣痛の〕苦を被ったなら、それはその出産の時に至ったという。同じく、菩薩 − 勝者の般若を聞き、歓喜と〔意〕欲〔・願楽〕を生じさせた者は、速やかに正覚〔の変化身〕に触れる。
v.9)最上の般若波羅蜜を行ずるとき、ヨーガ行者は、〔勝義として〕色〔など諸法〕の増加と減少を見ない。法と非法、法界を見ないし、〔寂静の辺たる〕涅槃に触れない者 − 彼は、般若〔の修証〕に住している。
v.10)これを行じて、〔諦として因と果または証得と断除の〕諸々の仏法を分別しない、力と神足、正覚、寂静を分別しない。無分別であり、分別を離れていて、〔仏の〕加持により行ずる者 − これが、最上の般若波羅蜜を行ずるものである。

第11章 魔の業
v.1)説者の月〔のような〕仏陀に対して、〔上座〕スブーティは訊ねた − 功徳を喜ぶ者たち〔にとって行〕の妨害は何でしょうか。教主は宣べられた − 妨害になるものは多い。そのうち、まずほんのわずかを述べよう。
v.2)勝者のこの般若波羅蜜を書写〔し、作意〕するとき、多種多様な聡知が生起するであろうし、〔自己と世の〕衆生の利益を為していなくて、雷光のように速やかに〔堅固でなく〕全く損なわれることになる。これは魔の仕業である。
v.3)〔般若波羅蜜〕これを説明するときに、或る者は迷いを抱くであろう − 「導師はここに私の名をもまた述べられない。〔私の〕種姓と〔居住〕地と私の姓をもまた述べられない」と。彼は〔般若波羅蜜を〕聞くことにならず、棄てるであろう − 〔それは、〕魔の仕業である。
v.4)〔ここに仏になる方便が善説されているのに、〕そのように知らない彼らは、根本を放棄してから、愚かさにより、枝葉〔のような小乗の経のみ〕を求めるであろう。〔例えば、〕象を得たのに〔それを捨ててから、〕象の足跡を探すように、般若波羅蜜を聞いて〔から捨てて、声聞乗に相応した〕経を求めるのは同様である。
v.5)例えば、或る者が百の味をもった食べ物を得たが、〔その〕最上の食べ物を得てから悪い食べ物〔である六十日米〕を求めるように、菩薩がこの〔仏母般若〕波羅蜜を得てから〔捨てて、小乗の〕阿羅漢地の正覚を求めることは同様である。
v.6)〔或る者は、他者による〕奉事を欲するであろうし、利得を欲するであろうし、〔期待して〕見ることをもった心により、在家との付き合いを持つし、〔善の〕法を棄ててから、非法の行いを行ずるであろう。〔善の〕道を棄てて、誤った道に往く − これは、魔の仕業である。
v.7)そのときに〔願楽し・〕欲し、浄信してから、この勝れた〔正〕法を聞きに往ったことから、彼らは説法する者が〔他の多くの〕為すべきことを持っていると知って、喜びが無いし、愁いて去る。
v.8)そのときにこの魔の業が生起するであろう。そのとき、それにより、多くの比丘を〔も〕攪乱してから、この般若波羅蜜を受持することにならない〔ところの〕他の多くの種類の妨害もまた、生起するであろう。
v.9)無価の宝珠を得た者たち − 彼らは貴重なものについていつの時も常に困難も多い。同じく勝者の最上の般若波羅蜜〔という〕宝の法もまた貴重であり、〔それを聞いて修習する人には〕常に困難も多い。
v.10)新たに〔大〕乗に〔入った・〕発趣した知慧の小さな有情 − 貴重なこの宝を〔求めて〕得ていない者 − 彼を、妨害するために、魔は悦ぶであろう。〔けれども、〕十方の諸仏は〔仏母を求める〕彼らを摂取し、行動する。

第12章 世間の説示
v.1)或る母が病んでいるのへ、多くの子がある。彼らはみな愁いて、彼女〔を看病するため〕に恭侍する。同じく十方の世界の仏もまた、母となった勝れたこの般若波羅蜜について思惟なさる。
v.2)過去と十方現在の世間の主〔たち〕と、未来に生起するであろう彼らは、これ〔般若波羅蜜〕から生起する。〔この仏母は、〕世間を説示するもの、諸々の勝者の生母、他の有情の心の行を顕示するもの。
v.3)世間の〔有情の〕真如と阿羅漢の真如、独覚の真如と仏子の真如は、〔諦空であり、幻のように〕同一である。事物〔としての実在〕を離れていて、他でなく、如である。般若波羅蜜は如来により〔見られ、〕知られる。
v.4)賢者〔たる仏〕が世間に住していても涅槃していても、〔諸法の〕法性は〔変わる〕過失が無く、諸法は〔自性により〕空である − これは〔常に〕住している。菩薩はこの真如を証得する。ゆえに仏陀、如来と名づけられる。
v.5)般若波羅蜜の園に依る十力の諸々の導師の行境は、これである。〔これに依って〕有情を苦の三悪趣から救い出すが、彼らはけっして〔諦として〕有情だと想うことにならない。
v.6)例えば、獅子が〔山と城の〕山合に依って怖れがなく、多くの弱い獣を怖がらせるし、声を轟かすように、人の獅子〔たる仏陀〕は般若波羅蜜に依って、〔我見を持つ〕多くの外道者を怖がらせるし、世間に〔諦空の〕声をもまた轟かせる。
v.7)例えば、虚空に住する日〔輪〕の光は、この地を乾かすし、〔あらゆる事物の〕色をもまた示す。同じく法王は般若波羅蜜に依って、渇愛の河を乾かすし、法をもまたよく示す。
v.8)〔正理知にとって〕諸色は見えない、諸受も見えない、想は見えない、思〔すなわち行〕は見えない、〔そこに〕識・心・意は見えない − これが「法が見えることである」と、如来は説示された。
v.9)〔例えば、〕「虚空が見える」と、有情は言葉に述べる。「虚空はどのように見えるのか」とこの義を観察すべきである。そのように法が見えることをもまた、如来は説示された。

第13章 不可思議
v.1)見えることは、他の比喩でもって述べることができない。そのように見える彼〔、菩薩〕は法すべてが見える。〔例えば、〕国王は〔平静・〕捨でいるし、〔大臣など〕臣下がすべてを為すように、仏陀の行いと声聞の諸法のあらゆるものそれらはすべて、般若波羅蜜により為される。
v.2)〔例えば、〕国王は村に往かないし、地域に往かなくて、〔しかも〕自己の領土からの収入すべてを収めとる。菩薩の法性はどこにも往かないが、〔自己の道と〕仏地の功徳なるものすべてを収めとる。

第14章 比喩
v.1)善逝への堅固な浄信が有る菩薩は、最上の般若波羅蜜において思惟し行動する。声聞と独覚との二つの地をはるかに越えて、〔魔と外道者などにより〕圧倒されない勝者の〔殊勝な〕正覚を速やかに得る。
v.2)例えば、海に入る船が〔海で〕壊れてしまい、〔掴まるための〕死骸や草木を持たない〔、泳げない〕人は、水のただ中で破滅するであろう。岸に渡らないであろう。〔しかし、それらを〕持つ者は、海の彼岸に渡るであろう。
v.3)そのように浄信を持ち、澄浄〔のみ〕を得た者が、智恵の彼岸に渡る仏母〔般若波羅蜜〕に随わない − 彼は〔支えが無く、顛倒を断じないから、〕生・老・死・憂いの波が荒れたことにより、輪廻の海そこに常に輪廻するであろう。
v.4)最上の般若波羅蜜により摂取された〔・支えられた〕なら、事物の自性に賢明であり、勝義を説示する。彼らは〔菩提心と大悲と行など〕方便の福徳と智恵により摂取されたなら、最高に稀有な善逝の正覚に速やかに触れる。
v.5)例えば、或る者が〔火に入れて〕焼いていない陶土〔の器〕は水を〔入れて〕運ぶなら、脆いから速やかに壊れることを知るべきである。焼いた瓶に水を〔入れて〕運ぶのは、道において滅する怖れがないし、楽に家に至るであろう。
v.6)同じく菩薩は、浄信が多くなっていても、般若〔・智恵〕が損なわれたなら、速やかに〔輪廻の海や小乗の地に落ちて〕危なくなる。浄信によりその智恵が摂取された〔・支えられた〕なら、〔声聞・独覚の〕二つの地をはるかに越えて、最上の正覚を得るであろう。
v.7)例えば、修理がよくされていない船は、海の中で、財宝とともに商人とともに破滅するであろう。その船はよく修理されていて〔順風などを〕具えたなら、破滅せず、財宝とともに〔渡し場の〕岸に渡るであろう。
v.8)そのように菩薩は〔方便たる〕浄信により薫習しても、智恵が無いなら、〔無上の〕正覚から速やかに衰退する。同じものが最上の般若波羅蜜を具えたなら、傷つかないし、損なわれないで、勝者の正覚に触れるであろう。
v.9)百二十歳の老いて苦しむ人が立ち上がっても、自己は往くことができない。〔しかし、〕彼は左右両方から人々により仕えられたなら、倒れる怖れが無く、容易に往くであろう。
v.10)同じく、智恵の力が小さな菩薩は、〔大乗の道に〕よく発趣しても、途中で損なわれるであろう。同じ人が、最上の方便と般若により摂取された〔・支えられた〕なら、損なわれずに如来の正覚に触れるであろう。

第15章 天
v.1)初業者の地に住する〔凡夫の〕菩薩は、〔増上意楽・〕勝れた思惟により、最上の仏の正覚に発趣した〔・入った〕。師への尊敬を持った良き学徒 − 彼らは、諸々の賢者たる師に常に親近すべきである。
v.2)なぜかというと、賢者の功徳は彼〔への親近〕から生起する。彼ら〔善知識〕は般若波羅蜜を教授する。「諸々の仏法は〔師たる〕善知識に依る」と、最上の功徳すべてが在る勝者はそう説かれる。
v.3)「施し・戒・忍同じく精進・静慮・智恵を、〔空の智恵に支えられて、小乗の正覚に廻向せず、仏の〕正覚に廻向すべきである。〔得るべき〕正覚を〔諦として〕蘊として思い込んで、最上だと執らえることをしない」と、その初業者に対してそういうことを教えるべきである。
v.4)そのように行ずる者は善の海〔における〕の諸々の説く者の月、〔世の〕衆生の帰依処と援助者と住処である。所依と知恵と洲(しま)と導く者、目的、照明するもの、灯明、最上の法を説く者、動揺していない者である。
v.5)大いなる名声を持つ者たちは、〔有情利益の〕難行の〔ための精進の〕堅固な鎧を被る。〔自己の五〕蘊・〔十八〕界・〔十二〕処の鎧ではない。〔諦としての〕三乗の想いを離れているし、〔取捨の処について諦として〕摂取することが無い。
v.6)〔自利、利他の円満について〕不退転、不動であるし、動揺しない法〔・性質〕を持った者である。彼らはこのような法を持っているし、戯論が無い。疑い、迷い、惑いを離れているし、利益を具えている。般若波羅蜜を聞いてから、頑迷ではない。他者に信順せず、退転しないと知るべきである。
v.7)諸々の導師のこの法は、甚深である。見ることが難しい。〔声聞の〕誰も証悟することが無いし、得ることにならない。ゆえに、利益を為さる悲?×をもった者〔、世尊〕は、〔菩提道場において〕正覚を得られてから、〔教化対象者たる〕有情の衆〔は認得に諦執するから、彼ら〕の誰がこれを知るのかという躊躇をなさった。v.8)有情たちは〔諦執により〕住することを喜ぶし、諸々の対境を欲しがる。執に住して、賢明でなく、愚かであり、迷妄であり、闇のようである。得られるべき法は〔自性により〕住することが無く、執〔らえられること〕が無い。よって、世間の者たちと〔仏とには、我や諦成の有無について〕論争が生起するのである。

第16章 真如
v.1)〔例えば、〕虚空界は東方と南方と同じく西方と北方は辺際が無い。上と下と〔四維との〕十方のあらゆるものにも〔遍満して〕有る。〔十方にある諸法と〕別異が無いし、差別が無い。
v.2)〔同じく、〕過去の真如、未来の真如、現在の真如、阿羅漢の真如、一切法の真如なるものが、勝者の真如〔であり、諦空である〕。法の真如このすべては、差別が無い。
v.3)善逝の正覚 − 別異の法を離れたもの − これを、得たいと欲する菩薩は、〔浄信など〕方便を持つことにより、般若波羅蜜を行ずる。導師の般若〔・智恵〕が無いなら、〔方便のみでは仏の正覚を〕得ることにならない。
v.4)〔例えば、〕或る鳥は、身体が大きく百五十由旬(ヨージャナ)になったが、翼が尽きて、〔飛ぶ〕技能が無いのに、それが〔スメール山にある〕三十三〔天〕の住処からこのジャムブ洲へ自ら飛んだなら、そこにおいて損傷するのである。
v.5)〔同じく、〕諸々の勝者のこの〔施しなど〕五波羅蜜をもまた多くの千万億(コーティ・ナユタ)の劫に修証したし、〔誰か〕無辺で広大な誓願に世間で常に依っていても、〔両翼の一方のような〕方便〔の菩提心〕が無くて智恵を離れている者は、まさに声聞〔と独覚の道〕に転落する。
v.6)この仏の乗に出離したい欲する者は、〔世の〕衆生に対して〔平静な〕捨の心、父母との想い、利益する心、慈しむ意(こころ)でもって〔相続を〕調伏するし、〔怒りの〕粗暴が無いし、正直であり、妙なる言葉を語るべきである。

第17章 不退転の相
v.1)世間の主〔・仏陀〕に対して長老スブーティは訊ねた − 功徳の海の、煩悩の無いもの〔・菩薩〕のしるしを説いてください。威力の大きな者たちがどのように〔正等覚から〕退転しないのか。そのように〔その〕功徳の方向〔・分〕ほどをも、勝者は記別してください。
v.2)〔自他について〕別異の想いを離れていて、正理をそなえた言葉を語る。〔外道の〕他の沙門と婆羅門に依らない。〔取捨の処への〕善巧によりいつも常に三悪趣〔への生〕を捨てた。彼らは〔殺生など十悪業道を捨てた〕十善業道に精進する。
v.3)財物〔をほしがること〕なく、〔世の〕衆生に対して法を教授する。〔深い〕法をひとえに喜ぶし、〔慈により〕常に妙なる言葉を持つ。往く・歩む・臥す・坐わる〔の行儀〕において正知をよくそなえて、〔目先は〕軛ほどを見て往くし、心の錯乱が無い。
v.4)〔不善を捨てて意を〕浄らかにして〔身に〕清浄の衣をつけて、〔身語意の〕三つは空寂で浄らかである。利得を欲しがらないで、抜群な者は常に法を欲する。魔の境界を越えているし、他者に信順しない。〔色界の〕四静慮に静慮するが、その静慮〔の楽〕に〔執着して〕住しない。
v.5)名声を欲しがるのではなく、忿怒により心は纏われることがない。〔方便善巧により〕在家になったなら、常に事物すべてに執着しない。生活するために、危ないことにより受用〔すべき資財〕を求めない。〔度殺など〕暴虐を行ずる真言を行わない。女を結合させる真言を行わない。
v.6)欲の業を持つ者に、〔生まれる子どもが〕「男〔になる、〕または女になる」と予言しない。きわめて空寂なる最上の般若波羅蜜に精進する。〔他者との〕闘いと諍いを離れているし、〔有情に楽を与えたい〕慈心も堅固である。一切智を欲しがるし、常に教えに趣く心を持っている。
v.7)〔彼は〕辺境、野蛮人の辺地を捨てた。自己の〔不退転の〕地に疑いが無くて、常に〔不動であり、山の王、〕スメール山と似ている。法のために命をも捨てるし、ヨーガ行に精進する。不退転のしるしはこれらであると知るべきである。

第18章 空性
v.1)色と受と想と思と識は〔自性により空であり、〕甚深である。自性は無相であり、寂静である。例えば、〔或る人が矢を放って〕海において底を矢により探るように、般若〔・智恵〕により〔、勝義としての有無を〕観察したなら、蘊の底は得られない。
v.2)菩薩 − そのように甚深であるし、〔その大〕乗は勝義、無執着である。〔等至した〕そこに蘊と界と処は無い。〔現前に、勝義の〕この法を証得した者〔 − 彼にとって〕の〔大きな〕福徳が、正しく成立している。それより〔他に〕何があろうか。
v.3)例えば、愛欲の法を行ずる或る人が、女と〔会うことを〕約束したが、彼女と会わなかった。その一日〔にも、彼女が来るか来ないかと多くの〕心の分別を行ずるほどの〔多くの〕劫において、菩薩は〔福智の資糧を積んだことにより、仏の正覚を〕得るであろう。
v.4)〔或る〕菩薩が、幾千の千万(コーティ)の劫にわたって、〔声聞の〕阿羅漢、独覚に施与し、持戒〔など〕を為しても、〔或る菩薩が、〕最上の般若波羅蜜をそなえた法を述べることの善に対して、施しと戒〔などの福徳〕は一分にも及ばない。
v.5)〔或る〕菩薩が、〔等至においてこの勝れた般若・〕最上の智恵を修習した。それより立ってから〔後得において〕、〔自利の作意などによる〕汚染無き法を述べて、〔他者に教えたことの善〕それもまた〔世の〕衆生のために〔仏の〕正覚の因として廻向するなら、〔その功徳は無量となって、〕その善と等しいものは、〔地下、地上、地表の〕三世間に無い。
v.6)〔そのような〕福徳それもまた〔自性により空であり、夢幻のように〕虚ろである。同じく空と虚仮と空虚と無実であると知って、そのように諸々の善逝の智恵の行を行ずるなら、行ずるとき〔無漏の〕無量の福徳を摂取する。
v.7)仏陀が説明し、よく適用し、よく教えたこの法すべては、ただ〔言葉により〕述べたこと〔、仮設〕のみにすぎないと知るなら、多くの千万億(コーティ・ナユタ)の劫にわたって述べたとしても、〔真如として一味であり、勝義として空の〕法界に尽きたことは無いし、増えることは無い。
v.8)諸々の勝者たちの「波羅蜜」といわれるもの − それら諸法もまた、ただの名〔により仮設された〕のみだと宣説された。〔そのように行じた善根を、仏地へ全面的に〕廻向し、慢心の無い菩薩は、〔声聞乗、独覚乗に堕ちるなどへの〕衰退が無いし、仏の最上の正覚に触れるであろう。

第19章 ガンガ天女
v.1)〔例えば、灯明の、ゴマ〕油の芯が〔燃えて、炎が〕輝くのは、出会った最初〔のみ〕により、芯が燃えたわけではない。〔最初の炎〕それが無くても、それは燃えない。〔灯芯と〕炎が出会った最後〔のみ〕により芯が燃えたわけではない。炎の最後〔の刹那〕が無くて芯が燃えるわけではないように、
v.2)最初の〔刹那の菩提〕心〔のみ〕により、〔仏陀の〕最上の正覚に触れるわけではない。それが無くてもまた、それに触れることはできない。最後の〔刹那の菩提〕心〔のみ〕により、寂静の正覚を得るわけではない。それが無くてもまたも、それを得ることはできない。
v.3)〔例えば、〕種子から樹、花、果が生起する。それもまた〔前が〕滅して、〔後で〕樹もまた無いわけではないように、同じく最初の〔発〕心もまた正覚の因である。それもまた滅して、〔後で果の〕正覚が無いわけではない。
v.4)〔例えば、〕種子を得て〔地に蒔いて〕から麦、稲などは生起する。それの果〔の穀物〕は、それ〔種子〕に〔自性により〕有るわけではないし、〔全く〕無いわけでもない。〔同じく、〕諸々の勝者たちの正覚これは、〔自らの因により〕生起するであろう。事物の自性を離れているので、〔因縁の集積から〕幻術〔のようなもの〕が生起するであろう。
v.5)〔例えば、〕水の滴により瓶は最初・最後の間、次第に少しずつにより、それが全く満たされるように、同じく最初の心もまた最上の正覚の因〔である〕。〔それより〕次第に白の功徳が完成した正等覚者になる。
v.6)〔解脱門の〕空・無相・無願の法を行ずるし、〔悲により寂の辺の〕涅槃に触れず、〔智により有の辺の〕相を行じない。例えば、巧みな船乗りは〔海の〕あちらに往き、こちらに来るが、〔彼岸と此岸の〕二つの辺に住しないし、海〔の途中〕に住することが無いように。
v.7)そのように行ずる菩薩は、「私は十力〔の仏〕により授記された。正覚に触れるであろう」という慢心が無い。ここには「何も無い」といって正覚〔を得ることについて〕の怖れが無い。そのように行ずる者は、善逝の般若を行ずるのである。
v.8)世間は荒野の道と飢饉・疫病がともなうことが見えて〔も、それらによる〕怖れはないし、それから〔過失を治浄し、円浄な仏国土を成就するために〕鎧を着る。〔穢土の有情を捨てずに、利益するため〕後の辺際〔に至るまで〕に常に精進し、〔方便を〕よく知って、〔利他への〕厭離の意(こころ)は微塵も生じさせない。

第20章 方便善巧
v.1)菩薩は勝者の智恵〔・般若〕を行ずるし、これら〔色などの〕蘊は本来、空である、生が無いと知る。等至していない有情界に悲が起こる。その中間にもまた仏法から退失しない。
v.2)例えば、善巧な〔賢〕者 − 徳すべてをそなえ、力を持ち、敗れず、精進をし、〔世間の〕技芸の作法を知り、弓術と工芸の多くの完成〔・波羅蜜〕に至っていて、幻術の成就を知り、〔世の〕衆生の利益をきわめて欲している者は、
v.3)父と母と妻〔、息子と娘〕を合わせてすべて摂取してから、敵の多い荒野の道に至って、彼は〔敵を防ぐことに〕勇敢で剛毅であり、多くの人を化作した。〔それにより〕安楽に往ったし、再び家に戻って来るように、
v.4)同じくそのとき善巧な菩薩もまた、有情界すべてに大悲を生じさせるし、〔大慈により蘊魔・煩悩魔・天子魔・死魔の〕四魔と〔声聞と独覚の〕二つの地をもはるかに越えて、最上の等持(三昧)に住するし、〔しかも〕正覚〔の寂静界〕に触れない。
v.5)〔世間の成立にあたって〕虚空に風〔輪〕は依り、それに水〔輪〕の蘊は依る。それにこの大地〔輪〕は依り、それに〔この娑婆世界の四洲の〕衆生は依る。有情が業において受用することの因はそれと似ている。虚空に住している − この義を、思惟すべきである。
v.6)同じく菩薩は、〔虚空のような〕空性〔の等持〕に住し、〔輪廻の〕趣について有情〔の福分と思惟〕を知る誓願〔の加持〕を依処としたことにより、〔変化身により〕種々の多くの為すべきことを示すし、涅槃〔界の現証〕に触れない。空に〔常に〕住することが無い。
v.7)〔いつか〕善巧〔な賢者〕、明晰である菩薩は、空性の寂静な〔健行などの〕この勝れた等持(三昧)を行ずる間に、〔諦執の〕相を修習しない。無相に住するし、寂静を〔行じ〕、極寂静を行ずる。
v.8)〔例えば、〕虚空を飛ぶ鳥に住処は無い。そこに住するのではなく、地に墜ちることにならない。そのように菩薩は〔、方便と智恵の双運により、空など三〕解脱門を行ずる。涅槃に触れないし、相を行ずるわけではない。
v.9)例えば、弓術を〔よく〕学んだ人が空に〔上に〕矢を放った。他の矢を立て続けに射てから、前のその矢は地に墜ちる機会を得ない。その人が欲したなら、その矢は地に墜ちるであろう。
v.10)そのように最上の般若波羅蜜を行ずるし、智恵〔・般若〕・方便・〔十〕力・神通により行ずる − 彼らは、善根が〔円満に〕完成しないかぎり、その勝れた空を得ない。
v.11)例えば、最上の神通の力を持った或る比丘が、〔教化のために〕虚空に住している。同時に〔多くの〕神変を化作して、往く・歩む・臥す・坐わること〔の行儀〕を示す。〔しかし、〕彼は厭うことが無いし、それに疲れることが無い。
v.12)同じく〔清浄な地を得た〕善巧な菩薩は空〔の等持〕に住するし、智慧・神通の彼岸に至って、住することが無い。〔世の〕衆生たちに、無辺の為すべきことを示す。千万(コーティ)の劫に厭うことが無いし、疲れることが無い。
v.13)例えば、或る人が大きな断崖〔のへり〕に居て、両手で二つの傘を持って虚空に跳び、大きな断崖に身を投げてから、〔風の力が傘を持ちあげて〕墜ちないし、そのかぎり〔往きたい〕そこに往くであろう。
v.14)同じく善巧な〔賢者の〕菩薩は〔大〕悲に住して、方便と智恵の二つの傘を持っている。諸法は空、無相、無願と観察し、〔しかも〕涅槃に触れることが無く、〔勝義の〕法をも見る。
v.15)例えば、宝が欲しい者は宝の島に往って、宝を得てから、再び家に戻ってくるであろう。そこにおいて船主のみが安楽に生活し、〔自己の〕親族・友人の衆が〔困窮し、〕憂うのを放っておくわけではないように、
v.16)同じく菩薩は空性の宝の島に往って、〔四〕静慮・〔五〕根・力〔など〕を得るが、涅槃に触れることのみを喜んで、有情が苦しむのを意(こころ)に放っておくことにはならない。
v.17)例えば、利益を求める商人は、〔商人や品物の価格や道について〕情報を知るために、途中の都・都市・村に往く。そこにも住しないし、宝の島にも住しないで、明知する者は家に住しないで、道に善巧になる。
v.18)同じく明晰な菩薩 − 彼は、声聞と独覚〔の道を〕知り、解脱すべてに善巧であるが、それに住しないし、仏の智慧に住しない。有為に住しない。道の理趣を知っているのである。
v.19)〔いつか、世の〕衆生に対する慈しみに随って〔関係して〕から、空・無相・無願の等持(三昧)を行ずるとき、彼は涅槃を得るであろうとか、または有為であると仮設できるそれは、処〔すなわち道理〕がない。
v.20)〔けれども、〕例えば、〔幻術師により〕化作された人は身体〔の所作〕が現れないわけではないし、それは名〔のみ〕によってもまた〔言説として〕仮設することができるように、同じく菩薩が〔空などの〕解脱門を行ずるそれは、名によってもまた仮設することができるのである。
v.21)〔もし〕行と根を問われて、〔答えとして〕菩薩が空・無相の法を説示しない、不退転の地の法を説明しない − 彼は〔未だに、正等覚すると〕授記されていないものであると、知るべきである。
v.22)〔声聞の〕阿羅漢地と縁覚の智慧と三界〔の妙欲の境〕について〔直接にはもちろん〕夢にも欲しがらないし、諸仏を見て、〔世の〕衆生に法をも説く − 〔そのような〕彼は、〔正等覚から〕不退転であると授記されたものであることを、知るべきである。
v.23)夢において、有情が三悪趣に住しているのが見える。その刹那に〔大悲により〕「悪趣の流れを断とう」と誓願を立てる。諦〔語〕の加持により、〔街などを焼く〕火の蘊は止息する − 〔そのような〕彼は、不退転であると授記されたものであることを、知るべきである。
v.24)人の世間は悪鬼と病〔など災い〕が多いのを〔見て〕、利益と悲?×をそなえた〔誓願をたてる。その〕諦〔語〕の加持により、〔それら災いは〕止息する。けれども、〔そのことに〕慢心は無いし、〔傲〕慢が生ずることは無い − 〔そのような〕彼は、不退転であると授記されたものであることを、知るべきである。

第21章 魔の業
v.1)もし彼が、種々の諦の加持〔として息災などの成就〕を具足したので、「私は〔仏により不退転だと〕授記された」と慢心が生起する。または菩薩が他により授記されたことについて慢ずる − 慢心が住する彼は、知恵が小さいと知るべきである。
v.2)名の所依から悪魔は近づいて来て、こう語る − 「これはあなたと父母とあなたの〔家系の〕七代の代々の名であるし、〔未来に〕あなたが仏になるであろうときの名は、こうである」と。
v.3)「修治〔・頭陀の功徳〕・律儀・瑜伽行を具えたのはどのようなものが生起することになるし、あなたはかつての功徳のさまもまたこのようであった」と述べる。そういうことを聞いて慢心する菩薩は、魔〔の加持〕により駆られているし、知恵が小さいと知るべきである。
v.4)〔自分は〕きわめて閑寂な村・街・山合と空閑処、閑寂な密林に依るし、自己を讃えて〔、そうしない〕他者を譏る菩薩は、魔により駆られているし、知恵が小さいと知るべきである。
v.5)常に村と地域と町に住しているし、有情を成熟させ、正覚に精進すること以外に、彼は阿羅漢・独覚への欲をけっして生じさせない − これが、善逝の子の空寂だと説かれている。
v.6)〔外面では、毒〕蛇により満たされた五百由旬(ヨージャナ)の山合に〔ただ一人で〕、多くの千万(コーティ)年に住していても、この〔声聞・独覚の作意を離れた内の〕空寂を知らない菩薩 − 彼は、〔外面の閑寂のみにより〕増上慢を得てから〔内の〕混雑に住しているのである。
v.7)〔世の〕衆生の利益に精進し、静慮と力と根、解脱、等持(三昧)を得たその菩薩について、「これは閑静な空寂を行ずるものではない」と軽蔑する彼は、魔の行境に住している、と勝者は説かれた。
v.8)〔ゆえに、〕村あるいは空閑〔処〕に住していても、〔声聞、独覚の〕二乗の心を離れていて最上の正覚に決定するなら、これが、〔世の〕衆生の利益に発趣した者たちの空寂である。〔外面的な空寂のみに〕驕る菩薩は自己を損なう。

第22章 善知識
v.1)ゆえに、勝れた正覚を求める強い思惟を持つ〔善巧な〕賢者は、慢を破った。〔例えば、〕病人の衆が治療するために医師に親近するように、散乱なく〔この般若波羅蜜を説く〕善知識に親近すべきである。
v.2)仏、最上の正覚へ発趣した諸菩薩、および〔六〕波羅蜜をあわせた善知識に親近する。それら〔六波羅蜜〕を教授するもの − これが、この修証の地〔である〕。〔そのように外の教授と内の修行との〕二種類の因により、仏の正覚を速やかに証得する。
v.3)過去と未来・〔現在〕十方におられる勝者すべての道は、この波羅蜜であり、他ではない。この〔般若〕波羅蜜は、最上の正覚〔を希求し、それ〕へ発趣した者たちの〔往く一道を明らかにする〕光、灯明、光明、教師の最上のものである、と説明される。
v.4)般若波羅蜜は〔自〕相〔による成立について〕空であるように、この一切法はその相と等しいと知るし、諸法は空であり、無相であるとよく知るなら、そのように行ずる者は、善逝の智恵を行ずるのである。
v.5)〔凡夫の〕有情は妄分別により食を欲しがるし、〔我執と我所執により〕輪廻に執着した意(こころ)を持った者たちは常に輪廻する。我と我所の法二つは真実でなく〔虚妄であり〕、空である。幼稚な者は自らが〔諦空の〕虚空に〔顛倒の知により〕結びめを造っ〔てから繋縛され〕た。
v.6)例えば、〔蛇などを見たとき、諦として増益する〕疑いの想いにより、毒が起こった。〔そのとき〕その毒は腹に入ったことはないが、悶絶するであろう。同じく幼稚な者は我と我所を承認する。その我だとの想いは真実でない〔、虚妄である〕が、分別〔のみ〕により生滅する。
v.7)〔我と我所を〕執らえるそのとおりに雑染が示された。我と我所として〔自性により〕不可得であるのが清浄であると説かれた。ここ〔一切法の空〕には〔言説として以外、〕何も雑染、清浄になることは無い。〔そのように〕菩薩は般若波羅蜜を証得する。
v.8)〔この〕ジャムブ洲におけるあらゆる有情、彼らすべてが最上の正覚へ発心して、多くの千万(コーティ)の年に布施を施して、〔その善〕すべてをまた〔世の〕衆生のために正覚の因として廻向しても、〔利徳が大きい。〕
v.9)〔しかし、〕誰かが〔加行道の頂の〕般若波羅蜜に精進して、たとえ一日でも随順するなら、〔無量の福徳がある。〕それに対して〔前者の〕布施の蘊によっては、福徳の一分にも及ばない。ゆえに、怠惰〔・散乱〕無く常に般若〔・智恵の修証〕に入るべきである。
v.10)最上の般若波羅蜜を行ずるヨーガ行者〔、菩薩〕は、〔一切有情へ〕大悲を生じさせるが、〔諦として〕有情だとの想いが無い。そのとき、〔その〕賢者は〔世の〕衆生すべての布施処になる。常に地域の施物を有益に受用する。
v.11)菩薩 − ここ〔輪廻〕に長い間、〔業・煩悩により繋縛されて、〕関係した天・人・三悪趣の有情を済度するために、〔大乗の〕広大な道、彼岸〔への済度〕を有情界に示したいと欲する者は、昼夜に般若波羅蜜に精進すべきである。
v.12)〔例えば、〕或る人が以前に得ていない最上の宝を、他の或るときに得て、歓喜することから、得た直後に放逸になって〔その宝を〕失ったなら、失ったことにより、宝をほしがり、常に苦しむ。
v.13)そのように最上の正覚に発趣して、宝のような般若波羅蜜におけるヨーガ行〔の作意〕を捨てるべきではない。〔例えば、〕宝を得てから受持し、精進により包んでから速やかに〔道を〕往く者は、平安〔な涅槃を得ること〕になるであろうように。

第23章 帝釈天
v.1)〔例えば、〕雲を離れた光の網を持つ太陽が、真っ暗な闇すべて破って昇る。〔その光により、〕蛍と生き物すべてと星の集まりと月の光すべてを、制圧する。
v.2)同じく、最上の般若波羅蜜を行ずるし、空と無相を行ずる菩薩〔、善巧な〕賢者は、〔有身〕見の暗闇を破ってから、〔世の〕衆生すべてと多くの阿羅漢・独覚、菩薩を圧倒する。
v.3)例えば、或る王子が〔下僕などに〕財宝を施し、〔修身書に従って〕利益したいと欲する。〔彼は王子たち〕すべての者の指導者となって、〔親近しに〕往くにふさわしい。これ(王子)は現在もまた多くの有情を喜ばせる。方便を得て、〔いつか灌頂されて帝王となり、〕統治に住するなら、もちろんである。
v.4)そのように般若を行ずる〔善巧な〕賢者・菩薩もまた、〔他者に説法して、無死の〕甘露を施すし、人と天を喜ばせる。これ(菩薩)は現在もまた、多くの有情を益することに精進する。〔いつか、障すべてを断じて、一切法に自在な仏陀・〕法王として住してからは、もちろんである。

第24章 増上慢
v.1)そのときに悪魔は毒箭を受けることになる。憂い、弱り、苦しみ、憂慮し、衰弱する。どのように〔したなら〕この菩薩は意(こころ)が濁るであろうかと〔思って〕、怖れを示すために、諸方を〔火により〕焼いて、流星を放つ。
v.2)〔けれども、いつか、善巧な〕彼ら賢者が〔大悲の意楽・〕思惟を持つし、昼夜に〔常に〕最上の般若の義を見る〔し、修証する〕 − そのとき、身心は虚空を往く鳥のように活動する。〔その菩薩に対して、〕邪悪の親族たちがどこに、隙を得るであろうか。
v.3)〔いつか〕菩薩が諍い、論争し、互いに和せずして忿怒の心を持つそのとき、悪魔は歓喜し最高に楽しむであろう。「あの二人は勝者の智慧から遠くなるであろう」、と。
v.4)「あの二人は〔仏の正覚に〕遠くなるし、食肉鬼のようになる」と。両者は自己の誓言を損なうであろう。瞋恚し、忍を離れたものに、どこに〔仏の〕正覚が有ろうか。そのとき、悪魔たちは〔その〕仲間とともに喜ぶであろう。
v.5)授記を得ていない或る〔凡夫の〕菩薩が、授記を得た者に対して、心が忿怒し、論争を始めるなら、怒りの過失を持った〔罪の〕心の刹那があるほどの劫〔の間〕に〔地獄に住して、再び〕基本から鎧を被ること〔、道を学ぶこと〕が必要である。
v.6)「仏陀は忍の波羅蜜により正覚に触れた。この〔怒りの〕心は善くない」と念を生じさせるし、〔対治として懺悔の偈頌より〕個々に懺悔するし、後でもまた〔「二度とすまい」と〕制止する〔律儀を受ける〕。〔怒りに〕喜ばないかの者はこの仏法を学ぶ。

第25章 学
v.1)或る者が学ぶとき、〔勝義として〕どんな学ぶことをもまた承認しない。学ぶ者と学ばれる法を認得しないし、学ばれるべきことと学ばれるべきでないこととのこの二つを分別しない。そのように学ぶ者は、この仏法を学ぶのである。
v.2)或る菩薩がそのようなこの学を知る。彼は、いつのときも〔心学、慧学の〕学を損ない、戒〔学〕を破ることにならない。彼は仏法を得るためにこれを学ぶ。彼は〔勝れた学・〕増上学を学ぶことに善巧であり、〔諦としての〕認得が無い。
v.3)〔善巧な〕賢者は、発光するもの〔である〕般若〔・智恵〕をそのように学ぶ。〔所対治分の〕不善の心は一つほども生じさせない。〔例えば、〕虚空を往く日〔輪〕の光により制圧された面前の空間に、闇が住しないように。
v.4)般若波羅蜜において学びを為した者たちの〔他の〕波羅蜜すべては、〔作用を通じて〕ここ〔般若波羅蜜〕に集まるであろう。〔例えば、根本たる〕有身見に〔他の誤った〕六十二見が集まるように、同じく〔布施など〕これら波羅蜜は〔般若波羅蜜に〕集まることを、説かれた。
v.5)例えば、命根が滅したなら、他の有るかぎりの根すべてが滅することになる。そのように般若を行ずる最上の賢者たちの波羅蜜すべてが、ここ〔般若波羅蜜〕に集まることを、説かれた。
v.6)賢者の菩薩は、〔摂取するために〕声聞の諸々の功徳と同じく独覚の功徳すべてを学ぶし、彼らはそれに住しないし、欲しがることを生じさせない。「これは私が〔現証すべきでないが、利他のために〕学ぶべきことである」といって、そのために学ぶ。

第26章 幻化
v.1)不退転であり、最上の正覚へ出発した〔・入った〕者の発心について、まことの思惟により随喜する者は、〔福徳がきわめて大きい。例えば、この〕三千〔大千世界〕のスメール山を〔すべてまとめて〕秤において量ることにより量を執らえる〔ができる〕としても、その随喜〔の福徳〕はそうではない。
v.2)善を希求し〔他者を〕益することを欲するあらゆる有情すべての福徳の蘊についてもまた、随喜するであろう。それゆえに彼ら〔菩薩〕は勝者の功徳を〔次第に〕得てから、〔顛倒による有情の〕苦を尽きさせるために世間に法を施す。
v.3)菩薩 − 無分別であり、一切諸法は空と無相と無戯論であると遍知する彼は、智恵が二〔の所取・能取の行相〕により正覚を求めることをしない。そのヨーガ行者は最上の般若波羅蜜に精進する。
v.4)〔例えば、〕虚空界それと虚空〔の分は否定のみとして一味であるから、〕それに相違が有るわけではない。何〔の肯定〕によっても〔空の分〕それは得られない。同じく〔見道の智恵・〕般若を行ずる〔善巧な〕賢者、菩薩もまた、〔諦空に等至して〕虚空のようなものであり、〔分別を断じて〕寂静を行ずる。
v.5)〔例えば、多くの〕人の中央に〔幻術師により造られた〕幻術の人は、「この人〔たち観衆〕を歓ばせよう」と思惟しないが、それをも為す。種々の化作を示すことが見られるが、〔化作された〕彼には、身体は無い。心は無い。名もまた無い。
v.6)同じく、般若を行ずる者は〔等至したとき〕けっして、「正覚を証得してから、〔世の〕衆生を済度しよう」と思惟しない。〔しかし、後得において天・人などへの〕種々の生と多くの行いを持っている。幻術のように示すが、〔諦執による所取・能取の〕分別を行じない。
v.7)例えば、仏の化作は〔有情のために〕仏の行いを為すが、その為すことに傲りは少しも生ずることにならない。同じく、般若を行ずる賢者、菩薩もまた、化作、幻術のように為されることすべてを示す。
v.8)〔例えば、〕技術に善巧な工匠が男女と似た〔人形の〕工芸を為した。それがまた、〔本願の投擲により、分別無く、〕為されることすべてを為す。同じく般若〔・智恵〕を行ずる賢者、菩薩もまた、〔諦執による所取・能取の〕分別無い智慧により、為すべきことすべてを為す。

第27章 心髄
v.1)そのように行ずる賢者〔、菩薩〕たちを、〔帝釈天など〕天の多くの衆は合掌して敬い、帰命もする。十方の世界のあらゆる諸仏もまた、功徳の賞讃の鬘を述べられる。
v.2)〔例えば、〕ガンジス河〔の砂〕と等しい〔無数の仏〕国土におけるあらゆる有情、そのすべてが魔となったと仮定しよう。〔彼ら魔たちの身体の〕毛穴一つからもまたそれほど〔の無数の魔の衆〕を化作したとしても、彼らすべてが、賢者を障碍することはできない。
v.3)〔次の〕四種類の因により力を持った賢者、菩薩に〔蘊魔など〕四魔は敵いがたいし、動じさせることはできない − 〔四つの因は、智により〕空に住すること、〔悲により一切〕有情を捨てないこと、〔自らが誓って〕語ったとおりに為すこと、〔資糧の積集により〕善逝の加持を有すること〔である〕。
v.4)如来の母〔である〕この般若波羅蜜を説明するとき、或る菩薩が信解するし、まことの思惟により修行に精進するなら、〔その〕善き人は一切智性に発趣したことを知るべきである。
v.5)〔その菩薩は、空である〕法界、真如に〔等至して、諦執により〕住することにならないし、例えば〔因縁により〕空(そら)の雲〔が住するの〕と同じく、〔虚空のような空性に〕住すること無く住している。明呪を持つ者は住処無く、虚空に行動し、住することを欲する。〔欲するとき虚空に、〕真言の威力により、時ならず花〔と果〕を持った樹木〔の園〕を加持する。
v.6)そのように行ずる〔善巧な〕賢者、明晰な菩薩は、証得すること、仏法を〔も所取として増益して〕認得することにならない。法を説明する者と法を欲する見る者を〔能取としての増益して〕認得しない。これが、寂静〔な無住涅槃〕を欲する者、〔十力など仏の〕功徳に喜ぶ者の住である。
v.7)阿羅漢の〔無執着の八〕解脱、如来の〔無上の住〕以外に、〔菩薩の〕この住は、声聞・独覚をともなったものの〔離貪の〕住、〔四静慮などの〕寂静の等持(三昧)、〔無漏の〕極寂静の安楽を具えたもののあらゆるものすべての〔なかの〕最上であり、無上である。
v.8)〔例えば、自らの業により〕翼を持ったもの〔・鳥〕は虚空に住しているが、転落することにならない。魚は水〔の中〕に住しているが、溺れて死ぬことはない。そのように〔方便に巧みな〕菩薩は静慮の力により彼岸に往って、空〔を現証して、それ〕に住し〔ながらも、本願と大悲の力により〕涅槃しない。
v.9)〔ゆえに、〕一切有情の最上の功徳〔の法身〕に往くことと、最高に稀有な最上の仏の智慧〔の受用身〕に触れることと、〔変化身の〕最上の勝れた法施を施すことを欲する者〔たち〕は、利益を為さる者たち〔である諸仏〕のこの最上の住に、依るべきである。

第28章「散華」
v.1)〔般若波羅蜜の〕この学は、〔次第に導く〕導師の学をすべて述べた学、あらゆる学すべての〔中でも〕最上であり、無上である。〔よって、〕学すべての彼岸に往きたいと欲する賢者は、仏の学、〔尽・無生を知る智〕この般若波羅蜜を学ぶ〔べきである〕。
v.2)これは最上の法の宝蔵と最勝の法の蔵、仏の〔生起する勝れた〕種姓である、〔世の〕衆生の安楽と幸福の〔生起する〕蔵〔である〕。過去と未来と〔現在の〕十方の世間の主たち彼らは、〔道の修習〕これから誕生なさったが、〔諦空なる〕法界は尽きることにならない。
v.3)〔例えば、世間の〕あらゆる樹と果実、華、林それらすべては、地から正しく生起するし、生長する。けれども、地には尽きることは無いし、増長することは無い。全く損なわれないし、〔「私がこれらを生じさせよう」と〕分別しないし、〔疲れて〕厭うことが無い。
v.4)〔同じく、〕仏と仏子と声聞、独覚、〔梵天・帝釈天など〕諸天と〔その他、世の〕衆生すべての〔有漏と無漏の〕安楽・幸福のあらゆる諸法そのすべては、最上の般若波羅蜜〔の修習〕から生起した。〔しかし、〕般若〔・智恵〕はけっして尽きることが無いし、増長することが無い。
v.5)〔輪廻に彷徨う〕下中上〔すなわち悪趣・人・天〕のあらゆる有情、彼らすべては〔世俗として、因の〕無明〔と縁の業〕から生起した、と善逝は説かれた。〔無明など〕諸々の縁が集積してから、〔勝義として作者は無いが、幻術のように生老病死など〕苦の仕組みが生起する。〔それでも、〕無明の仕組みそれは〔言説として以外に〕尽きることが無いし、増長することが無い。
v.6)〔同じく三乗の〕智慧の理趣と〔次第に功徳が生ずる〕門、方便と根本のあらゆるもの、そのすべては、最上の般若波羅蜜〔の修習〕から生起した。諸々の縁が集積してから、智慧の仕組みが生起する。〔しかし、勝義として〕般若波羅蜜には尽きることが無く、増長することが無い。
v.7)縁起〔の諸法〕において〔勝義として〕生は無いし、尽きることは無いと〔認得する〕この智恵を知る〔、修習する、見道の〕菩薩は、〔例えば、虚空において〕雲が無い日が光を放つことにより闇を除いたように、無明〔とその習気〕の闇を破って、自在者〔たる仏世尊の位〕を得るであろう。

第29章 〔随順の〕了知
v.1)大きな威力を持つ者は、〔色界の〕四つの静慮によってもまた住しない。所依にするのではなく、住することは無い。けれども、〔証浄などの〕支分をともなうこの四つの静慮は、〔仏の〕勝れた最上の正覚を得ることの依処になる。
v.2)最上の般若〔・智恵〕を得て、諸々の静慮に住する者は、無色〔界〕の勝れた四つの等持〔や滅尽定〕をも経験する。これら静慮は〔仏の〕勝れた最上の正覚に益する。〔しかし、〕菩薩は〔所知障をも断ずる。声聞のようにそれらを〕漏〔・煩悩障のみ〕の尽のために学ぶわけではない。
v.3)これは〔歓喜地など十地の〕功徳などの奇異、稀有なるものである。静慮、等持に住してから〔、諦執がなく〕無相である。それに住する者たちは、身体が滅したなら、思惟のとおりに〔利他のために〕欲界にもまた生ずる〔ことになる〕。
v.4)例えば、〔ここ娑婆世界の南〕ジャムブ洲の或る人が以前に〔他化自在天など〕天の国の天の最上の都に往っていないが、後で〔神通などによりそこに〕行った。そこにおいて摂取された〔国の円満なる受用の〕対境それらを見てから、後でここ〔ジャムブ洲〕に〔戻って〕来たなら、〔ここでの劣った受用に〕執着しないように、
v.5)同じく、菩薩が最上の功徳を持ち、ヨーガ行に精進し、等持に住してから、後に〔それらの楽に執着せず、利他のために〕また欲界に住するが、執着は無い。〔例えば、〕水の蓮華〔が泥に汚されないの〕と同じく、幼稚な者の〔諦執による有所得の〕法は住しない。
v.6)大なる本性の者〔、これら菩薩〕は、〔説法などにより〕有情を全く成熟させるし、〔自心を修治して仏〕国土を浄化し、〔所対治を断って布施などの〕波羅蜜を完成し、利を為すことだけに尽きている。〔彼らは利他のため欲界、色界に生を受けるが、〕正覚の功徳、波羅蜜〔の行〕が損なわれるであろう、といって無色界に生ずることを希求しない。
v.7)例えば、或る人は諸々の宝蔵を得ていても、それに〔自分だけが〕貪著する知を生じさせない。彼はまた他の或るときにそれら〔宝〕を受けとったし、受けとってから家に行って、執着しない〔で、親族などに分け与える〕ように、
v.8)同じく賢者〔である〕菩薩は、喜びと安楽を〔他者に〕施す。四つの寂静な静慮の等持を得てから、楽を持った静慮、静慮の等持を得たのを捨てて、〔世の〕衆生に悲?×を持つからまた欲界に入る。
v.9)もし、菩薩が〔心一境に専注して〕等持、静慮に住していて、〔自利のために〕阿羅漢・縁覚の乗を欲する知を生じさせたなら、〔心は〕等至〔に入定〕していなくて掉挙し、心が散乱している。仏の功徳は全く損なわれる。〔例えば、〕船乗りが船が壊れ〔て、沈没し〕たように。
v.10)さらにまた〔有情の摂取のために〕色と声と同じく香と味、所触との五つの妙欲〔境の受用〕に精進していても、阿羅漢・独覚の乗〔を希求する自利の作意〕を離れていて、〔空と悲を胎とした〕菩提心〔の修習〕を喜ぶなら、勇者〔、菩薩〕は常に等至していることを、知るべきである。
v.11)有情たち〔すなわち〕他者のために思惟が清浄であるものは、精進の波羅蜜に勤めて行ずる。例えば、水汲みの女下僕は〔自由な〕力無く、主人に従う。同じく、勇者たちは有情すべてに〔使われて〕従う。
v.12)〔主人により〕叱られても、または常に殴られても、女下僕は主人に対して返す言葉を語らない。「〔もし言い返したなら、〕これは私を殺すであろう」と思って、大いに恐怖した意(こころ)により怖れをもち、圧倒されている。
v.13)同じく正覚〔を所期として、そ〕のために最上の正覚に発趣した者は、〔世の〕衆生すべての下僕になったように住すべきである。これより正覚が得られるし、功徳が完成するであろう。〔例えば、〕草と樹から火が生起したことにより、まさにそれを焼く〔ように〕。
v.14)自己の安楽を捨ててから、〔報われることへの〕願い無き心により、他の有情の必要〔を成就するため〕に昼夜、精進する。〔例えば、〕一人子に対して母が〔大切に保護、養育して〕奉事するように、まことの思惟によって〔仏世尊は〕厭うこと無く住するであろう。

第30章 常啼
v.1)菩薩 − 〔有情のために〕長い間、輪廻〔に住すること〕を欲するし、有情の利益と〔仏〕国土の浄化に勤めるヨーガ行者は、厭う知が微塵ほども生ずることにならない〔。それ〕なら、彼は〔最上の〕精進波羅蜜を具えていて、怠惰が無い。
v.2)〔善巧な〕賢者でない菩薩は、千万(コーティ)の劫を数えて、もし長いと想い、苦により正覚を修証する。〔そのように〕正しい法を修証するとき、長い間、苦になる。よって、〔鎧の〕精進波羅蜜は損なわれて、懈怠を持つ。
v.3)最上の正覚への最初の発心から始まって、無上の正覚を得ることになるまでの間は、一昼夜ほどだと意(こころ)に思惟するなら、〔善巧な〕賢者で明晰な者は〔大いなる〕精進を行ったことを、知るべきである。
v.4)もし〔魔など〕或る者が「〔もし可能なら、山の王〕スメール山を滅した後に、〔あなたは仏の〕最上の正覚を得るであろう」と語る〔のを聞いた〕ことより、もし〔「それは困難だ」と退縮し、〕厭う知を生じさせ、量〔が大きさので、不可能だとの知〕をもまた生じさせるなら、そのとき菩薩は懈怠となったものである。
v.5)もし彼が「これほどの量は何が難しいのか」といって、〔神力を得て〕刹那ほどにスメール山を灰に粉砕する〔剛毅な〕心を起こすなら、〔善巧な〕賢者の菩薩は〔大いなる〕精進を行っている。〔彼は〕長くかからずに導師の最上の正覚を得るであろう。
v.6)もし、「〔諦の思い込みにより、世の〕衆生を全く成熟させてから、利益を為そう」といって、身語意により精進をするなら、我との想いが住するので、懈怠になっている。一切智性〔の証得〕から遠くなる。〔例えば、〕天空が地〔から遠い〕ように。
v.7)いつか〔諦としての〕身と心と有情の想いが無い。想いが止んでから、〔有と無の〕無二の法を行ずる − これが、寂静〔な無住涅槃〕であり損なわれない最上の正覚を欲する者〔にとって〕の精進波羅蜜だと、利益を為さる者〔・仏陀〕は説かれている。
v.8)もし、他者から悪く言われた粗悪語を聞いたなら、〔怒らないで、〕「自己の安楽〔の因〕である」といって、賢者、菩薩は〔彼を善知識だと思って〕喜ぶ。〔勝義として〕誰が語る、誰が聞く、何が何を何のためにと〔いって〕忍耐する最上の波羅蜜を具えた者は、賢いものである。
v.9)菩薩の或る者が忍の善良な法を具えている〔のは、福徳が大きい〕。〔仮に〕或る者が三千〔大千世界〕を宝で満たして、諸々の世間解・仏陀と〔声聞の〕阿羅漢、独覚に施した布施〔の福徳〕の蘊は、それ(前者の忍の福徳)に対して福徳の一分にも及ばない。
v.10)忍に住する者の身体は全く清浄になる。相は三十二〔、随好は八十に荘厳されて、見飽きず〕、威力は無辺である。有情たちに法を説示し、宣説する。これが忍を持った者〔の果である〕。彼に〔世の〕衆生は喜ぶであろう。〔好ましく、方便に巧みな〕賢者〔である〕。
v.11)〔例えば、〕もし或る有情は、栴檀の香嚢を受けとって、〔師を〕きわめて尊敬し、〔その〕菩薩に撒く。他の者は、炭火を〔同じ菩薩の〕頭に散らすなら、〔そのように益する者と害する者との〕両者に対して、彼は〔好き嫌いなく〕平等であり等しい心を生じさせるべきである。
v.12)賢者、菩薩はそのように忍〔を修習〕してから、その発心〔の善〕は〔衆生のために〕最上の正覚へ廻向したなら、勇者は世間すべてを忍受するので、阿羅漢と独覚、有情界の〔施しなどの福徳の〕あらゆるものを圧倒する。
v.13)忍を為す者はまた、こう心を起こすべきである − 「有情地獄・畜生・ヤマの世間は苦が多い。〔それは〕妙欲〔の境に執着する〕因により〔、業を積んで〕自由なく侵害を領納する〔。それ〕なら、〔仏の〕正覚のためになぜ今〔私は〕忍耐しないのか」と。
v.14)鞭・棒・刀と、殺害と捕縛と殴打と斬首と耳・足・手・鼻の切断と、世間の苦のあらゆるもの〔が生ずるの〕を、私は忍受しようと〔いって〕、菩薩は〔最上の〕忍の波羅蜜に住している。

第31章 法上
v.1)〔律儀など三種の〕戒〔を受けたこと〕により、寂静〔、涅槃〕を欲しい者たちは勝れたもの〔、聖者〕になる。十力の〔仏の〕行境〔たる最高の学処〕に住するし、戒が損なわれることがない。〔制御すべきこと、〕律儀のあらゆることすべてに従う。有情すべてを益するために、〔そうして造った善〕それもまた〔有情のために、無上の仏の〕正覚に廻向する。
v.2)もし、〔ただ一人で〕独覚・阿羅漢の正覚に触れたいと欲するのなら、〔大乗を捨てたから、菩薩の〕戒を破ったし、賢者ではない。同じく行は損なわれている。もし〔、二乗を求める作意を捨てて、善を仏の〕寂静な最上の正覚に廻向するなら、妙欲〔の受用〕に勤めていても、〔菩薩の〕戒の波羅蜜に住している。
v.3)善良なる正覚の功徳が生起することになる法 − これが、〔利他の〕功徳の法を具えた者たちの戒の義〔である〕。益する者たちの〔最上の〕正覚が全く損なわれる法 − これが〔菩薩の〕破戒〔である〕、と導師〔、仏陀〕は説かれた。
v.4)もし菩薩が〔眼から身までの〕五妙欲〔の境〕を行じても、仏と法と聖者の僧伽〔たる三宝〕に帰依して、「〔有情のために私は〕仏陀を成就しよう」といって一切智を作意するなら、〔そのときその〕賢者は戒波羅蜜に住していると知るべきである。
v.5)もし、千万(コーティ)の劫〔の間〕に〔、殺生など十悪業道を捨てた〕十善業道を行じても、独覚・阿羅漢〔の正覚を作意し、それら〕への欲を生じさせたなら、そのとき戒は〔他勝罪の〕過失が生起した。戒は損なわれたのである。〔菩薩における劣った〕その発心は〔比丘における根本堕罪・〕他勝罪よりもはるかに重い。
v.6)戒を護るし、〔その善を仏の〕最上の正覚に廻向するが、それにより慢心が無いし、〔他者を譏らず、〕自己を讃えない。〔自他について諦として分け隔てる、〕我との想い、有情との想いを全く捨てた菩薩は、戒の波羅蜜に住していると、述べられる。
v.7)もし菩薩が勝者の道を行じて、「有情の〔うち〕これらは戒を持っている。これらは戒を破っている」といって、〔諦の思い込みによる〕種々の想いが起こったなら、〔そのとき菩薩は〕きわめて戒を破っている。戒は損なわれたし、彼に清浄な戒は無い。
v.8)〔諸法の無我を悟った菩薩 − 私のもの・〕我所との想い、〔他の〕有情との想いが無い、想いが貪欲を離れている者に、〔不善の〕非律儀がどこに有ろうか。〔その者に、諦としての〕律儀と非律儀との慢心が無い − これが、〔不善を止めて善に入る菩薩の〕戒〔の〕律儀だと、導師〔、仏〕は説かれた。
v.9)清浄である有情、なおかつそのように戒を持っている〔し、施しに入る〕。愛するもの・愛さないものすべてを〔執着して〕見ることが無いのである。〔大切な自己の〕頭と手足を捨てるし、退縮する心も無い。〔必要な〕あらゆるものを与えるし、常に思い込みが無い。
v.10)〔勝義として〕諸法の自性は無我であり、虚ろである〔し、世俗として因縁から生ずる〕と知ってから、自己の肉をも施して、退縮する心が無いなら、そのとき外側の事物を与えることはもちろんである。〔施において〕慳(ものおしみ)することそれは処〔・道理〕が無い。
v.11)〔自己について〕我だと想い、事物について我のもの〔・我所〕だと執らえることにより、貪着する。愚か者たちには、施す知がどこに有ろうか。〔布施に対して大きな〕慳(ものおしみ)を持つ者は、〔後で〕餓鬼の処に生ずるであろう。もし〔その後、縁あって〕人に生まれても、そのとき困窮するであろう。
v.12)そのとき菩薩は、有情の困窮〔とその因〕を知ってから、〔自己は〕施することを信解するであろうし、常に手厚く施す。〔この娑婆世界の〕四洲を〔七宝により〕みごとに荘厳したものを、唾の滓のように施してから、〔他者たちの満足を見て〕歓喜するであろうが、〔自らが〕四洲を得たこと〔について〕はそのようではない。
v.13)明晰である〔、善巧な〕賢者の菩薩は、〔欲界・色界・無色界の〕三つの〔生存・〕有のあらゆる有情彼らすべてに対して施す − 「これを施そう!」と思惟してから施しを与えるが、それ〔の善〕もまた〔、尽きないように、世の〕衆生の〔利益の〕ために最上の正覚に廻向する。
v.14)施しを与えてから、〔施す者、施しもの、受者の三輪についての〕事物〔の実在〕に住することが無い。彼はけっして異熟〔・果報の受用〕を願うことがない。そのように施す賢者はすべてを施す。少しを施したのに〔、方便と智恵と廻向によりその利徳は〕多く無量になる。
v.15)三つの有におけるあらゆる有情を、仮定してみて、彼らすべてが世間解の仏陀、〔声聞の〕阿羅漢、独覚に対して無辺の劫、施しを与えて、〔それにより〕声聞の善を求めるのなら、〔利徳が大きい。しかし、〕
v.16)賢者の菩薩、方便に善巧な或る者が、彼らの福業事に随喜してから、〔その善を一切〕有情〔の利益〕のために、最上の勝れた正覚に廻向するなら、〔その〕廻向〔の福徳〕により、〔前者のような世の〕衆生すべて〔が積んだ福徳〕を圧倒する。
v.17)〔例えば、〕斑の宝珠の大きな塊になったものもまた、一つの毘瑠璃宝により、そのすべては圧倒される。同じく〔世の〕衆生すべての施しの〔福徳の〕広大な塊すべては、随喜〔して最上の正覚に廻向〕する菩薩〔の善〕により圧倒される。
v.18)もし菩薩が〔他の波羅蜜をも育て、世の〕衆生に施しを与えてから、それについて〔諦として「私がそれを行った」といって〕我のもの(我所)に〔分別〕しないで、事物を惜しむことが無いのなら、それから善根は威力が大きく増長するであろう。〔例えば、夜の虚空に〕雲無き光を持った上弦の月輪の〔増長する〕ように。

第32章 委嘱
v.1)菩薩の施しにより、餓鬼の趣〔への生〕が断たれる。貧窮〔の苦〕と同じく煩悩すべてが断たれる。行ずるとき、無辺の広大な受用〔すべき資財〕が得られるであろう。〔次第に、財と法との〕施しにより、苦しむ有情を〔摂取し、〕全く成熟させる。
v.2)戒により多くの畜生の趣の〔自〕体と八難〔への生〕を捨てる − それにより、有暇〔と具足〕を常に得る。忍により、巨大な勝れた善い色〔の身体〕を得るであろう。〔成仏したとき〕金色であり、愛されるし、〔世の〕衆生により見られるにふさわしくなる。
v.3)精進により、白の功徳は減少することにならない〔で、増長する〕し、智慧の無辺である勝者の〔法の〕宝庫を得ることになる。静慮により、叱責される妙欲〔の境〕を捨てて、〔三〕明知と〔六〕神通と〔すぐれた〕等持〔すべて〕を現成させる。
v.4)智恵により、法の自性〔空性〕を遍知してから、あらゆる三界を正しく越えることになる。人の中の最勝者〔、仏陀となって、そ〕の輪宝〔たる法輪〕を転じてから、苦が尽きる〔涅槃に入れる〕ために、〔世の〕衆生に法をも説く。
v.5)この法を完成してからその菩薩は、〔成仏して〕清浄な国土〔の円満〕と〔眷属として菩薩だけの〕有情の清浄を摂取し、仏陀の相続と法の相続をもまた摂取する。同じく僧伽の相続と〔教と証得の〕一切法を摂取する。
v.6)〔それにより、世の〕衆生の病〔である煩悩と苦〕を治療なさる最上の医師〔、天と人の師〕は、般若〔・智恵〕を〔中心に〕説かれた。正覚の道と相応したこれを説かれた。名は「宝徳蔵、〔無上の〕正覚の道」〔という〕。この道を有情すべてが〔修習して〕得るために説明した。


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