ツォンカパ著『菩提道次第』より三士の規定について


第一〔: 三士の道に聖教すべてが摂まるさま〕
仏陀が最初に〔正等覚へ〕発心なさったし、中間に〔福智の二〕資糧を集積なさったし、最後に現等覚して仏に成られたことのすべては、有情のみの利益のためなので、法を説かれたすべてもまた、有情の利益のみを成就するのです。そのようなら、成就されるべき有情の利益は二つ - 当面の繁栄と究竟の至善です。
 第一〔: 当面の繁栄〕を成就することに関して説かれたほどのすべては、小士そのもの〔の法類、〕または小士と共通した法類に、摂まります。勝れた小士は、この生涯をあまり重視しないで後生の繁栄の円満を希求するし、その諸因の成就を始めるからです。『〔菩提〕道灯論』に、「何らかの方便により、輪廻の〔人・天の〕安楽のみを自己のために希求するその人は、最低の人士と知る」といいます。
 〔第二: 究竟の〕至善には二つ - 輪廻から解放されただけの解脱と一切智〔の位〕です。そのうち、声聞と独覚の乗に関して説かれたほどのすべては、中士そのもの〔の法類、〕またはそれと共通した法類に、摂まります。中士は〔輪廻の生存・〕有すべてに厭離を生じてから、有から解放された解脱を自利のために得べきものとしています。その方便の〔道である戒定慧の〕三学に入る者であるからです。『道灯論』に、「〔輪廻の生存・〕有〔である苦諦〕の安楽に背を向けて、〔輪廻の因の〕罪業〔である集諦〕を止める本性の、自己の〔ためだけに滅諦・〕寂静のみを希求するその人は、中という」といいます。
 一切相智を成就する方便は二つ - 秘密真言〔の大乗〕と波羅蜜の大乗です。その二つは大士の法類に摂まります。大士は大悲の他力のなすがままになっているので、有情の苦すべてを尽きさせるために仏陀〔の果〕を得べきものとしています。〔施・戒・忍・精進・静慮・智恵の〕六波羅蜜と〔生起・究竟の〕二次第などを学ぶ者であるからです。『道灯論』に、「自相続に属する苦により、他者の苦すべてを正しく尽きさせる〔ために、成仏する〕ことを欲するその人は、最上です」と説かれているし、その人が正覚を成就する方便について波羅蜜と真言との両者を後で説かれているからです。
 三士という言説は〔、アサンガの〕『摂決択分』と〔ヴァスバンドゥの〕『倶舎論註釈』など多くに説かれています。小士には、今生に努める〔だけの〕者と後生に努める〔勝れた〕者との二つがあるが、ここには第二です。それもまた、繁栄の誤らない方便に入った者を取らえるのです。
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第二〔: 三士の門から次第どおりに導くことの理由を示す〕には二つ、
1)三士の道の門から導くことの意味は何なのか
2)次第はそのように導くことの理由を示す
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第一〔: 三士の道の門から導くことの意味は何なのか〕
そのように三士に説明しているが、大士の道には他の〔小中の〕二士の道もまた〔欠けるこなく〕摂まるので、その二つは大乗の道の支分であることを、軌範師アシュヴァゴーシャ(馬鳴)が〔『世俗菩提心修習』に〕説かれています。よってここには、〔輪廻の生存・〕有の安楽のみを得べきものとする小士と、輪廻からの解脱のみを自利として得べきものとする中士の道に、導くのではありません。その二つと共通した道の或るものを、大士の道に導く〔ための〕前行としてから、大士の道〔において〕の修治の支分とするのです。
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第二〔: そのような次第に導くことの理由を示す〕
1)理由そのもの
2)必要性
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第一〔: 理由そのもの〕
大乗に入る門は、最上の正覚へ発心することです。それが相続に生じたなら、『入行論』に「菩提心が生じたなら刹那により、輪廻の牢獄に捕縛された哀れな者たちも、〔次の刹那に〕諸々の善逝の子と呼ばれるべきです」と説かれているように、〔善逝たちの子・〕菩薩という名を得て、その依処〔の身〕が大乗者に入った〔のです。です〕が、それが損なわれたなら、大乗者の中から外れることになるからです。よって、大乗に入りたいと欲する者たちは、その心を多くの〔方便の〕門から勤めて生じさせることが必要です。それを生じさせるには、前にその発心をしたことの利徳を〔、『華厳経入法界品』や『入行論』の所説のように〕修習して利徳に対して意欲が増長することと、七支分〔の供養、〕および帰依をあわせたものが必要であることが、〔道次第を教える最上の典籍〕『集学論』と『入行論』に説かれています。
 そのように説かれた利徳もまた摂めると、二つ - 当面と究竟の利徳です。第一についてもまた、悪趣に堕ちないことと善趣に生まれることの二つです。その心が生じたなら、悪趣の因〔のうち、〕かつて積んだものは浄められるし、後で積むものは途絶えるのです。善趣の因の〔うち、〕かつて積んだものは、それにより支えられるので、広大に増長するし、新たに造られるものもまた、それにより〔動機づけられ〕発起されるので、尽きてしまう辺際が無いのです。
 究竟の利益である解脱と一切智もまた、その心に拠って容易に成就するが、前に当面と究竟の利徳について得たいと欲する無作為の〔作り物でない〕欲が無いなら、「それら利徳は発心から生ずるので、その発心に勤めよう」と語っても言葉のみであることは、自己の相続において観察したなら、きわめて明らかです。そのうち、前に繁栄と至善のその二つの利徳を得たいという欲を生じさせるには、小士・中士と共通した思惟を護り〔そだて〕ることが必要です。そのように二つの利徳を得たいという欲を生じさせてから、利徳をもった心を修習するなら、その心の根本 - 〔大いなる〕慈と悲を生じさせることが必要です。それもまた、自己が楽に窮し苦により痛めつけられる輪廻に彷徨っているさまを思惟したとき身の毛がよだつことのない者には、他の有情が〔輪廻を彷徨って〕楽に窮して苦により痛めつけられているのを忍べないことは、起こってくる余地が無いのです。『入行論』に「彼ら有情にはかつて、自利のためにこのような心は、夢にもまた見なかったのなら、利他のためにどうして生ずるでしょうか」と説かれています。
 ゆえに、小士の場合に、自己について悪趣の苦の侵害が降りかかるさま、そして中士の場合に、繁栄においてもまた苦であるし、寂静の楽は無いさまを思惟して、それから親友である有情たちについてもまた、自己の体験において量ってから修習〔します。そう〕したことにより、慈と悲が生ずる因となるし、それより菩提心が生ずるので、小士・中士と共通した思惟の修治は、無作為の〔作り物でない〕菩提心が生ずる方便です。同じく、その二つの場合における帰依と業果の思惟などの門から、〔資糧の〕集積・〔罪の〕浄化の多くの門に勤めることは、菩提心の前行である相続を浄化する方便の七支〔供養、〕および帰依とに、適宜なるので、それらもまたその発心の方便だと知るべきです。
 ここにおいて小士・中士の法類が〔無上の〕菩提心が生ずる支分となるなり方は、上師もまた教示しているし、学徒もまたそれについて決定を得て、守護するごとにそれらを念じてから〔その支分として〕治浄することが、きわめて大切です。そうしなかったなら、大士の道と個々の道は無関係になるし、大士の道そのものに至らない間は菩提心について決定を何も得ない〔のです。です〕から、その発心の妨げ〔になる〕、またはその間に大きな利益〔・目的〕から退いてしまうので、これに〔鄭重に〕勉励すべきです。
 そのように〔小中の道を〕修治してから、無作為の〔作り物でない〕菩提心を何でも相続に生じさせます。それからその心を堅固にするために、〔他と共通しない、大乗〕特有の帰依を先行させてから、誓願の儀軌をすべきです。誓願の儀軌により受けてから、その諸々の学処を〔勤めて〕学ぶべきです。それから、〔菩薩〕行の六波羅蜜と四摂事などを学びたいという修学欲を、多く修治します。心底から修学欲が生じたなら、発趣の正しい律儀を受けます。それから根本堕罪により汚されないことに命を懸けるべきです。〔煩悩の〕漏・〔過ちを犯した〕悪作によってもまた汚されないことに勤めるし、もし汚れされても、説かれたとおりの堕罪の回復〔・還浄〕の門からよく治浄します。それから六波羅蜜一般を学ぶし、特に心は善の所縁に欲するように使うに堪えるようにするために、止住の〔自〕体 - 静慮(禅定)を学ぶのです。
 『道灯論』に神通を生じさせるために止住を生ずることを説かれたのは、例証のみです。主尊〔アティーシャ〕自身は他の場合には、勝観を生ずるためにもまた説かれたので、そのためにもまた止住を成就するのです。それから〔人・法の〕二我を執らえる〔二我執の〕繋縛を断つために、〔無我・〕空性の義を見により決断して、修習の仕方を誤らないで護り〔そだてて〕から、智恵の〔自〕体 - 勝観を成就すべきです。そのようなら、〔戒定慧の三学のうち、〕止住と勝観を成就する以外の、発趣の律儀の学処を学ぶこと以下は戒学、止住は〔禅定を学ぶ定学または〕心学、勝観は〔智慧の〕慧学として、『道灯論の註釈』に説かれています。
さらに、止住以下は、方便〔の分〕と福徳の資糧と世俗諦に拠った道と広大な道の次第です。〔聞所成・思所成・修所成の〕殊勝なる三つの智恵を生じさせることは、智恵〔の分〕と智慧の資糧と勝義諦に拠ったものと甚深な道の次第です〔。です〕から、それらの順序と数の決定と、方便と智の分離により菩提(正覚)は成就しないことについて、大きな決定を生じさせるべきです。
 そのように共通の道により相続を修治〔・浄化〕してから、〔最上の幸いを具えた者たちは〕必ず〔秘密〕真言に入ることが必要です。それに入ったなら、速やかに二資糧を完成することになるからです。もしそれほどしかできない、または種姓の能力が小さいので〔、秘密真言に入ることを〕悦ばないなら、道の次第そのものをだんだん拡げることのみをすべきです。
 〔秘密〕真言に入るのなら、一般的に一切の乗と特に真言には大いに〔鄭重に〕勉励することを説かれているので、善知識への親近の仕方は前〔のもの〕より殊勝なものを為すべきです。それからタントラ部に出ている灌頂により相続を成熟させてから、そのときに得た〔食物・守護・依止の〕誓言(三味耶)と〔五族一般と個別の〕律儀を、命を懸けて護るのです。特に根本堕罪に抵触するなら、再び受けることはできるが、相続はムダに失われたし、功徳を生じさせることは難しいので、それにより汚されないようにします。諸支分の堕罪によってもまた汚されない〔ことに勤める〕し、汚れても何でもないと思って放っておかずに、懺悔・防護により浄めるべきです。それから、下の〔所作・行・瑜伽タントラの〕タントラ部のようなら有相〔のヨーガ〕、上の〔無上瑜伽タントラ部の〕ようなら生起次第のヨーガのどちらかにおいて、導きます。それに依って、下のタントラ部のようなら無相のヨーガ、上のようなら究竟次第のヨーガのどちらかを、学びます。
そのような道の設定の本体は『道灯論』に説かれています。道次第によってもまた、それと同じく導くのです。
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第二〔: 必要性〕
もし小士・中士の諸々の法類は大士の前行であるのなら、大士の道次第としたことで充分ですが、「小士・中士と共通した道次第」と言説することは何が必要なのかというと、三士の個々に分けて導くことには、大きな必要が二つ有るのです。このように小士・中士と共通した知慧が生じていなくても、自己は大士だと自称する〔増上〕慢を破ること、そして優・中・劣の三つの知慧にとって益が大きいことです。
 〔益が〕大きいさまは、先の二士の人にとってもまた繁栄と解脱を希求することは必要なので、導かれるべき大・中の二人の人においてもまた、その二つの思惟の修治を教えていることは〔、各自の道に遅れるなどの〕過失とならないし、〔悪趣・輪廻からの解放を欲する〕功徳を生じさせるからです。そして、最低の人であるのなら、上から修治しても、上の思惟は生じないが、下〔の思惟〕は捨てたので、何も生じないからです。さらに、上の機縁を持つ者には、共通の道を教えて修治したことにより、前に生じおわっている、または〔前に〕生じていなくても、速やかにそれら功徳が生ずることになるので、それぞれ下が生じたなら、それぞれ上に導くことで充分なので、自己の道から遅れることが無いのです。
 知慧を次第に生じさせることの必要性は、『陀羅尼自在王所問経』に、巧みな宝石精錬師が宝石を次第に精錬する譬喩と意味を適合させてから宣べられています。主ナーガールジュナもまた〔『宝鬘』に〕、「初めに繁栄の法〔を説き〕、後で至善が生ずる〔方便を説く〕。なぜなら、繁栄を得てから次第に〔展転して〕至善が来る」といって、繁栄と至善の道において次第に導くことを説かれています。そして、聖者アサンガもまた〔『菩薩地』に四摂事のうち利行に関して〕、「また菩薩は次第に善の品が正しく成就するために、幼稚な智恵を持つ有情たちに対して、初めに易しい法を説くし、易しい〔かつて知らない義に入れる〕教誡と〔すでに知ったものを忘れない〕教授に入らせる。彼らが中の智恵を持ったことを了解してから、中の法を説くし、中の教誡と教授に入らせる。彼らが広大な智恵を持ったことを了解してから、甚深な法を説くし、微細な教誡と教授に入らせるのです。これが、彼の有情たちに対する利行の順序に当たるのです」と説かれています。アーリヤ・デーヴァもまた『行合集灯論』に、前に〔顕教の〕波羅蜜の乗の思惟において修治して、それから〔秘密〕真言に入る順序ある仕方が必要であることを論証しているし、その意味をまとめています。〔すなわち、〕「初業者の有情〔・生起次第の者〕たちが勝義〔・究竟次第〕に入るにあたって、〔初めに生起次第、次に究竟次第を説く〕この方便を正等覚者は、階梯の次第のように説かれた」といいます。

(拙訳『悟りへの階梯  チベット仏教の原典『菩提道次第論』』pp.72-77より)


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