ガムポパ著『解脱荘厳』より、慈と悲について


第7章 慈と悲
(V86)
いまや、寂静の安楽に執着することへの対治として、慈と悲を修習することを説明しましょう。
 そのうち、「寂静の安楽に執着する」ということは、自己のみが涅槃を得たいと欲するし、有情に対する悲?が無いので利他をしないのです。〔すなわち〕小乗の者たち(H39b)です。そのようにまた、「自己の利のために他者の利は多いけれども、捨てるという。自利のためが大きいと知ったなら、自利の最上となる。」と説かれています。
 慈と悲が〔心〕相続に生じたなら、有情に愛着するので、自己がただ一人、解脱することはできません。よって、慈と悲を修習すべきです。軌範師マンジュキールティ御前もまた〔『金剛乗根本堕罪の広釈』に〕、「大乗者は慈と悲を刹那も離れるべきではない。」、「他者の利は慈と悲により摂取するが、瞋恚によって〔利他を為すの〕ではない。」と説かれています。

そのうち、第一、慈について、
摂義は、「区別、所縁境、形相と修習する方便、修まった程度、功徳。そのようにこれら六つにより慈無量は包摂されている。」というのです。(V87)
慈の区別
そのうち、第一、区別は、三つです。
1)有情を縁ずる慈と、
2)法を縁ずる慈と、
3)無所縁の慈です。
 それらもまた、『聖無尽意経』に、「有情を縁ずる慈は、最初の発心をした菩薩たちのものです。法を縁ずる慈は、行に入った菩薩たちのものです。無所縁の慈は、無生法忍を得た菩薩たちのものです。」と説かれています。
慈の所縁境
そのうち、この個所において第一の〔有情を縁ずる〕慈それを説明するなら、その所縁境は一切有情です。
慈の形相
形相は、楽と会わせたいと(H40a)欲する知です。
慈を修習する方便
それを修習する方便は、〔慈の〕根本は恩を念ずることに掛かっているので、有情の恩を思惟します。
 そのうち、今生において恩が最大なのは自己の母です。母の恩はどれほど有るのか、というなら、
1)身体を生じさせた恩と、
2)難しいことを行った恩と、
3)命を与えた恩と、
4)世間を示した恩と〔、合計〕四つあるのです。
 そのようにまた、『聖八千頌〔般若波羅蜜経〕』に、「なぜかというと、この母は私たちを生じさせてくれた。彼女は難しいことを為してくれた。私たちの命を与えてくれた。世間すべてを示してくれたのです。」と説かれています。
身体を生じさせた恩
そのうち、身体を生じさせた恩は、自己のこの身体は、最初から体格が完全であり、肉体が成長していて、顕色が良いものが生じていたわけではない。
 母の腹に膜(arbuda)、皰(kalala)の自性から徐々に滋養、母の血肉の精髄により生じさせられた。食べ物の滋養により成長させられた。〔母が〕慚と病苦と(V88)苦しみすべてを忍受したことから成立したのです。後で生じてからもまた、小さい頭髻ほどから養育してから、大きいヤクほどに生じさせたのです。
難しいことを行った恩
難しいことを行った恩は、私たちは最初から着物を着て、飾りをつけ、財物の取り分を持って、食糧を持ちはこんで、やって来たわけではない。
 口・腹一組以外、財物が何も無くて空っぽであって、親しい人が一人も無くて、見知らぬ国に来たときに、母は空腹にさせないで、食べ物を与えてくれた。〔喉を〕渇かせないで、飲み物を飲ませてくれた。凍えさせないで、着物を着せてくれた。貧しくしておかないで、財を与えてくれた。
 それもまた、自己に(H40b)必要ないものを子どもに与えたようなものではない。自分は食べ物が乏しく、飲み物が乏しく、着物が乏しく、今生の安楽のためにも受用することはできない。後生以降の受用〔すべき資財〕のためにも施すことができないのです。意味としては、自己の今生・後生両者の安楽を顧みないで、子どもを養育したのです。
 それもまた、安閑として得たようなものではない。様々な罪悪・苦痛・多忙により達成してから子どもに与えたのです。罪悪となったなら、漁師や屠殺人など様々な不善を為して、子どもを養ったのです。苦痛となったなら、商売の利潤と〔農地の〕耕作などをずっと行ってから、昼夜に霜を靴として履き、明けの明星を帽子として被り、脛を馬として乗り、糸を鞭として引っかけ、股肉を犬に与え、顔の肉を人に与えてから積みかさねながら、子どもに与えたのです。
 さらにまた、自己一人の父母と上師など恩ある者の誰よりも、〔子ども、すなわち〕何にもならない誰であるのか分からない者を、大切にした。慈しみの眼でもって見た。優しい暖かさでもって暖めた。〔両手の〕十の指の上に揺らした。聞きやすい言葉で呼びかけた。「いいかい、ああ、やあ、よしよし。母さんのいい子ねえ」などと語ったのです。
命を与えた恩
命を与えた恩は、私たちは、最初から現在のような飲食を(V89)授かり、難しい作業を何でもできる強い者が生じたわけではない。
 まさに虫のようなゆるいもの、無価値なもの、思惟が壊れたものが生じたのに、母はそれを棄てずに奉仕した。膝に受けた。火・水から救護した。断崖から護った。害を除去した。承事をした。死ぬのを怖れ、病を怖れて、占いと占星術とまじない(H41a)と〔経文の〕読誦と儀軌など不可思議で思いもつかないことをしてから、子どもの命を救い出したのです。
世間を示した恩
世間を示した恩は、私たちは最初から、知らないことすべてを知った者、見て習った者、逞しい者がここに来たわけではない。
 〔尊敬をもって親近すべき〕善知識の種類に対して、泣き声を出し、手足を降ること以外、何も知らない者であるのに、食べることを知らないときに食べることを教えた、着ることを知らないときに着ることを教えた、行くことを知らないときに行くことを教えた、話すことを知らないときに話すことを教えたのです。〔可愛がって〕「はーい、はーい」などということと、工巧明(技術)など様々な学徳を教えてから、等しくない者と等しく、相応しない者と相応するようにしたのです。
無始から母となったこと
それもまた今回〔の生涯〕の母となっただけではなくて、無始の輪廻から流転したから、無量の回数に母になったのです。そのようにまた『輪廻無始経』に「世界の土塊と草木と森すべてを棗の実ほどに一人の人がした。二人目の人が数を数えたことによりそれらが尽きてしまうときはありうるが、一人の有情が自己の母になったことは、数えることができない。」と説かれています。『親友書簡』にもまた、「母の際限はナツメの種ほどの玉として数えても、大地によっては届かないでしょう。」と説かれています。(V90)そのように母になったたびに恩を前のように置いたのです。
 よって、その母の恩は無量のものがあるので、その者を愛おしんで益(H41b)するし、安楽を欲する本物の知が何でも生ずるよう修習します。
 それから、その者だけでなく一切有情が母になったが、母になった量はまさに前のとおりに恩ある者です。
有情の量
それもまた、有情の大きさの度量はどれほどかというなら、虚空の辺際がおよそ遍満するものを有情は遍満するのです。そのようにまた『普賢行願の経』に「虚空の辺際であるほど、あらゆる有情の辺際もまた同じ。」と説かれています。
慈を生じさせる
よって、およそ虚空が遍満する有情に対して益と楽を欲する本物の知が何でも生ずるよう修習します。それが生じたなら、慈そのものです。『荘厳経論』にもまた、「菩薩は有情に対して、一人子に対してするように、髄の髄から大いに慈しむ。そのように常に益したいと欲する。」と説かれています。
 慈の力により眼から涙を流す、または身の毛がよだつならば、大慈です。そのようなものが一切有情に対して平等に生じたとき、慈無量です。
慈が修まった程度
修まった程度は、自己の楽を欲しがる知が無くて、有情だけの楽を欲しがるとき、慈が修まったのです。
慈を修習したことの功徳
それを修習したことの功徳は無量です。(V91)『月灯三昧経』にもまた、「〔神力により千万の国土に行って、〕多様な無量の供養のかぎりを、千万の千億の国土を満たすほど、最上士に対して供養をしたことでは〔功徳は大きいが、それでも〕、慈しみの心〔と比べると、そ〕の数や分に至らない。」と説かれています。
 慈を須臾、修習したことの福徳もまた無量です。『宝鬘』にもまた、「三百の碗の〔旨い〕煮た食べ物を、毎日三つの時に施すことでも、須臾ほどの瞬間の慈しみの福徳(H42a)にとっては、一分に至りません。」と説かれています。
 正覚を得るまでの間にもまた、八つの利徳を得るのです。『宝鬘』に「天・人が慈しむことになり、彼らがまた守護することと、意が安らかで楽が多いことと、毒と武器による加害が無いことと、努力無く利益〔・目的〕を得ることと、梵〔天の〕世界に生まれることになるでしょう。もし解脱していなくても、〔これら〕慈の法の八つの功徳を得るのです。」と説かれています。
 また自己の守護にも慈を修習することこれは、良いのです。〔例えば、〕バラモンのマハーダッタ(大施)の(V92)ようにです。
 他者の守護にもまた慈を修習することこれは、良いのです。〔例えば、〕マイトリーバラ(慈力)王のようにです。そのように慈について修まったことにより、悲が修まることに困難が無いのです。

悲についての摂義は、「区別、所縁境、形相と修習する方便、修まった程度、功徳。そのようにこれら六つにより悲無量は包摂されている。」というのです。
悲の区別
それについて区別するなら、三つ。〔すなわち〕
1)有情を縁ずる悲と、
2)法を縁ずる悲と、
3)無所縁の悲です。
 そのうち、第一〔: 有情を縁ずる悲〕は、〔諸々の〕有情の悪趣の苦などが見えるので、悲が生ずるのです。
 第二〔: 法を縁ずる悲〕は、自己が四聖諦を〔繰り返し〕数習するとき、二種類の因果を知って、常と一団だと執らえることから知を退けます。他の有情 − 因果を知らずに〔、事物について〕常と一団だと執らえる者たちごとに対して、「錯乱だ」と悲が生ずるのです。
 第三〔: 無所縁の悲〕は、自己が等至(三昧)に入ってから、一切法は空だと証得する(H42b)とき、有情− 事物〔の実在〕を執らえる者たちに対して、特別に悲が生ずるのです。すなわち、「菩薩は等至したことにより、数習の力により完成したなら、事物を執らえる魔により捕らえられた者に対して、特別にまた悲が生ずるのです。」と説かれています。
 その三つのうち、この個所においては第一の〔: 有情を縁ずる〕悲それを修習するのです。(V93)
悲の所縁境
それの縁ずる境は、一切有情です。
悲の行相
行相は、苦および〔その〕因を離れてほしい〔という〕知です。
悲を修習する方便
それを修習する方便は、根本の〔今生の〕母に適用してから修習します。
 それもまた、自己の根本の母それが、この地方において他の者たちにより、切り刻まれている。または煮て焼かれている。あるいは凍えきって〔凍傷になり、〕身体には水膨れになっている。〔水膨れが〕破れてからまた割れている〔。それ〕なら、大いに〔あわれだという〕悲です。
 同じく、〔悪趣の、〕地獄に生まれたこれら有情は、私の母であると決定したなら、そのような苦により〔断末摩で〕事切れるなら、〔あわれだという〕悲が生じないでしょうか。彼らが苦および〔その〕因を離れてほしい〔という〕悲を、修習するのです。
 また私のその母が、この方向において飢えと渇きにより虐げられている。病と痛みに悩まされている。怖れて惨めであるので、意気消沈している〔。それ〕なら、大いに〔あわれだという〕悲です。
 同じく、餓鬼に生まれたこれら有情もまた、私の母であると決定したなら、そのような苦により損傷されているなら、〔あわれだという〕悲が生じないでしょうか。彼らが苦〔とその因〕を離れてほしい〔という〕悲を、修習するのです。
 また私のその母が、この方向において老いて貧しい、または他の者たちにより自由なく〔無理やりに〕使役され扱われる、または殴られ罵られる、または殺されて切断されるなどされているなら、〔あわれだという〕悲です。(H43a)
 同じく、畜生に生まれた一切有情もまた、私の母であると決定するなら、そのような苦により困窮している〔。それ〕なら、悲でないでしょうか。彼らが苦〔とその因〕を離れてほしい〔という〕悲を、修習するのです。
 また私のその母が、千ヨージャナ転落する大きな断崖絶壁にいて、気をつけることを知らない。「断崖絶壁に行くよ」と教えてくれる人がいない。そこから墜ちると、大きな苦を経験するし、上に抜け出す暇の無い断崖絶壁への転落に近づいている〔。それ〕なら、大いに〔あわれだという〕悲です。
 同じく、〔善趣の〕天と人と阿修羅の三つもまた、悪趣の大きな断崖絶壁にいて、気をつけて罪悪・不善を捨てることを知らない。善知識により摂取されていない。転落と三悪趣の(V94)苦を経験するし、抜け出すことは難しいから、〔あわれだという〕悲でないでしょうか。
 彼らが苦〔とその因〕を離れてほしい〔という〕悲を、修習するのです。
悲が修まった程度
修まった程度は、自己を大切に執らえる綱を断って、一切有情について離れてほしい〔という、〕言葉のみでない知が生じたなら、悲が修まったのです。
悲を修習したことの功徳
それを修習したことの功徳は無量です。『観自在〔菩薩〕の因縁』に、「一つの法が有るなら、仏陀の一切法が掌中に置かれたようになる。一つは何かというと、すなわち大悲です。」と説かれています。『法集経』にもまた、「世尊よ、すなわち〔例えば〕転輪王の輪宝があるところ、そこには軍勢すべてがあるのです。世尊よ、(H43b)同じく菩薩の大悲があるところ、そこには仏陀の一切法があるのです。」と説かれています。『如来秘密経』にもまた、「秘密主よ、一切智者の智慧それは、悲の根本から生起したものです。」と説かれています。
 そのように慈により有情たちが楽を得ることを欲するし、悲により苦を離れることを欲するとき、自己ただ一人が寂静の楽を得ることに悦びません。有情〔の利益〕のために仏陀〔の位〕を得ることに歓喜するので、寂静に執着することの対治になるのです。そうならば、慈・悲が〔心〕相続に生じたことにより、自己より他者を大切に執らえるとき、すなわち、〔『菩提道灯論』に〕「自相続の証得した苦により、(V95)他者の苦すべてを正しく尽きさせることを欲するその人は、最上です」と説かれているように、最上の人士の知が生じたのです。例えば、バラモンのマハーダッタ(大施)のようなものです。
〔以上が、〕『正法如意宝珠・解脱の宝の荘厳』より、「慈と悲」を説いた第七章です。

(拙訳『解脱の宝飾 チベット仏教成就者たちの聖典『解脱荘厳』』pp.141-147 より)


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