ランリタンパの修心


十一世紀半ばにアティシャ(982-1054)がインドからチベットへ入り、仏教中興の祖となったが、彼に続く初期カダム派の教えには書籍が失われてしまったものが多い。今回扱ったランリタンパの著作もそうである。アティシャからポトワを通じて伝えられた道次第の教えのうち、修心(blo sbyong)の教えは個々に実践されてきたが、ランリタンパにより初めて文字に記されたといわれている。言葉も平易で分かりやすいが、大乗仏教の核心である菩提心を起こす実践として、尽きない内容を含んでいる。菩提心を起こすとは、はてしない生死流転において我執は苦難すべての根本であるから捨てさり、どの衆生もいつかは母として慈しんでくれたのだから報いようとすること、そして一切智者の仏陀でなくては本当に救い助けることは不可能であるから、一切衆生のために最高の正覚(菩提)へ発心することである。この修心の教えは、チベットではいつもたいへん人気のあるものであり、現在のダライラマ法王も一般向けの講話のテキストにされたことがある。
  底本には LEGS PAR BSHAD PA BKA' GDAMS RIN PO CHE'I GSUNG GI GCES BTUS NOR BU'I BANG MDZOD A Collection of treasured teachings of the Bka'-gdams-pa tradition Edited by Don-grub-rgyal-msthan alias Ye-shes-don-grub-bstan-pa'i-rgyal-mtshan Reproduced from a print from the Lhasa bzhi-sde blocks(1985) 166a2-168b1 と『?当派大師箴言集』青海民族出版社1996 pp.326 ll.7-pp.331 ll.8 を使用した。これは、古いカダム派の教えのうち、弟子が記録したものや断片的に伝えられたものを収集整理したものである。なお小さな文字で記された部分は割り注としてテキストに含まれたものである。

ランリタンパの教えを集めたもの。
ランリタンパ・ドルジェ・センゲ(Glang ri thang pa rDo rje sennge. 1054-1123)は、 [ラサの北、] ペンポ('Phan po)地方に、木の馬、アティシャの亡くなられた年に生まれた。 [アティシャの弟子ドムトンの高弟プチュンワ、ポトワ、チェンナパという] 三人のご兄弟に仕えて、いつも三界の輪廻の過患のみを思慮したので、身の状態から「暗い顔のタンタン」と知られていた。ランタンは寺を建てて、僧侶二千人が集まった。『修心八句』を文字に著して、人々にも広く説明した。ランリタンパとシャラワ(Sha ra ba Yon tan grags. 西暦1070-1141)という日月 [のような偉大な仏弟子] は同時期に御年七十に逝かれた。高弟はシャポガンパ(Shwa pho sgang pa)である。 [この高弟より、カギュ派の高僧] 世間守護者パクモドゥパも法を聞いた。ランリタンパの一番大切にした仏塔のなかに建立された小像や小塔が十万ほど有った。それの前の外の拠り所である仏塔内には、ランリタンパの心臓と舌と眼との三つが [火葬されても、焼けないで] 有ると、古い伝記に説かれている。
  『断簡 'Thor bu 』には、「人の度量は人には分からないので、誰についても誹謗すべきではない。仏陀の教えすべては、果を有するものなので、法について善し悪しを考察すべきではない。大乗においてなすべきは、有情の利益しかないので、利他 [をちかう弘誓の] の鎧を小さくすべきではない。自己が堅牢な地を得なくては他者を導くことはできないので、閑寂なところ(寺)で修行に励むべきだ、とおっしゃった。」
   [尊者ツォンカパの] 『道次第大論』には (発菩提心に関して、煩悩が生ずるやいなや)、 「居るところを捨てることと頸を背けてくつろぐだけでも消えてしまう、とおっしゃり、彼自身が煩悩と闘ったと見える。シャポパと私との二人には、人の十八の方法と馬の一つの方法と [合わせて] 十九が有る。人の方法は、最高の正覚へ発心してから、何をするにも有情のために学ぶことである。(六波羅蜜の三つずつは、)馬の方法は、菩薩が [いまだ] 生じていないものは生じず、 [すでに] 生じたものは住さないし、増大させないのは、我を大切に取らえることなので、これにそっぽを向けて、できるだけ害する修治をするし、有情に中心を示してできるだけ益する修治をするのである。」
  『仏教史 Chos 'byung 』には、「どんなことになっても、律をまもることもいくらかして、思と修もいくらかして、福徳の行為もいくらかする」
これ以下はセキィルブパ(Se skyil bu pa)の『覚え書』にある。
  「どのような深い書を開いても、「過失すべては自己のものである。功徳すべては尊い有情のものである。それの要点は得と勝ちのすべては有情のものである。損と負けのすべては自己が受けよう」と思惟する以外、理解すべきことは得られない。眼が見えなくなっても、法を捨てない。耳が聞こえず、ハンセン病になり、手足が利かなくなり、口が利けなくなっても、法を捨てない。自己より他者が大切だという知を修治するには、 [自己は] すべての有情の下に居て、勝ちのすべては他者に与えるし、負けのすべては自己が受けることが必要である。」
  『八句 Tshig rkang brgyad ma 』の『註釈』には、「ペン地方('Phan yul)の僧伽にバターの [上等な] 食事を少し差し上げるより、自己には過失が無いのに誹謗する者にはご恩が大きいことを知るなら、罪を浄めることと [福徳と智恵の] 資糧の完全な波が重大である。」
  『善の集 Legs btus 』には、「これを実践する人は、自己は劣った点を取り、優・劣・中の三者を頭に戴けることが必要である。」
  『譬喩の法 dPe chos 』には、「教えを探し求めるのを喜ぶがよい。正しいことはかつて無かった。」
  『雷の知 Thog blo 』には、「食べ物と着物は静かな処に住んだことで充分である。資産を貯えるという悩みを断ち切りなさい。日夜、善行をなして過ごし、友を捜し求めることを断ち切りなさい。人の心は寝床に居ることで取らえられる。仲良くするという悩みを断ち切りなさい。上師は教えのとおり行ずることで喜ばれる。利得、尊敬をするという悩みを断ち切りなさい。護ることは幽霊に頼むことで充分であり、強い真言を唱えるという悩みを断ち切りなさい。」
  『修心八句 Blo sbyong tshigs brgyad ma 』には、「三世の勝者(仏陀世尊)を生じさせる母は尊い有情であると知ったのです。」
  『聴伝 sNyan rgyud 』には、「ランリタンパに対して身近な者が、私たちに対して [世間の人々は] 「暗い顔のランリタンパ」と言っていると申し上げた。すると、三界の輪廻のこの苦しみを思慮するなら、明るい顔色が出てこようかとおっしゃった、という。 [ただし生涯に一度、マンダラ供養の法具] マンダラの上にあるトルコ石を、一匹のネズミは運べなくて助けを呼んで、一匹が [後ろから] 押し、一匹が [前で] 引くのをご覧になって、微笑まれたことはあったのであった。」
  『日光 Nyi zer 』には、「得と勝ちのすべては有情に与える。なぜなら、諸々の善いことすべては、彼らに依って生ずるから。損と負けのすべては自己が受けよう。なぜなら、害と苦のすべては自己をが大切だと取らえることから生ずるから、とおっしゃった。」
  第二は『修心八句 Blo sbyong tshig rkang brgyad ma 』の本頌に、「一切有情は恩が大きいと学ぶ。特に自己と他者を [それぞれ] 卑下し、尊敬する。自己の [個体] 相続を観察し、煩悩を退ける。衰えてから罪と苦は得難いと大切にする。得をしないで、損を受ける。益より害なすものが恩人だと知る。益と楽を与えて、害と苦を受ける。混ぜないで幻の [ようなものごとへの] こだわりを捨てる。祈願と誓願をたてる。」
  『偈頌、散文 Tshigs su bcad lhug 』は、
「一切有情を如意宝珠だと学ぶ。自己は一切有情について、 [彼らのおかげで] 如意宝珠より勝れた大きな利益を成就するのを考えることにより、最高に大切だと取ることを学ぶべきである。
 どんな友だちといっしょになっても、全面的に自己を劣っていると見て、真心から他者を敬うのを学ぶ。誰といっしょになったときも、自己はみなより劣っていると見るし、他者を真心をもって最高だと取らえて敬うことを学ぶべきである。
 自己の相続を観察し、煩悩が生ずるやいなや直ちに退けるのを学ぶ。 [行・坐・臥・住の] 威儀(行い方)すべてにおいて自己の相続を観察し、煩悩は生ずるやいなや自他にふさわしくないことをするから、直ちにもとから退けることを学ぶべきである。
 きわめて性悪 [な者] と強い罪と苦に支配された者たちを、きわめて得難いといって大切だと学ぶ。性悪の有情の、強い罪と苦により支配された者たちは、宝の蔵と出会ったように得難いので、大切に取ることを学ぶべきである。
 自己を誹謗するなどどんな過失が生じても、得をしないで損を自己が受けるのを学ぶ。自己に対して他者が嫉妬により罵るなど正しくなくても、損は自己が受け、得は他者に与えることを学ぶべきである。
 自己が前に益した、または期待の大きなものの考えにより、その相手がだまし、悪いことをしたなら、ご恩が大きいと考えて、善知識だと学ぶ。或る人に対して自己が益した、または期待が大きい或る人がきわめて正しくない害をなしたとしても、勝れた善知識だと見ることを学ぶべきである。
 要するに、直接または間接により楽、益として在るすべてを、母なる者 [である一切有情] たちに与えるし、彼らの害と苦のすべては敬って自己の心臓のなかへ受けるのを学ぶ。要するに、直接または間接により、益、楽は母たちみなに与えるし、母の害と苦すべては敬って自己が受けることを学ぶべきである。
 それらすべてについて、過失が生ずることがありうるから、今生の分別と少しも混ぜないし、一切法は幻術のようだと知る知により、どんなものごとにも執着しないのを学ぶ。それらすべても世間の八法 [利得、損失、称讃、非難、誹謗、栄誉、安楽、苦痛] の分別の垢により汚されないで、諸法は幻だと知ることにより、こだわりの縛より解脱することを学ぶべきである、
というのが、ランリタンパの御作である。


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