宝徳蔵般若経』割註つきより


(以下は、成田山法談会『法談』(52、成田山開基1070年祭記念 2006)に掲載された拙稿「チベット語訳『宝徳蔵般若経』の和訳研究 − クンタン・コンチョック・テンペードンメの註釈とともに −」のうち、解題と第1章の翻訳の部分より、訳註を省略したものです。)

初めに
 日本では、古くから玄奘訳『大般若波羅蜜多経』に対する信仰があり、また在家を含めて『般若心経』がよく読誦、写経されているが、チベット、モンゴルでも『般若経』に対する信仰は厚い。インド、チベットでは『般若経』といえば、まず、いわゆる広中略の『般若波羅蜜経』すなわち『十万頌』『二万五千頌』『八千頌』の般若経が重要である。その註釈としては、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』がその直説の甚深な空性を説明するのに対して、マイトレーヤ(弥勒)の『現観荘厳論』はその隠密義の広大な行を説明するとされている。それらの大きな『般若波羅蜜経』自体も、この『現観荘厳論』に説かれる現観の次第の七十義、『同論』に対するハリバドラなどの註釈に関連づけて、理解されるのである。この現観の次第との関係では、『十万頌』『二万五千頌』『八千頌』の般若経には、現観の次第を完備しているが、簡略な『般若心経』や『金剛般若経』はそうではない。完備した最小のものが『宝徳蔵般若経』である。『宝徳蔵般若経』や『金剛般若経』は簡略であるため、読誦、写経されることが多いが、特に『宝徳蔵般若経』は偈頌になっているので、全部暗記する人もいる。
 またこの『経』は仏陀の身語意の三業のうち語業の依処として、修行の場には最低限、具えなくてはならないものとされている。また、アティシャによりチベットに伝えられた「菩提道次第」は、全般的に『現観荘厳論』の教誡の次第であるとされているので、その面でも重要であり、「菩提道次第」文献には「カダムの六法」とともに多く引用されている。またチベットでは、南インド出身の行者パダンパ・サンギェー(Pha Dam pa sangs rgyas, ?-1117)から、その系統のチベット人女性行者マチク・ラプキドンマ(Ma gcig Lab kyi sgron ma, 1055-1143)に伝えられて確立された、シチェ(Zhi byed)派の断境(gCod)の修行は、この『宝徳蔵般若経』の第27章3偈に後期密教の修行法を盛り込んだものであり、広く受容され、実践された。
 この『宝徳蔵般若経』は、『般若心経』の簡約な記述に対してさらに詳しい解説が必要であると思う人、しかし『八千頌般若経』など大部の経典を読むほどの余裕も無い人にとって、非常に便利なものである(その場合、現観の次第は無視して、経文のみを読まれることをお奨めする)。この『宝徳蔵般若経』はチベット訳『一万八千頌般若経』(D No.10 Ka,Kha,Ga)の第84章にも同じものがある。また広く流通したためか、インドで流布した段階においても異なった版が流通しており、インドの註釈文献にすでに異版の読みが示されている。今回の翻訳研究は文献学的には問題を残すことになるが、大部な『般若経』に対する簡明で読みやすい入門書を提供することを目標とした。詳しい書誌などについては、以下の研究書を参照していただきたい。
 底本には THE COLLECTED WORKS OF GUN.-THAN. DKON-MCHOG-BSTAN-PA'I SGRON ME(Reproduced rom prints from the Lha-sa blocks by Ngawang Gelek Demo, Volume1, New Delhi 1972)を用いた。各章の冒頭の題名は、各章の末尾の題名より便宜のために付けたものであり、『八千頌』の章立てとも対応している。また翻訳にあたっては、次のインド撰述註釈として代表的な二つと、チベットでのチョネ・タクパシャッドップの註釈を参照した。
Haribhadra による註釈Bhagavadratnagun.asan-cayagaathaa-naama-pan~jikaa のチベット語訳 D No.3792 Ja,
Buddhashri-jn~a-na による註釈San-cayagaathaa-pan-jikaa のチベット語訳 D No.3798 Nya,
Co ne Grags pa bshad sgrub による註釈sDud pa'i 'grel pa rGyal ba'i dgongs gsal (Co ne grags pa bshad sgrub kyi gsung bum 所収)
 クンタンの註釈はインドの註釈を参照し、それらの内容を対比させているので、概観のために便利である。チョネの註釈にはさらに詳しく割註の形で語句が補足されている。現観の次第に関して、クンタンがほぼハリバドラに従いながら、違いのある個所ではブッダシュリーを併記ししている。チョネは明記しないながらブッダシュリーに従うことが多い。
 訳文に挿入された数字は、D は『宝徳蔵般若経』のチベット訳 D No.13 、Kはクンタンの註釈の頁数である。偈頌の番号は基本的に下記の YUYAMA ed.に従っているが、第12章5偈はチベット語訳に無いので、同章ではそれ以降1偈ずつずれている。
 クンタン・コンチョック・テンペードンメ(Gung thang dKon mchog bstan pa'i sgron me, 1762-1823)はゲルク派の人であり、幼いときクンタンの転生活仏と認定され、ラプラン・タシキルで学んだ後、ウ地方のデプン寺ゴマン学堂で修学し、ハラムパ(大博士)の称号を受けた。その後、ラプランに戻り、その第二十一代座主となって、アムド地方のゲルク派寺院を指導した。またチョネ・タクパシャッドップ(1675-1748)もゲルク派の人であり、チョネに誕生し、チョネ寺の住持となり、同寺を大学問寺として興隆させた。いずれもすぐれた学者として高名であり、多くの著作を遺している。
 今回の翻訳には Akira YUYAMA PRAJN~AA-PAARAMITAA-RATNA-GUN.A-SAM.CAYA-GAATHAA(CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS 1976)、部分和訳の奥住毅「聖らかな般若波羅蜜の宝のようなすぐれた性質の集積の詩頌」(『二松学舎大学論集』1974)、全訳の真野龍海「梵文『聖般若波羅蜜多宝徳蔵偈』の研究」(『般若波羅蜜多の研究』山喜房仏書林 1992)を参照した。『現観荘厳論』に関しては、真野龍海『現観荘厳論の研究』(山喜房仏書林 1972)、兵藤一夫『般若経釈 現観荘厳論の研究』(文栄堂 2000)を参照した。前者はハリバドラの『小註』の全訳として、後者は現観の次第に関する詳しい解説書として大いに有益であった。本訳では現観の次第に関してその法数などの詳細を省略した部分もあるが、それらに関しては後者を参照していただきたい。

(()の部分はクンタンによる割註、〔〕の中は理解のために他の註釈を参照して今回翻訳者が補足したものである)



本文和訳

(K1,D1)『宝徳蔵般若経・割註つき』
(K1b)〔経典の名は、〕インドの言語で AArya-prajn~aa-paaramitaa-sam.caya-gaathaa. チベットの言語で'Phags pa Shes rab kyi pha rol tu phyin pa sDud pa thigs su bcad pa〔聖般若波羅蜜摂頌〕
〔翻訳者の礼拝、〕聖者文殊師利に帰命します。


序分
v.1)〔広・中・略の般若波羅蜜を広説なさったのに続いて、〕それからまた世尊は、〔王舎城の霊鷲山において〕彼ら四衆〔比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷および菩薩衆〕を正しく歓喜させんがために、またこの般若波羅蜜〔・智恵の完成〕を説き〔たいと決意なさって〕、そのときこれら偈頌を宣べられた。


(師に帰命します。
第1章 一切相智性への発趣
〔第一品、〕一切相智を表示する十法〔、すなわち、1)道の根本、発心、2)教誡の中心、二諦について教誡する教誡、3)教誡の義について修所成の最初、加行道、4)大乗の修行の依処、本性住の種姓、5)修行の所縁、6)所期の三つの大性、7)鎧の修行、8)発趣の修行、9)資糧の修行、10)出離の修行がある。それら〕のうち、
第一: 道の根本、発心は)
v.1)最上の歓喜と尊敬と浄信を確立して、〔所知などの〕障、煩悩〔障〕を除去して〔所対治分の〕垢を越えて、
(というこの〔偈の前半〕2句はブッダシュリーは、器を持った者に聴聞するよう勧めることに結びつけてから、発心の〔自〕体を〔この偈の後半〕残りの2句により説いたと説明するが、軌範師〔ハリバドラ〕は、この一偈により発心を中心に(K2a)説いてから、ついでに器を持った者に聴聞するよう勧めると説かれているので、後者のままに置いておく。)
〔世の〕衆生の利益に現に発趣した善良な者〔・菩薩〕の般若波羅蜜 − それを勇者たちが行ずるのを、聞くべきである。
(ついでに〔長老シャーリプトラの思いに対して、〕スブーティ(須菩提、善現)などが般若波羅蜜を説くのは仏陀の威力であることを、比喩により成立させたのが、)
v.2)〔例えば、娑婆世界の〕このジャムブ洲に〔、南へ流れるガンジスなど〕あらゆる河が流れて、花・実をつけた薬と森を生じさせる。無熱池に住する〔菩薩の化身の〕龍王、龍の主が拠って住している処− それは、かの龍王の威力、吉祥である。(D2a)
v.3)〔同じく〕勝者の声聞たちが、およそ法を説くのと、説明するのと正理をそなえて述べるのと、
最上の勝れたもの〔たる仏〕、安楽にするもの〔の方便〕とそれの果を得る −それらすべてもまた、如来という士夫の威力である。
v.4)なぜかというと、勝者が法の理趣を説かれたもの − それを、最上の人の弟子となった者は現に学ぶし、(K2b)現前にしてから学んだとおりに説くのは、仏陀の威力により為されるが、自力の威力によってではない。
(声聞は、仏陀〔から誕生なさったし〕、それもまた般若波羅蜜の幹のような発心から誕生なさった。または、般若波羅蜜を自在に説く仏陀になりたいと欲する者は、それを学ぶべきである、といって、果の門から成立させた。
 第二: 教誡の中心、〔勝義諦と世俗諦の〕二諦について教誡する教誡は、)
v.5)〔勝義として、行じられるものである〕最上の般若波羅蜜を認得しないし、〔行ずる者である〕菩薩を認得しないし、〔行ずるものである〕菩提心を認得しない〔、すべて自性により空である〕− そういうことを聞いて迷わないし、怖れない − その菩薩が、善逝の般若〔・智恵〕を行ずる。
(第三、教誡の義について修所成〔智〕の最初、加行道〔の順決択分〕を説明するには、
1)〔自〕体〔である〕所縁・行相・因の三つの差別、2)果〔である〕相応・断除・証得の差別、3)因〔である〕摂取・善知識の差別との三つ。
第一〔: 〔自〕体、所縁・行相・因の三つの差別〕には、1)煖、2)頂、3)忍、4)第一法との四つのうち、
〔第一: 〕煖の所縁は、〔『現観荘厳論』T 27 に〕「所縁は無常など〔の十六行相をもった四〕諦を所依とする」というように、)
v.6)〔勝義として五蘊の〕色なく受なく想、思〔すなわち行〕なく、識(の行相)が住すること(、すなわち〔諦成立だと〕思い込むこと)は微塵もない。(〔煖の〕因の差別は、)彼は一切法に〔諦執により〕住しない。住すること無く行ずる。摂取することなく、諸々の善逝の正覚を得る。
(〔第二: 〕頂の所縁は、)
v.7)遊行者シュレーニカが、智により認得することがなく、蘊が滅するし生ずる(K3a)ように、菩薩− そのように法を知り、涅槃〔たる寂静の辺〕に触れない者 − 彼は、般若〔・智恵〕に住している。
(〔頂の〕行相は)
v.8)またこの者は、「この般若は何なのか、誰のものなのか、何からであるのか」といって、この〔蘊など〕一切法は〔自性により〕空だと観察する。観察してから〔虚無だという〕萎縮がないし、怖れがない。かの菩薩は正覚に近いのである。
(〔第三: 〕忍の所縁は、)
v.9)もし、〔諦空の理趣を〕知らないままに、色・想・受・思〔すなわち行〕・識の蘊を〔諦執により〕行ずるならば、「この蘊は空だ」と分別しても、菩薩は(D2b)〔諦執の〕相を行じて、〔勝義として〕無生の処を信ずるわけではない。
(〔忍の〕行相は、)
v.10)〔勝義として〕色を行じない、受を行じない、想・思を行じない、識を行じない、〔何にも〕住することなく〔ただ言説として〕行ずる者− 彼は、「行ずる」ということを認得しないし、般若〔・智恵〕が堅固である。無生の知を持つ者は、(ブッダシュリーは、これから第一法に結びつける)寂静であり最上である等持(三昧)に触れる。
(〔第四: 〕第一法の所縁は、)
v.11)菩薩 − そのようにここに自己が寂静に住する者 − 彼は、昔の仏により〔正覚へ〕授記されたものである。「私は等至〔に入定〕した」とか「〔等至から〕立った」という〔諦執による〕慢心が無い。なぜかというと、〔蘊など一切〕法の〔、勝義として空たる〕自性を遍知し〔、心一境に専注し〕ているからである。
v.12)そのように行ずるなら、諸々の善逝の〔説かれた〕智恵を行ずる。彼は〔諦執による〕行無きことが行であるとよく知っているから、およそ行ずる法 − それをもまた、〔勝義として〕認得(K3b)することにならない。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
(〔第二: 果〔である〕相応・断除・証得の差別について、煖など四つの加行道の所断である所取分別、能取分別四つがある。そのうち、〔捨てられるべき〕雑染分と〔取るべき〕清浄分とについて諦執する〕所取分別の二つは、)
v.13)〔諦として現れるように〕有るのではないもの − それは、〔諦として〕無いというべきである。幼稚な者〔、凡夫〕たちはそれ〔ら所取の法〕を分別し、有る・無いとなす。〔諦として〕有る・〔言説としても〕無いのこの二つ〔の辺〕は、無い法である。(〔実有の人と仮設の人についての〕能取分別の第一〔、実有の人についての能取分別〕は、)菩薩〔すなわち〕これを知り(これは清浄の所取分別についてもたびたび加行し、)〔輪廻から〕出離する者、
v.14)ここに五蘊を〔現れるが無い〕幻のようだと知るし、(能取分別の第二〔、仮設の人についての能取分別〕は、)幻は他で、蘊は他だとしない、〔諦だと思い込む〕種々の想いを離れていて、寂静を行ずる者 − これが、〔道である〕最上の般若波羅蜜を行ずるのである。
(〔第三: 因である〕摂取〔、善知識の差別〕は、)
v.15)善知識を持って〔止住と〕勝観〔の双運〕をそなえた者は、勝者たちの母〔・般若波羅蜜〕を聞いて、怖れは無いであろう。(そのように摂取の差別を、肯定的随伴を通じて説いた。また否定的随伴を通じて説くのが、)悪友を持って他者に頼る者 − 彼は〔この空性を聞く器ではない。例えば〕、水が触れた焼いていない器が壊れるようなもの〔である〕。
(〔十法の〕第四、大乗の修行の依処、本性住の種姓〔の十三〕を説くには、)
v.16)なぜこれは菩薩というのかというと、〔二障の〕執着を断つもの、すべてへの〔諦執による〕執着を尽きさせたいと欲する〔から〕。
(〔十法の〕第五、修行の所縁〔の十一〕を説明するには、)
諸々の勝者の無執着な正覚に触れる。よって、これは「菩薩」という名を得る。
(〔十法の〕第六、所期の三つの大性〔、発心の大性、断除の大性、証得の大性〕は、)
v.17)なぜ彼を大薩?〔・摩訶薩〕というのかというと、有情の大衆の〔中で〕最上の者となっている。有情界の大きな〔誤った〕見を断つ。ゆえに、「大薩?」と呼ばれる。
(〔十法の〕第七、〔四つの修行のうち、〕鎧の修行〔の六〕を説明するには、)
v.18)大きな施と大きな知と大きな威力と、(ブッダシュリーは、ここから発趣の修行としている。)諸々の勝者の(K4a)最上の大乗〔の道− 六波羅蜜〕に〔入った、〕発趣したことと、
(〔十法の〕第八、発趣の修行〔の九〕を説明するには、)
〔所対治分に負けないために〕大なる(D3a)鎧を被って、魔の誑かしを降伏する。ゆえに「大薩?」と呼ばれる。
(〔十法の〕第九、資糧の修行〔の十七〕を説くには、)
v.19)例えば、幻術師が四つ辻に化作をして、大衆の幾千万の頭を斬るが、〔実は一人も殺されていない。〕それら殺される者のように、〔同じく、世の〕衆生すべては化作に似ていることを、菩薩は知っている。彼に怖れは無い。
v.20)色・想・受・思〔すなわち行〕・識は〔勝義として〕繋縛されていないし、解脱していない。有るのではない。そのように正覚に発趣して〔・入って、虚無に〕萎縮する心が無い。これが勝れた人たちの最上の鎧である。
v.21)なぜこれは菩薩の大乗というのかというと、彼はそれに乗って一切有情を〔無住〕涅槃させる− この乗は〔広大であり、〕虚空と似ていて、大きな無量宮。〔次第に当面と究竟の〕歓喜、幸福、安楽を現に得させる最上の乗〔である〕。
v.22)それに乗って各方へ往くもの〔、道または歓喜地などの菩薩〕は、不可得である。涅槃に往くと説かれているのは、〔勝義として〕往くことは認得されない。例えば、火が滅して、その火が去るべき〔方向〕は無いように、その因〔・理由〕により、〔障を断じた〕それは〔言説として〕「涅槃」と呼ばれる。
v.23)〔勝義として〕菩薩は前の辺際〔の因〕と後の辺際〔の果〕と現在〔の自体〕において認得されない。〔よって、自性により〕三世〔の諸法〕は清浄である。清浄であるものは、無為であり、〔分別の〕戯論が無い。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
(〔十法の〕第十、〔清浄な三地の〕出離の修行〔の八〕を説くには、)
v.24)〔善巧な〕賢者で了知する菩薩は〔清浄な地を得た〕或るとき、〔一切法の〕無生を思惟してこのように行ずるし、〔一切有情へ〕大悲を生じさせるが、〔諦として〕有情との想いが無い。これが最上の(K4b)般若波羅蜜の行である。
v.25)もし、〔諦として〕有情との想い、苦との想いを生じさせて、「〔世の〕衆生の利益を為そう、苦を捨てよう」といって我と有情を妄分別するその菩薩 − これは、最上の般若波羅蜜を行ずるものではない。
v.26)〔五蘊に仮設されただけで自性空である〕我のように一切有情を知る。一切有情のように〔内外の〕一切法を知る。〔勝義としての〕無生と〔言説としての〕生との両者として分別しない。これが最上の般若波羅蜜を行ずることである。
v.27)諸世間に〔「これは色」などと〕あるかぎりの法の名を述べたすべてについて、生と正しき超越〔・滅との諦執〕とを(D3b)捨てて、無死〔・甘露〕であり勝れたもの、それより他の無い智慧を、得た。ゆえに、これは「般若波羅蜜」という。
v.28)菩薩 − 疑いがなくそのように行じて智恵〔の波羅蜜〕を持った彼は、〔輪廻と涅槃の一切法の〕平等性に住することを、知るべきである。諸法は無自性であると遍知している。これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。
(〔以上が、〕「一切相智性への発趣の章、第1」。〔以上が、〕『現観荘厳論』の第一品〔、一切相智性〕。)


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