第9号 1968年4月から1968年9月まで


序論
この号には、クリシュナジの仕事の組織にとってきわめて意義深かったことが、扱われている − すなわち、彼の、ラージャゴパルと〔その支配下の〕KWINC〔クリシュナムルティ著作協会〕との公式の断絶と、〔イングランドの新しい〕クリシュナムルティ信託財団(The Krishnamurti Foundation Trust)の創設である。これには、断絶を公にすることと、また、クリシュナジの講話の予定、来たるべき出版と、彼の仕事への貢献の仕方に関心を持つ人たちに、情報提供をする機構を、速やかに設けることが、含まれていた。
 また、彼の著作権を取り戻すために、最初の動きが行われた − クリシュナジが自らの仕事のために取り戻すことが必要な、致命的な支配権の要素である。
 メアリーは、講話の前と後でのクリシュナジの状態についての以前の議論に、さらに付け加える。そして、それと、クリシュナジの生に存在してきた〔神秘体験の〕「プロセス」とを結びつける。
 また、イングランドでの学校の場所を見つけることに対して、最初の介入が見られる。

以下、未整理

メアリー・ジンバリストの回顧録 第9号
スコット−私たちは4月25日から始めようとしています。
メアリー−そうね、私たちは、クリシュナジと私と〔秘書役の〕アラン・ノーデがパリにいて、デ・ヴェルダン通りの小さな住宅で生活していたときで、止めたと思います。クリシュナジは、パリのラ・サル・デ・ラ・シミエで講話を行うために、そこにいました。彼は5回の講話を行って、若者たちとの討論を行いました。それを4回行ったと思います。彼の残りの生活は、いつものように、人々と会うこと、そしてまた午後の散歩でした。私たちは「〔ブローニュの〕森」で、または「森」の〔公園〕バガテルで散歩したものです。さもなければ、ちょっと買い物をしました。パリには、私たちが一緒に昼食をした様々な人たちが、いました。または、彼らが私たちと昼食をしました。その年、私たちは男性シェフを雇いました − 彼が住宅での食事を作りました。それで、私たちは食事に人々を招きました。彼らは一般的に、デ・マンツィアーリ家のような人たちでした − 〔四姉弟のうち、二番目で長男の〕サチャ* と〔三番目で二女の〕マーです。また或る日には〔長女のミマ・〕ポーター夫人も昼食に来ました。
スコット−ああ!
メアリー−〔K著作協会副会長の〕ミマ・ポーター(Mima Porter)は、クリシュナジの伝言を〔会長の〕ラージャゴパルに伝えてくれると考えられる人でした。そして、何か結果が出るだろう、と彼女は言いました。まあ、事実は、何の結果もなかったです。
スコット−少し止まってもいいですか・・・クリシュナジが若者たちとこれら討論会を行ったとき、彼はフランス語で行ったんですか。
メアリー−いえ、いえ。彼は英語で行いました。彼らはフランス語で一、二の質問をしたかもしれません・・・私はそこに行きませんでした。だから、お教えできません。
スコット−討論会はどこで行われたんですか。
メアリー−アランと私は、私が以前に泊まったホテルに、部屋を借りました − そこは、デ・バック通り(Rue de Bac)近く、パリのその地域の、ポワン・ロワイヤル(the Pont Royale)です。私たちは、会合のできる部屋を借りました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−私は一、二回は行ったと思いますが、すべてには行きませんでした。私の思い起こすところ、ほとんどそれは英語ででした。もしもすべてがフランス語でだったなら、私は憶えているでしょう。クリシュナジは英語を話していました。明白に彼らは理解していました。さて、これは、フランスで言うところの「意思表示」の年ですから、興味深いです − 学生の反乱です。
スコット−ああ、はい。
メアリー−まあ、彼らはほとんど政府をひっくり返しそうでした。
メアリー−憶えています。
メアリー−私たちはその時点で言われました − 誰だったかな。ナディア・コシアコフにです。彼女を憶えていますか。
スコット−ええ、憶えています。
メアリー−彼女はその頃、フランス語の本の出版に関わっていました。彼女はかなり若者、学生、革命、それらのことに関与していました。彼女はソルボンヌ〔大学〕に行ったものです。見たところ、彼らのおもな集会の部屋の一つに、です。なぜなら、その時点で学生たちはソルボンヌを占拠したからです。彼らは黒板にクリシュナジの言葉を書いていました。(スコット、笑う)見たところ、集会の精神です。私たちはそれを言われたんですが、感情がどれほど強烈だったのかは悟りませんでした。
 私の追憶は、私たちがパリを発った日 − それは5月3日だったと思います − 私たちは〔北に向かう〕ノール自動車道(the auto-route du Nord)を、〔フランス北部、ベルギー国境の都市〕リール(Lille)とベルギーに向かって、運転していました − それらが目指すところでした。暴動が始まったのはその日でした。学生たちは、歩道の石を剥がして、投げていました。
 どうしてか、私は、クリシュナジの存在が(スコット、笑う)それらの構成要素だと感じました。でも、たぶん私は想像しているだけでしょう。
スコット−まあ、誰に分かりますか。二年前にパリで再びデモがありました。誰かが私に、学生たちの集団がクリシュナジからの引用を載せた垂れ幕を運んでいる写真を、見せてくれました。
メアリー−本当ですか。
スコット−ええ。(笑う)
メアリー−まあ、そうなのね。(クスクス笑う)それで、私たちは、歩道の石が飛ぶ前に、出て行って、それに気づきませんでした。私たちはベルギーに着くまで、何が起きたのかを知りませんでした。
 他は何かな。ああ、〔フランスの実業家のジェラール・〕ブリッツがやってきました。ブリッツはイングランドに行っていて、メアリー・カドガンとともに、〔事務弁護士〕マイケル・ルービンシュタインに会いに行っていたんです。なぜなら、これは、人々が「クリシュナジがKWINC〔、クリシュナムルティ著作協会〕と縁を切りたいのなら、私たちは何をしなくてはいけないのか。」と言いはじめているときだったからです。それで、これが差し迫っていました。でも、私たちは行ってしまい、〔ベルギー北西部フランデレン地方の都市〕ブルッヘ(Bruges)の外の、オーストカンプ(Oostkamp)で夜を過ごしました − シャトー・デ・ブリデス(Chateau des Brides)で、です − そこはかなり風格のある公園で、まったくすてきです。私がミシュランで見つけたところだと思います。
 翌日、私たちはブルッヘに入って、〔15世紀フランドルの画家、ハンス・〕メムリンクの作品(the Memlings)を見に立ち寄りました。
スコット−ええ。
メアリー−ブルッヘの都市には、ミケランジェロの彫像があります − これはまったく美しい。それから私たちは、あれら巨大な堤防の一つを横切りました。この堤防は・・・やれまあ、その名前は何ですか。横切って運転するところです。そこは、〔干拓地の拡がる〕オランダの外側の防護の一部分です。
 私たちは今もうオランダにいました。私たちは〔オランダ西部の街〕ノールドワイク(Noordwijk)に向かっていました − そこに、〔オランダの担当者〕アンネッケ〔・コーンドルファー〕が住宅を取っておいたんです。そこは、ちょうど砂浜に面しているか、ちょうど砂浜の上にあるのが、分かりました。それはすてきに聞こえましたが、私たちはそこに着いたとき、さほど夢中にならなかった。きびしかったんです。(笑う)
スコット−そうでしたか。
メアリー−住宅はだいじょうぶでした。そこは、たくさんの階段があって、一種、まとまりのない海辺の住宅でした。でも、寒くて湿気っていました。北海から風がやってきました。
スコット−(笑う)ええ、感じは分かります。
メアリー−一夜の後、私たちは、「だめ、だめ。ここはクリシュナジにとってありえない。彼にとって悪い。」と言いました。私はあたりのどこでも、あらゆるホテルを調べましたが、何もない。部屋も、一部屋もです。だから、向き合わなくてはいけなかった − この住宅に泊まらなくてはいけなかったんですが、そこは、私たちの泊まったなかで、すてきな場所の一つではなかった。
スコット−何のために、オランダに行こうとしていましたか。
メアリー−まあ、アムステルダムでの講話のために、そこに行こうとしていました。
スコット−ああ、68年にですか。
メアリー−ええ。近くには小さな森がありました − そこは散歩するには適切でした。大きくなかったし。ともあれ、私たちは住み込みました。
 二日目か何かに、私たちはチューリップを見に行ったと思います − 〔オランダ南部の〕キューケンホフ〔公園〕(Keukenhof)というところに、です。
スコット−ああ、キューケンホフね。ええ。
メアリー−すてきでした。
スコット−ええ。最高の季節でしたか。
メアリー−ええ。
スコット−ああ、すばらしい!
メアリー−チューリップはまばゆかったです。
スコット−ええ、ええ。(メアリー、クスクス笑う)水仙もありました!すばらしい。
メアリー−ええ。本当にすてきでした。それで、愉快でした。
 それから、私は、そちら側からアムステルダムの〔コンベンション・センター〕RAIにどう行くのかについて − それは違っていました − 調査しなくてはいけませんでした。クリシュナジは私と一緒に来たんですが、私は救いようもなく迷ってしまいました。(クスクス笑う)それで、私は翌日もう一回行って、最終的に道筋を見つけました。彼の講話は5月11日に始まることになっていました。
 5月8日に、クリシュナジとアランとアンネッケと私は、クリシュナジが人々の質問に答えるのを録画するため、〔オランダ北西部の街、〕バッセム(Bussum)へ運転して行きました。私たちは、クリシュナジが約四十分間に八つの質問に答えているとき、テレビで見ました。欠陥なしでした。
 質問は誰かが読み上げたんですが、ためらいもなく、秀逸な返答が出てきました。
スコット−誰が質問者とか質問を選びましたか。
メアリー−放送局の人たちだと思います。アランか私が、前もって一目見たかもしれません。よく憶えていません。でも、クリシュナジはそれらを見ていませんでした。実質、マイクロフォンを付けて言葉を完璧に言う彼の能力が、もう一度立証されました。(クスクス笑う)すてきでした。
スコット−では、アランとアンネッケもまた住宅に泊まっていましたか。
メアリー−ああ、そうです。ええ、そうです。
スコット−彼女は料理をしていましたか。それとも・・・
メアリー−彼女は料理をしていました。
スコット−他に誰かいましたか。
メアリー−いいえ。ああ、待って。そうじゃない。パリで雇ったシェフが、私たちがそこに着いた2日後に、列車で到着しました。彼が料理をしました。だから、マーケットの買い物の仕事だけがありました。
スコット−パリでのそのシェフはどうやって見つけましたたか。
メアリー−マルセル・ボンドノーのような誰かか、たぶんジゼラ・エルメンホーストが代理店に行って、シェフを見つけたんだと思います。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−彼の名前はアンドレでした。彼の存在は、残りの私たちたちがさほどくたびれないという意味でした。それで、私たちは元気にノールドワイクへのお出かけをしたんです。散歩するのにもっといい森を見つけました。でも、やはりすばらしくはなかった。寒かったし、風が強かった。雨が降りました。ヒューヒューと鳴っていました。(スコット、クスクス笑う)
 〔5月11日、〕クリシュナジの〔73歳の〕誕生日がやってきましたが、いつものように、私たちはわざわざそれを言い出しませんでした。(スコット、笑う)それは、彼が〔アムステルダムでの〕第1回の講話を行う日でした。
スコット−ああ。
メアリー−私たちは昼食に戻りました。そこへ行くには約三十五分掛かるだけでした。だから、悪くはなかった。それが始まりでした。その日、アランはオランダのテレビの人たちに会いに行ったと思います。彼がそこにいる間、住宅の持ち主が昼食に来ました。(声に笑い)なぜなら、彼は自分の有名な借り主に会いたいと思ったからです。思い起こすところでは、かなりやっかいでした。そのことはあまり憶えていませんが、良き瞬間の一つではなかった。(二人とも笑う)
 他に何が起きたのかを見ましょう。私たちは或る日、〔北海沿岸の都市デン・〕ハーグに行って、見て回りました。もちろん人々が昼食に来ました − 〔イングランドから、〕ドリス・プラットが来ました。メアリー・カドガンが来ました。ディグビー夫妻も来たと思います。
スコット−ふむ。
メアリー−でも、ともあれ、私たちは自分たちで(笑う)楽しみました。メアリーとジョー〔・リンクス夫妻〕が来たと思います。
 第5回の講話の後、家に戻っていると、彼にはあれらおかしな気絶が起こりました − 車の中で彼は突然、倒れ込みました。でも、彼はすぐに気がつきました。
スコット−他の誰が車にいたんでしょうか。あなただけでしたか。それとも、アランがそこにいましたか。
メアリー−私だけだと思います。アランは留まっていなかったでしょう。でも、その日はRAIでの特にきつい一日でした。なぜなら、ホールが一杯だっただけではなく、外のホール全体が、テレビで見ている150人の人たちで、充たされていたからです。多くの人たちが、後で彼へ近寄ってきました。彼はそれらの頃と他の頃もまた、彼はとても強烈な講話を行ったとき、ぼーっとしたかのように出てきたものです。彼は或る種、立ちつくしていました。考えは、彼から人たちを遠ざけておくことでした。でも、彼はいつも人々に遠ざけてほしくはなかった。彼はよそよそしくしたくなかったんです。
スコット−〔彼の人生の〕終わりまでずっとそのように続きました。
メアリー−ええ。それで、人々は近寄ってきて、見えたのは彼が或る種・・・たじろぐのではなくて、彼の体は、自らの感じ方から出てきて、その人物に答えようとする努力から、震えたものです。私はいつも人々を止めたいと思いました。
スコット−分かります。
メアリー−見るのは痛ましかったです。
スコット−分かります。
メアリー−彼がホールの外側でそこに立っていて、これが起きているのが、見えました。
スコット−ええ。私はそれを見てきました。彼がステージにいて、彼が最後の日々に呼んだところのあの「巨大なエネルギー」が溢れ出ているとき、人々が本当に愚かしい質問とか、たとえ攻撃的な質問をするときも、彼は揺るぎえなかった。彼には何も脆弱なところがなかったんです。
メアリー−ええ、何も。人々が、そうねえ、おかしな人たちが立ち上がったときでさえ、彼はそれに対処して、彼らを鎮まらせたものです。
スコット−ええ。絶対にです。絶対にです。
メアリー−何が起きたとしても、彼は完全に制御されていました。
スコット−けれども、彼は、通常の状態への移行で、ものすごく脆弱でした。
メアリー−ええ。誰かが彼に近寄ってくるのは、彼にとって物理的な一撃に似ていたかもしれません。
 何回も何回もありました。講話の後は、彼と絶対に静かにしていなくてはいけない特別な例だったと、思います。それで、例えば〔スイスの〕サーネンで起きたんです。私の仕事は、〔テントでの〕講話の後で可能なだけ素早く彼を車に入れることでした。それから彼は、時にはただ運転するのを望んだり、ただ車で静かに座っていました。私は運転して運転して、ついに彼は、「よろしい。戻ろう。」と言いました。それは、何であれ彼の入っている高揚した行動の状態から、出てくるようなことでした。それをどう定義すべきかは分かりません。それから、この特定の日の気絶は、その一部だったかもしれません − そういう言葉があるのなら、減速することが実際に必要でした。または、体を離れることは − 気絶はそれだったんですが − 彼が私に言ったことによれば、あり方だった・・・あれの顕現でした。
スコット−もう一度仰ってください。
メアリー−まあ、様々なときに彼に起こったこの気絶は、見たところ・・・または、彼は言いました。それは私が訊ねたときでした − 彼は、「あれは体を離れているんです。」と言いました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−彼はいつも初めに、「体に触れないで。」と言いました − 言い換えると、すべてをそのままにしておいてくれ、身振りや質問により介入しようと試みないでくれ、と。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−何も言うな、ただそこにいなさい、と。私がかつてやったただ一つのことは − 私は前にこれらの対談で説明したことがありますが − 〔車を運転中に、助手席の〕彼が倒れそうになったときです。私は、彼が着地したとき、私の前腕になるよう動きました。それは、ソファーに着地するのと何も違っていませんでした。私は、彼の頭がハンドルにぶつかるのを、回避しようとしていました。それで、それが違っていました。私は何かをしていませんでした。私は彼を保護するよう、彼の行方を妨害しただけです。
スコット−理解できます。ええ。
メアリー−でも、それらは必要なことでした − 干渉しないこと、神経質でいないことです。それもまた一つでした。「心配しないでください。」と。それは始まりのことでした − そのとき彼は、「怖がらないで。起きるのなら、起きるんです。ただ静かでいてください。恐れをなさないでください。」と言いました。それで私は、彼がほとんど無意識でいること − 自分がどこにいるか知らないような類いのこと − から出てくることの間には、つながりがある、と思います。彼が自分がどこにいるかを知らないということではなくて、自らの精神を人々のふつうの知覚へギアを下げ、人々へ語らなくてはいけなかった。彼は、他のあの状態、通常の状態に戻られる前に、ちょっとの間、静かにしなくてはなりませんでした。
スコット−では、メアリー、これはもちろん、クリシュナジが「プロセス」と呼んでいたことと何か関係があります。それはとても多く書かれてきました − 体から抜け出る、気絶するという意味で、ね。
メアリー−私が理解するなら、「プロセス」は体から抜け出すことでした − それは、誰もが、起きている痛みを部分的に回避することだと批判できました。〔神秘体験において〕痛みがあまりに激しくなったとき、〔オーハイでの弟〕ニトヤの記録に言われるようにですが、クリシュナは去ってしまい、体を離れた − それは、小さな子どもの声で例証されました。それに対処するための、です。それがニトヤの記述だったように思えます。私はそれに何も加えようがありません。もちろん、秘教的なことに関わっているなら、体から抜け出すことは、とほうもないことではありません。
スコット−ええ。それは、彼が講話した直後のこの状態に、この気絶に何か関係があるように見える、というだけです − クリシュナジの部分だった幾つものことに、です。たとえ・・・私には分かりません。彼は時々例えば、自分はすばらしい冥想をする、と言いました。彼は、誰も冥想と呼ぶようなことを何もしないのに、です。それで、これら、触れておく価値のあることが、あります − 私には分かりませんが、私たちの能力のかぎり、思い起こしておくことは・・・
メアリー−ええ。思い起こす。誰もこれを説明できるとは、私は思いません。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−私たちがそれについて話をすることが、それを説明しようとする努力であるとは、思いません。
スコット−ええ。でも、これらのことを記しておくことは、重要です。
メアリー−私たちが観察したこと、または彼に言われたことを、報告しておくことは。
スコット−ええ。
メアリー−それがどう見えたのかを、です − それは、私の想像だったとか、そのとおりでない結論に私が跳びついたことだったかもしれないということを、心に留めておいて、です。
スコット−さて、私たちがまたこの主題に関わっている間に、これについては前に話したのは分かっていますが、クリシュナジが話そうとする直前の習慣は、直後と違っていました。でも、どうしてか関係していました。私は話しかけるべきではないのも、知っていました。
メアリー−ええ。
スコット−クリシュナジが何かを私に言わないのなら、私は話しかけるべきでなかった。私はただそこにいるべきでした・・・
メアリー−そのとおりです。
スコット−・・・そして、人々を遠ざけておくべきで、本当にただ彼とともに静寂であるべきでした。
メアリー−そのとおりです。
スコット−クリシュナジは何かを経ていきました。それは、彼がただ入ってきて、ステージに歩いてあがっただけではないかのようです。彼は何かを経ていきました。
メアリー−まあ、私の経験で良い例は、サーネンでのことでした − そこで、私が車を停めている間に、彼は〔講話会場の〕テントに歩いて入りました。そのため、彼はきっちりそこに着きました。すべてが静寂で正確でなくてはいけませんでした。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−彼が途中で私に話しかけたなら、それはふつう、「私は何について話をしようか。」というようなことでした − それに対して私はけっして返事をしませんでした。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−それはいわば一種の準備でした。あなたが憶えているように、彼が演台に上がって、誰であれ彼にマイクを付けたとき、そのとき彼はそこに座って、しばらく見ていたものです。それはまるで・・・何なのかは分かりません。どう叙述すべきかは分かりませんが、それは・・・それは何か彼が始めに経ていくことでした。
スコット−ええ、そのとおり。
メアリー−それから、あなたは憶えているでしょうけれど、彼はしばしば、「これは講義ではありません。これは娯楽ではありません。」と言って、講話を始めました。彼は、あの予備的なことを伝えたものです − それは或る種、そのとき彼が何か検討を始めようとしていることへ、楽に入らせるようなことでした。それは後で起きたことと結びついていると、私は思っています。でも、それは違っていました。
スコット−ええ、分かります。言えることは、結びついているように感じられるということだけです。けれども、それは違っているとも感じました。
メアリー−後年には、講話の後でふつう、彼は家に戻ったとき、かなりの間、横になっていました。
スコット−どれほどですか。
メアリー−私たちがどこにいるのか次第です。でも、ああ、少なくとも三十分は。
スコット−彼は〔イングランドの〕ブロックウッドでの講話の後では、横になりませんでした。
メアリー−ええ。
スコット−なぜなら、彼は〔テントに〕やってきて、ここで何か食べ物を受けとったからです(原註1) − サラダとか何かそのようなものです。
メアリー−ええ。彼は〔一回、邸宅に戻り、〕自室かバスルームに入ったものです。その合間に、私はサラダと果物をテーブルに置いておきました。それから彼は出てきて、座って食べました。でも、それから彼は、窓の外を眺め、〔会場のテントに集まった〕人々について批評して、或る種、緊張を解いたものです・・・
スコット−分かります。
メアリー−それは(クスクス笑う)、それはふつうかなり批判的でした。
スコット−(笑う)ええ、憶えています。
メアリー−人々は・・・
スコット−特に、芝生に駐車していたり、何か滑稽なことをしている人々には、ね。
メアリー−ええ、何かです。それから、彼は食べおわった後、そのとき彼は〔会場の〕テントに戻り、違った水準で人々に向き合いました。でも、彼はその後、戻ってきたとき、彼はすぐに眠りました。
スコット−ふむ、ふむ、ふむ。
メアリー−彼があれら講話の中で出したことを考えると、それは驚くべきことではないわ。
スコット−ええ。
メアリー−私は、私たちが今言ったこと以上にしようとしたいと思いません。
スコット−ええ、ええ。ともあれ、戻りますと・・・
メアリー−〔オランダ西部の街の、〕ノールドワイク(Noordwijk)に戻ります。(メアリーの話を聴く)*
 〔アムステルダムでの〕講話は終わりました。私たちは発ちました。クリシュナジは私とメルセデスに乗っていました。アランは、たくさんの荷物を積んで、自分のフォルクスワーゲンに乗っていました。私たちはオランダを横切り、〔ベルギーとオランダに接する都市〕アーヘン経由でドイツに入りました。この旅行で私たちは〔南東方向に進み〕、どこか〔ドイツ中央部の都市〕フランクフルトの近くで会って、ピクニックの昼食をとった、と思います。ああ、いや、私たちだけでピクニックの昼食をとりました。アランは一人で行きました − 〔ドイツの高速道路〕アウトバーンでは互いに後を付けられなかったんです。あまりに難しすぎました。だから、私たちは運転して、すてきな森でピクニックの昼食をとりました。それから〔南方向へ、シュヴァルツヴァルトの北端、〕エットリンゲン(Ettlingen)へ運転をつづけました − そこは、カールスルーエ(Karlsruhe)の近くでした。そこで止まるつもりだったんです。私たちはそこでアランと会いました。そこは、エルプリンツ・ホテル(the Erbprinz Hotel)と呼ばれるところだったと思います。そこで部屋を取りました。良いホテルでした。〔パリ在住の〕父が私に、そこのことを話してくれていたんです。とても良いホテルです。
スコット−ふむ、ふむ、ふむ。
メアリー−私は、私たちの部屋を予約しておきましたが、そこに着いて、何か飲み物を求めて入ったときのことでした。私は、彼が夜を過ごしたくない、彼はさらに進んで〔スイスの〕グシュタードに着き、旅行を終わらせたいと思っていることは、分かりました。それで私は、「まあ、私は一瓶のコーヒーが飲めるなら、スペインまで運転できます!」と言いました。私が運転をすべてやっていました。(スコット、クスクス笑う)それで、彼らは私に、すてきな小さなケーキとともに、一番すばらしいコーヒーの大きな瓶を丸ごと持ってきてくれました。クリシュナジはハーブ茶をもらいました。私は瓶を丸ごと飲んじゃいました。
スコット−(心から笑う)・・・そして疾走していった!(もっと笑う)
メアリー−何でもできると感じました!それで、運転をつづけました。〔オランダ西部の〕ノールドワイクから〔スイス、〕グシュタードへ、600マイル〔、約960キロメートル〕の運転でした。私たちはそこに午後10時に着きました。マダム・デュプレー(Madame Duperrex)は〔アパートメント・ハウス、〕レ・カプリスの接客係だったんですが、彼女がすべてを整えてくれました。でも、彼女は私たちを(クスクス笑う)翌朝まで予期していなかった。だから、私たちはやってきて、あのばかげたエレベーターで上がっていきましたが、フラットに入れませんでした。それで、アランが外へ出て、彼女がどこにいるかを見出しました。彼女は結局、午後11時頃に戻ってきて、私たちを入れてくれました。私はいつものフラットをとりました。クリシュナジは、私とともに泊まりました。アランはスタジオをとりました − そう呼ばれていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−でも、そこに着きました。長い運転でした。
スコット−(クスクス笑う)ええ、そうだったでしょう。
メアリー−〔ドイツの高速道路〕アウトバーンでの運転は、憶えています − そこでは〔速度制限がないので〕、どの車もみんな私を追い越していきました。私はスピード・メーターを一瞥しましたが、時速110マイル〔、約176キロメートル〕で走っていました。(スコット、心から笑う。メアリー、クスクス笑う)たいへんな衝撃でした。なぜなら、まるで私たちが50マイル〔、約80キロメートル〕で走っているかのようでしたから。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−(軽くクスクス笑う)それで、そのようにして〔スイス、〕サーネンに着きました。さて、サーネンでは何が起きるのか。
スコット−日付はどうですか − 時間の順序の感覚を何か保っておくためです。
メアリー−私たちは1968年5月25日に発ちました。
 次の二、三日、私たちは荷物を解いていて、すてきな散歩に行っています。
 それから、28日にロンドンの〔事務弁護士〕ルービンシュタインから、著作権は〔ラージャゴパルのK著作協会から〕回復できるという知らせを、もらいました。
スコット−すばらしい。
メアリー−あれは大きなジャンプでした。
スコット−ええ。
メアリー−私たちはまた、〔イングランドに作ることが決まった〕学校についても話をしていました − 彼らが〔イングランド南東部、〕カンタベリー近くに何かを見つけたということについて、です。それは、〔校長になるはずの〕ドロシー〔・シモンズ〕とたぶん〔建築家〕ドナルド・ホッペン(Donald Hoppen)(原註2)と〔ドロシーの夫〕モンターニュ〔・シモンズ〕という意味です。結局、「いや、カンタベリーはありえない。」と言われました。でも、その日に私たちは、よし、たぶんカンタベリーにできるかもしれない、ということを聞きました。でも、それはあまり長続きしなかった。なぜなら、カンタベリー近くの場所はだめだろうということが、決定したからです。
 それから私は、5月30日に(これはパリへの言及です)ド・ゴール〔大統領〕が学生たちと戦うために軍隊を導入するかわりに − それは本当の革命になったでしょう − 国民投票を求めたことを、憶えています。彼は、「国民投票を行おう」と言いました。それで学生たちは収束しました。事態は沈静化しました。
 先日、おもしろかったです − 私は誰かと話をしていました。私は「あなたはあの期間にパリにいましたか。」と言いました。彼は、「ああ、そうです!」と言いました。そして、何が起きていたのか。彼はすべてを見るために、通りに駆け出しました。彼は、自分の視点からどのようだったかを、言いました。私は、クリシュナジのと私の視点からどうのようだったのかを、言いました。
スコット−ふむ。私はそれを忘れてしまっていました。
メアリー−ええ。それで、あの時点では著しいことです。それからパリからのニュースは、毎日、良くなりました − 毎日、静かになったという意味です。
 ここ〔日記〕には、クリシュナジがテープ・レコーダーに、学校への手紙を口述した、と言っています − ふつう彼がしなかったことです。彼はふつう私に対して口述しました。でも、彼はその日、〔録音〕テープを作りました。それはどうなったのかと思います。それから私たちは、トゥーンで彼の車を受けとるのと、私の車を点検修理してもらうために、行きました。
スコット−まあ、それ〔手紙〕はインドの諸学校宛だったんでしょう。
メアリー−ええ、ええ。私たちには〔イングランドにも、カリフォルニアにも〕まだ学校がなかった。ええ、それはインド宛でした。
スコット−なぜ彼がそうしたのか、憶えていませんか。なぜなら、それは異例のことでしょう。
メアリー−憶えていません。
 まあ、それから、〔サーネンの南東方向の〕ラウェネン(Lauenen)のほうへ大いに散歩しました。樹々の下にはまだ雪があったのを、憶えています。暖かかったですが、〔アルプスの〕山々は白かった。樹々の下の、陰のあるところには、まだ雪がありました。
スコット−ふむ。
メアリー−美しい、幸せな日々です。私たちは〔東の方の〕トゥルバッハ(Turbach)のような場所へ運転していって、歩いて上がりました。おかしくないですか。
スコット−ええ。
メアリー−トゥルバッハ、川を下って。
 ここ〔日記〕には、6月4日にカリフォルニア〔州〕で〔アメリカ大統領の〕予備選挙があって、ロバート・ケネディがカリフォルニアで〔民主党の〕大統領候補に選ばれたが、次の夜、私たちは彼が銃撃され〔て死亡し〕たとのひどい衝撃を受けたことを、言っています。私にとって恐ろしいことでしたし、クリシュナジも相当、それに衝撃を受けました。それは或る面で、その年すでに、私たちが〔4月にパリのレストラン、〕バルビゾンで晩餐をとっていたとき、マーチン・ルーサー・キング〔牧師〕が銃撃されたときだったからです。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−ここでまたもやです。とても醜く暴力的で。
 クリシュナジはたいへん衝撃を受けました。
 うーん。ええと。(長い休止)私たちは、〔スイス西部、レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴでいつものしきたりのことをするために、ジュネーヴに入りました − 〔腕時計の〕パテクなど、慣れ親しんだ行程です。
スコット−〔洋装店、〕ジャケ(Jacquet)と・・・
メアリー−ジャケ。〔そこで〕ネクタイを注文しました。(スコット、クスクス笑う)私たちはバス・ローブを買いました。私たちがみんな着たあれらバス・ローブ、タオル地のバス・ローブです。夜はオテル・ドゥ・ローヌで過ごしました。私たちは映画にも行きました − 〔1967年のアメリカ映画〕『招かれざる客(Guess Who’s Coming to Dinner)』・・・古い、まあ、古いものです。そのときは新しかったんです。誰が・・・
スコット−ええ、憶えています。〔黒人俳優〕シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)が出て。
メアリー−・・・キャサリン・ヘプバーンとシドニー・ポワチエとスペンサー・トレーシー。ああ、(クスクス笑う)クリシュナジとアランは、同種療法医、シュミット博士に会いに行って、良い報告をもらいました。彼らは他に何をしたのかな。ああ、私たちは翌日、もう一つの映画、『ジュテーム、ジュテーム(Je t’aime, Je t’aime)』というのへ、行きました。それが何だったのか、思い出せません。フランスの〔SF〕映画でした。(クスクス笑う)それから、私たちは戻ってきて、ローザンヌでは昼食にグラッペ・ドオー(the Grappe D'Or)に立ち寄りました。なかなか楽しい食事で、好きな場所でした。
 それから何が起きたのか。私たちは、〔ラージャゴパルのK著作協会から、クリシュナジの〕著作権の回復が可能なようだとの確証を、もらいました。で、それは愉快でした。
 〔アメリカの経済学者、外交官〕ジョン・ケネス・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)(原註3)がお茶に来ました。
スコット−ふむ。
メアリー−私たちはまだみんな、〔アパートメント・ハウスの〕カプリスにいます。
スコット−私は知らなかったんですが、彼は・・・
メアリー−ガルブレイスはグシュタードでちょっと時間を過ごしたものです。クリシュナジは前に彼に会っていました。私もです。
スコット−彼は教えを賞賛する人だったんですか。
メアリー−気づくでしょうが、そうでもなかった。でも、彼はクリシュナジに興味を持っていて、彼にたいへん尊敬を持っていました。彼が教えに対してどれほど注意を払ったのか、私は知りません。
 6月25日に私たちは、〔ロンドンの〕メアリー・カドガンから、もう一つの学校の候補地が見つかったとの知らせを、もらいました。でも、クリシュナジは今回、そこを自らが見るべきだと考えました。私はロンドンのホテルの部屋をとるために、すべて当たってみましたが、ウインブルドン〔のテニス・トーナメント〕の最中だったし、どこも、完全にどこもなかった。私が当たってみたホテルはすべて、〔ホテル、〕クラリッジェスも含めて、少なくとも私の知っているところは、何もしていない。何もなかった。
 27日にクリシュナジとアランと私は、エヴィアンに運転していき、オテル・ロワイヤルですばらしい昼食をとりました。それからジュネーヴへ行き、オテル・ドゥ・ローヌにチェックインしました − そこでもお茶をしました。お使い。それから映画を見ました − 〔イギリスのコメディ映画〕『天使のいたずら(Prudence and the Pill)』です。
 翌日、私たちはグシュタードに戻りました。
 6月30日に〔イギリスから〕メアリーとジョー〔・リンクス〕が到着しました。私たちはお茶をしました。クリシュナジとアランは、枯草熱〔のアレルギー〕が全くひどかった。
 翌日、ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕が〔ローマから〕到着して、タンネグ〔山荘〕を開けました。私は、メアリー、ジョー〔・リンクス夫妻〕、クリシュナジ、アラン〔・ノーデ〕を、パレス・ホテルでの昼食に招きました。〔インドの外交官〕ナラシンハン(Narasimhan)が、マドラス〔、現チェンナイ〕から〔いとこの〕ジャヤラクシュミー〔夫人〕(Jayalakshmi)を連れてきました。彼女はタンネグ〔山荘〕に泊まるでしょう。
 7月3日、〔メアリーとジョー・〕リンクス夫妻はイタリアへ発ちました。クリシュナジは朝早く、〔アパートメント・ハウスの〕カプリスへ来ました。彼は〔華氏〕101度〔、約摂氏38.3度〕の熱がありましたが、計画通り、ジュネーヴに行きたいと思いました。私はクリシュナジのために荷造りをして、私たちはジュネーヴとオテル・ドゥ・ローヌへ発ちました。クリシュナジは車の後部座席で横になりました。その夜、熱は持続して、私は心配しました。
 7月4日に、クリシュナジは熱なく目覚めました。それで、私たち三人は午前9時の便に乗ってロンドンへ飛びました。メアリー・カドガンと〔フランスの実業家、ジェラール・〕ブリッツとジェーン・ハモンドが私たちを出迎えて、〔大ロンドンの北に隣接する〕ハートフォードシャー(Hertfordshire)のアヨット・プレイス(Ayot Place)に運転して行ってくれました − そこが、学校の候補地と考えられたんです。ドロシーとモンターニュ〔・シモンズ〕とディヴィッド・ボームが、そこで私たちを出迎えました。私たちは、場所全体を見て回り、それから芝生でピクニックの昼食をとりました。そこは〔1603-1625年のイギリス国王〕ジェームズ1世時代の建物でした。私は特に好きではなかった。そのまわりの田舎は、もっと建物が建って、もうちょっと郊外でした。良い散歩の場所が何もなかった。クリシュナジがそこでどこに泊まれたのか、分かりません。本当に大きくなかったんです。私は、どこか近くに彼のためのもう一つの住宅を、見つけなくてはならなかったでしょう。でも、そうはならなかった。
 アランはお使いで急いでロンドンに行き、それから空港でクリシュナジと私に加わりました − そこで、私たちは午後5時にジュネーヴへ戻る飛行機に乗り、オテル・ドゥ・ローヌに戻って、そこで私たちの部屋で夕食をとりました。ホテルの状況のために、ロンドンで眠るかわりに、ジュネーヴで眠りました。
 翌日、朝食の後、私たちはグシュタードに戻りました。午後にクリシュナジはオランダのテレビのインタビューを受けました。
 サーネンでの第1回の講話は、7月7日にありました。それは、私たちが、格納庫型テントを使った初めての時でした。
 〔実業家のジェラール・〕ブリッツと〔事務弁護士の〕マイケル・ルービンシュタインが到着しました。KWINC〔、K著作協会〕 との断絶の後で何が起こるだろうかについて、多くの話がありました。
 7月8日にルービンシュタインは、アランと私とともに朝食をとりました。私たちは昼食時にタンネグ〔山荘〕に来るよう呼ばれました。クリシュナジは私とアランと会いましたが、彼は朝、自らブリッツと話したことで、とても困っていました。私たちは午後4時まで話をしました。そのとき、ブリッツとルービンシュタインとメアリー・カドガンとドリス・プラットが、会合に来ました。そのとき、〔ラージャゴパル支配下の〕クリシュナムルティ著作協会との関係を断絶するとの決定が、クリシュナジにより為されました。
 7月9日にクリシュナジの第2回の講話の前に、〔事務弁護士〕マイケル・ルービンシュタインがステージに上がり、聴衆に対して、クリシュナジのKWINC〔、クリシュナムルティ著作協会〕からの離脱と、イングランドに基盤を置いた新しいクリシュナムルティ財団(Krishnamurti Foundation)の創設について、声明を読み上げた − そこは、クリシュナジの希望を反映するだろうし、あるべきとおり、彼の意志がいつもそこに普及することを確保するだろう。人々は、もし彼の仕事を支援したいのなら、新しい財団に貢献してもいい。そういうことでした。ラージャゴパルの名前は持ち出されなかった。なぜ彼が離脱したのかは、説明されませんでした。
 翌日、10日、会合がありました。その頃には、ラージャゴパルが提供していないとき、クリシュナジに提供する基金が、ありました。クリシュナジは終わりにかけて、クリシュナムルティ著作協会などから、自分の世話をするためのお金を受けとろうとしませんでした。幾人もの人たちが寄付した基金がありました。クリシュナジは、〔イングランドの〕アヨット・プレイス(Ayot Place)を買うために、その多くの金額を払うことに決めました。私たちはまだ、アヨット・プレイスのことを考えていました。その日の会合は、諸外国の委員会について、でした。クリシュナジは新しい財団のメンバーの名を挙げました − それは、ブリッツとアランとルービンシュタインとメアリー・リンクスとディグビー夫妻とドロシー・シモンズと私になるはずでした。最終的に財団が実際に作られたとき、変わったんですが、それが彼の最初の選択でした。
 11日にもう一回、諸外国の委員会との会合が、国ごとにありました。午後には、ルービンシュタインと〔メアリー・〕カドガンと私が、彼らみんなと一緒に会いました。晩には7時に私たちは、講話に来ていた合衆国の人たちと会いました。
 会合は翌日、タンネグ〔山荘〕で継続しました − 今回は、イタリア委員会、スイス委員会、南アフリカとフィンランドの代表者たちとです。これら会合には、クリシュナジとアランとカドガンとルービンシュタインと私が、出席していました。
 それから・・・ええっと。私は、クリシュナジが何日にオーハイからの人たちへ話をしたかと、誰さんがそれを録音したかを、見出そうとしています。
スコット−〔オーハイ在住の〕ブラックバーンですか。
メアリー−ブラックバーンです。アル〔バート〕・ブラックバーン(Al Blackburn)が録音しました。クリシュナジは、テープに録るのを正式に認可しませんでした。彼はただ注意を払わなかったと思います。この〔録音〕テープは、ラージャゴパルとの争論の大きな素材になりました。なぜなら、そこにはクリシュナジが、なぜ〔K著作協会と〕縁を切ったのかを、説明していたからです。私たちは後で法廷訴訟をしたとき、ラージャゴパルはこのテープの破棄を望みました。でも、最後には、〔録音〕テープをラージャゴパルに与えて、存在する複製をどれも破棄するのと交換に、〔クリシュナジが1961年から62年に書いた〕『ノートブック(The Notebook)』の原稿を取り戻すという取引でした。事実という点では、アル・ブラックバーンは、私たちに知られずに、一つ〔録音の複製〕を取っておきました。でも、私たちはそれを知りませんでした。
スコット−ふむ、それは今、どこにありますか。
メアリー−まあ、今たぶんアメリカK財団のアーカイヴス〔資料保管庫〕にあるでしょう。(クスクス笑う)
スコット−よし。
メアリー−そう思います。確実には知らないんですが、結局、もちろん、これら〔裁判沙汰〕が終わった後、〔アル・〕ブラックバーンは亡くなったと思います。彼はそれらを遺言で譲ったと思います。結局私たちはテープを得たんです。
スコット−そのテープは何日に作られましたか。
メアリー−7月18日です。
 それから、13日から、ブリッツ、アラン、カドガン、クリシュナジともちろん私とで、さらに会合がありました − 学校のためだけでなく、〔K財団の〕会報(The Bulletin)の計画のためでも、です。そして、人々に、何が起きつつあるかを知らせることと、会報を通して資金を集めることなど、です。私は、この時期に〔南インド、マドラスの有力な支援者〕ジャヤラクシュミー夫人(Mrs.Jayalakshmi)がサーネンにいたこと、そして彼女は食事にタンネグ〔山荘〕にいたことに、触れました
 〔サーネン〕講話はまだ続いていました。私は結局、運転してジャヤラクシュミー夫人をジュネーヴへ送っていきました。彼女は、どこであれ行こうとしている先へ、発ちました、アランは、私が思うには、ああ、そうです。ここ〔日記〕には、アランがその旅行に来たし、私たちはジュネーヴで、〔偉大なバレーダンサー、イギリスの〕フォンテインと〔ロシア出身の〕ヌレエフの出るロイヤル・バレエを、見に行ったことを、言っています。
スコット−ふむ。
メアリー−あれはすてきでした。
スコット−彼らは何を踊っていたんですか。
メアリー−「ロメオとジュリエット」だと思います。ええ。
スコット−ふむ。私は彼らがそれを踊るのを見ました。
メアリー−ええ、ええ。
スコット−とほうもないです。
メアリー−それで、彼と私は翌日、運転して戻りました。グラッペ・ドオー(the Grappe D'Or)で昼食をとり、(笑う。スコット、クスクス笑う)午後にグシュタードに着きました。その間、クリシュナジはテント〔の会場〕で、若者たちとの第1回の会合を行いました。討論会です。これは水曜日のことでした。翌日、彼は第6回の講話を行いました。
 21日にはタンネグ〔山荘〕で、諸外国の委員会のためのお茶がありました。その後、クリシュナジは自分の車で、私を〔東方向の〕レンク(Lenk)へドライブに連れて行ってくれました。
スコット−あなたたちは、あの小さなところを登ったんですか・・・いや、あの散歩道はご存じないでしょう。気にしないでください。
メアリー−散歩はしませんでした。ドライヴしただけです。
 それから、メアリー・カドガンと私は、たくさんの実務をこなしました − それらについては長々と議論しましたが、あまり興味深くないです。
 再びクリシュナジは、若者たちの討論会を行いました。私は午後に村でヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕に出くわしました。彼女は私がタンネグ〔山荘〕に上がってきて、クリシュナジとともに裏の森を通って散歩すべきだと主張しました。
 26日にクリシュナジは、第9回の講話を行いました。タンネグ〔山荘〕でヴァンダとクリシュナジとアランと私自身とで昼食。私はふつう昼食にはそこに上がっていました。ヴァンダがとても親切に私を招いてくれたんです。
 それから第10回の講話。彼はその頃、〔後年より〕とても多くの講話を行いました・・・(脇のスコットへ)この報告では、次の世紀まで掛かるでしょう。
スコット−構いません。(メアリー、クスクス笑う)時間はあります。
メアリー−会合がありました − クリシュナジと私とシモンズ夫妻と私です。私たちは来年、〔イングランドの〕アヨット・プレイスに泊まることについて議論しました。私は、〔クリシュナジ、アラン、私という〕私たち三人のための住宅を探しましょうと、言いました。それから、クリシュナジとアランと私は散歩に行って、住宅について話をしました。(クスクス笑う)
 31日にクリシュナジはテント〔の会場〕で、公開討論会を始めました。そこにはウィンフィールド・ディグビー夫妻(the Wingfield-Digbys)がいて、昼食に来ました。
 8月2日に、ヴァンダは朝早く〔ローマに〕発ちました。私は運転して、クリシュナジを第3回の公開討論会に送って行きました。前に、彼女はそこにいるとき、いつも彼の運転をして行きました。少なくともその頃は、です。後には、彼女は車を持ってこないで、列車で来ました。だから、私が彼の運転をしました。
 それで、もっと多くの討論会です。ヴァンダは自分の不在中に切り盛りするために、自分が離れている間、私にタンネグ〔山荘〕に居てくれるよう頼みました。それで、私は部分的にタンネグに移りました。私がいうのは、そこで寝たくなかったんですが、食事などのためにそこにいました。だから、〔宿泊先のアパートメント・ハウス、〕カプリスから持ち物を移さなかったんです。
スコット−どの部屋に居ることになっていたんですか。
メアリー−正面の扉の正反対のところです。それが本当はただ一つの部屋でした。
スコット−まあ、ダイニング・ルームを出て小さなところがありますが。
メアリー−いや、ええ。そこは使いませんでした。アランが時々そこを使いましたが、彼はこの時、カプリスに降りていました。
スコット−誰が料理をしていましたか。
メアリー−ああ、〔ヴァンダの家政婦、〕フォスカです。いつもフォスカです。(軽くクスクス笑う)
 それで、討論会は毎日つづきました。それから、或る人が到着しました。ちょっと待ってください。ああ、そうです。これは、ああ、トムシュック氏という人(a Mr.Tomchuk)です。その名前は以来、考えたことがなかったわ。彼はアランに対して警告しました − フレッド・ウィリアムズ(Fred Williams)と呼ばれる男が − 彼は本当に、実は私は彼から手紙を受けとろうとしていると思いますが、彼は暴力的で恐ろしい男でした。トムシュック氏はアランに対して、彼についての乱暴な手紙がフレッド・ウィリアムズにより回覧された、あるいは、フレッド・ウィリアムズからラージャゴパルに送られたこと、そして、アランは気をつけるべきだということを、注意しました − フレッド・ウィリアムズは彼を攻撃してくる、殴りかかってくるかもしれない、と。それで、クリシュナジはフレッド・ウィリアムズを呼びにやり、彼に対してグシュタードを去るよう言いました。
 分かったことは、ウィリアムズは・・・まあ、彼はたいへん嘆かわしいことに、一回、メアリー・カドガンを侮辱しました。それから、この年でなく或る年、彼は山荘にやって来て、クリシュナジに会いたがりました。私はだめだと言いました。彼は、「まあ、私は彼に本をあげたいと思うんだ。」と言いました。私は「そうね、すみません。彼は休息しています。迷惑をかけられません。」と言いました。それで、彼は本を取り出しました。それは、悪名高い『シオンの長老たちの議定書(Protocols of the Elders of Zion)』でした。ご存じでしょう、有名な偽作の、反ユダヤ主義の暴力的な本です。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−彼は、「お読みなさい。」と言いましたが、私は「いいえ、私は読みたくありません。そこに何があるかは知っています。」と言いました。
 それで、私たちはそれについて、ちょっと行ったり来たりをしました。先日(原註4)、まあ、これは重要でないですが、ダグ(Doug)から、「本が届いていますが、転送してほしいですか。」と言う手紙を、もらいました。私は、「まあ、開けて見て、そこに私への手紙があるのかどうかを、見てください。」と言いました。彼はそうしようと言いましたが、後で彼が、その本は北カリフォルニアのどこかのF.ウィリアムズからだと教えてくれたとき、私はそういう人物は知らないと言いました。後で私は、「やれまあ、同じ男に違いない。」と思いました。また別の反ユダヤ主義の本だろうと思います。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−ともあれ、私が思うには、彼は、テントの若者たちに対して、コカインとか、当時の薬物が何であれ、提供していると疑われていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−最後の討論会は8月6日にありました。その日、クリシュナジはノイズ大佐(Colonel Noyes)と会いました。ノイズ大佐を憶えていますか。
スコット−ええ、もちろん。
メアリー−・・・それと〔オーハイのアル・〕ブラックバーン夫妻と〔アラン・〕フーカー夫妻です。何が起きたのか、私は知りません。私はそこにいませんでした。そう思います。いろいろな人たちが来ました。特別なことはなし。ディグビー夫妻が昼食に来ました。私たちは、クリシュナジのメルセデスでドライブに行きました。(クスクス笑う)アランはパリへ行きました。なぜかは忘れてしまいました。何かブリッツと関わることです。ああ、ブリッツは合衆国に行ってしまい、ロサンジェルスで〔K著作協会副会長の〕ヴィゲヴェノ夫妻に会っていました。彼は、オーハイでクリシュナジにとって何が起きているかを、見出そうとしていました。〔Kの本のフランス語訳に取り組む〕マダム・ドゥシェ(Madame Duchet)が昼食に来ました。ノイズ大佐がKに会いに来ました。それから、ディヴィッド・ボームです。アラン〔・ノーデ〕がパリから電話してきましたが、それが何だったのかは知りません。ボーム夫妻は頻繁に昼食に来ました。(メアリー、クスクス笑う)
スコット−何を笑っているんですか。
メアリー−「この日は自由な一日だった。クリシュナジのメルセデスに彼と乗り、私たちは〔レマン湖の北岸の〕ローザンヌへ運転した。途中、高速道路で車は時速115マイル〔、約184キロメートル〕で鳥のように進んだ。私たちは〔オテル・〕ボー・リヴァジェ(Beau Rivage)で昼食をとり、〔レマン湖の東端の〕モントルー、〔少し南東の〕エーグル(Aigle)、〔南西方向の峠道〕レ・モス(Les Mosses)を運転して、戻ってきた。アランはパリから戻ってきた。私たち三人はみな、雨のなか、〔東方向の〕トゥルバッハへ散歩していった。夕食と話。」(クスクス笑う)
スコット−ふむ、とてもすてきです。
メアリー−見たところ、「私は〔滞在先のアパートメント・ハウス、〕カプリスへ降りていき、アイロンがけをした。」それを知ることは、歴史にとって魅力的でしょうね。(スコット、笑う)「タンネグ〔山荘〕に戻る。昼食にドリス・プラット。午後には再びトゥルバッハへ登り、流れを横切り、向こう岸を降りる。」あれは長い散歩でした。あそこには橋か何か道があります。
スコット−ええ。
メアリー−「ギャロウェイ夫妻が昼食に来た。」さて、ギャロウェイ夫妻(the Galloways)* は、インドで生活していた夫婦でした。彼はスコットランド人だったと思います。或る時点でクリシュナジは、彼に、インド・クリシュナムルティ委員会とか、そのときどう呼ばれたにせよ、それを率いてほしいと思いましたが、そこからは何も出てきませんでした。
 クリシュナジは〔アパートメント・ハウスの〕カプリスに降りてきました。彼はまだカプリスにたくさんの衣服を持っていました。それで、荷造りを考えるために降りてきたんです。(声に笑い)
スコット−(クスクス笑う)それらは、一ヶ月以上そこにありました。
メアリー−ええ。彼は車を下に置いておきました。なぜなら、そこには彼の使える車庫があったからです。(クスクス笑う)彼は或る種、どちらの場所でも生活していました。
 それから18日には、「私たちはカプリスで荷造りをした。彼は一人でドライブに行った。午後に私たちは歩いて、〔講話会場の〕テントを過ぎ、製材所の上へ上がった。山々では雪の線は低かった。」
 20日には、「私たちは、クリシュナジのと私のメルセデスと、アランのVW〔、フォルクスワーゲン〕を、トゥーンの〔取扱業者〕モーザー氏へ持って行き、置いておいた。クリシュナジのは春に新車と交換されることになっている。」これは、彼がもっと大きいのをほしがったところです。
スコット−いいです。これが、〔後でオーハイでも乗った緑のメルセデス車、〕グリーン・ビューティが登場するときですか、
メアリー−ええ。
スコット−いや、グリーン・ビューティは1969年からですか。
メアリー−まあ、起きたことは、私たちがそれを注文したし、それが来たということでした。でも、翌年の型は何か醜いものが着いていました。何かクロムメッキで、私はそれが好きでなかったし、クリシュナジは好きでなかった。誰も好きでなかった。だから、そのとき彼は、シュトゥットガルト〔のメルセデス社〕に、注文を次の年のものへ変えるよう、同意してもらいました。
スコット−よし。では、60何年の・・・いや、では70年のものでした。
メアリー−そう思います。
スコット−グリーン・ビューティは70年のものですか。そうにちがいない。
メアリー−もう少し後だったと思いました。
スコット−私もそうです。
メアリー−まあ、それがここ〔日記〕に言っていることです。しかるべき順序を踏んで解明されるでしょう。(スコット、クスクス笑う)
 それから私たちは、〔トゥーン湖の〕フェリーに乗り、〔東北岸のホテル・〕ビータス(Beatus)に行きました。〔湖の西北の端、トゥーンの取扱業者〕モーザーのところから湖のフェリーへ、歩いていけます − 蒸気船がそれです − 乗って、それから湖の〔東南方向の〕遠い側まで2回停まると、〔北岸の〕ベアテンベルグ(Beatenberg)です。そこには、私たちが昼食によく行ったホテルがあります。うららかな暖かい晴れた日でした。
 翌日、ここには〔、東側陣営のチェコスロヴァキアでの自由化を、ソ連が弾圧した「プラハの春」事件について、〕言います − 「ロシア軍が、東ドイツの支援を受けて、ハンガリーに侵攻する。夜の間に、ブルガリアが占領され、チェコスロヴァキアが占領される。」あれもまた、歴史的な恐ろしい一日でした。
 けれども、私たちは、「〔スイス西部、レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴへ行き、オテル・ドゥ・ローヌにチェックインし、オテル・デ・ベルグー(the Hotel des Bergues)で昼食をし、〔時計店のフィリップ・〕パテクに行き、午後は休息し、自室で晩餐をした。」
 8月22日に、私たち三人は正午の飛行機に乗ってロンドンへ、そしてホワイト・ハウス・ホテルに行った。そこは、〔ロンドン北部の王立公園〕リージェンツ・パーク(Regents Park)の近くで、ちょうど道路を行ったところです。ええと、あの大きな道路沿いです − あそこにフレンズ(the Friends)・・・
スコット−メリルボーン(Marylebone)ですか。
メアリー−メリルボーンです。そこはほんの二、三の区画、行ったところです。そこから、メリルボーン沿いの〔王立公園〕リージェンツ・パークに入ります。リージェンツ・パークの東です。
 クリシュナジとアランは、まっすぐ〔サヴィル・ロウの仕立屋、〕ハンツマンに行き、その間、私は荷物を開いて、(スコット、クスクス笑う)夕食をこしらえました。私たちには小さなキッチンがありまました。そういうわけでそこに行ったんです。その晩、後で私たちは〔テレビで〕、プラハでのロシア軍の戦車の映像を、見ました。ひどいものでした。ほんの一夜で、完全な占領です。
 翌日、「ドリス・プラットが自分の車を私に貸してくれた。私が運転してクリシュナジをハンツマンに連れて行った。サチャ・デ・マンツィアーリがそこで彼と待ち合わせた。みんなで、〔宿泊先の〕リッツ〔・タワー〕(the Ritz)で昼食した。私たちは食べ物をヘルス・センターで買い物した。それからホテルで〔事務弁護士〕マイケル・ルービンシュタインと、長い会合をした。リージェンツ・パークで散歩した。オーハイのブラックバーンから、彼とその妻がラージャゴパルに会った後で、〔録音〕テープを受けとった。」
 8月24日には、クリシュナジとアラン〔・ノーデ〕と私は、リンクス夫妻、ボーム夫妻、シモンズ夫妻とドリス・プラットと会いました。後で私たち三人はロイヤル・ランカスターで昼食をしました。それから、〔ロンドン中心部ランカスター区の〕レスター・スクェア(Leicester Square)での映画に、行きました。
 25日に私たちはまた行きました。ああ!すてきな日ね!私たち三人は、メアリーとジョー〔のリンクス夫妻〕と一緒に、〔大ロンドンとその北東のエセックス州に伸びる古い森、〕エピング・フォレスト(Epping Forest)へ散歩に行きました。それから戻って、セイント・ジョージ・ホテルで彼らと昼食をしました。
 それから翌日、クリシュナジとアランとメアリー・リンクスと私は昼食をして、アヨット・プレイスに運転して行きました。ウィンフィールド・ディグビー夫妻とシモンズ夫妻が、そこで私たちを迎えました。私たちは建物をもう一回調べてみて、運転して帰り、リンクス家でお茶を飲みました。サチャ・デ・マンツィアーリが、クリシュナジと私との夕食に来ました。それから(笑う)私は、アヨット・プレイスのためのベッドとリネンを買うために、ヒールズ(Heals)に行きました。私は、自分がカリフォルニアにいる間に、その場所が買われる場合に備えて、すべてを選んでおいたことを、憶えています。そうなったなら、ネリー・ディグビーがそれらの配送を手配することになっていました。
 28日に、ラージャゴパルからクリシュナジへ脅す電報が来ました。クリシュナムルティ財団の、新理事たちとの最初の会合のために、〔フランスの実業家のジェラール・〕ブリッツと〔ベルギーの実業家、〕ヴァン・デル・ストラテンが、到着しました。
 これが、私たちがKFT〔、クリシュナムルティ信託財団〕(原註5)を創設したときです。〔事務弁護士〕マイケル・ルービンシュタインの事務所でのことでした。KFT は、ブリッツと、ヴァン・デル・ストラテンと、ジョージとネリー・ディグビーと、アラン〔・ノーデ〕と、ドロシー・シモンズと、私自身を理事として、法的に創設されました。またメアリー・カドガンも書記として同席していました。メアリー・リンクスもそこにいましたが、彼女は理事になろうとしませんでした。
スコット−ふむ、ふむ。ヴァン・デル・ストラテン(van der Straten)はどうして登場したんですか。
メアリー−まあ、彼は〔スイス、〕サーネンにいましたよね。いつもです。ここには触れていないから、彼らはあまり昼食には来なかったようですが、私は知りません。クリシュナジは彼を知っていて、彼は良い理事になるだろうと思ったんです − 実業家で、教えに興味を持っているし、(笑う)菜食主義者です!彼は良い理事になろうだろうと思ったので、彼を招待したんです。クリシュナジが誰でもみんな任命しました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−8月29日に、〔Kの昔からの支援者〕バインドレー夫人とのお茶と、〔ロンドン中央部から西に拡がる〕ハイド・パーク(Hyde Park)を横切って戻る散歩の後で、夕食のとき、クリシュナジとアランと私は、アヨット・プレイス対、他のどこかについて議論しました。私たちはアヨット・プレイスにさほど満足していなかった。良い考えには見えませんでした。
 翌日、30日、ドロシーとモンターニュ・シモンズ〔夫妻〕が朝に来ました。クリシュナジは彼らに、建物をさらに探すよう言いました。彼らは代理店に行き、情報を持って帰ってきました。Kと私はホワイト・ハウス・ホテルで昼食をしました。〔マドラス在住の〕ジャヤラクシュミー〔夫人〕がニューヨークから到着し、夕食に来ました。
 9月1日に、「ディグビー夫妻が朝に来た。学校のための建物探しを手伝ってくれるだろう。ノイズ大佐がオーハイより、ラージャゴパルからのKWINC〔クリシュナムルティ著作協会〕のほとんどを引き渡すとの提案をもって、到着した。私たちはルービンシュタインに話をした。ノイズは折り返し、ラージャゴパルに電話することになる。」
 クリシュナジは疑っていました。彼は、「まあ、折り返し彼に電話して、彼が本気でこう言っているのかを見よう。」と言いました。
 「クリシュナジとアラン〔・ノーデ〕と私は、クレアリッジのところで昼食をした。ジャヤラクシュミー夫人とその甥と一緒に、散歩のために戻った。或る写真家とノイズ〔大佐〕がお茶に来た。ドリス・プラットも。」
 ここ〔日記〕には言います − 「かなり混乱した会合。最後にみんな立ち去って、ノイズはラージャゴパルに電話をしに行った。戻ってきて、全くの失敗を報告した。Kはアーカイヴス〔資料類〕がほしいが、ラージャゴパルは自分でクリシュナジに会うまで、一切の譲歩を拒否する。同じ信じがたい振る舞い。私たちは合衆国への飛行を、水曜日まで延期しておいたが、もとへ変更をするには遅すぎる。」と。
 私たちは、ノイズ〔大佐〕にこの電話をしてもらうために、飛行機の便を切り替えておいたんですが、ノイズは、真っ青な顔をしてショックの状態で戻ってきました。見たところ、彼はそう言ったんですが、ラージャゴパルは、「私にそういう伝言を寄越すとは、どういうつもりなんだ。私はあなたに行く権限を与えたことはない・・・」と言ったのでした。さて、ノイズはインドへ行く途中だったんですが、ラージャゴパルがクリシュナジに話をしてくれるよう頼んだから、彼は迂回してロンドンへ来たんです − 特にクリシュナジに話をして、伝言を伝えるためです。ですから、彼が電話に戻ったとき、ラージャゴパルは、「私はあなたを送ったことはない。あなたに行くよう言ったことはない。何をする権限もあなたに与えたことはない。」と言いました。これは〔ラージャゴパルの〕標準的な手順でした。
スコット−そのとおり。
メアリー−だから、クリシュナジの側の誰にとっても、少しも驚くべきことではなかった。
 翌日、私たちは、〔ホテル、〕クラリッジェスで昼食をしました − クリシュナジとアランとフレール・カウルズ(Fleur Cowles)(原註6)(これは私の友人です)と私と、です。マイケル・ルービンシュタインとドリス・プラットが午後に来ました。私は荷造りを終えました。
 9月4日、「運転してクリシュナジとアランを空港まで送った。彼らは午前11時35分の〔スペイン、〕マドリッドへ、さらに〔乗り換えた〕プエルトリコへの飛行機に乗った。私はニューヨークへのTWAの飛行機に乗った。」と。まあ、そのとき私はしたことは、〔そこに住む〕弟〔バド〕のところへ行くことなどなどでした。
 クリシュナジは、〔カリブ海の島〕プエルトリコ〔のサンファン〕で講話をすることになっていました。私は、母と家族に会うなどしなくてはいけなかった。それで、彼らと一緒に行きませんでした。私はニューヨークで彼らを待ちました。さて、どうでしょう、先へ跳びましょう。なぜなら、これはみな、クリシュナジについてではなく、私についてですから。私は〔母の住む東部マサチューセッツ州のマーサズ・〕ヴィニヤード〔島〕へ行きました。
スコット−いいです。では、あなたはニューヨークに到着し、マーサズ・ヴィニヤードでお母さんに会った。
メアリー−ええ。それからニューヨークに戻りました。しばし〔カリフォルニアの〕マリブへ飛び、それから9月19日に飛行機でニューヨークに戻りました。
 20日に、「私は、〔弟バドの前妻、〕前の義理の妹から借りておいた、62番街40東のフラットへ移った。」と。私は或る種、アパートメントを整えて、買い物などをし、そこの掃除をしました。これらは聞きたくないでしょう。さて、クリシュナジはここにいつ着くのか。
 クリシュナジは9月23日にアランとともに到着します。
スコット−よし、いいです。では、そこで終わりましょう。テープが切れようとしています。
メアリー−いいです。

原註
1)メアリーとのこれら初期の対談はすべて、ブロックウッドにおいて、彼女の私的な区画のキッチンで行われた。
2)ブロックウッドの始まりにおいて建築問題に関係していた若い建築家。
3)ガルブレイスはハーバード大学教授の経済学者であった。多くの書物の著者であり、アメリカのリベラリズムの指導的提唱者であり、ケネディ〔政権〕のもとで〔1961-1963年に〕インド大使を務めた。
4)メアリーは私たちの対談の当日についてこう言っている。それは1995年6月15日のことだった。
5)クリシュナムルティ信託財団(The Krishnamurti Foundation Trust)。
6)アメリカ人著作家、編集者、芸術家。*


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