第7号 1967年5月から1967年9月まで


序論
この号には、〔ホームページ上の〕「読者のための憶え書」に記された編集上の便宜が初めて使用されるのが、見られる。すなわち、メアリーが〔当時の〕自らの日記から読んでいることを表示するための、単独の引用符の使用である。オーディオ・テープでの彼女の声の調子の変化から、これは間違えようがない。そして、彼女の実際の日記への照合がなされている。
 この号ではまた、クリシュナジが〔神秘体験の〕「プロセス」を経ているのをメアリーが初めて経験するのが、見られる。この現象を議論することは、この企画の視野を越えている。それは、メアリー・ラッチェンスによる全三巻のクリシュナジの伝記において、すでに存分に、可能なかぎり提示されている。1922年〔8月〕にクリシュナジは、〔オーハイで〕霊的であると見える解明不可能な経験をしはじめたが、それは断続的に彼の余生の間、持続したということを、言っておくことで充分である。これらを表す簡潔な用語が「プロセス(the process)」であった。
 この号にはまた、ヨーロッパでクリシュナムルティ学校を始める決断が見られる。この学校を率いる人物として、ドロシー・シモンズが浮上する。

メアリー・ジンバリストの回顧録 第7号
メアリー−まあ、どこで止めたのかを正確に憶えていないので、私は単純に反復しましょう。それは1967年5月のことであったと、私は知っています。クリシュナジは〔オランダの〕アムステルダムで講話を行っていました。彼は6回ほどの講話を行いましたが、私たちは本当にすてきな場所で生活していました − 彼のために〔オランダの担当者〕アンネッケ・コーンドルファー(Anneke Korndorffer)が見つけておいたところです。そこは、大きな農家で、かすかに農場生活のにおいがしましたが、それはむしろすてきでした。暖炉のついた大きな部屋があって、快適でしたし、私たちみんな、クリシュナジ、アラン・ノーデ、アンネッケと私自身にとって、とても性分に合っていました。
スコット−ああ、アンネッケもそこで生活しましたか。
メアリー−まあ、全部の時間は、そこで生活しなかった。彼女はほとんど、自らが本当に生活する〔オランダ東部の村、〕オーステルベーク(Oosterbeek)の自宅にいましたが、ちょっと行き来したんです。
スコット−ああ。
メアリー−アンネッケがそこにいるとき、彼女と私が料理をしましたが、彼女がそこにいないとき、私が料理をしました。私がマーケットの買い物すべてをしました。それで、一種の家庭生活だったし、とてもすてきでした。そして、美しい私有の庭園がありましたが、クリシュナジがそこを散歩できるよう手配されていました。理想的でした − 部分的に森林地域と部分的に空き地を通って曲がりくねった小道。運河が織り込まれて、そこにはあらゆる種類の水鳥がいました。クリシュナジは、これらを見るのをたいへん喜びました。そこには誰もいなかったので、あたかもどこか荒野にいるかのように、さまよい歩くことが、完璧にすばらしくなりました。
 クリシュナジは当然に、講話を行うので忙しかったし、また講話には〔秘書の〕アラン〔・ノーデ〕が広く集めたたくさんの若者たちも、いました。また、〔アムステルダムの南、30キロメートルほどの大都市〕ユトレヒトからの学生たちの集団もいました。彼は彼らと話をしました。でも、全体としては、オランダでのきわめて幸せな滞在でした。私たちは5月末まで泊まったと思います。
スコット−メアリー、少しの間、戻ってもよければ、あなたはその時と、クリシュナジが〔運河にいた〕カモを憶えていたことについて、語ったからですが、それが記憶されるべきことになったのは、カモの雛たちの数が減少したことだけのはずはなくて・・・その時全体が・・・
メアリー−ええ、その時全体がすばらしかった。美しい場所でした。彼は気分良く感じていたし、私はとても幸せで元気に感じていました。ただひどくすてきな時でした。私はそのように憶えています。そして、早朝の彼との話を憶えています。私の仕事は朝食を調えることだったので、早起きをして、キッチンに入り、朝食を作りはじめました。彼も早起きをして、キッチンに入ってきて、話をするようになりました。彼は白いバス・ローブを着て、立っているか座っているかして、私が朝食を整えている間、私とおしゃべりしました。
スコット−彼は何についておしゃべりしたんでしょうか。
メアリー−正確には憶えていません − あまり真剣な種類ではなかった。少し冗談を言い、ただ楽しかったということ以外は。
スコット−ふむ。
メアリー−私たちが何について話をしたのかは、正確に憶えていません。彼は私自身について質問をしたかもしれません。本当に憶えていません。それが楽しかったこと、どんなにすてきだったかを、憶えているだけです。
スコット−ええ。
メアリー−彼はまたその頃、私の悪い〔左〕脚(原註1)を助けようとしていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−午後や夕方に彼は私に、いわゆる治療をしてくれました − それは、私は叙述したと思いますが、彼はその両手を肩に当ててくれて、何かふしぎなことが起きました。或る種、ものすごいという意味で・・・暖かい感じをもらいましたが、ものすごい暖かさでなく、彼は或る種、病と痛みを払いのけていました。それはすべて・・・それはいつも、何か後か最中にとても強く感じることでした。
スコット−ちょっと待ってください。私もこれに戻っていいですか。なぜなら、あなたはインドで彼があなたを癒やしたことや治療してくれたことを、叙述したからです。*
メアリー−ええ。
スコット−でも、ここでオランダでのそれを叙述してもらえるでしょうか。なぜなら、たぶんあなたが再びそれを想起するなら、何か違ったことがあるでしょう。
メアリー−まあ、本当はそれは、彼のやったことではなかった。私がいうのは、私の視点からは、その感じは違っていませんでした。私がインドで感染症に罹ったとき、彼は、感染症のある額と頬骨に、両手をかざして逸らせたものですが。
スコット−顔の中心から外へ、ですか。
メアリー−顔の中心から外へ、です。それから、彼は両手を振り払いました。
スコット−ええ、何かを振り払っているかのようにです。
メアリー−何か悪いものを振り払っているか、何かを取り除いているか。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−でも、後で、彼は私の悪い脚を助けしようとしているとき − それは本当はその時点で循環系の問題でしたが、彼は一般的に両肩に触れ、再び・・・両手を振り、何かを拭い去っているというか。
スコット−あなたの脊柱からの両肩へでしたか。その種類の・・・
メアリー−いいえ。肩先に沿って、です。
スコット−肩先に沿ってね。ええ。でも、首から肩先へですか。
メアリー−ええ。
スコット−では、脊柱から外へ、それから再び両手を振る、と?
メアリー−ええ、ええ。
スコット−彼はあなたの脚に手を当てましたか。
メアリー−そうは思いません。彼はいつも後で去って、両手を洗ったものです。私はそのことに触れたのかどうか知りませんが、まるで病気が何であるにせよ、それから汚染があったかのように、です。そして、彼はそれを取り除きましたが、手を洗わなくてはいけなかった。
スコット−ふむ、ふむ。
 もう一回、明確にすると、あなたが、クリシュナジはその農家で朝にあなたと話をしたと言われるとき、彼は、ジョアン・ライト(Joan Wright)が作った白のタオル地のバス・ローブの一つを着ていたんでしょうか。
メアリー−ええ。
 ともあれ、講話は終わりになりました。講話には無数の群衆がいました。会場は一杯でしたし、ふつうロビーにはテレビ・スクリーンがありました。だから、中に入れず溢れた人たちもそれを見られたんです。
スコット−その頃でもですか。なぜなら、後に80年代には、そのとおりであったからです。
メアリー−ええ、ええ。
スコット−感心しますね。
メアリー−また、若者たちの討論会にも多くの人が来ました。
メアリー−ふむ。若者たちとの会合はどこでありましたか。
メアリー−その住宅です。彼らはその住宅に来たんです。
スコット−住宅、あなたとクリシュナジが泊まっていたところね。
メアリー−入った中央の部屋といったところ、です。正面の扉から入って来て、大きな部屋がありました − ほとんど納屋に入るようなものです。天井が高くて、一方の長い壁には暖炉です。それで、人々は床に座って、空間がありました。
スコット−ふむ、ふむ。どれほどの人たちが一時に来たんでしょうか。
メアリー−本当に憶えていません。30か40人でしょうね。
スコット−ああ、では、大きな討論会ですか。
メアリー−ええ、そのようなものです。もちろん、ご存じでしょうが、オランダは〔国自体が〕小さいので、他の場所から来られたんです。ユトレヒトはさほど遠くなかったし、それで多くの人がそこから来ました。
 ともあれ、講話は終わったし、私たちはいつものように、荷造りをしていました − おぞましい!(二人とも笑う)毎日、雨でも晴れでも、私たちは散歩に行きました。それが、そこにいることの特別な部分でした。
 私たちはいつものように、二台の車で発ちました。アラン〔・ノーデ〕は、荷物すべてを積んだステイション・ワゴンを運転していて、私は自分の車にクリシュナジを乗せていました。私たちはオランダを〔南東方向に〕横切って、ドイツに入り、昼食に〔ドイツ西部、ライン川沿いの都市〕ケルン(Cologne)で待ち合わせ、大聖堂に入り、それらを見ました。それから私たちはさらに進み、〔南20キロメートルの、西ドイツの首都〕ボンを通って、〔南東の〕ケーニッヒスヴィンター(Konigswinter)という場所に行きました。私たちはそこで、ホテル・ペテルスブルク(Hotel Petersburg)というホテルで夜を過ごしました − ライン川を見渡す崖を上がったところです。一夜だけです。
 翌日、私たちはライン川沿いに、〔さらに南東へ、ドイツ中央の都市フランクフルトの西、〕 エーストリッヒ(Oestrich)という場所へ行き、そこで昼食をとりました。私たちは、〔フランクフルトの南、〕ハイデルベルクで夜を過ごそうと決めましたが、そうしませんでした。先へ急ぎたかったんです。このような旅行では二台の車が離ればなれにならざるをえないから、難しかった。
スコット−ええ、まったくです。
メアリー−私たちは〔フランクフルトのすぐ西の、〕ヴィースバーデン(Wiesbaden)を通って、〔フランクフルトから南へ120キロメートルほどの〕カールスルーエ(Karlsruhe)へ行き、それから、私が夜のため部屋を予約しておいた〔その南の〕エットリンゲン(Ettlingen)という場所まで行きました − そこには、とてもとても良いホテルと、特に良いレストランがあります。〔食通の〕私の父がそこを推薦してくれて、父は・・・
スコット−(笑う)彼はレストランについて知っていました!
メアリー−全くです!それで、私たちはその夜、エットリンゲンのエルプリンツ・ホテル(Erbprinz Hotel)に泊まりました。私たちは疲れていました。(クスクス笑う)クリシュナジはその夜、ベッドで晩餐をとりました。アランと私はダイニング・ルームに行きました。翌朝、私たちは〔さらに南下して〕国境を越えて、スイスに入りました。
スコット−では、訊かせてください。クリシュナジはドイツについて、何かを言ったことがありましたか。または、ドイツでどう感じたとか、ドイツの人たちについて、ですが。
メアリー−まあ、彼は、〔ユダヤ系の〕私がドイツで居心地が悪いということに、気づいていましたが、私が彼にそれを語ったとは思いません。
スコット−まあ、クリシュナジは私が知るかぎり、ドイツでは、〔北西の大都市〕ハンブルグでの一回を除外して、話したことはなかったですよね。*
メアリー−ええ、ええ。
スコット−そして、彼はドイツを旅したことはなかった。私がいうのは、彼はドイツに行かなかったんです。
メアリー−ええ。彼はドイツに行かなかった。彼は、容易くそうしたのですが、(クスクス笑う)察しました。気持ちを彼は感知しました。私がドイツにいることを或る面でかなり衝撃的に思ったことを、感知しました。私はそれを彼に説明しようとしました。私は、自分がドイツの人たちに何も反感を持っているということではない。でも、私は〔大戦中のナチスのしたことについて、〕犯罪の現場を訪問しているような気持ちだ、と言いました − 何が恐ろしいことが起きた現場、です。
スコット−ええ。それは充分言えています。
メアリー−少なくとも私の心では、雰囲気とか、私の抱く連想は、何か邪悪なものがここに生きていた、ということです − ナチスの時代という意味です。
スコット−ふむ、ふむ、ふむ。
メアリー−それで、お分かりでしょうが、私は完璧に進んでそこに行きたい気持ちがしなかったんですね。私は、自分にとって、雰囲気への一種の嫌悪を持ちました。今、それは私の投影だけかもしれません。たぶんそうだったんでしょう。でも、それを感じました。
スコット−でも、クリシュナジが、ハンブルグでの一回を除外して、そこで話さなかったということは、ふしぎですね。私は、彼が何か言ったかもしれないと思いました。なぜなら、その時、ドイツを通って旅行していたからね。
メアリー−ええ。もちろん私たちはドイツを何も見ませんでした。なぜなら、国境を越えた時からスイスに着くまで、〔自動車専用の高速道、〕アウトバーンだったからです。実は、或る時点で石油が必要でしたが、私はアウトバーンを降りるのを嫌いました。なぜなら、私たちがどこにいるかとか、誰ともどう意思疎通するかを、知らなかったからです。でも、そうせざるをえなかったので、私は降りて、運良く、素早くガソリン・ステーションを見つけ、給油して、アウトバーンに戻ることができました。なぜなら、私は地図とか何も持っていなかったからです。私は、クリシュナジを乗せ、燃料を見つけようとして、ドイツをまごついて回りたくなかったんです。
スコット−もちろんです。
メアリー−ともあれ、それで私たちはスイスに着きました。そして、昼食をとりました。〔スイス北西部で、フランス、ドイツとの国境にある都市〕バーゼル、お好みなら、〔フランス語での〕バール(Bale)だったと思います。私たちは〔スイス中西部にある首都〕ベルンで停まろうとしていましたが、そうしませんでした。グシュタードの〔アパートメント・ハウス、〕レ・カプリスへ急ごうと思ったんです。
 今、私たちは6月3日にいます。またこの年も〔イタリアの〕ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕が、〔グシュタードの〕タンネグ山荘のアパートメントを取っていましたが、7月になってのことでした。だから、私はアランのために小さなスタジオ・アパートメントを取っておいて、クリシュナジは、前に私が取ったフラットに、泊まりました − そこは、二つの寝室と、居間とキッチンとバス等がありました。で、彼は今回そこに泊まりました。こう言うのは残念ですが、とても小さな部屋に、です。でも、そういうものであったし、彼はそこで完璧に幸せそうでした。私たちは再び、とても静かな家庭的な生活に落ち着きました − 私は料理し、マーケットで買い物をし、家事をし、午後には散歩です。もちろん私たちはすぐに、〔保管しておいた〕彼の車〔メルセデス〕を取りに行きました − それはたいへん重要でした。
スコット−もちろんです。〔北東方向の〕トゥーンにですか。
メアリー−トゥーンにです。そこで冬中、倉庫に入っていました。もちろん私はその頃、まだジャガーを持っていました。
スコット−〔クリシュナジが好きでなく、故障もした〕とても劣った車ですね!
メアリー−とても劣った車です。(二人とも笑う)でも、ともかく、彼はメルセデスに乗って帰り、私は自分の車を運転しました。アランは彼と一緒に行ったと思います。翌日、私の車で私たちは、〔レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴのピエール・シュミット博士に会いに行きました − 彼の同種療法の医師です。彼とアランは検査を受けて、私は何か買い物をしました。それから私たちは昼食をとりました − それ以降、私たちがいつも昼食をとる場所になったところで、です。それは、オテル・デ・ベルグー(the Hotel des Bergues)のアムピトリュオーン〔・レストラン〕(the Amphitryon)です。いつも気持ちよかった。とても古風でした。
スコット−ええ。
メアリー−私はいつもそこで、別の時に、他の大陸にいるのを感じてきました。私はどうしてか「ヨーロッパ」にいる、と。その感じは知っていますか。
スコット−ええ、ええ。(クスクス笑う)
メアリー−ええ、そこは「ヨーロッパ」です。中部ヨーロッパは、パリやロンドンよりその感じを持っています。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−食卓すべてに、すばらしい白のテーブル・クロスと、すてきな花々。きわめて形どおりのホテル支配人とウェイター − 一つの小さな食卓に少なくとも二人、ね。私の言っている意味がお分かりなら、クリシュナジに合っていました。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−ものごとが合っているという私の感覚は、充たされました!なぜなら、食べ物はとても良かったし、彼らは菜食主義の要件にたいへん注意していたからです。彼は、それについて話すことなく楽しみました。ものごとがすてきに為されているのが、分かりました。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−それから、ジュネーヴでする普通のお使いすべて、です。〔時計の〕パテク・フィリップ・・・
スコット−もちろんです。〔ネクタイなどの〕ジャケ(Jacquet)は?
メアリー−ジャケ。そのすべて。そのしきたりです。ええと、私たちはあまり長く泊まらなかったと思います。その時点で、〔1967年6月5日から〕イスラエルの〔第三次中東〕戦争が起こりました。ご存じでしょう、〔アラブ諸国に勝利した〕六日間戦争です。
スコット−ああ、そうです。あなたたちは戻ってきましたか。まっすぐ戻ってきましたか。それとも、〔ジュネーヴ郊外の〕ディヴォンを通ってもう一度行ったんでしょうか。
メアリー−うーん、どうかなあ。分かりません。(クスクス笑う)憶えていません。
スコット−それで、六日間戦争が起こりました?
メアリー−ええ。そして、すぐに終わりました。
スコット−もちろんです。
メアリー−とてもうれしかったです。
メアリー−すぐに終わったことが、ですか。
メアリー−すぐに終わりましたし、イスラエルは敗北しませんでした。
スコット−ええ。
メアリー−少なくとも私にとっては、です。分かりませんが、クリシュナジはそれについて批評しなかった。
スコット−ええ。
メアリー−それから、何が起きたでしょうか。〔ヨーガ教師の〕デシカチャールが来ました。6月12日頃にアラン〔・ノーデ〕はジュネーヴに行って、彼を迎えました。デシカチャールはインドから〔航空機で〕飛んで来ました。私たちは〔アパートメント・ハウスの〕レ・カプリスに、彼のためにも部屋をとりました。
 クリシュナジは、朝にヨーガのレッスンを受けました。それから彼は休んで、昼食をしました。私はマーケットで買い物をし、料理をしました。私たちは、四人みんなで、昼食をとりました。昼食の後、彼は再び休んで、それから午後に散歩でした。デシカチャールがさほど散歩したのか、私は憶えていません。彼は自分のヨーガをしたと思います。でも、すてきでした。グシュタードはすばらしかった。6月にはそこに誰もいなかったからです。群衆も始まっていませんでした。クリシュナジは、人々の一種・・・見つめて・・・注意する圧迫を、感じませんでした − 後で彼は感じるようになりましたが、その夏でさえ、です。タンネグ〔山荘〕に集中したほとんど心霊的な圧迫、です。
スコット−ええ。
メアリー−でも、そのときはすてきでした。ああ、(笑う)ジャガーのフェンダーの修理のために、私たちは〔北東方向に〕トゥーンに戻りました。クリシュナジとアランとデシカチャールは、アランの車でそこで私に加わりました。もちろんクリシュナジは、私はメルセデスを持つべきだとの一種のキャンペーンを、始めました!(二人とも笑う)それで彼は、〔取扱業者の〕モーザー氏を − 修理工場の所有者で、彼から自らのメルセデスを得ていた人を − 会話に、引き込みました。ジンバリスト夫人にとって喜ばしい(二人とも笑う)と思うのは、どんな種類のメルセデスかについて、です。私はこれに反対しませんでしたが、跳びつこうともしませんでした。(クスクス笑う)
スコット−あなたはどうしてフェンダーにぶつけたんですか。
メアリー−ああ、私がどうしてぶつけたのかな。憶えていません。
スコット−では、クリシュナジが車にいるとき、それは起きなかったと、想定されます。〔そうであれば、〕きっとあなたはそれを憶えていたはずだと思いますから。
メアリー−それを憶えていたはずでしょう。
スコット−そのとおり。
メアリー−トゥーンから私たちは、〔トゥーン湖の〕湖沿いの場所に行きました − 頻繁に訪れたところ、〔東北岸の〕ビアテンベルグ(Beatenberg)のホテル・ビータス(Hotel Beatus)です。そこは、ほぼ道のりの中間で、湖の東側に沿っています。私たちは長年そこで頻繁に昼食をとりました。
スコット−ふむ、その場所は知りませんね。待ってください。そのホテルは、まわりに何もなくて、ちょうど湖に面しているんでしょうか。そして、車用の道を降りて、そこに行くんでしょうか。なぜなら、道路のほうが高いから。
メアリー−少しね。さほどではない。わずかに、です。〔トゥーン〕湖にちょうど面しているからです。実は、湖を巡る小さな蒸気船が、ビータスに停まります。
スコット−ええ、ええ。私は実際、そこに行ったことがあると思います。
メアリー−たぶんあるでしょう。
スコット−ともあれ、継続しましょう。
メアリー−では、グシュタードに戻ります。トゥーンへのこの旅行は、18日のことでした。私のメモ書きには、23日にクリシュナジは、私がメルセデスを得るべきだと考えると、言います。(二人とも笑う)彼は決定しました。それで、〔取扱業者の〕モーザー氏は試運転にそれを持ってきました。
スコット−ええ。
メアリー−私は分かりました − それが(笑う)起ころうとしている。(スコット、笑う)
 〔フランスの実業家で支援者の〕ジェラール・ブリッツ(Gerard Blitz)とその奥さんがグシュタードに現れました。彼らは昼食に来ました。或る時点で彼は、サーネン集会委員会の一員になりました。
スコット−ああ。
メアリー−私もそうでした。私はこの時期に招かれました。後で7月のことだったと思います − そのとき、他のメンバーたち − 〔イングランドの〕ドリス・プラットとメアリー・カドガンと〔フランスの実業家〕デ・ヴィダスだったと思います。そして、ペリゾニアス(Perizonias)という風変わりな人です。ペリゾニアスのことを聞いたことがありますか。
スコット−いいえ。
メアリー−〔デンマークの小説家〕アイザック・ディーネセン(Isak Dinesen)* の物語の登場人物みたいに聞こえます。(スコット、笑う)彼女はオランダ人女性です。彼女はその頃、オランダの〔K委員会、〕スティチング(the Dutch Stichting)(原註2)の一員でした。彼女はまったく変わっていました。彼女をそう変わっていると私が思った理由すべては、思い出せません。彼女は結局、姿を消しましたが、そのとき一員になるよう頼まれていました。彼女はスティチングではすっかり有力者だったと思います。たぶんその会長だったかもしれません。よく憶えていませんが、ともあれ彼女もそこにいました。そして、ディヴィッド・ボームが昼食に来ました。私のメモ書きにはそう言いませんが、〔その妻〕サラルが彼と一緒だったと思います。でも、彼は短い時間だけそこにいました。
スコット−ジェラール・ブリッツへの関心は、何だったんでしょうか − 明白に彼は実業界でとても優れていて、あらゆる種類の才能と能力を持っているという事実より他に、です。
メアリー−まあ、その頃、クリシュナジは、ブリッツは自らにとって、言うところのア・ノム・ダフェース(un homme d’affaires.実務家)の一種だろうと考えました。言い換えると、金銭面での助言です。
スコット−事の表面上では、彼はもっともらしくない性格ですから。
メアリー−もっともらしくない性格です。
スコット−ともあれ、私のブリッツとの出会いからはね。
メアリー−ええ。でも、彼は教えに熱心であるとされていました − それがとても深まったということを、私は知らないですが。彼はまたヨーガにとても興味を持っていました。実は、あなたは知っていると思いますが、彼はデシカチャールを、ヨーガの実演とセミナーとレッスンとか何とかのために、繰り返しヨーロッパに連れてきたんです。
スコット−ええ。
メアリー−6月29日にクリシュナジは、夜に熱を出し、それが華氏101.8度〔、摂氏38.8度弱〕に上がりました − それは彼にとっては高熱です。アランは、ジュネーヴのシュミット博士に連絡し、博士は何か同種療法の処方をしました。アランはそれを得るために〔北東方向の〕トゥーンに行きました。〔山村の〕グシュタードには、何もなかった。それは、クリシュナジが、そのとき私がそう呼んだ、譫妄状態になった午後のことでした。でも、彼は過去に、熱が高くなったなら、自分は無意識になりがちだと、私に警告しておきました、または、語っていました。はたしてそうなりました。彼は明白にベッドにいました。私はベッドのそばで肘掛け椅子に座っていて、彼といっしょでした。アランは行ってしまいました。彼は或る種、虚ろな眼で部屋を見回しはじめ、私に対して「あなたは誰ですか。」と言いました。
 私は自分の名前を言いました。
 すると彼は、「あなたは彼に質問をしなかったですよね?」と訊ねました。
 私は、「ええ。」と言いました。
 すると彼は、「彼は質問をされたくないんです。」と言いました。一休み、二休みの後、彼は、「これら長年の後でさえ、僕は彼に慣れていません。」と言いました。これらを通じて彼は子どもの声をしていました − 小さな、小さな子どもです。高い声です。(原註3)
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−再び彼は、私を認識しない − 実は何も、ですが − これら大きな眼をしていました。それはただそのように留まりした。私は彼に話をしようと試みませんでした。私は、彼の名を使い、「はい、クリシュナジ」とか「いいえ、クリシュナジ」とか言って、彼に返事をしたと思いますが、それは何も効果があるようには見えなかった。あたかも彼は行ってしまったかのようでした。でも、彼は、私が彼に対して何についても質問をしなかったのを、確かめたがっていた。彼はそれを望まなかった。
スコット−これは、〔神秘体験での〕「プロセス(the process)」についての他の人たちの記述と全く同一です。
メアリー−ふむ、ふむ。
スコット−少なくとも、その顕現は。
メアリー−ええ、そうでした。「プロセス」でした。
スコット−でも、クリシュナジが或る面で病気であるとき、それが起こったということはは、ふしぎです。
メアリー−ええ。まあ、彼はすでに言っていました − 熱が高くなると、たぶんそれは・・・彼はなりがちだ・・・それは起こりがちだ、と。そうなりました。結局、アランが戻ってきました。彼の熱はまだ高かったが、それを抜け出していました。ああ・・・
スコット−これはどれほど続きましたか。
メアリー−まあ、アランは何時間も出かけていました。彼は即時にそれに陥ったというわけではなかったが、私といて、少なくとも一時間は続いたんでしょうね。
スコット−あなたはまったく怯えなかったんですか。
メアリー−ええ。
スコット−部屋に何か他のものがあると感じましたか。または、それについて何かふしぎな・・・
メアリー−いいえ。私は彼を意識していたので、他の何をも意識していませんでした。
 彼は最後に眠りに就きました。彼は目覚めたとき、いつもの彼でした。その後、彼はほとんどの時間、或る種、静かに眠っていました。(メアリーの話を聴く)*
 翌日、彼はまだ熱を出していました。同じ華氏101.8度〔摂氏38.8度弱〕でした。彼はとても弱っていました。いわば、「行ってしまう」ということはなかった。
スコット−〔同種療法でない〕通常の逆症療法の医者には、診断してもらったり、連絡したりしなかったんですね?
メアリー−ええ。
スコット−クリシュナジの要請ですか。
メアリー−まあ、私がいうのは、それは・・・彼ら〔クリシュナジとアラン〕は二人とも同種療法の考え方をしていて、〔ジュネーヴの〕シュミット博士が掛かりつけの医師でした。私たちはそちらには入りませんでした。
 加えて、彼はけっして医者を呼びませんでした。このことではけっして医者を呼んでいませんでした。彼は熱のことで医者を呼んだかもしれませんが、熱はおそらく手当てしていたと想定されます。思い起こすと、アランが何か〔同種療法の〕医薬を持って帰ったと思います。また私たちは、桜のへたから一種のお茶を作らなくてはいけなかった。それが治療法でした。
 でも、翌日、彼はとても弱っていました。私は彼に或る種、ベッドでの看護をしました − 私は〔看護助手として、第二次大戦の〕戦争中に病院で働いたことから、そのやり方を知っていました。分かるでしょう、スポンジで拭いて、彼を清潔で快適にするんです。さて、これは30日のことでした − そのとき、彼はとても弱かったんですが、「他(the other)」はありませんでした。彼は、サーネン〔集会の〕委員会の日曜日の会合を − これは2日でした − 取り消したくなかった。それで、言い換えると、この会合が開かれるはずの二日前に、彼は弱くて、本当はベッドから出られなかったけれど、それを取り消そうとしなかった。ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕がその午後、〔イタリアから〕到着しました。彼はタンネグ〔山荘〕に引っ越すことになっていましたが、その日は明白にできませんでした。でも、良くはなっていました。午後遅く彼女が入ってきて、シュミット博士に相談しましたが、彼は、クリシュナジを翌日、タンネグ山荘に移すのは、だいじょうぶだと、言いました。で、翌日 − 土曜日であったと思いますが − 彼の熱は平常に下がりました。
 アランは、〔故郷の〕南アフリカからの友だち − 到着しようとしていた女の子です − に会うために、ジュネーヴに行ってしまいました。それで、私はその朝、クリシュナジの世話をして、彼に昼食を出し、それから彼が昼寝をした後で、彼の車で彼をタンネグ〔山荘〕に送って行きました。
スコット−クリシュナジに対して、起きたことを話したんでしょうか − 彼がこのように行ってしまっていたということを。
メアリー−ああ、そうです。はい。
スコット−それへの彼の応答はどうだったんでしょうか。
メアリー−彼は或る種、頷きました。分かるでしょうが、それは・・・彼にとってあまり意味がなかった。私がいうのは、それは・・・
スコット−異常ではなかった。その意味は・・・
メアリー−ええ。
スコット−このことをアランと話しましたか。
メアリー−ええ、そうだと思います。そうにちがいない。そうにちがいない。
スコット−それでも、これが何を意味するかを、クリシュナジとともに探究しようとする試みとか、何もなかった、と?
メアリー−ええ、何も。私はたぶんヴァンダにも話したでしょう − それは憶えていませんが。私は彼の車で彼を連れて行き、彼女とお茶をして、彼女に話をしました。それから戻りましたが、アランは友だちを連れてきていました − ジェニー何とかというとてもすてきな女の子です。ともあれ、それが7月1日のことでした。
 私は翌朝、タンネグ〔山荘〕に上がっていきましたが、クリシュナジは元気だったし、そこでサーネン集会委員会の会合を開きました。
スコット−それは異例でないですか。私がいうのは、他の人たちがそのような高熱を出すことと、それがただ下がって、それで良くなることは、異例である、と。
メアリー−彼は何かをしなくてはいけないとき、病気であるなら、ふつう熱や気持ち悪さは去ってしまいました。彼は続けていきましたね。おもしろいことです。翌日、彼は元気でした。
 彼は私を、サーネン集会委員会の一員にしました。他の人たちは、アランとデ・ヴィダスとフラシア(Frasiea)だったのを憶えています。フラシアを知っていますか。フラシアはイタリア人で、クリシュナジの古い友人でした。フローレンス〔フィレンツェ〕か、フローレンスの近くに生活していた、と思います。
スコット−フラシア、その名前は知っています。彼に会ったことがあるのかどうか、思い出せません。
メアリー−彼はサーネンに来て、二、三日を過ごし、クリシュナジに会ったものでした。彼はまた、しばらくの間、すごく漠然としたイタリア委員会の一員でした。
スコット−(笑う)そこは、今日に至るまで漠然としたままです!
メアリー−ええ!そして、「ペレゾニアス氏(Mr.Perezonias)* がそこにいた。ドリス・プラットとメアリー・カドガン。ブリッツが加えられることになった。」と言います。後で私はヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕とともに昼食をとり、あらゆることについて議論しました − クリシュナジとアランと何についても、です。
スコット−ヴァンダは、前にクリシュナジがプロセスを経ているとき、一緒にいたということは、正しいでしょうか。*
メアリー−ええ、ええ。
スコット−で、彼女はこの現象について知っていましたか。
メアリー−ああ、そうです。彼女はそれについてすべて知っていました。私は彼女と、それについて議論したと思います。私は本当はあまり多く憶えていません。私たちは彼の健康と、起きたことと、それらの種類のことについて話をしていたから、そうしたにちがいありません。
スコット−私はそれを、記録に書き留めておきたいと思うだけです − 彼女が実際に自分自身でクリシュナジとともにその経験をしてきたことを、ね。で、これは何か知られたことでした。
メアリー−ええ。彼女はそうでした。そのとおりです。彼女はそれについて書いたことがあります。アーカイブス〔資料保管庫〕には、それについて記録があります。それで、翌日、もう一回、タンネグ〔山荘〕でサーネン集会委員会がありました。私は昼食に残るよう言われました。サチャ・デ・マンツィアーリもまたそこにいました。サチャはいつもおもしろかった。語るべきおかしな物語を持っていました。彼はクリシュナジのことが大好きでしたし、みんなをおかしな物語でもてなしました。すてきな人でした。
 それからヴァンダは〔イタリアから〕到着したばかりでしたが、彼女は私にタンネグ〔山荘〕について話をしました。彼女はタンネグを開けるために来ただけでした − 料理人のフォスカを連れてきて、〔自分はイタリアへ〕翌日、発とうとしていました。彼女は不在中に、私にあれこれの面倒を見て、何でもすべきことをしてほしいと思っていました。それで私たちは、それについて話し合いました。
スコット−そのとおり。
メアリー−二、三日後に私たちは、クリシュナジとアランと私は、〔西方向に〕ジュネーヴに戻りました。クリシュナジがシュミット博士の検査を受けるためです。またも、私たちは〔ホテル・デ・ベルグーの〕アムピトリュオーン・レストランで昼食をしましたが、私たちはそこが好きでした。それから車を運転し、〔レマン湖の南岸、フランスの〕エヴィアン経由でグシュタードに戻りました。
スコット−ふむ。さて、あなたはそのときタンネグ〔山荘〕へ引っ越して行ったんでしょうか。
メアリー−いいえ。そのときはしませんでした。私は〔アパートメント・ハウス、〕レ・カプリスのフラットに、泊まりました。私はマーケットで買い物をし、フォスカを手伝い、そのようなことをしました。講話が始まったとき、私はまた運転して、クリシュナジを送っていきました。私はまたヨーガのレッスンをそこで受けました。なぜなら、今、デシカチャールはタンネグ〔山荘〕に、階下の部分へ引っ越したからです。
スコット−では、彼は階下のフラットに泊まったんですか。
メアリー−そうだと思います。そうにちがいない。ともあれ、レッスンはそこでありました − クリシュナジと、誰でもそれを受ける人のためにです。
 ええと、何が起きたのかな。再び〔ジュネーヴの〕シュミット博士への旅行がありました。これは7月7日のことでした。私たちはホテル・リッチモンドで、サチャとともに昼食をしました。それから運転してグシュタードに戻りました。〔インドから〕バラスンダラム(原註4)がやってこようとしていましたが、彼を迎えるためにアランはジュネーヴに留まりました。クリシュナジと私は、戻ったとき、雨のなかを散歩しました。翌日、私たちは〔会場の〕テントを見に行きました。そこで、講話が行われることになっていましたが、それが建てられようとしていました。
 第1回の講話は9日でした。
スコット−その頃、テントはどのようでしたか。飛行機の格納庫型のテントでしたか。
メアリー−まだドーム状のテントだった、と思います。かなり確かですが、確信はありません。
 第1回の講話にはたくさんの人たちがいました。美しい日でした。後で昼食には、バラスンダラムとサチャがいました。
 ヨーガのレッスンは、朝すごく早くありました。なぜなら、私はヨーガのレッスンのために午前8時に〔山荘に〕上がっていったのを、憶えているからです。それから後に運転して、クリシュナジを講話に送りました。
 11日の午後に私のフラットで、サーネン教育会合がありました。(クスクス笑う)それが何だったのかは、憶えていません!(スコット、笑う)私の憶え書はかなり漠然としています。そこには、あらゆる種類の人たちがいました。〔Kの甥でリシ・ヴァレーの教師、ギドゥー・〕ナラヤンがいました。〔同じくリシ・ヴァレーの教師〕マーク・リーがいました。フランシス・マッキャン。ププル〔・ジャヤカール〕は全く突然に到着しました。私は列車の駅に彼女を出迎えました。彼女はタンネグ〔山荘〕で夜を過ごしました。翌日、アランが運転して、彼女をジュネーヴに送って行きました。そこから彼女はさらにインドへ行きました。アランは〔ププルの妹〕ナンディニ〔・メータ〕(原註5)と娘のデヴィ・マンガラダス(Devi Mangaldass)を出迎えて、彼女らを昼食時までにタンネグに連れてきました。彼女らは階下の部屋をとりました − それらはその頃、階下の全体でした。ヴァンダはその部分を、お客用に借りました。それで、ナンディニとデヴィは階下にいましたが、彼女らはかつてグシュタードに来たことがありませんでした。
 私はふつうタンネグ〔山荘〕で夕食をとりましたが、二晩タンネグに泊まりました。正確にはなぜかは憶えていません − クリシュナジを一人にしておくのが正しいと感じられなかったということ以外は、ね。他の人たちは階下にいました。もちろんアランはそこにいませんでした − 〔アパートメント・ハウスの〕レ・カプリスにいました。この夏の間、後で、彼〔クリシュナジ〕はそこに一人でいたとき、人々が彼に焦点を合わせているというあのことを、感じはじめました。彼は、どこに自分がいるかを誰も知らないところへ休日に行くことについて、しばしば話をしたものです。なぜなら、彼は或る種、感じたからです − それは圧迫に似ていました。私は叙述できませんが、理解していると思います。時折、彼は戻ってきて、レ・カプリスの私の場所で自室を使い、そこで眠ったものです − 夜のまともな睡眠を得られるように、です。そして、昼間はタンネグに戻って行ったんです。
スコット−ふむ、ふむ。彼は、人々がタンネグ〔山荘〕に焦点を合わせる圧迫を、物理的に感じたからですか。
メアリー−ええ。それは人々の注意の光線に似ていました。彼はその焦点から抜け出したいと思いました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−もちろん、その夏、ヴァンダは戻ってきましたが、しょっちゅうそのときそこにいませんでした。それはまるで彼を圧迫するかのようでした。私は他に言い方を知りません。
スコット−ふむ、ふむ、ふむ。彼はそのためにタンネグに泊まるよう、あなたを招いたんでしょうか。それとも、ただ・・・
メアリー−憶えていません。私は二回だけ泊まりました。それはナンディニが到着したときであったと思います。私はあれこれやっていて、朝にそこにいなくてはならなかった。それで彼は・・・本当に、憶えていません。ただ私のメモ書きが、「タンネグに泊まった」と言うだけです。
スコット−ふむ、ふむ。では、あなたは、ナンディニのためにあれこれするために、朝早くそこにいなくてはいけないだろうから、そのほうが便利だったのかもしれない、と思うんですか。
メアリー−分かるでしょうが、後でヴァンダは自分がそこにいないとき、いつもそこに私を泊めてくれました。それは或る種、その始まりでもありました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−私はあれこれと面倒を見ることになっていました。
スコット−あなたをそこに、家に置いたことで、どうにか、この光線に耐えやすくなる、という感覚は、ありましたか。
メアリー−ええ、拡散したかもしれません。
スコット−この光線がどうにか拡散したかもしれない・・・
メアリー−ええ、ええ。そうだったかもしれません。彼は本当はそれをあまり多く叙述しませんでした。
スコット−ええ。私は、あなたがそれについて憶えていることとか、あなたのその感覚を、得ようとしているだけです。
メアリー−私はなぜそこに泊まったのか、本当に憶えていません。それは、何か重要でないことでした。私が言うのは、それは何か便宜だったんです。
スコット−ええ。でも、それはまた、この光線に関係していたかもしれません。
メアリー−かもしれません。なぜなら、そのとき彼は物理的にタンネグ〔山荘〕を抜け出したいと思ったからです。それで、時折、〔アパートメント・ハウスの〕レ・カプリスに来たんです。
スコット−後で、講話がますます大きくなって、誰もがタンネグがどこにあるかを知るにつれて、彼にとって困難であるという感覚が、何かありましたか。クリシュナジはそれについて話をしましたか。
メアリー−彼はそれについてそのように話をしませんでした。でも、しばしば、人々は彼がどこにいるかを知らないとき、私たちが自動車でフランス横断とか何かをしていると、彼は、自分に対するあの集中がないから、自由の感覚があると言ったものです。
スコット−ええ、なんて良い。
メアリー−彼が時々、休日に行くことについて話すとき、それは、自分がどこにいるかを誰も知らないところであるべきです − それで、自分はそれを感じないように、と。最後の〔1985年の〕夏でさえ、彼が〔翌年以降、イングランドの〕ブロックウッドで講話をするだけにしようとするとき* 、ただ休日のために〔スイスの〕サーネンに戻るかどうかについて私たちが話していたとき、彼は、誰も自分がそこにいるのを知らないなら、「だいじょうぶだろうか。」と訊きました。
スコット−それは憶えています。ええ。
メアリー−または、他のどこかに行くべきか、と。
スコット−憶えています。憶えています。
メアリー−それで、そこにあったんです − 彼の持っているあのおかしな感じです。それは理解できます。
スコット−ええ、ええ。私もです。
メアリー−で、彼がそもそも電話に答えたということではないですが、私はそれが私自身の生活にありました − そうねえ、どこに行ってしまうのか。私がどこにいるかを誰も知らなくて、電話も鳴らないところ。または、そうであるなら、それは私にではない。それがありました − そうね、圧迫からの逃避です。他に何を言うべきか、私は知りません。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−ともあれ、私はナンディニとデヴィを買い物に連れていきました。
 ああ、そうだ。〔家政婦〕フォスカについてメモ書きがあります − 私は様々なことでフォスカを手伝おうとしていました。クリシュナジは、〔会場の〕テントでまた別の教育の集団と会合しました。今、私は、それが若者たちだったのか、または一般の人たちだったのか、または未来の学校の人たちだったのかを、知りません。
 アランは、ナンディニとデヴィをジュネーヴに連れていきました。クリシュナジは〔山荘から〕降りてきて、私とともに夕食をとり、泊まりました。ここには、「クリシュナジは再びカプリスで夜を過ごした。タンネグでは人々の注意の圧迫を感じる。」と言います。
 24日には、「クリシュナジとアランは、68年に後で、長い休日のために合衆国に行くことについて議論した。」と言います。彼は長い休日がほしかった − ものごとを離れて、です。
 また、「私たちは来年、パリで同じ住宅をとることに同意した。マルセル・ボンドノー(Marcelle Bondoneau)とジゼラ・エルメンホースト(Gisela Elmenhorst)が、それについて私に話をしに来た。」と。昼食に誰がいたかを見ましょう・・・「バラスンダラム、ドロシー(Dorothy)とモンターニュ(Montague)〔・シモンズ夫妻〕(原註6)。クリシュナジは、ドロシーとアランと私とともに議論して、私たちはたぶん学校を持つだろう、たぶんオランダに、と言った。」(二人ともクスクス笑う)あの頃はね。またもや、「テントで会合があった。オランダでの学校の計画が発表された。」と!
 私はナンディニとデヴィを〔トゥーン湖の東のリゾート地〕インターラーケン(Interlacken)に連れていきました。クリシュナジは来ませんでした。ここには、「27日の午前にとてつもない講話。」と言います。そして、「ラージャゴパルがオーハイから電話をしてきた。」と、たぶん何かの不和でした。再びクリシュナジは私との夕食に来て、カプリスに泊まりました。
 それからクリシュナジとアランとナンディニとデヴィと私は、ジュネーヴに行きました。再び、「クリシュナジとアランは、シュミット博士のところへ行った。」(クスクス笑う。スコット、笑う)「私たちはみな〔オテル・デ・ベルグーの〕アムピトリュオーン〔・レストラン〕で昼食をとり、〔南岸のフランスの、〕エヴィアン経由で運転して帰った。お茶のため、オテル・ロワイヤル(the Hotel Royale)に立ち寄った。」と。
 そのとき大きなことは、一方の道を行き、他方の道を戻ったことでした。このみごとなオテル・ロワイヤルは、エヴィアンの上の丘にありました。再び、まさにエドワード朝の雰囲気、中部ヨーロッパ、超豪華ホテルです。
スコット−ええ、古き良き時代といったものです。
メアリー−ええ。そういうものです。食卓すべてが、湖を見渡すテラスに出ていました。とてもすてきでした。私たちは、そこで幾らか時間を過ごし、泊まることさえ考えました。私たちは行って、部屋を見ましたが、結局、そうしませんでした。(スコット、クスクス笑う)おそらく休日です。(メアリー、笑う)さて、見てみましょう。〔ベルギーの実業家で支援者の〕ヴァン・デル・ストラテン(van der Straten)家の人たちが、憶え書に出てきます。再びラージャゴパルが電話をしてきました。ああ、アルベルト(Alberto)が到着しました。ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕の息子ね。アルベルトに会ったことがありますか。
スコット−彼に会ったことはありません。
メアリー−まあ、そのときアルベルトはとても若かったわ。
スコット−彼は今、お屋敷を切り盛りしているでしょう。
メアリー−ええ、ええ。そのとき利発で気持ちいい若者でした。
 ああ、13日に、サーネンの最後の講話があって・・・
スコット−メアリー、その頃、サーネン講話にはどれほどの人たちが、来たんでしょうか。
メアリー−まあ、ふつう〔会場の〕テントはかなり一杯でした。ほんとにたくさんです。どの年にテントを変えたのか、実際には憶えていませんが、そんなに早かったとは思いません。なぜなら、ドーム型のものがかなり長い間、そこにあったからです。それは最終的なものほど大きくなかったです。
 「スペイン人の集団が来た。」それら英語を理解しない人たちが来ました。(クスクス笑う)それから8月に彼は公開討論会を始めました。
スコット−これらは、「質疑応答の会」と呼ばれるものになりましたか。
メアリー−ええ、ええ。
 8月2日、第1回の討論会と同じ日に、タンネグ〔山荘〕で、オランダでの学校に関心を持つ人たちの会合が、ありました。彼らはみな、何をしたいかについて話をしました。
 翌日も、学校についてもう一回、討論会がありました。そこには〔オランダからの〕アンネッケ〔・コーンドルファー〕がいました。アルベルトが一人、友人を連れてきました − マシュー・フォックス(Matthew Fox)という少年です。クリシュナジは若者たちに話をするのが好きなので、彼らは散歩に行きました。それからクリシュナジは、ナンディニとデヴィを自分の車に乗せて、一走りに行きました。
 8月5日には、第4回の公開討論会がありました。
スコット−ちょっとの間、これらの討論会について話をすることが、重要であると思います。私はそれらを憶えています − 私が最初にそれらに出席したとき、です。一人の人〔クリシュナジ〕が壇上にまったく自分だけでいて、聴衆全体との議論を実際に行っているというのは、とてつもないと思いました。
メアリー−そのとおりです。
スコット−それらがばかげたことになるのは、後になってからのことでした。ほんの二人ほどの人たちのせいで、です − それらは、形式的な質疑応答の会に変えざるをえなかったんです。
メアリー−ええ。
スコット−この頃の初期の討論会がどのようだったかについて、話してください。それらはヴィデオ録画されなかったから、人々はそれがどのようだったかを知らないでしょう。
メアリー−それらはオーディオで録音されました。まあ、まず第一に、こう言わなくてはいけません − すなわち、私が初めて彼が話をするのを聞いたとき、それは40年代に遡りますが、彼は書きとめた質問を持っていて、それらを読み上げ、それから答えた、ということです。結局、彼がそうすることに戻ってきたやり方です。でも、この時期には、ご存じのように、人々はただ立ち上がって、質問をしたものです。質問をしたいだけの人たちから、幾つもの質問がありました。それから彼は、各質問を憶えておくという、私にとって奇想天外なことをしました。彼は、「それらすべてに答えが見つけられるのかを、見てみましょう。」というようなことを、言いました。彼はまさにそれをしましたが、それはさらにとてつもなかった。
スコット−ええ。
メアリー−一つの答えが、各質問に答えるようなものです。
スコット−ふむ、ふむ。人々は、彼の文章の途中で立ち上がって、批評をしたものです。だから、実際にたくさんの行き来がありました。
メアリー−ありました。ありました。
スコット−それは壮観でした。
メアリー−それは後で変更されましたが、それは、あのノルウェーの男と、あのインドの男とその怒りっぽい妻により継続的に中断させられたときのことです。彼女とノルウェー人は、或る種、組んでいました。あまりに不快になったので、或る時点で彼らはほとんど会合を壊してしまうほどでした。あなたはたぶんそこにいたでしょう。
スコット−いました。いました。
メアリー−でも、これら初期に彼は、聴衆から自発的な質問を受けました。彼がやったことは、まったくとてつもなかった。
スコット−ええ、そうでした。(メアリーの話を聴く)*
メアリー−それで、6日にはもう一回、教育会合がありました。7日には最後の公開討論会がありました。
 それから、直ちに翌日、教育について教師たち等との六回の討論会が始まりました。
スコット−それらは録音されましたか。
メアリー−そうだったにちがいありません。アラン〔・ノーデ〕は〔スイスの〕ナグラ〔の録音機〕を持っていましたし、彼が録音をしました。私が思い出せるかぎりでは、クリシュナジがどの集団に話をするときも、毎回それは録音されました。
 これら教育会合は時には、テントでありました。時にはタンネグ〔山荘〕に上がってありました。
 9日に私たちはタンネグ〔山荘〕で、十二人の人たちのために、大きな昼食を行いました。〔オーハイからの〕アランとヘレン・フーカー〔夫妻〕(Hooker)(原註7)が料理をしました。午後4時にクリシュナジとのサーネン教育会合が、タンネグで開かれました。学校はスイスにできることが決定されました!(クスクス笑う)
 再び彼はその夜、夕食のため〔山荘から〕降りてきて、泊まりました。彼は「人々の注意が自分に集中しているかのようで、タンネグでは寝るのが難しい。自分は標的を感じるが、彼は〔アパートメント・ハウスの〕カプリスに降りると、プライバシーがある。」と言った、と言います。
 彼はまだ、とても激しく働いていました。13日に最後の教育会合を開いたからです。とてつもない会合でした。私のメモ書きには、「その後、私はめまいがした。」と言います。これが8月13日です。
 私たちは、〔サーネンのすぐ西の〕ルージュモン(Rougemont)の山にドライヴに行きました。それから午後4時にクリシュナジは、タンネグ〔山荘〕で若者たちと話をしました。
スコット−かなりきつかったですね。
メアリー−とてもきつかったです。再び15日に、タンネグでもう一回、若者たちとの討論会がありました。
 16日に私たちは、彼のメルセデスを運転し、〔レマン湖の北岸の都市〕ローザンヌに行きました。ウシー(Ouchy)で昼食をして、ヴヴェィ(Vevey)、〔東端の〕モントルー(Montreux)、〔その南東の〕エーグル(Aigle)等を経由して戻ってきました。私たち三人で晩餐し、話をしました。
 翌日、私はタンネグ〔山荘〕に上がって、彼らとともに昼食をしました。私たちは散歩に行って、グシュタードに私たちみんなのための住宅を持つことを、話しました。(スコット、クスクス笑う)一切れの土地があって、私たちはそれを見たのを、憶えています。でも、そこは信じがたいほど高価でした!私は今、それがどうだったかを忘れてしまいましたが、住宅を建てるだけの小さな一切れの土地に、4万ドルとかいったものでした。でも、私たちはいつのときも、みんな一緒に生活することについて、話をしていました。
スコット−ふむ。
メアリー−推定するに、私たちの三人、次にヴァンダがそこにいたいときはいつでも彼女も、〔合計〕私たちの四人が、場所を共有するんでしょうが、それは何にもなりませんでした。(笑う)でも、私たちは、グシュタードのこの建物について、幾日も議論を続けましたし、それはなぜかすてきでした。私たちはまた、〔グシュタードのレストラン、〕ソンネンホフ(the Sonnenhof)近くの土地も見に行きました。あの道を上がったのを知っていますね。
スコット−ええ、知っています。
メアリー−それは忘れてしまいました。(笑う)それからサラルとデイヴィッド〔・ボーム〕が現れました。彼らは昼食に来て、散歩し、話をし、あらゆることでした。
 22日にヴァンダが、ローマから戻ってきました。それから或る日、クリシュナジとアランと私は、〔レマン湖の北岸の〕ローザンヌに行きました − そこで彼らは二人とも歯医者に行き、私はお使いをしました。私たちはグラッペ・ドオー(the Grappe D'Or)で昼食をとりました。これらの詳細すべては要らないでしょう。
スコット−まあ、害はないね。(メアリー、笑う)
メアリー−私のメモ書きには、26日に私は、グラーフ氏ととともに山荘と土地を見に行ったが、私たちは買わないだろう!と、言います。(二人とも笑う)それからクリシュナジとともに、彼の車で〔南方向の〕クシュタイク(Gsteig)のほうへドライヴに行きました。私たちはそこで散歩しました。エドガー・グラーフ(Edgar Graf)を憶えていますか。
スコット−ええ、もちろん。では、エドガー・グラーフは、67年にはすでに登場していましたか。
メアリー−ええ。
スコット−ああ。
メアリー−それから或る日、興味深いことに、〔アメリカのジャーナリスト、政治批評家〕ウォルター・リップマン夫妻(Mr.and Mrs.Walter Lippmann)がタンネグ〔山荘〕での晩餐に来ました。後で私は彼らを、メニューインのコンサートに連れていきました。彼らは〔パリ郊外、南東に40キロメートルほどの都市〕フォンテーヌブローの近くに、住宅を所有していました。実際は、風車小屋(原註8)ですが、彼らはそれを売りたいと思っていました。で、それについて話がありました。次のパリへの旅行で私たちは行って、そこを見ました。でも、気に入りませんでした。
スコット−ふむ、ふむ。(メアリー、クスクス笑う)リップマン夫妻のどちらかが教えに関心がありましたか。
メアリー−まあ、彼らはクリシュナジに会ったことがあり、ヴァンダを知っていました。それで、彼女が彼らを招待しました。
スコット−では、むしろ社交上でした。
メアリー−彼らはたまたまグシュタードにいました。むしろ社交上でした。でも、彼らはどちらも、クリシュナジと彼の話すことについて、相当な感情を持っていた、と思います。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−ここで或る日、クリシュナジが昼食前に、〔アパートメント・ハウスの〕カプリスに現れたときが、あります。彼のメルセデスが動きませんでした。(二人とも笑う)それで、彼はレ・カプリスにそれを停めておきました。その期間の幾らか、彼はそこに停めておきましたが、時には上のタンネグに停めておきました。それで、私たちはジャガーを運転して〔山荘に〕上がり、昼食のためボーム夫妻に会いました。私の日記には、「今朝、Kが冥想と没我について書いたことを読んだ後、降りてきた。」と言います。彼は、車を直してもらうのを待っている間、ここ(レ・カプリス)でもっと書きました。後で彼とアランとともに散歩をし、フォンテーヌブローについて話をしました。そうね、フォンテーヌブローは新しい考えです。
スコット−これはリップマンの場所です。
メアリー−ええ、リップマンの場所です。「再び翌日、リップマン夫妻がタンネグ〔山荘〕でのお茶に来た。私たちは荷造りを始めた。クリシュナジは〔タンネグ山荘から〕降りてきて、ここにある自分のものすべてを荷造りした。」 − それは、レ・カプリスで、という意味です。彼はどちらの場所にも、ものを残しておきました。また「私たちはローザンヌに行った。サチャ〔・デ・マンツィアーリ〕を降ろし、それからクリシュナジとアランは歯医者に行った。それからさらに、アランがインドのヴィザを得るために、ジュネーヴに行った。クリシュナジの腕時計のためにパテク〔・フィリップ〕に、そしてグシュタードに戻った。(クスクス笑う)それから私たちは〔北東方向の〕トゥーンに行って、クリシュナジのメルセデスを保管のために置いておいた。私は4月の引き渡しでメルセデス1台を注文した。」!(二人とも笑う)
スコット−何を注文しましたか。
メアリー−グレイの車の最初のです。私が持っているようなものです。
スコット−同じもの、280 SE でしたか。
メアリー−ええ、ええ。(クスクス笑う)
 9月3日にタンネグに、〔飛行士の〕リンドバーグ夫妻が昼食に来ました。彼らはクリシュナジとヴァンダを知っていたし、山越えに邸宅を持っていました − そこには、〔イギリスの俳優、作家、脚本家、演出家の〕ノエル・カワード(Noel Coward)と〔オーストラリア出身のソプラノ歌手〕ジョアン・サザランド(Joan Sutherland)が邸宅を持っていました。彼らに会うのは興味深かったです。
 4日に私はローザンヌに運転して行き、そこでアランに会い、彼のテープ・レコーダーのために立ち寄りました。それから私は、〔北西方向に、レマン湖畔のニヨンの街〕サン・セルグ(Saint-Cergue)、〔フランス東部ジュラ県の〕シャンパニョル(Champagnole)、〔同じく〕ポリニー(Poligny)、〔フランス東部のコート・ドール県の〕ディジョン(Dijon)経由で、パリへ運転して行きました。(笑う)
スコット−クリシュナジはどこですか。
メアリー−まあ、彼はグシュタードに留まりました。でも、翌日私は〔パリ南部の〕オルリー〔空港〕に出掛けて、クリシュナジがジュネーヴからの空の便で到着したのを、出迎えました。アランは自分の車でパリへ運転してきました。私たちは、パリでオテル・ウエストミンスター(the Hotel Westminster)に泊まりましたが、そこはかなりおもしろくないホテルでした。「私たちは〔靴屋〕ロブに行った。」(クスクス笑う)
 また、「私たちはリップマンの住宅を見に出掛けたが、それは気に入らなかった。(笑う)戻ってきて、〔ルーブル宮殿の西隣、元宮殿の〕テュイルリー〔公園〕(the Tuileries)で散歩し、レ・プレ・カテラン(Le Pre Catelan)で昼食をし、「〔パリ西部の、ブローニュの〕森」で散歩をし、〔靴を〕合わせるためにロブに行った。」とも、〔日記に〕言います。あなただけがこれが楽しいでしょう!将来、この〔録音〕テープを聴いている人は誰も、全くうんざりするでしょう!
スコット−(笑う)それは大事なことではない。私は徹底的に楽しんでいますよ!
メアリー−(また笑う)「それから私たちは映画に行った。〔英米合作のミュージカル・コメディ〕『ローマで起こった奇妙な出来事(A Funny Thing Happened on the Way to the Forum)』です。」
スコット−ああ、はい。ああ、はい。
メアリー−翌日、「私はパリのオテル・ウエストミンスターを午前6時45分に発って、〔フランス北部パ・ド・カレー県の〕ラ・テュケへ運転した − 153マイル〔、約245キロメートル〕を3時間で。朝食をとり、航空フェリーに乗ってイギリス海峡を越え、〔ロンドンの南東、ケント州の〕リド(Lydd)に。運転して2時間半でロンドンに行った。」(クスクス笑う)
 9月9日に、「私は〔ロンドン南西の住宅地〕キングストン・ヴェイル(Kingston Vale)に着いて、メアリー・カドガンとドリス・プラットがクリシュナジのために借りた住宅に、行った。かなりわびしかった。(二人とも笑う)階上には三つの寝室と一つのバスがあり、階下には居間とダイニング・ルームとキッチンがあった。」何でも布を洗いたいと思ったら、考えは、それをキッチンのストーヴの上に吊すというものでした − 私はそれはむさくるしいと思います!それで、すばらしくなかった、と言わざるをえません。ともあれ、私たちはそこに着きましたが、「カドガン夫妻とジェーン〔・ハモンド〕(原註9)がそこにいた。私たちはその住宅をよく調べた。後で私はカドガン夫妻と、〔ロンドン南西部、〕ウインブルドンのインド・レストランで、夕食をとった。」(笑う)
 翌日、「私たちは〔ロンドン西部の〕ヒースロー〔空港〕に行って、クリシュナジを出迎え、その家に午後3時30分までに戻った。〔広大な〕リッチモンド〔王立〕公園での長い散歩に行った。」そこは多かれ少なかれ隣でした。
 翌日、メアリー・カドガンが昼食に来ました。
 12日に、「アランが自らのフォルクスワーゲンで、昼食に間に合うよう到着した。」(笑う)アランはパリでクリシュナジと一緒に泊まり、それから彼をパリ空港に連れて行ったにちがいありません。私は彼〔クリシュナジ〕を〔ロンドン西部の〕ヒースロー〔空港〕で出迎えました。それで話が通じます。(クスクス笑う)
 それから13日に、「私たちは〔サヴィル・ロウの仕立屋、〕ハンツマンに行った。私はそこで最初のスーツを注文した。その後、私たちはメアリー・リンクス〔旧姓ラッチェンス〕のフラットで昼食をとった。それから私は、アドリアンナ(Adrianna)を迎えに空港に行った。」アドリアンナは、ヴァンダがタンネグで働いてもらったイタリア人メイドでした。私は、私たちがイングランドにいる間、彼女にその住宅の世話をし、食事を作ってくれるよう頼みましたが、それはあまりうまく行きませんでした。でも、ともあれ、ね。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−「ロザリンド・ラージャゴパルがロンドンにいた。彼女はクリシュナジに電話してきて、その住宅に招待された。彼女は1時間遅れで来て、クリシュナジに対して一人で不愉快に話をした。」*
スコット−その何を憶えていますか。
メアリー−私は出席していなかったので、直接的には知りませんでした。でも、彼女が、クリシュナジはラージャゴパルと仲良くしなければならないと言って、面倒なことになっていたのは、知っています。彼女はいつもラージャゴパルの側にいました。
スコット−彼女が持ち込んできた種類の雰囲気を、憶えていますか。彼女は入ってくるとき、不愉快でしたか。
メアリー−私は、彼女が不愉快だったと憶えているだけです。私の印象は、彼女は恐ろしい女性であると、以前に形成されました。
 それからクリシュナジはウインブルドンで講話を行いはじめました。毎日、私たちはリッチモンド・パークで散歩しました。
 或る朝、クリシュナジは、アランと私は自室に入ってくるべきだと、言いました。私たちは三人みんな、一緒に冥想しました。
スコット−彼はそれを、どういう意味で言ったんでしょうか。
メアリー−分かりません!(クスクス笑う)
スコット−そうしましたか。
メアリー−ええ。
スコット−何をしたんでしょうか。叙述してください。
メアリー−私はそこに座っただけです。(二人とも笑う)いかなることも私の精神に入ってきませんでした。
スコット−では、あなたたちは床に座っていましたか。
メアリー−床に結跏趺坐して、です。
メアリー−どれほどの間、座ったんでしょうか。
メアリー−分かりません。あまり長くなかった。しばらくです。
スコット−あなたにとって特別でしたか。それとも・・・
メアリー−分かりません。それは、或る種の実験でした。でも、そこから何も出てきたとは思いません。
スコット−クリシュナジはそれについて何を言いましたか。
メアリー−分かりません。彼は何も言いませんでした。(二人とも笑う)
スコット−アランはそれについて何を言いましたか。
メアリー−私の記憶に記録はありません。それは実験に似ていました。でも、実験からは何の結果もありませんでした。(笑う)でも、私たちはそれを再びやりました。「20日にクリシュナジとアランとともに、冥想。」。いわば、ただ静かに座って、見つめていただけでした。
 再び〔仕立屋の〕ハンツマンがあって、違った人たちが昼食に来ました。これはまったく退屈です!
スコット−その頃、カミングス氏(Mr.Cummings)はハンツマンにいましたか。
メアリー−ええ。でも、リントット氏(Mr.Lintott)がまだ存命でした。だから、すべてがリントット氏でした。カミングス氏は裏にいました。私は二回目の仮縫いをしましたが、私のスーツは成功でなかった。彼らは女物の衣服を作れません − 少なくとも私にとっては。(クスクス笑う)
 9月23日にクリシュナジは、「あなたは、もはや自分自身だけに責任があるわけではない。あなたはとても気をつけなければいけない。」と言いました。
スコット−ええ、彼は後で、それを私にも言いました。
メアリー−ええ、そうでした。
スコット−〔録音〕テープが切れようとしています。だから、ここが終わりどころかもしれません。

原註
1)メアリーは12歳のとき、医師たちが骨髄ガンであると考えたものを治療するために、ごく初期の放射線治療を受けた人だった。彼女は、放射線の激しいやけどを負い、筋肉にも骨にも損傷を受けた。彼女は余生の間、常に痛みを受けていたが、ほとんどの人はそのことを知らなかった。*
2)〔オランダ語で「財団」「基金」を意味し、〕オランダでのクリシュナムルティ委員会の名称。
3)メアリーの声からは、彼女が部分的に私に物語を語っていて、部分的に、日記からそれを読んでいるようである。
4)インドのリシ・ヴァレー学校の〔1950年代終わりから1977年まで第二代〕校長。
5)ナンディニは、ププル・ジャヤカールの妹であり、1940年代からクリシュナジに親しかったし、彼の余生の間、そうであった。彼女はインドの様々なクリシュナムルティの団体で重要な人になり、〔インド西部の大都市〕ボンベイ〔現ムンバイ〕でインド・クリシュナムルティ財団のもとの、貧しい子どもたちのための〔無償の〕学校を、始めた。
6)ドロシー・シモンズ(Dorothy Simmons)は、クリシュナジにより、ヨーロッパでのクリシュナムルティ学校の校長になるよう選ばれた。それで、彼女は最終的に、ブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センター(The Brockwood Park Krishnamurti Educational Centre)の初代校長になった。彼女の夫モンターニュは学校で歴史を教えた。
7)アランとヘレン・フーカーは、オーハイ〔の西端、オーク・グローヴの近く〕で有名な美食のレストラン〔、ランチ・ハウス〕を始めた。アランはまた、初めての美食の菜食料理本を出版した。ブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センターが開かれたとき、彼は一年間、やって来て、キッチンを始め、他の料理人たちを訓練した。
8)風車小屋であり、その内側に住宅がある。
9)ジェーン・ハモンド(Jane Hammond)は、イングランドとサーネン* でクリシュナムルティの仕事に貢献した。最終的には、クリシュナムルティ信託財団(the Krishnamurti Foundation Trust)と、ブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センターの理事になった。


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