第6号 1966年10月から1967年5月まで


序論
この号では、〔前身はスター出版社として〕1925年に設けられたが、クリシュナジにとってひどい働きをしてきた古い運営組織を、彼が最終的に離れてしまうのが、見られる。ロンドン、パリ、インド、ローマの現地の組織担当者は、いまだに世界の各地で〔講話、討論会の〕行事を組織したが、今や自分たちは、ラージャゴパルと〔彼の支配下の〕KWINC〔クリシュナムルティ著作協会〕* に対してではなく、クリシュナジ〔本人〕とメアリー〔・ジンバリスト〕とアラン〔・ノーデ〕に対して答えたいと感じる。次にこれは、クリシュナジの仕事における新時代の始まりである。
 この号にはまた、クリシュナジが講話に行き、それから戻ってくるのを見ることが、どのようであったかについて、最初の詳細な叙述も、ある。このことが、クリシュナジが病気であるとき話をする特有の物理的現象とともに、議論される。

メアリー・ジンバリストの回顧録 第6号
メアリー−まあ、どこで止めたのかを正確には憶えていないので、私は66年の秋に戻ったほうがいいかと思います − そのときクリシュナジは、〔1960年以来〕六年間で初めてオーハイ〔の西端で、ブナ、ナラの林〕のオーク・グローヴ(the Oak Grove)で講話をすることになっていました。
 この時点で、彼とアラン・ノーデは、マリブで私のところに泊まっていました。
スコット−ええ、ええ。それは扱いました。私たちがそれを扱ったのを、私は知っています。メアリー、あなたは到着を叙述しました。私は講話の明確な図像は持っていませんが、ロザリンド〔・ラージャゴパル〕が〔オーハイの東端のアーリヤ・ヴィハーラでの〕食事中にクリシュナジへがみがみ言ったのを、あなたは耐えられないと思ったことを、憶えています。事実、あなたはもはや食事に行きたくなかったんです。
メアリー−ええ、ええ。そうです。私は、それがどんなにますます不快になったかを、叙述したと思います − 声の嫌な調子、です。それは神経に来ました。それはいつでも彼をいたぶっていました。それで、私はすぐに、なぜ食事に来られないかの言い訳をしはじめたし、自分一人で食べました。時折、彼女がそこにいないとき、彼らはともにやって来ました。私は小さなフラットで、私たち三人みんなのために料理をしました。
 それで、私が目撃しつつあり、クリシュナジが私に話してくれたこれらのことすべては、クリシュナジがこれらの人たちに関して、何を耐えなくてはならないかについて、本当に衝撃的な展望を、与えてくれつつありました。それは、ラージャゴパルとクリシュナジとの間のもう一つの話し合いにより、増大しました − それは、パイン・コテッジの隣の住宅で私が生活しているフラットの下の事務所で、起きたんです。
 アランと私は彼のフラットに、そこの居間にいました。そしてクリシュナジの足音がパイン・コテッジに戻って入り、扉を閉めるのが聞こえました。それから、ちょっと後で、ただちにではなく、ちょっと後で、ラージャゴパルが事務所を立ち去るのが、聞こえました。彼が去ってしまったとき、クリシュナジが入ってきて、何が起きたのかを話してくれました。
 私は、オーハイで起きつつあることの恐ろしい叙述を、休止しようとしています。なぜなら、私たちがオーハイに行く前に、歯医者はクリシュナジに対して、彼は下唇に小さな嚢胞があるが、それは医師が取り除かないといけないと、言ったからです。
 それで、10月24日に私はクリシュナジを〔ロサンジェルスの〕ビヴァリー・ヒルズに連れて行きました − そこには医師がいて、彼は〔局所麻酔剤の〕ノヴォカインを使って、小さな嚢胞を取り除き、幾らか縫いました。車で帰宅していると、クリシュナジは過去にあったように、突然、気絶しました。またも私は運転を続けました。突然には停まれないからです。そうすると、彼に衝撃を与えるし、交通にとって悪いでしょう。でも、私はスピードを落としました。彼はまもなく気がつきました。しかし、彼は戻る途中でもう二回気絶しました。私たちがマリブに戻ったとき、彼はその日の残りをベッドで過ごしましたが、夕食には起きることを主張しました。
スコット−あなたは自分の医者に、クリシュナジを連れて行ったんでしょうか。それとも、これは誰か他の医者だったんでしょうか。
メアリー−歯医者は私の歯医者です。その歯医者が、ルービン博士(Dr.Rubin)を推薦したんです。彼は耳鼻咽喉科の専門医でしたが、私は過去に彼のところに行ったことがあります。
 10月27に私たちはオーハイに戻りました。私は、マイクロフォンのリハーサルのために、アランを〔会場の〕オーク・グローヴに連れて行きました。それは、ラージャゴパルがアランに話をしたいと思ったときです − それは前に叙述しました。
 29日に、オーク・グローヴで、クリシュナジの第1回のオーハイ講話が、ありました。とても暑い日でしたが、たくさんの人々がいました。また翌日にも彼は講話をしました。週末の両日〔土曜と日曜に〕、講話をしました。私は昼食を省いて、行ってフラットの家事をしました。昼食の後、私たちはマリブに戻りましたが、そこはありがたいことに涼しかった。私たちは海の砂浜を散歩しました。ほとんど暗がりを、です。すてきでした。
スコット−ふむ、とてもすてきだ。あなたたちはどのように砂浜に降りたんでしょうか。
メアリー−私の車です。住宅は砂浜より上〔の崖の上〕にありますが、そこに降りる満足な道路が得られなかった。もしも崖を降りたとしたら、登って行くのは恐ろしいことでした。とても険しかったからです。
スコット−あなたと〔お隣の〕ダン夫妻(the Dunnes)が、道路を作ろうと試みた場所を、私は憶えています。
メアリー−まあ、ダン夫妻は道路を持っていました。
スコット−ああ、ダン夫妻はそこに降りる道路を持っていましたか。
メアリー−ええ、それでたぶん私は、ダン夫妻の道路を使いました。そう思います。または、車で回って来ることができました。あまり違いはありません。
 11月1日には、〔華氏〕100度〔、約摂氏37.8度〕でしたが、にもかかわらず、私たちはオーハイに、ロザリンドとの夕食に間に合うよう、行きました。
クリシュナジはオーハイで生活していたとき、何年間か行っていた歯医者がありました。メイネグ博士という人(a Dr.Meineg)です。だから、彼は自分の歯医者に戻ることを決心しました。そして、11月2日に歯を一本抜いてもらいました。
 3日に私たちは、〔オーハイ東北部で、パイン・コテッジから近い〕サッチャー・スクール(the Thacher School)に、行きました − そこで、クリシュナジは学生たちに講話をしました。その後、クリシュナジとアランは戻ってきて、テラスで私とともに昼食をしました。そのときロザリンドがどこにいたのかは、憶えていません。
スコット−私は前に、あなたとクリシュナジとアランは、ラージャゴパルの状況についてたくさん話し合ったにちがいない、それはおぞましかったから、ということに触れました。
メアリー−それは、多かれ少なかれ、私たちだけでいるときはいつも、会話で続いていました。
スコット−ええ、それは想像されるでしょうね。クリシュナジは、「私はここから抜け出さないといけない。」、「これは・・・」というようなことを、言いましたか。
メアリー−まあ、状況を変えるには、何かが起きなくてはいけないことは、明らかでした。でも、クリシュナジは、ラージャゴパルが正気になるだろうという希望を、すっかりあきらめなかったと、私は思います。クリシュナジはいつも・・・彼は人々について最悪のことを信じたくなかったんです。
スコット−知っています。
メアリー−彼は、触れられる善さが何かあるにちがいない、そして、ラージャゴパルは道理を弁えるかもしれないと、感じつづけていました。これはすべて、まったくむちゃくちゃでした。全部が、です。それで、彼はわざわざ何らかの形で状況を直そうとしました。いつもわざわざやったのでした。
スコット−ええ。事実、それがクリシュナジの特質の一つです、実際に。
メアリー−そうです。そうです。
スコット−私がいうのは、人々がまわりでどんなにあきれはてる行動をしようとも、彼は彼らを許しました。彼は、彼らから何か善さが出てくるのを、探したものです。
メアリー−ええ、そのとおりです。
スコット−実際には、欠点になるほどに。
メアリー−まあ、状況により欠点になるほど。なぜなら、この人は結果として、窃盗罪を免れることができたからです!それらの年月、窃盗罪だけでなく、クリシュナジへの虐待も、です。その態度は、彼を虐待し、批判し、いじめて、不平不満を言い、本当に、本当に嫌なことです。それがまだ続いていました。
スコット−ええ。
メアリー−それから私たちは、テレビの撮影班が来る時間に合わせて、〔会場のオーク・グローヴに〕行きました。彼の講話が最初に録画されたんです。
スコット−これらがNETの映画でしたか。(原註1)
メアリー−ええ。KQEDというサンフランシスコの放送局でした。彼らはやってきて、二台かそれ以上かは忘れましたが、すごく手際よくカメラを設えました。照明は、彼の近くに一つだけありました。それから反射板がありました。彼の上には、小さな日よけが掛かっていました。日射しが彼に当たったからです。彼らはそこに反射板を掲げました。それで光を反射して、彼の顔を照らしました − 彼の視点からはまったく目障りでなかったし、効果的でした。
 どうしてかその公共放送組織は、クリシュナジが公開講話をしようとしていることを、知りましたが、彼らがどのように接触したのか、私は憶えていません。でも、アランが仲立ちをしました。ディック・何とかという人がいました。私はそれを書き留めていますが、彼は、撮影班とともに来たディレクターでした。彼らはすべてをまったく手際よくやりました。目障りでなかったし、誰も気に掛けませんでした。彼らは最初のものを逃しましたが、11月5日の講話を録画しました。それは第3回の講話だったと思います。彼らは最初の二回を逃したと思います。
 後で、私たちはみな、アーリヤ・ヴィハーラで、ロザリンドとその娘のラーダー・スロス(Radha Sloss)とその夫のジム・スロス(Jim Sloss)と彼らの三人の子どもとともに、晩餐をしました。また、そこに、ロザリンドのところに泊まっていたマーゴ・ウィルキー(Margo Wilkie)という彼女の友人がいました − その人は、〔東部マサチューセッツ州の〕マーサズ・ヴィニヤード〔島〕で生活していた女性で、私は先に触れたと思います。
スコット−そうです。
メアリー−6日にクリシュナジは、第4回の講話をしました。
 11月7日には、全く予期せぬ豪雨があって、予定した講話は、取り消さざるをえませんでした。代わりにクリシュナジは、〔もとのKの学校〕ハッピー・ヴァレー学校(The Happy Valley School)(原註2)に行って、学生たちに講話しましたが、私はそこにいなかったので、何が起きたのかは知りません。
スコット−ハッピー・ヴァレー学校を仕切りつつあったのは・・・
メアリー−ロザリンドです。そこは、〔1946年に〕クリシュナジと〔作家の〕オルダス・ハックスレーと〔グイド・〕フェッランド博士(Dr.Ferrando)* が始めました。ロザリンドはそこで働き、いろいろとやることになっていました − そこを仕切る役割ではなくて。でも、彼女はすばやく、取って代わり、そこを手に入れてしまいました。もちろんクリシュナジは〔インド、ヨーロッパに行って〕そこにいなかったし、ハックスレーはもはやオーハイで生活していなかった。フェッランド博士がどうなったのか、私は知りません。疑いもなく、彼は、私の気づいていない何か興味深い生活を、送ったのでしょう。
スコット−でも、それからロザリンドは、次第に学校を所有するようなことになったとか、ですね。
メアリー−まあ、そこはハッピー・ヴァレー財団が所有しています − それは、〔神智学協会会長で、Kの養母の〕ベサント夫人が創設しましたが、クリシュナジが使うためとされていました。ロザリンドは委員会を任命することにより、そこを支配しました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−クリシュナジはそこにいなかった。意地悪く言うと、ロザリンドの友人とおべっか使いたちだけでした。
スコット−で、彼女は本当は、〔後に離婚した〕ラージャゴパルがKWINC〔クリシュナムルティ著作協会〕でやったとの同じことを、やったんです。
メアリー−そうです。そのとおり。一人は一つの財団を盗んだ。もう一人は他の財団を盗んだ。で、彼らの間では彼らは(スコット、笑う)大成功を収めたんです!(メアリー、笑う)
 ともあれ、学校での講話の後、私たちは運転してマリブに戻り、夕食に間に合うよう到着しました。
 翌日、私たちは〔ロサンジェルスの〕街に出掛けて、再び医者に診てもらいました。それから、遅い昼食の後、私たちは運転して、オーハイに戻りました。
スコット−ここで止まって訊ねていいですか。クリシュナジは、ハッピー・ヴァレー学校について、何か論評しましたか。
メアリー−いいえ。何も憶えていません。彼と一緒に〔そこに〕行ったのは、アランだったと思います。私は憶えていません。私は行かなかったし、際だった出来事ではなかった。
スコット−いいです。進みましょう。おじゃましました。あなたたちはオーハイに戻った。
メアリー−ええ。それから昼食をとりました。ミマ・ポーター(Mima Porter)のところで、クリシュナジと私でした。アランがそこにいたとは思いません。ミマ・ポーターを知っていますか。
スコット−会いましたよ。
メアリー−ミマ・ポーターは、〔昔フランスでKを支援した〕デ・マンツィアーリ〔家〕の生まれでした。
スコット−ああ、彼女はデ・マンツィアーリの人でした。
メアリー−ええ。彼女の名は − 彼女は誰にも知られるのを嫌っていましたが(クスクス笑う) − ジャーメイン(Germaine)でした。でも、彼女はそれを嫌っていて、子どもの頃からいつもミマと知られたんです。
メアリー−彼女は、〔Kの若かったとき、〕デ・マンツィアーリ一家の生活の一部でした − もちろん、〔イングランドの〕ラッチェンス家の子どもたち(原註3)とともに、です。
スコット−ああ。
メアリー−彼女は、シカゴ出身のジョージ・ポーターという人と結婚しました。とても裕福な人です。結婚後まもなく、彼は自殺を遂げました。
スコット−ああ。
メアリー−どのようにとかなぜとか、私は見当もつきません。彼女はオーハイにすっかり大きな地所を買って、余生の間そこで生活しました。もちろん彼女は、夫からたくさんのお金を相続しました。彼女は本当は、その後、多かれ少なかれ他の二人の妹〔マーとヨー〕を支援したと思います。ともあれ、私たちは彼女に昼食へ招かれて、行きました。彼女は会ったとおりの人でした。私がいうのは、彼女に特別な印象は受けなかったということです。でも、オーハイの状況では、彼女は完全にラージャゴパルに味方しました。この後の年月の間、クリシュナジは、何らかの合意に至ろうとしているとき、ミマに対して、ラージャゴパルへまともな話をしてくれるよう、訴えつづけました。結局、68年の春に彼女はともあれ、パリに行こうとしていました。クリシュナジがそこにいるとき、彼女は、すべてうまく行くだろうというラージャゴパルからの伝言を、持って来ました。私は今、先へ跳ぼうとしていますが、それを始めたからには・・・彼女が実際に言ったことは、「ラージャゴパルは、あなたが来年オーハイに来るとき、すべてを落着させようと、言っています。」ということでした − それは、彼のいつもの企てでした。〔結局、〕何も起こりませんでした。でも、ともあれ、私たちはミマとともに昼食をしました。
スコット−さて、でも、これについて話をするのは興味深いことです。なぜなら、ヴィゲヴェノとミマ・ポーターのように、彼らはラージャゴパルとロザリンドと〔彼らの娘〕ラーダー・スロスとともに、クリシュナジについて、私たちみんなが持ってきた見方とはきわめて異なったイメージを、持っていたにちがいないからです。おそらくそれは、少し話しておくべきでしょう。なぜなら、クリシュナジや教えの賞賛者であったヴィゲヴェノやミマ・ポーターのような誰かが・・・
メアリー−ええ。
スコット−でも、彼らは、教えとクリシュナジとの間に違いを見た。
メアリー−まあ、それが物語だったのは、お分かりでしょう。それが助長されました。
スコット−ええ。これに少し入っていいですか。
メアリー−私が理解するかぎり、そして私の理解はクリシュナジが言ったことから来るんですが、いわゆる信奉者であるこれらの人たちが、いました。でも、ラージャゴパルは彼らに対して、〔クリシュナジには〕分裂した人格があるという概念を、押しつけました。すなわち、〔一方に〕世界教師がいる − 彼は、演台の上にいて、すばらしい。これら驚くべきことを言う。それから〔他方に〕、クリシュナムルティという人がいる − 彼は、かなり普通の誤りがちな人である。これはとても便利でした。なぜなら、彼らが気に入らないことは何でも、誤りがちな人からであり、他方、すばらしいことすべては、世界教師に帰することができたからです。
スコット−これは、ラージャゴパルから発生することであると、私は思いません。なぜなら、私にとってこれは神智学の概念の一部分であるからです − すなわち、世界教師が誰かを器として使用する、と・・・
メアリー−ええ。
スコット−世界教師、マイトレーヤが顕現する・・・
メアリー−ええ。
スコット−・・・そして、そこを通して話をするが、彼がそこにいないとき・・・
メアリー−元来の普通の人間である、と。
スコット−ええ。むしろ、そうですね、普通の、頭の空っぽな人間だけがいる、と。
メアリー−そこが、それの出てきたところだと思います。なぜなら、〔19〕20年代と30年代に遡って、思い出されるからです − すなわち、〔神智学協会の指導者〕レッドビーター(Leadbeater)と〔ジョージ・〕アランデイル(Arundale)(原註4)は、或る時点で黒魔術師がKを通して話していると言って、〔当時の神智学協会会長の〕ベサント夫人はそれにうろたえました。クリシュナジは〔養母でもある〕彼女に対して、「あなたがそうだと思うのなら、私は二度と話しないでしょう。」と言ったのです。それで、クリシュナジが何か彼らに合わないことを言っているとき、いつも彼らは、話しているのは世界教師でない者であると、主張したものです。*
スコット−ええ。これは理解されなくてはいけないと、思うんですよね。なぜなら、さもないと、意味をなさない状況が、あまりに多くあるからです。
メアリー−ええ、ええ。
スコット−なぜなら、私は知りませんが、彼らは悪い人々ではないと想定されるんですが、ここに人々がいるからです − 〔例えば〕ミマ・ポーターやヴィゲヴェノです。彼らは悪い人たちではないと思うんですが・・・それから、私たちは、クリシュナジの人生の終わりにも、幾らかの人たちから、再び同じことが見られます。いいですか。インド財団の卓越した人たち − 〔一時その総裁を務めた〕ププル〔・ジャヤカール〕のように。彼らからこういうことは、予想もしなかったでしょう。*
メアリー−そのとおりです。そのとおりです。
 また私は今、ミマ〔・ポーター〕のことを考えています。彼女は、〔夫を亡くした後、〕オーハイに引っ越すことにより、自分はクリシュナムルティの大親友になるし、これまでよりはるかに大きな役割を果たすだろうという考えを、持っていたかもしれません。そのようなことが何も起きなかったとき、失望があって、それが憤慨になり、彼の敵方についたのかもしれません。
スコット−ええ。でも、彼らはたぶんラージャゴパルとの役割を果たしましたよね。
メアリー−ええ、そうです。ミマは〔ラージャゴパルの支配するK著作協会で、ヴィゲヴェノの後、〕副会長になったし、事実、彼女はこの時にそうでした。二人の副会長がいたと思います。クリシュナジは、彼女は『講話記録(the Verbatim Talks)』の幾つかを編集してきたと、いつも言いました。でも、その証拠が何も見つかったとは思いません。でも、確かではありません。
スコット−私が言っているのは、こうです − クリシュナジに関するこの価値相反の部分は、彼らがクリシュナジに関して、自分たちのしかるべきものであると考えた霊的な卓越性を、持っていないということだった、ということです。
メアリー−ええ。
スコット−でも彼らは、ラージャゴパルに関しては、あの種の霊的な卓越性を持っていたかもしれません。
メアリー−それが霊的な卓越性だったのかどうか、私は知りませんが、彼らは・・・
スコット−まあ、彼らは霊的な組織の中で〔役職に就いて〕卓越していました。
メアリー−まあ、ええ、そうです。
スコット−それが私の言おうとしていることです。
メアリー−彼らは店を仕切っていたということが、その到達点です。
スコット−ええ。たくさんの人たちが、それでけりを付けます。
メアリー−ええ。では、デ・マンツィアーリ一家の中でその二人、サチャ* と〔二女〕マー(Mar)、〔すなわち〕マルセル(Marcelle)が、一生を通してクリシュナジの信奉者に留まったということは、興味深いです。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−特に〔四姉弟の中で長女〕ミマ〔・ポーター〕と、後で〔三女〕ヨー(Yo)はね。なぜなら、私は叙述したと思うんですが、しましたか。私たちがパリで映画に行って、ヨーが一緒に来ていたのは、翌年でしょうか。
スコット−思い出せません。
メアリー−前年のことでした。そして、マーとサチャと全く同じく、彼女はクリシュナジを信奉している、と思われました。でも、そうでないことが分かりました。さて、ミマが財布の紐を握っていて、ヨーを扶養していました。でも、私の知るかぎり、そのとき彼女はマーをも扶養していましたが、マーは変わりませんでした。で、こうなのです。ともあれ、おかしいです。とても奇妙です。
スコット−ええ。そうなるには、何かきわめて特有な考えがあったにちがいありません・・・まあ、まず第一に、これらの人たちがクリシュナジをあしらったように、或る人物が誰にせよ、あしらうには、ね。でも、それから第二に、一方では彼に対して尊崇を持つ、他方では彼に対して軽蔑を持つということは、ね。それを見てみると、本当にかなり変ですよねえ!
メアリー−本当です!そのとおりです。
スコット−私には分かりません。たぶんここで私はアマチュアの精神科医を演じているだけでしょうが、軽蔑により彼らは、尊崇をもちつつ快適になれました。
メアリー−ええ。それに、少なくともラージャゴパルとロザリンドは、クリシュナジの世話役として、〔神智学協会会長でKの養母〕ベサント夫人により聖別されていたこと、少なくとも彼らは自分たちはそうされていたと考えたということは、忘れないでください。彼は、彼らにより気遣われることになっていました − それにより、或る面で、彼らは自分たちは好きなことをできると、感じました。(クスクス笑う)彼は、自分たちに手渡された小包のようなものでした。
スコット−ええ。
メアリー−彼らは、まさにそのように振る舞いました。他方、〔ジェームズ・〕ヴィゲヴェノは、まあ、私は、人々についてこういう話し方をするのは、嫌です・・・(クスクス笑う)彼は或る種、へつらう態度をしていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−そして、いつもお金を気に掛けていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−彼とその妻〔アニー〕はどちらも、初め私が〔教えに〕関心を持つのを奨励したと思います。彼らは〔1944年に〕、あの〔ロサンジェルスでの私的な〕討論会に、私を招いてくれました。私が彼らの画廊に、バーバラ・ハットン(Barbara Hutton)という名の女性といっしょに行ったことがあったからです − その名があなたにとって何か意味があれば、ですが、
スコット−いいえ、ありません。
メアリー−まあ、彼女は、世界でも最も金持の女性か何かの有名な相続人でした。私は彼女といっしょに学校に行きました − そういうことで、私はたまたま彼女を知ったんです。彼女は絵画に興味を持っていました。〔画商の〕ヴィゲヴェノ夫妻は展示会を開きましたが、私はそれを良いと思ったんで、彼女をそこに連れていきました。それで本当に、ヴィゲヴェノの精神の現金レジスターが動きだしたんです。
スコット−ええ、分かります。
メアリー−いま、私は本当に、彼のことを全く金づくだと非難しています。たぶん彼らは、商売のことは別にして、私に対しても仲良くしたかったんでしょう。でも、彼はああいう態度をしていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−同時に彼はあまり利発な人ではなかった。そして、完全にラージャゴパルの支配下でした。その奥さん〔アニー〕もそうで、もっとそうでした。この物語で後で分かるように、です。(ため息をつく)
スコット−いいですよ。
メアリー−ともあれ、私たちが止めたところに戻りましょう − ラージャゴパルとクリシュナジとの間のひどい光景の後、ヴィゲヴェノが来ました。クリシュナジはまた彼に対して、ラージャゴパルに書いていたこの手紙を、見せました − それを、ラージャゴパルはヴィゲヴェノに見せなかったんです。彼は彼〔ラージャゴパル〕の〔もとで、K著作協会の〕副会長でしたが、そのようなものを何も見ることを許されなかった。(スコット、笑う)その夜、クリシュナジとラージャゴパルとの間で、長い話がありました。ずっと恐ろしい一日でした。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−それから13日に、クリシュナジは、第6回のオーハイ講話を行いました。それは、ここ〔日記〕に言うように、すばらしいものでした。それから、クリシュナジは再び歯医者。これらを通して、彼はいつも歯医者に行っています。
 14日にはオーク・グローヴで公開討論会がありました − その後、私たちはできるだけ早く、マリブに直行しました。日の入りにそこに着いて、即時に暗がりで砂浜の散歩に行きました。
スコット−とてもいい。
メアリー−私たちは夕食に戻り、果てしなく話をしました。二日後、私たちはオーハイに戻りました。再び歯医者にです。
スコット−これはオーハイの歯医者ですか。
メアリー−ええ。これはクリシュナジの歯医者、メイネグ〔医師〕です。
 まさにその日、クリシュナジはラージャゴパルに対して、現在の講話の〔録音〕テープがほしいと言っておいて、それでアランと私を、彼の家に送りました。また私たちは、『ノートブック(the Notebook)』の原稿を求めることになっていました。しかし、ラージャゴパルは私たちに会おうとしなくて、私たちを入れてくれませんでした。
スコット−で、どうなりましたか。扉をノックしましたか。
メアリー−ええ。扉をノックしました。私たちが返事を待っている間に、彼の奥さんが車までやってきました − アンナリーザです(Annalisa)(原註5)。彼女はかなりいらついて見えて、「まあ、何がお望みですか。」と言いました。
 私たちは何が望みかを言いましたが、彼女は、「ちょっと待って。彼が同意するとは思いませんが、入ってみましょう。」と言って、中に入り、戻ってきて、どちらもだめだと言いました。それで、私たちはクリシュナジのもとに戻りました。
スコット−これは何日ですか。
メアリー−これは11月17日です。ロザリンドは、クリシュナジに〔西の方の都市〕サンタ・バーバラに来てほしいと思った − 彼女は本当はそこで生活していました。ハッピー・ヴァレー学校の或る種、理事会か何かがありました。それで、アランと私は独自に運転して、サンタ・イネツ・ヴァレー(Santa Inez Valley)に行きました。そこは全く美しかった。運転してまわり、それからサンタ・バーバラに戻り、映画に行きました。それからオーハイに戻り、〔西端のオーク・グローヴ近く、農場主住宅風のレストラン、〕ランチ・ハウス(the Ranch House)ですてきな晩餐をとりました。
スコット−では、ロザリンドは〔オーハイで〕生活していなかった。ロザリンドは生活していなくて・・・
メアリー−彼女はそのときサンタ・バーバラで生活していました。彼女は後でオーハイのハッピー・ヴァレーの土地に、住宅を建ててました。そこが今日彼女の生活しているところです。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−彼女は至るところに住宅を持っていました。でも、あの時点でほとんどサンタ・バーバラで生活していました。クリシュナジは、自らの仕事がアーリヤ・ヴィハーラの所有権を取り戻すことであったとき、私たちが彼女を自宅から追い出そうとしていると考えました。でも、彼女はサンタ・バーバラの住宅、ハリウッドの住宅を持っていて、その時までにハッピー・ヴァレーの土地に住宅を建てたのが、分かります!(クスクス笑う。スコット、笑う)だから、彼女は正確にはホームレスではなかった!(スコット、もっと笑う)でも、ともあれ私は、その日、私たちがしたことを言いました。なぜなら、ロザリンドは後でアランを非難したからです − すなわち、クリシュナジがサンタ・バーバラにいるとき、彼は誰か悪い男に会っていた、と。でも、彼は一日中、私といっしょにいましたし、私たちは運転して回って、映画に行きました。
 で、私たちは翌日、18日、荷造りをして、オーハイを去りました。マリブへ戻る車で、クリシュナジは、アランと私の二人に、自分は何をすべきかを決めたと言って・・・口もきけなかった、というのが、私が使えるただ一つの言葉です。彼はただ歩み去るだけで、二度とラージャゴパルや、〔彼の支配する〕KWINC〔クリシュナムルティ著作協会〕とは何の関わりも持たないだろう、と。ラージャゴパルは、すべきことこと全部、金銭、あらゆるものを取っておけばいい。自分はそれに触れまい。もうおしまいにした − それは、彼がラージャゴパルに全面降伏する、という意味でした。
スコット−ええ、もちろんです。
メアリー−私はこのことにたじろぎましたが、そのとき考えたのを憶えています − 私は驚かない、と。彼は、「私はこれに巻き込まれるわけにいかない。それはできない。このことと戦うことはできない。」と言いました。アランは本当に・・・話さないわけではなく、反対に彼は車の中で腹を立てていました − あまりにひどい、不公正だ、と。
 あの時点で私たちはマリブに到着し、テレビの人たちが、芝生でクリシュナジとのインタビューを録画しようとしているのを、知りました。それで、それが行われました。私たちはこれらについて話すのを、止めざるをえませんでした。それで、夕方にクリシュナジと私が再び散歩に行ったとき、私は一人で、彼と相当に長く話をしました。私たちは家に戻ったとき、アランに入ってもらい、私たち三人で話をしました。その時点で、うーん・・・どうなったのかな。クリシュナジはラージャゴパルに電話をしましたが、彼はいませんでした。〔彼の妻〕アンナリーザが電話に答えました。アンナリーザは、ラージャゴパルは外に出ていると言って、機会を利用しました − それは、彼女にとってクリシュナジ一人に話をするただ一つの機会でした。彼女は、これら恐ろしいけんかをめぐる自分の感情を、ぶちまけました。そして、ラージャゴパルがどんなに気むずかしいのか、自分は知っていると言いました。そして、彼はKの手紙の事柄に同意したいと思っていたが、Kの会話で腹を立てたのだ、と。明白にラージャゴパルは彼女に対して改竄した物語を話していて、この呪いの事柄については語っていなかったし、ラージャゴパルをうろたえさせたことは、すべてクリシュナジの過失であると、考えていた。クリシュナジは彼女になだめるかのように話をしただけで、何にも立ち入りませんでした。それから、私は別の部屋に入り、アランと長い話をしました。私たちが話している間に、クリシュナジはもう一度ラージャゴパルの番号に掛けて、彼に連絡ができました。クリシュナジは、車の中で私たちに語ったこのことを、彼に対して語りました。ラージャゴパルの答えは、「今日は喜ばしい日だ。」というものでした。そういうことで、これらやりとりがあり、ラージャゴパルの完勝でした。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−それでまた、長い、長い話がありました。そして・・・
スコット−あなたが一人でクリシュナジと長い話をしったとき、何について話していましたか。
メアリー−私は、彼が言ったことについて話していました − 結果すべてを彼に指摘しながら、です。彼は私の言葉を聞きましたが、彼は・・・私は彼を説得しようとしていませんでした。私はただ彼に、その見取り図を示そうとしていただけです。そして私は、アランがこれらによっていくらか裏切られた気持ちであるのを、説明していました。前にクリシュナジはラージャゴパルに対して、自分は、クリシュナジはもはやKWINC から、自らを支援する金銭を受けとらないと、言っていました。だから、アランはそのとき、自分も〔秘書役としての〕給料をもらうまいと言っていました。なぜなら、クリシュナジがあの手紙に書いたことの一つは、アランは給料を支払われるべきだということ、そして、クリシュナジの死去によりアランは年金を支払われるべきだということであったからです。でも、現在の状況では、アランは何の金銭をも拒絶しました。誰もがみな、ラージャゴパルと関わることから退こうとしていました − もちろんそれは、ラージャゴパルにとって、結構なことでした。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−彼は、何にも支払わなくてよかったし、金銭すべてを自分自身に取っておけました。
スコット−ええ。そして〔Kの〕著作権も。
メアリー−著作権、土地のすべて、あらゆるものを、です!
スコット−彼は、お金を生むものをすべて持っていました。
メアリー−ええ!(スコット、笑う)
スコット−それに彼は、出費すべてを免れようとしていました!(もっと笑う)
メアリー−そのとおり!彼は権力を持っていました − それが彼の一番好きなものでした。
スコット−もちろんです。そこが、この愚行の多くが関わっていたところです。
 クリシュナジは、どのように生活しようと予想していましたか。
メアリー−それについては議論しませんでした。(スコット、笑う)彼は正しいこと、その時点で本当に感じたことを、していました。
スコット−ええ。
メアリー−それから翌日、19日、私は彼らの荷造りを手伝い、飛行機でとる食べ物を彼らのために作り、彼らを空港に連れて行き、さようならを言いました。午前11時に彼らはローマへ発ちました。でも、立つ前に、クリシュナジはアランに対して、「あなたが私に幻滅なさったのなら、ただそう言ってくださるべきです。」と言いました。アランはクリシュナジに応ずる発言を返しました。それから、アランは休日が要らないのかかどうかが、議論されました。初め彼は、休日を取れないと言いましたが、ええ、休日が要ります、でも、ことがこの落ち着かない状態にあるときには、取れない、と。
 それで、彼らはローマに行ってしまい、二、三日後に私は手紙をもらったと思います。またはたぶん私が電話をしたのか、忘れてしまいましたが、アランは、インドに行かないで、休日を取るために〔故郷の南アフリカ、〕プレトリアに行こうとしている。そして、クリシュナジがインドから戻ってくるとき、彼に合流するだろう、ということでした。
 それで、66年は終わりでした。彼らはどちらも私に手紙を書いてくれました。クリシュナジはインドにいる間、その年の終わりをとおして、ニュー・デリーから書いてくれました。私は明白に、〔ロサンジェルス近郊の〕マリブ〔の自宅〕に留まっていました。私たちは今、67年に来ます。続けたいですか。それとも・・・
スコット−ええ、そうです。
メアリー−私たちは今、1967年にいます。私はマリブにいて、クリシュナジはインドにいます。アランは家族に会い、休みを取るために南アフリカに行ってしまいました。私はクリシュナジから、〔インド中部、ヴァーラーナシーの〕ラージガートで書いた手紙を1月4日にもらい、月末にかけて〔インド南東部、〕マドラス〔現チェンナイ〕からもう一つをもらいました − 彼がほしがっていて、私が送っておいたビール酵母の小包を、受けとったと言ってきました。(二人ともクスクス笑う)
 2月初めにアランは、パリから私に電話してきて、春のクリシュナジの〔パリ〕講話のために私たちのアパートメント探しを担当しようと、言いました。私はすっかり安堵しました。なぜなら、彼はそれをうまくやるだろうと知っていたからです。2月にクリシュナジは〔インド南部の〕リシ・ヴァレー* から〔インド西部の〕ボンベイ〔現ムンバイ〕に行きました。
 15日に私は、アランから電報をもらいました − パリで住宅を取った、自分は何か小さな手術のために入院しなくてはならない、と言うものです。同じ日に、私はボンベイのクリシュナジから手紙をもらいました。
 それで3月1日に私はニューヨークに、それからロンドンに飛びました。5日にクリシュナジは、ボンベイからローマに到着しました。アランが私を出迎えました。私たちはオランダのアンネッケ〔・コーンドルファー〕に電話し、5月〔の講話の滞在〕のために〔オランダの首都〕アムステルダムの近くにクリシュナジのための住宅が得られたことを、知りました。
スコット−あなたたちはロンドンにいました。クリシュナジはローマにいて、ヴァンダ・スカラヴェッリのところに泊まっていましたか。
メアリー−ええ。アランは、パリで住宅を決めてしまった後で、ロンドンに来ました。彼は、受けるべきだとされた手術のために、やってきました。彼はしばらくの間、病院にいました。
 17日に私は、パリに住宅を見に行きました − そこは、「〔パリ西部、ブローニュの〕森」のちょうど南の、ロンシャン〔競馬場〕(Longchamp)の近く、〔住宅地域〕ブローニュ・ビヤンクール(Boulogne-Billancourt)にありました − 午後の散歩に「〔ブローニュの〕森」へ歩いていくにはちょうど完璧な距離内です。すてきな住宅でした。ヴェルダン通り(Rue de Verdun)という小さな通りにありました。オンズ(原註6)、ヴェルダン通りです。
スコット−正確にはこれはいつですか。
メアリー−16日にアランは退院しました。私たちは二人ともパリに飛んで、オテル・ポン・ロワイヤル(the Hotel Pont Royale)に泊まりました。翌日、私たちは、ブローニュ・ビヤンクールの私が借りた住宅を、見に行きました。私は所有経営者とともに、あらゆることを調べました。ごく通常の手続きです。(スコット、クスクス笑う)
 18日にアランは、ローマに飛んで、ヴァンダのところでクリシュナジに合流しました。私は次の4日間、パリに留まりましたが、22日に私もまたローマに飛びました。私はホテル・ラファエル(the Hotel Rafael)にチェックインして、ヴァンダのところに行きました。私は、クリシュナジが私を迎えるために門のそばに立っていたのを、憶えています。私たち四人はみんないっしょに、すてきな昼食をとりました。後でクリシュナジと私は、散歩に行きました。私たちは、カリフォルニアでの出来事すべてについて、議論しました。
スコット−ヴァンダはその時、ローマのどこに住んでいましたか。
メアリー−〔南西部にある〕ヴィラ・デル・カザレット(Villa del Casaletto)です。そこはちょうどローマの外側で、空港の方向にありますが、さほど遠くありません。庭園がついていて、とてもすてきでした。
 私は二人とも連れ回しました(クスクス笑う)。これらの場所ではいつも買い物がありました。シャツの生地の場所とシャツの仕立て屋は、ローマの古い地域にありました。丸石通りを行ったところです。楽しい買い物といったものでした!(クスクス笑う)それで彼らは、ほしい生地を選びました。それからもちろん、作ってほしいシャツの詳細について決定をするには、たくさんの研究が要ります。(クスクス笑う)
スコット−もちろん、もちろんです。
メアリー−彼らは二人ともそれを大いに楽しみましたし、私も楽しんでいました。おもしろかったからです。私は彼らの好きなものを、彼らに提供することができました。(またクスクス笑う)
スコット−ええ。
メアリー−不幸にも私は風邪をひいて、ベッドに留まりましたが、良くなったとき、二日間クリシュナジに呼び出されて、手当を受けました。
 30日にクリシュナジは、ローマでの第1回の公開講話を、教育学研究所(the Istituto di Pedagogia)で行いました。
 翌日、私はヴァンダのところで昼食をとりました。そこには、サラルとディヴィッド・ボーム〔夫妻〕がいました。
スコット−ああ!彼らは講話を聞くためだけに、やってきたんですか。
メアリー−そうだと推測します。
 4月1日にクリシュナジは、第2回のローマ講話を同じ場所で行いました。私たちは、アランが前日に集めておいた若者たちの会合について、議論しました。
 5日に私は〔スイス西部、〕ジュネーヴに飛んで、〔スイス中西部にある首都〕ベルンへの列車に乗りました − 私はそこで夜を過ごしました。翌日、私は列車で〔南東方向の〕トゥーンに行きました − そこで〔ガレージで〕冬を過ごした私のジャガーを、取ってくるためです。
 私は、吹雪の中をトゥーンから〔南西方向のサーネンの〕グシュタードに運転したのを、憶えています − 春の吹雪です。私は〔アパートメント・ハウスの〕レ・カプリスの屋根裏部屋に、物を残していました。冬の間、離れているとき、そこに物をしまっておけました。それで、私は、何でもほしいものを取り出して、それからペルネ(Pernet)〔の店〕に行きました。それはその頃、〔まだ〕ペルネではなくて、グロスマンのところ(Grossman's)でした。グロスマン氏が、〔後で〕ペルネになったものを、所有していました。私は幾つか健康食品を選んで、それからフランスへ〔北西方向に〕運転を続け、〔ジュネーヴからパリへの中間地点に近い〕アヴァロン(Avalon)で、オテル・デ・ラ・ポステで夜を過ごしました。
 翌日、私は正午までにパリに着いて、住宅に引っ越し、所有経営者とともに目録を調べました。翌日は丸一日、あらゆるものを整理整頓して過ごしました。アランはローマから電話をして、クリシュナジはもうすぐ来るだろうと言いました。翌日、私はマルセル〔・ボンドノー〕とともに、〔会場の〕サル・デ・ラ・シミエ(the Salle de la Chimie)を、見に行きました − そこは、クリシュナジが話をしようとしていたところですが、前の年の〔会場、サル・〕アディヤールのホールよりはるかに良いものでした。それはもっと大きくて良くて威厳がありました。そこはちょうど・・・ああ、セーヌ川の左岸をちょうど逸れた地域の間近にあります。〔パリ中心部で東西に走る〕グルネル通り(Rue de Grenelle)ではなく、その近くです。
 同じその日、11日、私は〔パリの実業家で支援者の〕デ・ヴィダス氏(Mr. de Vidas)に会いました。私たちは〔パリ南部の〕オルリー〔空港〕(Orly)に行き、クリシュナジが一人でローマから飛んでくるのを、迎えました。私は彼を、ヴェルダン通りの住宅に連れて帰りました。私たちが夕食をとっているとき、アランが自分のフォルクスワーゲンで到着しました。彼は車で来たのでした。それで、私たちはみな、すてきな小さな住宅にいました。住宅には、訪ねてくるパートタームのメイドが、いました。だから、私は仕事すべてをしなくてよかった。翌日、私は昼食を料理して、それからもちろん(クスクス笑う)、午後に私たちは靴のためにロブ〔の店〕に、さらに何枚かのシャツのために〔オーダーメイドの〕シャルヴェに行きました。
 13日に、ヨー〔・デ・マンツィアーリ〕が、昼食に来ました。私たちは映画に行きました。〔アメリカ映画、西部劇の〕『プロフェッショナルズ(The Professionals)』です − あなたが憶えていれば、ですが。
スコット−ああ、憶えています。
メアリー−私たちはできれば、毎日「〔ブローニュの〕森」で散歩しました。
 ほとんど毎日、様々な人たちが昼食に来ました。或る日、シュアレス夫妻が来ました。
 16日にクリシュナジは、第1回のパリ講話を、ラ・サル・デ・ラ・シミエで行いました。彼は暴力と悲しみについて語りました。
 そのときから私たちは、〔ブローニュの森の〕バガテル(Bagatelle)に行きはじめました − それは私にとってすてきでした。なぜなら、子ども時代に私はそこに行っていたからです。あなたもバガテルに行ったことがあるでしょう。そこは、「〔ブローニュの〕森」の中の小さな公園ですが、そこだけのところです。
スコット−ええ。
メアリー−そこには小さな邸宅があります − 私は子どもの頃、それに魅了されました。扉の上には、「パルヴァ・セ・ダプタ(Parva sed apta)」小さいが、適切だと書いてありました。私は、それはすてきだと思いました。(スコット、笑う)そのような美しい場所に、小さな邸宅を持っているのは。(メアリー、笑う)
スコット−ええ。
メアリー−そこはすてきです。それから私たちは毎日午後にそこで散歩するようになりました。
スコット−住宅からまっすぐ歩きましたか。
メアリー−いいえ。運転してそこに行きました。バガテルは、「森」のちょっと行ったところにあります。子どもの頃、そこに行ったことがあり、戻ってきて、クリシュナジと歩くのは、すてきでした。そこはとてもすてきに、とてもすてきに見えました。
スコット−もちろんです。
メアリー−私たちは二回か、おそらく三回、若者たちの討論会を行いました。それらが行われた〔パリ中心部で東北から南西に走る〕ヴォージラール通り(the Rue Vaugirard)には、静かなクエーカー教のセンターがありました。
 それからクリシュナジは、パリのラジオ・インタビューを受けましたが、誰が彼にインタビューしたのかは言えません。憶えていません。
スコット−クリシュナジはフランス語で話しましたか。
メアリー−そうだと思います。
スコット−彼がフランスを話した二組があります。*
メアリー−ええ。またも人々が昼食、映画に来ました。フランス〔のコメディ〕映画『大進撃(La Grande Vadrouille)』を含めてです。それは憶えています。
 ああ、サチャ〔・デ・マンツィアーリ〕(Sacha)(原註7)が昼食に来たのは分かります。
スコット−サチャは生活のために何をしたんでしょうか。
メアリー−彼は〔フランス〕外務省にいました。彼は上海か香港のフランス参事官でした。長年、上海だったと思います。そして、他の国々も、です。彼は戦争で片足を失って、それが痛んだりもしました。クリシュナジは彼を助けようとしたものです。
スコット−ふむ。
メアリー−サチャはいつもおもしろかった。彼は、おかしい話をするのが好きだったからです。彼はまったくまじめくさっていなかった。彼は〔神智学の〕アストラル次元についてジョークを言ったものです。(二人とも笑う)ですが、彼はとてもすてきでした。とても愉快な人でした。彼はクリシュナジを笑わせました。
スコット−ふむ、とてもいい。
メアリー−彼とその妹のマーは、〔パリの中心地、サンジャルマン・ドゥ・プレ地区の〕ジャコブ通り(the rue Jacob)にアパートメントを共有していました。この時期に彼ら二人との昼食のために、私たちはそこに行った、と私は思います。
スコット−彼は今では退職していましたか。
メアリー−そうだと思います。ええ、そうだったにちがいない。でも、彼はまだ、あらゆる種類の人たちと、あらゆる種類の場所を、知っていました。彼は、それらすべてについて語るべきおもしろい物語を、持っていました − すてきでした。それで4月は終わると思います。
 クリシュナジはまたこの時期に、個人面談を行っていました。
スコット−誰がそれらの手配をしましたか。アランですか。
メアリー−彼がしたと思います。そのとき私がしたとは思いません。アランがしたにちがいありません。
スコット−一日の何時にクリシュナジは面談をしたんでしょうか。
メアリー−時には、午前ずっとです。
 例えば、28日にアランはもう一度、医師に診てもらうためにロンドンへ飛びましたが、クリシュナジは午前ずっと〔個人〕面談をして、その日、後でもう一回しました。クリシュナジと私は「〔ブローニュの〕森」を歩きました。アランは夕食には戻りました。私たちは、まるでどこかでタクシーに乗るかのように、いつのときも国々を跳んでまわっていました。(二人ともクスクス笑う)
 4月30日に、〔パリで〕第5回で最後の講話がありました。まったくとてつもないものでした。
 それから5月3日に、私たちはロンドンに飛びました。私たち三人ともです。そして、〔ホテル、〕クラリッジェス(Claridge's)に、泊まりました。クリシュナジとアランは〔サヴィル・ロウの仕立屋の〕ハンツマンに行きました。私たちは映画に行こうとしましたが、時間が間違っていました。Kは自室で晩餐をとった、と憶えています。(クスクス笑う)
スコット−クラリッジェスに再び泊まったのは、そのときが、初めてでしたか・・・
メアリー−ええ、私が〔亡き夫〕サムとともにそこに来て以来、ね。ええ、そう思います。
 アランは再び医師に診てもらい、クリシュナジは(クスクス笑う)再びハンツマンに行きました。私たちはジェームズ・ボンドの映画に行きました。
 翌日、またもやハンツマンです。それから午後の飛行機に乗って、パリに戻りました。(クスクス笑う)
 翌日、私たちは別の〔イギリス〕映画『わが命つきるとも(A Man for All Seasons)』に行き、「〔ブローニュの〕森」を散歩しました。
スコット−あれは憶えています。すばらしい映画でした。
メアリー−5月7日には、午前に18人のほぼ若者たちが、クリシュナジに会いに来ました。それから後で、彼とアランと私は、シュアレス家で昼食をしました。それからKと私は「森」を散歩しました。これはたぶん、後世にとって計り知れなくつまらないでしょう。
スコット−まあ、分かりませんね。残しておくのが良いと思います。(メアリー、クスクス笑う)でも、あなたのメモ書きにたぶん無いような他の小さな事柄を付け加えるなら、特に良いんです。なぜあなたたちみんなは、ほんの二日間、ロンドンに飛んでいったんでしょうか。
メアリー−なぜなら、アランは医師の予約があったし、彼らの二人ともハンツマンの仮縫いに行くはずだったからです。(スコット、クスクス笑う)あなたはこれらの用事の重要性を悟らなければいけないわ。(メアリー、クスクス笑う)
スコット−悟っていますよ。これらの用事の重要性は、よく悟っています。(メアリー、笑う)
メアリー−これら本当に重大なことのために、他の国に飛んで行っただけです。(二人ともクスクス笑う)〔日記の〕ここで、私は、彼ら二人と〔パリ在住の〕父と〔その再婚相手〕継母をシェ・コンティでの昼食に招いたのが、分かります。そのことはあまり憶えていません!
スコット−では、教えてください。これらの時、あなたたちはラージャゴパルの状況について、話を継続していますか。
メアリー−いいえ。
スコット−ただ止めましたか。
メアリー−いいえ。私たちがそれについて、何かを忘れてしまったたということではありません。中断していたというか。そのように放っておきました。
スコット−クリシュナジがその全体から歩み去ろうということは、やはり決断されていた。それから、そういうことだった、と。
メアリー−ええ。
スコット−他はない。他は何も熟慮されていなかった、と。
メアリー−ええ。
スコット−いいです。
メアリー−それはけっして考えたことやもう一度議論したことがなかったとは、言えません。なぜなら、明らかにそのように放っておけなかったからです。
スコット−では、アランは、講話のオーディオ・テープをラージャゴパルへ送り返すことを止めてしまった、と推測しますが。
メアリー−ええ、ええ・・・いえ!いえ!
スコット−送り返すのを続けたんでしょうか。
メアリー−ふむ、そう思います。
スコット−それ自体、信じられないです。
メアリー−そこそこ確かだと思います。ほぼ確かです。彼が〔録音〕テープを送るのを止める瞬間が、来きます。
スコット−でも、ここがそうではない。
メアリー−ラージャゴパルはまだ、67年中は著作権を持っていました。でも、それは68年に終わります。だから、まだそのときは彼に送り返されていました。
スコット−信じられない。
メアリー−5月10日に私たちは、二台の車、私の車とアランの車に荷物を積んで、午前11時にアランは自らのフォルクスワーゲンで、クリシュナジと私は私の車で、出掛けました。私たちはパリを発ち、北東へ〔次に北へ進み、パ・ドゥ・カレー県の〕アラス(Arras)に運転しました − そこで、私たちはミシュラン〔のガイド〕で見つけておいたレストランで、アランに会いました!
スコット−ミシュランね。もちろんです。
メアリー−シャンジ(Chanzy)というレストランです。それから私たちは運転してベルギーに入り、夜を〔ベルギー西部、フランデレン地域の大都市〕ヘント(Ghent)で、オテル・サン・ジョルジュ(the Hotel St George)で過ごしました。翌朝、午前11時に発って、〔北東方向に進み、同地域の大都市〕アントワープを通ってオランダに入りました。それから私は〔、アムステルダムの南、30キロメートルほどの大都市〕ユトレヒトでちょっと迷ってしまいました。もちろん、私たちは車が離れ離れにならざるをえませんでした。うまく行かないんです。
スコット−ええ、もちろんです。
メアリー−ともあれ、どうにか私はユトレヒトを抜け出して、(スコット、笑う)〔アムステルダムの東にある〕ハイゼン(Huizen)への道を見つけました − そこが、私たちが住宅をとっていたところです。
スコット−ああ!ハイゼンに泊まっていたんですか。
メアリー−ええ。これは、すばらしい、すばらしい住宅でした。私たちのどちらか一人が住宅を見つける前に、私たちはどうにかハイゼンでアランに会いました。私たちは、〔オランダの責任者〕アンネッケ〔・コーンドルファー〕から指示を受けていたので、協議して、そこを見つけました。すてきでした。草葺き屋根のついた本当の農家です。そこには、すてきな乳牛の臭いがありました。入っていくと、暖炉のついた大きな部屋があり、石の床と、キッチンです。裏で、一階にクリシュナジは、自分のバスルームのついたおもな寝室を、とりました。階上には、アンネッケとアランと私のために、さらに三つの寝室があり、私たちはバスルームを共有しました。とてもすてきでした。隣には、すてきな森がありました。美しい森です − そこは何となく公園、私的な庭園のようです。ここは、私たちのオランダ滞在に大きな役割を果たしました。私たちはそこを散歩する許可を、もらいました。そこにはけっして人がいなくて、曲がりくねった散歩道でした。小川が流れていきました − それともたぶん運河だったか、憶えていません − 小さなところで、カモがいました。私たちは毎日、午後にそこを歩きました。すてきでした!本当にすばらしかった。それで、私たちは住宅に落ち着いて、それからKと私は森へ散歩に行きました。結局、アンネッケと私が晩餐を料理しました。
 翌日、隣人のウォーレン・ブレチャー夫人(Mrs.Warren-Brecher)が、私を〔オランダ北西部の街〕バッセム(Bussum)の店へ連れて行ってくれました!バッセムは買い物のできる小さな町です。彼女は私に様々な店を見せてくれました。なぜなら、明白に、私はマーケットですべて買いそろえないといけなかったからです。私は、チーズを買った場所、野菜を買った他の場所、果物を買った他の場所、すてきなビスケットを買った他の場所を、憶えています。アンネッケは昼食を通して留まっていて、それからアランは運転して、彼女を〔南東方向へ、オランダ東部の村、〕オーステルベーク(Oosterbeek)の自宅に、送りました − そこは、〔ドイツ〕国境の近くにあります。クリシュナジと私は森を散歩しました。それから私たち三人はその夜、大きな部屋で焚き火のそばで夕食をとりました。すてきでした。
 翌日、私たち三人は運転して、オーステルベークに行き、アンネッケとともに昼食をしました。私たちは戻ってきて、森を散歩し、再び焚き火のそばで夕食をとりました。
スコット−では、ここはアムステルダムからどれほどですか。なぜなら、これはアムステルダムでの講話のためですよね。
メアリー−ええ、あまり遠すぎません。まとめて45分掛かったと思います。あまり遠くありません。
 私たちがその頃、したことの一つは、ヨーロッパではどこに住みたいかについての話でした。前に、私たちはどこに住宅を持とうかについて、話がありました − そこは、ヨーロッパでの私たちの本部になるものです。そして、それがどこにあるべきかの議論が、多くありました。アランは、雑用すべてをやってくれる南アフリカ人の召使いを獲得できるという考えを、持っていました − 彼が車を使い、荷物の出し入れをし、料理をし、身の回りの世話と、あらゆることをするだろう、と!私が見るかぎり、彼は一種の優雅な奴隷になるでしょう。そして私たちは、少しも皿洗いとか(スコット、笑う)、そのようなことをもはやしなくていいだろう。(二人とも笑う)アランは、まさにその人物をきっと見つけられると思っていました。これはまさしく〔南アフリカ初の大統領〕ネルソン・マンデラ* 以前です。(スコット、笑う)いいですか、これは1967年です。
スコット−私の視点では、その頃も南アフリカにそのような人たちは、そんなに多くいなかったでしょう。
メアリー−見たところ、南アフリカでは全く異なった生の視点がありました。でも、アランにはそれが、とても良い考えに見えました。(笑う)
 それから、ご覧あれ、17日に〔神智学協会の〕ルクミニ・アランデイル(Rukmani Arundale)* がお茶に来ました。彼女はバッセム近くのあの場所に泊まっていました − そこには、リベラル・カトリック教会* がありますよね?
スコット−そこはハイゼンの近くです。
メアリー−ええ。ともあれ、彼女はそこに泊まっていました。そしてお茶に来ました!もちろん私は、前に彼女に会ったことがなかった。彼女はとても鋭い眼つきをし、値踏みをしていました − クリシュナジの生活でのこれら見知らぬ新しい人たちは、誰なのか、と。(クスクス笑う)
スコット−でも、彼女はその頃、クリシュナジと何の関わりも、持っていませんでしたよね。
メアリー−ええ、何も。でも、彼がオランダにいて、彼女は近くにいたから、たぶん彼女は本当に好奇心から来たと思います。それで、かなり形式的な会話でした。私は、彼女の値踏みする眼差しを、おもしろく思ったのを、憶えています。(クスクス笑う)
スコット−私は、彼女がクリシュナジとその親しい接触を持ったことに、驚きます。なぜなら、後に彼女はそうしなかったからです。
メアリー−まあ、そんなに親しかったわけではない。むしろ形式的な訪問でした。彼は明白に驚くほど礼儀正しいなどでしたが、旧友の出会いではなかった。
スコット−ええ。でも、私が憶えているところ、彼女は後で彼に敵対的でした。
メアリー−ええ、そうでした。まあ、ともあれ、彼女はお茶に来ましたが、誰も微笑んでいたり冗談を言ったり何もしませんでした。ただの礼儀正しい小さな話でした。
 さて、それから何が起きたのかな。寒くて冬のようでした。アンネッケ〔・コーンドルファー〕が戻ってきました。私たちは、精神が非難なしに批判的でありうるのかどうかについて議論したのを、私は憶えています。それが会話の主題でした。私たちは、〔かつての内海で、締め切られて淡水の湖になった〕ゾー・・・を見に行きました。何て言うんですか。ゾーデルジー?
スコット−ゾイデルジー(Zuiderzee.ゾイデル海)です。
メアリー−ゾイデルジー。(笑う)ああ、そうだ。
 そこを見た後、私は、〔首都〕アムステルダムの〔講話の会場、コンベンション・センターの〕RAIホールへの経路を、下見に出かけました − どれほど掛かるのかを知るため、それでいつ発つべきか、どうそこに着くのか、どこに駐車するのか、それらを知るため、です。その後、私は昼の残りをライスク美術館(the Rijks museum)〔すなわちアムステルダム国立美術館〕で過ごしました − そこに、私は行ったことがなかったし、すてきでした。
スコット−ええ、そうです。
メアリー−それで、翌日、5月20日に、私は運転して、クリシュナジを第1回のアムステルダム講話に、送っていきました。ホールはいっぱいで、すべてが良かった。その午後、メアリーとジョー・リンクス〔夫妻〕と、彼らのオランダ人の二人の友人夫婦が、お茶に来ました!私たちはお茶をいただき、散歩に行き、話をしました。とてもすてきでした。彼らが去った後、クリシュナジは充分に散歩したと感じませんでした。彼らはゆっくり歩いたからです。(スコット、笑う)それで、私たち二人は戻って、これらすばらしい森を速く歩きました!そこの小さな水路には、あらゆる種類のカモがいました − 冠毛のあるあれら小さなものを含めて、です。そこには小さな雛たちもいました。母カモがいて、小さな雛たちが後に付いていました。クリシュナジは時おり、翌日さほどいないことに着目しました。キツネか何かがそれらを捕らえてしまったにちがいありません。彼がそれに注目するのはふしぎでした。なぜなら、彼は後にオーハイで、最後の日々にそれを憶えていたからです。彼は〔そのとき〕、「小さなカモたちと、彼らがどう少なくなったのかを、憶えていますか。」と言いました。*
スコット−ええ、憶えています。
メアリー−それが5月20日のことでした。
 翌日、彼は第2回の講話を行いました。ジェイ・ポリン(Jay Polin)という若いアメリカ人画家が昼食に来ました。アランが彼に会って、昼食に招待したんだと、思います。またその日、クリシュナジはオランダの放送局へインタビューのテープ録りを行いました。
スコット−ここで止まって、少しパリへ戻っていいですか。
メアリー−ええ。
スコット−クリシュナジはパリでどのように講話に行きましたか。あなたが運転して、彼をそこに送りましたか。
メアリー−私が運転して送りましたが、駐車の問題がありました。
スコット−そのとおり。私はまさにそれを考えていました。
メアリー−まあ、彼らは、私のために通りに場所を取っておいてくれることになっていました。駐車場がないんです。それで、歩道に半分といった駐車をせざるをえなかったのを、憶えています。
スコット−それで、講話の後、あなたとクリシュナジは一緒に、車に乗りこんだんでしょうか。それとも、彼は歩いて行って、あなたはどこかで彼を乗せたんでしょうか。
メアリー−いいえ、彼は可能なだけ速く出て行きました。彼はただ歩いてきて、車に乗り込みました。
 オランダでも同じことですが、オランダでははるかに大きな聴衆がいました。なぜなら、RAIホールはたくさんの人たちを容れるからです。でも、RAI には駐車場があったので、私はもっと容易くそれらを操作できました。時折、彼は講話の後、ほとんど一種、ぼーっとしていました。彼は、話をしたところの隣の部屋に立っていて、私は彼から人々を遠ざけようとしなくてはいけませんでした。
スコット−ええ。私は、サーネンとブロックウッドで〔自分が〕それをしたのを、憶えています。最後にはインドでも、です。
メアリー−それでも、彼は私に人々を遠ざけてほしくなかった。私は耳憶えでそれをせざるをえませんでした。人々がやってきて、彼に話を始めることは、彼にとってただ衝撃でした。それはしばしば起きました。ニューヨークでも起きたものです。
スコット−今私たちは始めたんですが、なぜそれについてもう少し話されないんですか。なぜなら、それは興味深いし、おそらく意義深くもあるからです。私は自分で考えたものです。私は分かりませんが・・・ほとんど隠語ですが、クリシュナジは〔講話の後、〕着陸のために入ってこなくてはいけなかったと、思います。
メアリー−彼はここに着陸しなくてはいけなかった。
スコット−ええ。なぜなら、さもないと彼は話した後、とても敏感なので、人々は・・・彼はほとんど物理的に、誰かの存在に打たれるように見えました。
メアリー−ええ、そうでした。
スコット−確かに、彼へとやってくる人々は、彼に話しかけなくては、というしつこさや執念をもっていて、それは彼に対する物理的な攻撃に似ていました。あなたはそれがどうだったと思いますか。どう見ますか。
メアリー−一定の講話はとても強烈で深かったので、あたかも彼は他のどこかにいるかのようだと、私は感じました − 彼の何かの部分は、自らが叙述しつつあることの知覚に深く入っている。それから出てくるには、彼は突然に通常の状態にすぐに戻って来られない、と。
スコット−彼は何かの種類の再突入の期間が必要でした。
メアリー−ええ、ええ。
スコット−これについて、もっと言ってもらえますか。
メアリー−まあ、お話しましょう − 一度マリブで私たちは居間に座っていて、トレイで晩餐をとっていたのを、憶えています。テレビがついていたと思います。私たちは話をしていませんでしたが、何かで − 何だったのかは分かりませんが − テレビに映る何かについて、私は話しかけました。彼はびっくり驚いて気がつきました。私がいうのは、彼が離れていたということです。私が彼に話しかけたので、彼は衝撃を受けた。物理的に衝撃を受けたんです。彼を目覚めさせてはいけないのに似ています。彼を目覚めさせざるをえないときは、ごく穏やかに、穏やかに、穏やかにやりましたが、けっして彼に触れませんでした − すると、もっと悪くなったでしょう。でも、私は、例えばここ、ブロックウッドで、彼を起こさざるをえなかったとき、とても低く、ごくわずかな言葉を語りかけ、それが彼の意識に何というか、なじむまで、続けました。すると、彼は衝撃なしに眠りから出てこられました。そういったようなことでした。
スコット−ええ、ええ。私はまた、彼が何かへ入っていく静けさの期間をも持っていたのも、見ました。だから、彼が必要としたのは、終わりに出てくることだけでなく、前にもまたそうだった・・・
メアリー−ええ、静けさ、ね。私は車で行くのに、けっして彼に話しかけませんでした。例えば、サーネンで私は〔講話の〕時間より早くしたものです − 彼はそれを望みました。私は彼のドアを開けて車にいました。彼が山荘の扉を開け、車へごくわずかなフィートを歩いた瞬間、私はエンジンをかけました。彼が乗り込み、ドアを閉め、私たちは動きました。彼が私に話しかけないのなら、私はけっして彼に話しかけませんでした。
スコット−ええ、ええ、そのとおり。時折、彼は話しました。
メアリー−時折ね。それらは、〔直後の講話について、〕「私は何について話そうとしているのかな。」と言った時です。
スコット−ええ。
メアリー−でも、私はけっして会話を開始しませんでした。それから、私たちがそこに着いたとき、私が駐車している間に、あなたが引き継ぎました。
スコット−どうしてか私は、これが必要であると理解しました。物理的に必要だと思われました。
メアリー−ええ。
スコット−私はこれについて指示されるまでもなかった。ただ明白に、物理的に必要でした。なぜなら、物理的に彼に対する結果が見えたからです。
メアリー−そのとおりです。〔講話の〕前には誰をも彼に近づけないようにしたものです。運良く誰一人、さほど、そうしようとしませんでした。一度か二度、私は誰かを避けるざるをえなかったかもしれません。でも、或る面で私は感じました − それは同じことであるというのではないが、気絶は − それは身体を離れることであると、彼は言いました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−そして、彼に触れないし、何もしない。ただ待つ。なぜなら、あまりに急に戻すことは、彼にとって恐ろしい衝撃になっただろうからです。私は、それがどうやらその性質であることを感じましたが、そんな極端ではありません。
スコット−ふむ、ふむ、ふむ。もちろんそれらのことの一つは、そのとおりだった。インドの人たちの幾らかにとって侮辱的だった、または少なくとも困難だったのは、クリシュナジがインドの講話の後、私に自分とともにいてほしかったときであると、私は思います。私たちは散歩に出掛けました。大いに同じことでした。それからたくさんの人たちが周りにいました。でも、クリシュナジは、中立的な仲間か、ただ中立的でいる誰かが、ほしいようでした。
メアリー−ええ、ええ。
スコット−彼が何かを言ったとき、応答するが、さもなければ・・・
メアリー−静かな。
スコット−私は本当は彼を見てもいなくて、ただ彼に気づいているだけといったことでした。中立的な仲間です。
メアリー−彼は、ご存じでしょう、サーネンで初期の年月ではなく* 、後にですが、小道を速く歩いて行ったものです。あなたも彼を見たでしょうが。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−彼は私に付いてきてほしかったんですが、あまり急ぎすぎないで、です。彼はあらゆるものから歩み去りたかったんです。あなたが見たように、私が誰にもぶつかることなく車で群衆を通り抜け、彼に追いつくには、しばらく掛かりました。時に彼はほとんど橋まで来ていました。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−それから彼は車に乗り込み、それからずっと静かで・・・彼が何かをしたいのでないならば、です。時に彼は何かをしたいと思ったし、彼は完璧に正常でした。
スコット−これについて私たちは、思いつくことすべてを言うべきでしょう。なぜなら、これは何が意義深いことであるからです。なぜなら、これは・・・それは、何かまったく他のことの、違った静けさの、物理的な表現なんだと、思われます。
メアリー−そうであると思います。
スコット−それで、とても異例なことなんです。何か、クリシュナジの本を読んでいる人々が、けっして感知しないだろうことです。
メアリー−本当です。
スコット−それで、クリシュナジが経ていかなくてはいけなかった、このことがあります。これは、もちろん神智学者たちが、「ああ、そうだ・・・ああ、ここにある・・・」と言うような種類のことです。
メアリー−彼らは、「ええ、それはマイトレーヤです。」と言うでしょう。
スコット−そのとおり。でも、それではなかった。
メアリー−それではなかった。
。スコット−まったくそれではなかった。
メアリー−私はそれについては強固です。人々は、「まあ、あなたは何を知っているのか。」と言うかもしれません。でも、彼はあの椅子に座っているのなら、演台で話をするのと同じように話をできました。
スコット−絶対にです。
メアリー−だから、何も可能性がない。
スコット−でも、また私は、感知できるところからは、ずっと他の時にそこにない他の何かが存在しているという感覚はなかったということを、論ずるでしょう。
メアリー−それはただ、彼が一定の領域に入ったということだけです。他に何と呼ぶべきか、私は知りません。一定の状態、一定の知覚の深さです − それは日常的な意識を越えています。
スコット−ええ。
メアリー−それでも、あなた自身が何回も見たように、聴衆から人々が声を上げたり、誰か変な人が演台に登ろうとしたとき、彼はまさにそこにいて、それに対処しました。
スコット−ええ、絶対にです。でも、彼はしなけれならなくて・・・これは前後にありました・・・
メアリー−ええ。始まろうとしている前に・・・それはまるで・・・何が起きつつあったのか、私は知りません・・・
スコット−エネルギーを集めるような・・・
メアリー−・・・でも、それはまるで、彼の内側で動きはじめようとしているかのようです。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−それから後で、一種、減圧のようでした。彼は静かにしなくてはいけなかったし、またそれは物理的に重い負担だったにちがいありません − 彼はけっしてそうは言わなかったけれど。
スコット−そうだったにちがいありません。
メアリー−なぜなら、ものすごい力とエネルギーが彼に入ったからです。そのため、身体は落ち着きはじめるとき、どうにか顕現させなければならならない・・・疲労困憊ではなくて・・・
スコット−消耗ね。
メアリー−ええ。
スコット−ええ。私たちがこれらのことの幾つかについて話をしているかぎり、クリシュナジが実際に病気で弱って演台に上がっていき、それから突然、何かの時点で彼が充分に健康で、充分にエネルギーと生命力と強さに満ちているという、私たちが見てきたあのとてつもない現象もありました − どの年齢の人にしても、とてつもない強さ、です。
メアリー−ええ、ええ。
スコット−それはなぜか、この過程全体の部分でもありました − この過程が何であったとしても、です。
メアリー−ええ。
スコット−後で私は思い出せますが、または少なくとも記憶のなかです。それがどれほど正確なのか分かりませんが、これが起きたとき、彼は、前のようにすっかり病気には戻らなかったんです。
メアリー−ええ。
スコット−彼は戻ってきましたが、そんなに病気には戻らなかった。
メアリー−ええ。
スコット−あなたの記憶では、そのとおりだったんでしょうか。
メアリー−ええ、ええ。彼が前もって病気であったとき、「うーん、講話を取りやめるべきだろうか。」と思いましたね。それから最終的に彼は講話を行いましたが、あなたが叙述したそのことが起きたものです。彼は、再び弱って、ほとんど立ち上がることができないということはなかったです。(休止)
スコット−これはすべて、何かとても奇妙なことの一部です。
メアリー−ええ。
 この頃は、エネルギーについて話すことが、うんざりする常套句になりました。誰もがみな、エネルギーについて話しています。
スコット−ふむ。
メアリー−でも、クリシュナジの生活の脈絡では、驚くべき現象でした − あのエネルギーは。
スコット−ええ、ええ。もちろん彼は、幾年間も自ら身体を通っていったエネルギーについて、語りました。彼はそれについて話をしました* 。でも、興味深いのは、それが可視的であったということです。物理的に顕現していました。
メアリー−ええ。(休止)
スコット−私は知りもしませんが・・・(長い休止)・・・クリシュナジがあれら講話の間に持っていたあの極度の洗練をもって − と言うべきでしょうか − 或る人物が生きられるのかどうか、私は知りません。なぜなら、それもまた講話の後、私にどのように見えたかであるからです。すなわち、彼はとても洗練の、敏感さの状態にあったんです − 何のか、私は知りません。そのため、通常の生活はほぼあまりに低俗とかあまりに粗雑とかあまりに何かでした。(休止)例えば、クリシュナジがすべての時、あの状態で物理的に生存できたのか、生きられたのか、私は知りません。彼が講話を行っていたときにあった、あの種類の状態は、知っているでしょう。
メアリー−私は知りません。
スコット−彼はこれから出てこなくてはならないいう感覚がありました・・・
メアリー−まあ、これもまた全くの推測ですね。私はこの瞬間までこれについて概念さえも持っていませんが、彼が自らの仕事であると考えたことをするために − それは話をすることでした − 彼は、一定の程度は通常の次元で生きなくてはならなかった。さて、もしもそれが、彼の言う、自らの仕事ではなかったのなら、彼が全く異なった何かをすることができたのなら、それは・・・(メアリーの話を聴く)*
(〔録音〕テープは突然、切れる)

原註
1)全国教育テレビ(National Education Television)。今日の公共放送協会(the Corporation for Public Broadcasting)の一部分。
2)〔神智学協会会長でKの養母〕アニー・ベサントが1927年にクリシュナジの仕事のために買った土地に、1946年に創設された。*
3)エミリー・ラッチェンス(Emily Lutyens)は、〔イングランドに連れてこられた〕クリシュナジとその弟ニトヤにとって大いに養母のようなものだった。だから、彼女の子どもたちと友人たち〔である〕デ・マンツィアーリ一家は、クリシュナジを最初期から知っていた。
4)〔第二会長ベサント夫人の盟友〕チャールズ・ウェブスター・レッドビーター(Charles Webster Leadbeater)と〔後に第三代会長になった〕ジョージ・シドニー・アランデイル(George Sidney Arundale)は、神智学協会の要人であったが、自分たちはクリシュナジの仕事においてもっと権勢と重油性を得るべきだと感じた。彼らはそれが得られなかったとき、彼との訣別を始めた。
5)ラージャゴパルの二番目の妻。
6)11を表すフランス語。
7)サチャ・デ・マンツィアーリ(Sacha de Manziarly)。
8)16歳でジョージ・アランデイルと結婚した。後に〔マドラスに、インド古典舞踊の〕有名なバーラタ・ナティアム舞踏学校を創始した。


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