第5号 1966年7月7日から1966年10月20日まで


序論
この号の〔英文〕28ページには、ほんの3ヶ月半のみが扱われる。メアリーが話しつつ、自らの日記を読んでいるからである − 時には音読し、時には言い換えている。それで、彼女のクリシュナジとの日常生活の細目が、はるかに多く見える。
 けれども、これらわずかな月は重大であり、クリシュナジの余生を変える変化が起こる。クリシュナジの講話計画は初めて、ラージャゴパルや彼の任命した人たちにより手配されないことになりつつある。クリシュナジは1960年以来初めてアメリカに戻る。そして、クリシュナジはカリフォルニア〔・マリブ〕で、初めてメアリーのところに泊まる − 彼は余生の間、合衆国にいるとき、メアリーとともに泊まりつづけることになる。
 この時期にはまた、クリシュナムルティ学校をヨーロッパのどこかに持つことに向かう最初の動きが見られる。それで、後にブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センターとなるもののまさしく始まりが、見られる。
 この時期にはまた、ラージャゴパルとの訣別が始まる。この訣別は、長らく掛かって形作られてきたが、次の数年間に進展する。そして、明確にクリシュナジの生活のあらゆる側面に影響する。この号では、それがどんなに容易に回避できたのかが、分かる。この時期に、メアリーとアランは、ラージャゴパル夫妻との関わりが、クリシュナジにとってどんなにひどいものであったかを、初めて悟る。そして、メアリーの目に明らかになるのが見えるにつれて、私たちの目にも明らかになる。

メアリー・ジンバリストの回顧録 第5号
スコット−私たちは1966年7月から物語を再び始めます。
メアリー−いいですよ。クリシュナジは〔スイス、サーネンで〕レ・カプリス〔というアパートメント・ハウス〕に泊まっていました。私がいつも借りたところの隣の、小さなスタジオ・フラットに、です。彼は、食事等を私のフラットの居間で、私とアランとともにとりました。これは、ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕がイタリアからグシュタードに到着するまで、継続しました。もちろん彼女は再び、タンネグ山荘の一階を借りました。クリシュナジは、7月7日にそこに引っ越しました。以降、私はヴァンダにきわめて親切に、多くの食事に招かれました。それで、私は二つの場所の間で、頻繁に丘を上り下りしました。クリシュナジがそこに行った翌日、私は彼らみんなとともに昼食をしましたが、〔ラージャゴパルとロザリンドの一人娘、〕ラーダー・ラージャゴパル・スロス(Radha Rajagopal Sloss)(原註1)が、その夫〔ジム・スロス〕と、やや若い二人の子ども、すっかり魅力的な子どもたちとともに、出席していました。私は彼女にオーハイで会ったことがありました。
スコット−彼女はどんな印象でしたか。
メアリー−まあ、彼女は特別な印象を与えませんでした。彼女は、クリシュナジに対して一種の所有者的な空気を持っていました − あたかも、彼は子どもとして自分に所属しているというか、一種、そこからの残存物として、です。
スコット−それが本当は、私が訊ねていたことです。
メアリー−ええ。彼女は、彼に対してごねるのとともに、彼のことを少し、まるで年老いてしくじっているかのように扱いました。食卓では多くのおしゃべりがありました。子どもたちはとてもお行儀が良く、すてきな子どもたちでした。
スコット−彼らは何歳だったんでしょうか。彼らはやや若かったと、言われました。
メアリー−女の子のほうが年上だったろうと想像します。その頃、彼女はティンカ(Tinka)と呼ばれていました。たぶん十二か十三歳かそのようなものだったでしょう。男の子は一、二歳若かったと思いますが、断言はできないでしょうね。彼らについてはかなりぼんやりとした記憶になっているのは、残念です。
 〔7月〕10日に、クリシュナジは〔サーネン〕講話を始めました。いつものように〔会場の〕テントは一杯でした。
スコット−少しの間、戻ってもいいでしょうか。
メアリー−ええ。
スコット−クリシュナジは、彼女〔ラーダー〕をどのように扱ったんでしょうか。
メアリー−彼は、彼女と子どもたちに対してとても優しかった。お分かりでしょうが、ごく通常です。何も特別なことはない。私は本当にあまり多くを憶えていません。食卓でたくさんの話があったことは、憶えています。彼は、「これらアメリカ人はどうやっていますか。」とか何か言ったんですが、それは、問題の二人のアメリカ人、ラーダーと私を考えると、皮肉な発言でした。(クスクス笑う)私たちは二人とも、昼食の食卓でおしゃべりしたりしました。
 次に起きたことを〔日記から〕読みましょう。
 ああ、そうだ。第2回の講話の直後、アラン〔・ノーデ〕と私は〔ロシアの高名なピアニスト、〕リヒテル〔の演奏会〕(原註2)を聞きに、〔レマン湖の西端、ジュネーヴの北の郊外、〕ディヴォンヌ〔・レ・バン〕(Divonne)に行きました。私は特に憶えています。なぜなら、少なくとも私の認識に、リヒテルは前年の冬、ロサンジェルスに来たとき、現れていたからです。私は、『ニューヨーク・タイムズ』でだと思いますが、彼の演奏への批評を読んでいました − そこには、このとほうもないソヴィエトのピアニストが〔ついに、冷戦下の〕西側〔世界〕に来たと書いてあり、私がかつて読んだことのない批評を、示していました。偶然の一致で、私は、その批評を読んでいたとき、ロサンジェルスで演奏している人たちについて自分の得ていた文書から、その名前に見覚えがあると思いました。それで、私は彼を聞きに行きましたが、天井を突き抜けるほど吹っ飛ばされました。とってもすばらしかった。
 それで、アランは〔プロの〕音楽家で、おまけにピアニストなので、関心があるだろうと、思いました。私は彼にこのことを話しましたが、まあ、彼は、恩着せがましい態度ではなかったが、彼は、私はアマチュアだし、自分はプロだと考えていることは、明白でした。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−でも、私は、彼はこの人を聞かなくてはいけないと言って、主張しました。それで、彼がディヴォンヌで演奏しようとしていると聞いたとき − ご存じでしょうが、そこはジュネーヴのちょうど〔北の〕外側にあります − 私は、私たちがいつも泊まるオテル・ドゥ・ローヌの接客係を通じて、チケットを得ました。
 まあ、それは大成功でした。私たちはステージのごく近くに座席を取りましたが、リヒターが演奏を始めるやいなや、私はアランをちらっと見ました。彼は目を白黒させていました。(笑う)彼は即時に、それが何なのかが、分かったんです。
スコット−すてきだなあ。
メアリー−私たちはその夜を、ディヴォンヌで過ごしたと思います。私は、アランがホテルのホールでリヒテルに出くわして、フランス語で彼に話しかけたのを、憶えています。リヒテルがフランス語を話したのかどうか、憶えていませんが、彼はそれが理解しました。アランは、「ムシュー、ヴ・ゼテ・レ・シュール・ピアニステ〔あなたは唯一のピアニストです〕。」と言って、リヒテルは一種、それを認識しました。(スコット、笑う)ともあれ、大成功のお出かけでした。
 それから翌朝、私たちは、クリシュナジが第3回の講話をするのを聞くのに間に合うよう、戻ってきました。講話の後、クリシュナジは自分の車を、〔アパートメント・ハウスの〕カプリスに持っていきました。それをガレージに入れておきたかったからです。私は〔部屋を〕借りたので、ガレージの権利を持っていました。
スコット−ああ。
メアリー−それで、私たちはそれをカプリスに入れました。
スコット−彼はタンネグ〔山荘〕でガレージの権利を持っていなかったんですか。
メアリー−まあ、ガレージの権利にめぐっては、何か混乱がありました。
スコット−ヴァンダが運転して、彼を講話に送って行きましたか。
メアリー−ええ。
スコット−彼女はどんな車を持っていましたか。
メアリー−彼女は、長年持っている〔イタリア車の〕ランチアを持っていました。私が最後に見たとき − それは1986年のことでした − それはもうだめになっていましたが、イタリアで彼女の芝生に停まっていました。(二人とも笑う)彼女はそれを記念碑のように取っておきました!私の知るかぎりでは、それはまだそこにあります!
 でも、とても豪華なランチアでした。彼女はとても速く運転し、運転を楽しみました。
スコット−彼女はタンネグでどこに駐車したんでしょうか。
メアリー−まあ、二台分のガレージがありました。
スコット−いいです。講話の直前と講話の直後に起きたことの幾つかについて、少しお訊ねしたいと思います。なぜなら、それは長年の間に変化したからです。で、人々は近づいてきて、彼の手を握ったり、こんにちはを言ったりしたんでしょうか。
メアリー−まあ、二、三人です。ええ。
スコット−講話の前ですか。
メアリー−いえ、講話の後です。けっして前ではなかった。ええ。
 あなたも憶えているかもしれませんが、彼はまさに最後の瞬間に〔会場の〕テントに来たものです・・・
スコット−ええ。
メアリー−・・・そして、まっすぐ歩いて入り、・・・
スコット−ええ、よく憶えています。
メアリー−・・・話を始めました。
スコット−または、ただ、静かにしたいと思った。
メアリー−ええ、静かにね。彼は誰に対しても話しかけたいと思わなかった。
スコット−ええ。
メアリー−彼は、まっすぐ歩いて入るのに間に合うよう、そこに着きたいと思っていました − 少なくとも、〔後年、車で〕私が彼を連れて行っているときは。彼はぶらつきたいと思わなかった。後ではあたりに立っていたし、人々は近づいてきて、彼に挨拶したものです。
 またもアランは、若者たちの会合を手配しました。それらはふつうタンネグ〔山荘〕で開かれました。居間は若者たちで一杯でした。それらはテープに録られたと思います。彼はあらゆるものをテープに録っていました。彼は〔スイスの〕ナグラ〔の録音機〕を担当していたからです。
 それら〔録音〕テープはどこにあるんでしょうか。
スコット−私たちがそれを知っているかは、確かでないです。
メアリー−それらはオーハイにあるはずです。それらは〔K著作協会の〕ラージャゴパルに送られたからです。
スコット−ラージャゴパルね。ええ、でも、それらは〔ロサンジェルスの東にあるサン・マリノの〕ハンティントン〔図書館〕(the Huntington)にあるという意味なのかもしれません。(原註3)
メアリー−ええ。そうかもしれません。私はそこで、アランの筆跡が付いた〔録音〕テープをたくさん見たことがあります。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−それでまた、デシカチャールとのヨーガも続いていました − クリシュナジと私とのどちらもです。
 またクリシュナジは自分のメルセデスで、一緒に運転に来てくれるよう、私に頼みました。
 先に、7月の中程の或る時点で、クリシュナジは、ニューヨークでピンター夫人(Mrs. Pinter)のところに泊まるのは、落ち着かないと言いました。彼はそこで、〔マンハッタンにある私立総合大学、〕ニュー・スクール(The New School)* で講話しようとしていました。クリシュナジは、彼女が今や年老いていて、あまり良くないのを知っていました。彼は、自分がそこに泊まることは、彼女にとって負担で困難だろうと感じました。〔夫のフレデリック・〕ピンター氏は、彼が前回、そこに行ったとき* 以降に、亡くなっていました。私は、ニューヨークにアランと私が泊まる所を見つけましょうと、言っておいたので、クリシュナジは、どこでもアランが泊まっているところに、自分は泊まれるのかと、思いました。それで、私は〔ニューヨーク在住の〕弟〔バド〕に即刻、連絡し、彼のフラットを貸してもらえるかを訊きました。彼はその時点で(クスクス笑う)〔新旧の〕結婚の間で、自分のフラットに一人住まいでした。私は弟に、私たちがニューヨークにいる間、そこを貸してもらえるかを、訊きました。弟は、リッツ・タワーの父のフラットに泊まれました。父は小さなフラットを持っていました − 後で別の年には、そこをクリシュナジと私が使いました。でも、私たち三人では、私の父のところより大きなフラットが必要でした。
スコット−ふむ、ふむ。
メアリー−弟〔バド〕(原註4)は即刻私に電報を打って、「もちろん、いいよ。」と言いました。それで、手配できました。
 この時あたりに、リンドバーグ夫人が昼食に来たのを憶えています。
スコット−ああ、はい。
メアリー−彼女はヴァンダの友だちで、前にクリシュナジに会ったことがありました。もちろん彼女は、クリシュナジの本の一つに、何か書いたことがありました。あれは序文だったかな。*
スコット−これは〔有名な飛行士〕チャールズ・リンドバーグ(原註5)の奥さんですか。
メアリー−ええ、アン・〔モロー・〕リンドバーグ(Anne Lindbergh)です。
スコット−ふむ。彼女はクリシュナムルティの本の一つに序文を書いたんですか。
メアリー−ええ、そう思います。または、それについて何かを、です。彼女は彼にたいへん感心していました。
スコット−彼女はクリシュナジをどれぐらい知っていたんでしょうか。
メアリー−本当は知りません。彼女はヴァンダをとおして彼に会ったと、私は思います。リンドバーグ夫妻は、〔湖岸のモントルーの東北、〕レ・ザヴァン(Les Avants)に夏の家を持っていたと、思います。
スコット−スイスにですか。
メアリー−ええ。それで、彼女は運転して昼食に来ました。とてもすてきな人物でした。
 22日には、また別の討論会に、90人ほどの若者が来ました。
スコット−あの家に90人ですか?!
メアリー−ええ、90人。混雑していたというか!(二人とも笑う)
スコット−それは控えめな表現です!
 アランは、彼らみんなをどこで見つけたんでしょうか。
メアリー−ああ、彼は聴衆の中に行って、流し釣りみたいなことをしました。
 彼は、若者たちと大きな関係性を持っていました。若者たちを愛していましたし、彼らに話をし、彼らと笑いました。彼らも彼のことが好きでした。彼は若者たちととてもうまくやりました。若者たちみんなをクリシュナジに連れてくるのは、アランの仕事でした。
スコット−ええ、分かります。
メアリー−それは、彼のやった本当に良い仕事でした。
 私たち年配のご婦人たちが、〔講話の〕前列でよたよたしている代わりに、若者たちの潮が押し寄せました。もちろん、バック・パッカーの若者たちが、ヨーロッパをさまよい歩いている時代でもありました。ここは、その時点で行くべき場所、ヒッピーの立ち寄り先でした。(クスクス笑う)
 私たちは他に何をしたんでしょうか。私たちは、クリシュナジとアランのために、ロブの靴を受けとるために、エヴィアンに降りて行きました。これは、スイスではそれらに税金を払わなくてもよかったんです!(二人とも笑う)それで、私たちは運転してエヴィアンに行き、それらが送られてきた郵便局に行きました。それらは送られていて・・・
スコット−・・・局の留め置きで!
メアリー−・・・ええ、留め置きです。
 そして靴があるんです!美しい、きらめくロブの靴です。(スコット、笑う)そこからさらに、ジュネーヴのピエール・シュミット博士(Dr Pierre Schmidt)のところに行きました。アランによれば、ピエール・シュミット博士は同種療法医たちの長老でした。
 彼は、クリシュナジにサウナに入らせる同種療法医でした。彼らがそうしている間、私はあたりで暇つぶしをしました。(クスクス笑う)それから私たちは別の道を、〔レマン湖の北岸の都市〕ローザンヌを通って、帰りました。それで、〔レマン〕湖を一周しました。
スコット−とってもいい。
メアリー−私たちは、ラ・グラッペ・ドオー(La Grappe D'Or)という場所でしばしば昼食をとったものです − そこは、とても良い食事を出しました。
スコット−ラ・グラッペ・ドオー、それはどこにありますか。
メアリー−まあ、私が運転してそこに連れて行ってあげられるんでしょうが、どう言うべきか分かりません。ローザンヌの一部が丘の上にあるさまは、知っていますね。
スコット−ええ。
メアリー−それは何というか丘を少し下ります。街を通る道路から一区画ほどに、あります。それから私たちは、夕食のためにタンネグ〔山荘〕に戻りました。
 28日には、第9回のサーネン講話がありました。その頃は〔後年と違って〕たくさんの講話です。
 翌日、タンネグ〔山荘〕で第3回の若者たちの討論会がありました。私は出席するよう招かれて、後で昼食に留まりました。
スコット−で、若者たちの講話は午前にありましたか。
メアリー−ええ、これは講話のない日でした。
スコット−で、それは、クリシュナジが一日おきに講話をしていた、という意味です。
メアリー−ええ。忙しい日々でした。彼はちょっと気管支炎がありましたが、いつものように、気管支炎を乗り越えました。
 31日には、第10回で、その年の最後のサーネン講話がありました。
 ああ、そうだ。ここに、私はタンネグ〔山荘〕で何かタイプライターで仕上げたと言います。
スコット−タイプライターはどのように得ましたか。
メアリー−私はいつも、小さなヘルメス・タイプライターをもって旅行しました。
 8月3日に、公開討論会が始まりました。ああ、それはまた、私が弟〔バド〕から、ニューヨークのフラットが使えると言う電報を、もらった日でした。私はその晩、〔山荘に〕上がって行き、クリシュナジに、すべて決まったと言いました。
スコット−彼は喜んだにちがいない。
メアリー−ええ、喜びました。
 4日に、第2回の公開討論会がありました − その時には一日おきにありました。でも、もっと重要なのは、タンネグで、クリシュナムルティ学校を始めたいと思う人たちみんなとの会合でした。部屋はいっぱいでした。少なくとも50人の人たちが、いたにちがいありません − クリシュナジの学校を始めるという考えでわくわくしている、かなり感激性のご婦人たちが多かった。クリシュナジはただ聞きました。それから二つ質問をしました。
スコット−では、彼がその会合を呼びかけたわけではなかった?
メアリー−ええ。彼らがそうしたいとの話をしていて、彼はそれを聞きつけたんです。
スコット−誰がおもだった煽動者だったんでしょうか。
メアリー−分かりません。
 私たちはまたその日、タンネグ〔山荘〕で、〔サーネンの講話会場に〕テントの代わりに恒久的なホールを持つことについて、議論しました。私たちはそれをかなり進めましたが、結局、何にもなりませんでした。高価すぎたんです。お分かりでしょうが、この時までに私たちは、〔会場の〕土地を所有していました* 。だから、毎年、テント〔の貸与〕のために大変なお金を支払う代わりに、恒久的な建物を作ることを考えました。でも、それはあまりに高価すぎると分かったんです!(クスクス笑う)
 翌日、第3回の公開討論会の後、クリシュナジは私を呼びにやりました。私たちは外へ出ました − 座って話のできる私的な場所に、です。彼は次の春、彼とアランがニューヨークとパリで私とともに泊まることについて、議論しました。彼は、私があまりに多くのお金を使っているかもしれないと気に掛けていたから、私に話をしたかったんです。彼はちょっと気に掛けていたので、それらについて私に、とても真剣に話をしました。「マダム、あなたは資本金に手を付けていますか。」と彼は訊きました。私は彼に、だいじょうぶだと保証しました。(二人とも笑う)彼は繰り返しその主題に戻りました。私たちがタンネグ〔山荘〕に戻ったとき、ボーム夫妻(the Bohms)がそこにいました。続いて、クリシュナジとボーム夫妻とヴァンダと私とで、長い話がありました。
 8月7日に、クリシュナジは、〔プエルトリコから来た〕ビアスコェチェア夫妻のところで会合を呼びかけました。クリシュナジは、学校を始めることについて、第1回の会合にいた人たちの十五人ほどを、選びました。彼は、残りは真剣でないと判断しました。彼は、私はその一部になるべきだと言いました。私は教育と何の関わりもなかったので、なぜなのかは分かりません。でも、見たところ、彼は私をそれに関与させたかったのです。ともあれ彼はみんなに対して、「あなたたちはみんな真剣ですか。」と言いました。これが、彼が本当にそれを探究する時でした。
 学校ができるのはどの国なのかという問題がありました。彼はそれを国際的な学校にしたいと思っていて、その時点で、教育は英語とフランス語の両方でされるのを、願っていました。可能な国は、フランス、スイス、イングランド、オランダでした。行ったり来たり多くの話がありました。それらの場所すべてからの人たちがいました。最後に彼が、「じゃあ、行って、見出してください。」と言ったのは、その時でした − 各国からの誰かが行って、「あなたの国で学校を設立するのに何が掛かるのかに関わるすべてを」見出し、「次の夏、ここに戻ってくる」べきこと、「そして私たちはそれについてもっと話をしましょう。」と。それで、彼はそれらについてかなり素早く行動しました。
スコット−オランダについては誰が見出そうとしていたんでしょうか。フランスについては誰が見出そうとしていたんでしょうか。
メアリー−オランダについてはアンネッケ〔・コーンドルファー〕が見出そうとしていました。
スコット−では、彼女はその会合にいたにちがいないですね?
メアリー−彼女はその会合にいました。フランスについては、ナディア・コシアコフ(Nadia Kossiakof)が見出そうとしていました。スイスは誰がしようとしていたのか、分かりません。イングランドについては、ドロシー〔・シモンズ〕が見出そうとしていました。
 ともあれ、それは決定的な会合でした。私はその後、運転して、彼とアランを送って丘を上がったのを、憶えています。クリシュナジが私に対して、ニューヨークと、翌年はパリで、私とともに泊まるだろうと明言したのは、その時でした。私たちはそのための計画を進めることができました。で、それは決まりました。
スコット−アランはニューヨークでの講話を手配していたんでしょうか。
メアリー−ああ、そうです。
スコット−パリの講話も手配していたんでしょうか。
メアリー−いいえ。フランス〔のK〕委員会がそれらをやりました。でも、アランは支援していました。この年、後でアランは、二人のパリの人たち、〔すなわち〕マルセル〔・ボンドノー〕とジゼラ・エルメンホースト(Gisela Elmenhorst)が手配しておいたことを見に、パリに行ったと、思います。
 翌日、ものごとは急速に動いているように見えました。午前には第6回の〔公開〕討論会があり、午後にはヨーロッパでの学校について、第3回の会合がありました。私はヨーガのレッスンのためにタンネグ〔山荘〕に上がっていました。クリシュナジは私を呼び入れて、翌年オランダで私たちがどこに泊まるかについて、議論するよう頼みました。それで、宿舎探しの私の役割は、毎日大きくなりつつありました。(笑う)彼は〔オランダK委員会の〕アンネッケ〔・コーンドルファー〕に話をするよう言いました。それで、私はその夜、彼女を夕食に呼びました。私は彼女に対して、クリシュナジそのときまでどうしようとしていたのかと、パリの計画の違いについて、説明しました。彼女は、次の春のために、私たちみんなの場所を見つけようと提案しました − アンネッケとアランと私ともちろんクリシュナジのためにです。
スコット−あなたの、デシカチャールとのヨーガのレッスンに、戻ってもいいですか。今、デシカチャールとアイアンガーとの間の違いについて、あなたはクリシュナジとたくさん話をしたにちがいありません。
メアリー−ああ、そうです。ええ。まあ、クリシュナジはすでに、〔アイアンガーの甥の〕デシカチャールを望んでいました。アイアンガーとは途絶えていました。
スコット−知っています。
メアリー−或る時点でアイアンガーは、クリシュナジとヨーガをしていなかったんですが、〔人道主義でも知られる高名なヴァイオリニスト、ユーフディ・〕メニューイン(原註6)と行うためにグシュタードに来たから、ちょっとした状況がありました。かつてアイアンガーはクリシュナジに教えていたし、彼はタンネグ〔山荘〕で下の階の或るご婦人に泊めてもらいました。彼はそこでレッスンをしたものです。私が受けた初めてのヨーガのレッスンは、あの階下のフラットでのことでした。
スコット−ああ。これらは、前に私たちがあなたから探り出さなかった情報ですよね。
メアリー−まあ、正確には、不滅の歴史物語ではないわ!でも、ともあれ、と。(笑う)
スコット−ええ。でも、分かります。分かります。それでは、今議論しているこの年、デシカチャールは、上の階であなたとクリシュナジにヨーガを教えていたが、アイアンガーは下の階で他の人たちに教えていた!(笑う)
メアリー−ええ、アイアンガーが行っていたメニューインは除いて、ね。それで、下の階と中の階の間は、かなり冷めていた、と言うんでしょうか。ヴァンダは除きます − 彼女はいつもアイアンガーにきわめて忠実でした。なぜなら、彼女は本当にヨーガの知識をアイアンガーから得たからです。彼とうまくやっていたし、彼のことが好きでした。
スコット−あなたはその時に、メニューインに会いましたか。
メアリー−私は前年、メニューインに会いました。〔元女優でKの聴衆の〕アイリス・ツリー(Iris Tree)に連れられて、メニューイン夫人を訪ねたときです。そのことは前回の対談でお話ししましたか。
スコット−いいえ、していません。
メアリー−まあ、アイリス〔・ツリー〕は彼らと私の共通の友だちでした。アイリスは、メニューイン夫人を訪ねるために、私をそこに連れて行ってくれました。それがすっかり魅力的だったのを(笑う)憶えています。まず第一に、彼らはみんな、家の残り〔の部屋〕で、コンサートのために練習していました。それで、私たちは座りました − ダイニング・ルームだったと思います。メニューイン夫人は、ほとんどアイリスと淀みない会話を続け、同時に手紙を書きました!(笑う)私はその兵站学をおもしろいと思いました。なぜなら、彼女はとても大きな字を書いていて、小さく明るいきれいな青いメモ用紙に書いていたからです。これで、書くために長く掛からないし、手紙はいたるところの友人たちに送ることができました。なぜなら、手書きがとても大きくて、ページがとても小さかったからです。(スコット、笑う)私は、彼女はとても利巧だと思いました!(メアリー、クスクス笑う)
スコット−同時に会話をして、手紙を書くことは、失礼に見えたんでしょうか。
スコット−いいえ、少しも!彼女はただ話しつづけて、紙には大きな文字ができていきました。(笑う)
スコット−とほうもないな。
メアリー−で、同じ時に彼に会いました。私たちはただ握手しました。
スコット−では、彼はその時点で、クリシュナジに会いに来ていなかったんですか。
メアリー−ああ、いいえ、来ませんでした。そこにもまた冷たさがありました。
 クリシュナジはたぶん、天才と才能は本当は創造的ではないとの言明の一つを、していたんです。
スコット−ええ。
メアリー−彼らはそれを又聞きしましたが(笑う)、メニューイン家はみな気分を害しました。私はそこにいなかったから、分かりませんが、講話に来ていたのは、妹のエプシバー(Hepsibar)とその夫だったと思います。彼らはそう言われるのを聞いて、それを報告したにちがいないです。
メアリー−メニューインは講話に来ませんでしたか。
メアリー−私の時には来ませんでした。前に来たことがありました。
スコット−いいです。私は憶えていますが、もちろん、これに関して私の記憶は間違っているかもしれません。でも、これが起きたのは、実際はクリシュナジがメニューインと行った会話のなかでだったと、クリシュナジが私に語ってくれたのを、私は憶えているようです。
メアリー−まあ、そうだったかもしれません。
スコット−会話は創造性と芸術と才能についてでしたが、クリシュナジは、メニューインの消化できない事柄を、言っていました。
メアリー−それが本当かもしれません。
 私はこれをクリシュナジから聞かなかったんで、誰にせよ私に話してくれた人が、間違った話をしたのかもしれません。
スコット−私はそれをクリシュナジから聞きました。
 私がそれを聞いたのはそこからであるということは、確かだと思います。クリシュナジはそれを私に語るにつれて、彼は、何か世評のよくないことを言って物語しているときにする、あの種のクスクス笑いをしました。
 ここで私は、幾らか歴史を再現しようとできるのなら、〔作家のオルダス・〕ハックスレーが63年に亡くなって、メニューインがあのテレビ番組* のためにインタビューを受けるほど、彼を良く知っていたのなら、そのとき、メニューインが初めてクリシュナジと接触を持ったのは、1963年より前だったにちがいありません。
メアリー−まあ、思い起こしてください − クリシュナジはいつまでサーネンで講話を始めなかったのかな。それは61年だったかな。
スコット−そう思います。でも、メニューインはその前にカリフォルニアで彼に会っていたかもしれません。
メアリー−いいえ、そうは思いません。
スコット−さて、どこで、彼はどこからハックスレーを知ったんでしょうか。イングランドでしょうか。
メアリー−いいえ、彼はハックスレーを、カリフォルニアから、〔歴史家で哲学者の〕ジェラルド・ハード(Gerald Heard)(原註7)をとおして知りました。
スコット−彼はそのときクリシュナジをも知っていたのかもしれませんか。
メアリー−分かりません。でも、ヴァンダはたいへん音楽好きだったのを思い起こしてください。彼女の父親は〔イタリアの〕フローレンス〔フィレンツェ〕の〔最も重要な音楽協会、〕マッギオ・ムジカレー(Maggio Musicale)を始めました。彼女は自らの時代の指導的音楽家をみんな知っていました。*
スコット−ええ、ええ。
メアリー−〔偉大なチェリストの〕カザルスと・・・
スコット−〔偉大な作曲家の〕ストラヴィンスキー、
メアリー−〔偉大な指揮者の〕トスカニーニと、これらの人たちすべてを、です。彼女はメニューインを知っていたでしょう。だから、私は、クリシュナジはヴァンダをとおしてメニューインに会ったと想像します。でも、分かりません。
 では、ともあれ、私たちは9日にいます − クリシュナジは第7回で最後の公開討論会を行いました。午後にクリシュナジは私を呼びにやりました − パリの計画と、自らが場所を借りるよう私に頼んだことを、〔フランスの実業家で支援者〕ボニト・デ・ヴィダス(Bonito de Vidas)に対して話したということを、私を知らせるため、です。私は、デ・ヴィダスが何を言ったのかは知りませんが、デ・ヴィダスはあらゆることを管理するのが好きでした。だから、見たところ、彼はその考えがあまり好きではなかった。でも、私は知りません。(二人とも笑う)同時にクリシュナジは、私に対してこれを話していました。またもや私に対して、私が資本金を使っているのかどうかを、訊ねました。またもや私は「いいえ。」と言って、そのことを気にしないように言いました。(笑う)
 翌日、〔来年の〕アムステルダム〔での講話〕の計画について、アラン〔・ノーデ〕とクリシュナジとアンネッケ〔・コーンドルファー〕との会合が、ありました。またもや彼は私を話に呼び戻し、アランを同席させました。彼は私に対して、私が自らのしていることを後悔しないだろうことを、確かめてほしかったんです。(クスクス笑う)彼は心配していましたが、私は完全に確言しました。彼はもう一度、私に訊ねたかったんですが、私の言ったことで彼は満足したと思います。
 それから何かな?アランは翌年、タンネグ〔山荘〕の代わりにカプリス〔のアパートメント・ハウス〕に泊まりたいと思いました。だから、それを手配しました。
 今や講話が終わってしまい、アランと私はパリに、街の様々な部分を見るために行きました − 来年、どこが借りるのに良い場所だろうかを見るため、です。そこにいる間、私たちはマルセル〔・ボンドノー〕とジゼラ〔・エルメンホースト〕に会いました。
スコット−或ることをお訊ねするために、ここで少し止まって、戻ってもらってもいいでしょうか。
 クリシュナジが、人々が自らの資本金を彼に使わないように、どんなに心配していたのかを、私は知っています。しばしば人々が寄付をしたとき、彼はこれについて彼らに質問しました。
メアリー−ええ。彼は、資本は収入と対立しているものであるとの概念を、何か持っていました。彼がどこからそう思ったのか、私は知りません!(二人とも笑う)彼はいつも、人々の資本金を気に掛けていました。
スコット−まあ、今あなたは、彼が、そうですね、人々が自らの資本金の幾らかを寄付しておいて、それから後でそれを後悔するという悪い経験をしたことがある、という感覚が、かつてしたことがありますか。
メアリー−おそらくはね。でも、私はそれは知りません。
スコット−彼はあなたに対して、それを何も言わなかった。
メアリー−ええ。
スコット−私はお訊ねしようと思っただけです。なぜなら、それがいつも彼の心配事であったことを、私は知っているからです。
メアリー−ええ。
 ともあれ、アランと私はパリに行き、さまざまな地域を見たんですが、私たちは〔パリ西部、セーヌ川沿いに〕「〔ブローニュの〕森(the Bois)」(原註8)の近くにいたいと思いました。実は、私たちが結局、入手した住宅からは、「森」へそのまま散歩できました − 「森」の南端です。〔「森」の中の〕ロンシャン〔競馬場〕(Longchamp)に近かったし、それから、「森」の底辺は、私たちが持った家から二、三区画ほどでした。
スコット−とってもいい。
メアリー−オンゼ(原註9)、ヴェルダン通り。何というか、すてきな住宅でした。
 それから私たちは、ロンドンへ飛びました。その頃、私たちが行った旅行の量は、何とも感じなかった − ここから郵便局へ行くようなものでした。(スコット、笑う)私たちはロンドンへ飛びました。〔南アフリカ出身の〕アランが、イギリスの市民権を得たかったからです。それで、(笑う)私たちはロンドンへ飛びました。そこで何をしたのかな。(日記を読むために休止する)私たちは、ヒッチコックの映画に行きました。憶えています。(二人ともクスクス笑う)そして、〔ホテル、〕クラリッジェスで、〔古い友人の〕フレアー・コールズ(Fleur Cowles)(原註10)と昼食をとりました。
 私たちはイングランドに二、三日しかいませんでしたが、見て回るためにオックスフォードに運転していく時間を、見つけました。そして、〔Kの本の編集をしている〕ディグビー夫妻(the Digbys)に会いました。
スコット−ふむ、ロンドンでですか。
メアリー−ええ、ロンドンで、彼らの街の家で、です。
スコット−彼らの街の家は憶えています。
メアリー−彼らの街の家ではまた、フライ夫妻(the Frys)にも会いました。それからパリへ飛んでかえり、私のジャガーを取り戻しました − それは、ジャガーの代理店に置いていて、私は知りませんが、何らかの点検修理をしていました。そして私たちは運転して・・・
スコット−ここで待っておいてください。はっきりさせましょう − クリシュナジは〔スイスの〕タンネグ〔山荘〕に泊まっていた。あなたとアランは運転してパリに行った。
メアリー−可能性のある借りる区域を、調べてみるためです。それから私たちは、二、三日間、ロンドンに飛んで、その期間にジャガーは点検修理するために、パリに留まっていた。それから私たちはパリに飛んでかえり、それを取り戻し、〔フランス中央部、ソーヌ・エ・ロワール県の〕シャロン・シュル・ソーヌ(Chalon-sur-Saone)を通ってスイスに運転して行きました。
スコット−ええ、よく分かります。
メアリー−あの人物の名前は何だったか・・・そこにしるしがあるんです − これは〔ジョゼフ・〕ニセフォール・ニエプス(Nicephore Niepce)* の生家だと。そのとおり。彼はカメラを発明した、とされています。(スコット、笑う)おもしろい名前が頭に引っかかりました!なぜかは分かりません。私たちはシャロン・シュル・ソーヌで夜を過ごしました。
 翌日、私たちは、あれらお気に入りの小さな道路を運転して行きました − すてきな田舎を通って、です。私たちは、昼食に間に合うよう、〔レマン湖の北岸の都市〕ローザンヌに戻りました − 〔レストラン、〕グラッペ・ドオー(Grappe D'Or)で、ね。(クスクス笑う)そして、4時までにはタンネグ〔山荘〕に戻っていました。
 今までに私たちは8月末にいますが、クリシュナジは、アランと私に対して、ニューヨーク講話の後か、そのあたりで、ハーバード〔大学〕で話をする可能性について、話をしました。
スコット−誰がそれを手配しておいたんでしょうか。
メアリー−アランが手配しておいたんです。良い考えに思われました。
 私は冬の間、そこに置いておくために、車を〔サーネンの北東方向で、スイスの首都ベルンの南東、〕トゥーンに持っていきました。そして、列車で〔南西方向に〕戻ってきて、彼らみんな、ヴァンダ、クリシュナジ、アランに、さようならを言いました。
 翌日、私は列車で〔レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴに行き、ニューヨークに飛びました。それから私はカリフォルニアに飛び、マリブの自宅に行きました。私がそこにいる間、ラージャゴパルが私に電話をかけてきて、クリシュナジが講話のためにオーハイに来るとき、私が彼の運転をするだろうかを、私に訊きました。なぜなら、彼は、私が運転して彼を乗せて回っていたのを、聞いていたからです。
 私は、「まあ、はい。お望みでしたら、もちろん。」と言いました。私は本当はものごとの外側に留まっておくつもりでした。クリシュナジは自らの本拠地に戻るだろうし、私はものごとの外側に留まっておこうと思いました。私はもちろん講話に行くでしょうが、ヨーロッパで関与していたような個人的なことすべてには、そうしないでおこう、と。でもラージャゴパルは、私に運転手をしてほしいと思いました。そして、私がそうするのなら、彼の古いフラットに泊まりたいと思いますか、と言いました − それは、〔オーハイの東端の〕パイン・コテッジ(Pine Cottage)の隣の住宅の階上のフラットです。あなたが泊まったことのあるところです。
スコット−何回もね。
メアリー−それで私は、「まあ、はい。たいへんありがとうございます。」と言いました。それで、準備されました。
スコット−クリシュナジはパイン・コテッジに泊まったんでしょうか。
メアリー−ええ。パイン・コテッジに泊まりました。アランはパイン・コテッジの隣のアパートメントに泊まりました − 結局、解体したところです。ひどい場所です!〔この対談で〕そこに来たとき、それを言いましょう。
 さて、次に何が起きたんでしょうか。まあ、ともあれ、私は〔アメリカ東海岸の〕母に会いに行きましたが、それは大事なことではない。それから9月14日に私はニューヨークに飛んで・・・
スコット−お母さんはどこにいらしたんでしょうか。
メアリー−〔マサチューセッツ州の〕マーサズ・ヴィニヤード〔島〕(Martha’s Vineyard)* です。
スコット−ああ、それで、あなたはマーサズ・ヴィニヤードに行って、それからカリフォルニアに戻ったんですね。
メアリー−いえ、いえ。私はカリフォルニアに二週間、行きました。それから母に会いに東〔海岸〕へヴィニヤード〔島〕に戻りました。それからニューヨークに飛んで、〔弟〕バドのアパートメントに、移りました。彼はすでにそこを出ていて、父のアパートメントに行きました。私はアパートメントを整えていました。それから20日に弟〔バド〕と私は、クリシュナジとアランを迎えに、空港に行きました。
 彼らの荷物はすべて失われていました!
スコット−なんてまあ!
メアリー−(笑う)でも、私たちはアパートメントに戻ってきて、〔弟〕バドは彼らにパジャマと他の必要なものを貸しました。
 運良く、次の朝、9月21日、TWA〔航空〕はフロント・ホールでかばんを引き渡しました(スコット、笑う) − 誰もが大いに安堵しました!(笑う)
スコット−もちろんです。
 さて、歴史のためですが、バドの〔ニューヨークでの〕住所はどこでしたか。
メアリー−〔南北に走る〕5番通りの1115です。そこは、〔東西に走る〕93番街と5番通りの角にあります。
スコット−ああ、93番街を行ったところか。
メアリー−ええ。そこは便利です。なぜなら、私たちは毎日、容易く公園に入って、貯水池のまわりを散歩できたからです。
メアリー−それで、私が言ったように、彼らは20日に到着しました。それから、いつものように、歯医者の予約がありました。彼らはいつも歯を治してもらっていました。で、私はニューヨークでそれらを手配しました。
スコット−でも、これは彼らにとって新しい歯医者だったにちがいありません。
メアリー−ええ。彼は、カリフォルニアの歯医者が推薦してくれました。
 それから、いつもの、人々が昼食に呼ばれるというひとしきりが、ありました。私たちはまた映画にも行きました。クリシュナジは『ニューヨーカー誌(the New Yorker)』から、人物像を描くためのインタビューを受けました。でも、それは何かの理由で印刷されませんでした。
スコット−ふむ。
メアリー−残念です。
スコット−あなたは、昼食に人々を呼んだと言われました。あなたが昼食の調理をしたんでしょうか。それとも、昼食を持ってきてもらったんでしょうか。
メアリー−いいえ。弟〔バド〕のヴェトナム人シェフが調理しました!彼はパリで修業しました。ヤープ(Jaap)というのが彼の名前でした。彼は本当に良い料理人でした!だから、内で食事することはすてきでした。彼は菜食主義を気にしませんでした。
スコット−すばらしい。昼食には誰が来たのかを、憶えていますか。
メアリー−ええ、何人か!ヨー・デ・マンツィアーリ(Yo de Manziarly)が突然、浮上したのを憶えています。彼女もまた、私たちとともに数多く映画に行きました。
 他には誰かな。ああ、マーゴット・ウィルキー夫人(Mrs.Margot Wilkie)ね。(クスクス笑う)彼女は〔東部のマーサズ・〕ヴィニヤード〔島〕で生活していて、ロザリンド・ラージャゴパルの親友です。私はヴィニヤード〔にいた時代〕から彼女を知っていたから、彼女を昼食に呼びました。むしろ、彼女は私より母を知っていました。彼女はナンシー・ウィルソン・ロスという人(a Nancy Wilson Ross)を連れてきました。ナンシー・ウィルソン・ロスは、あの少し社交的なタイプの女性でしたが、彼女はまた東洋の宗教について本をも書きました。
 昼食にはブリッツが来ました。〔フランスの実業家でKの支援者、〕ジェラール・ブリッツ(Gerard Blitz)がいました。
スコット−なぜ、ふむ、ふむとそれらの声を出したのか、教えてください。
メアリー−まあ、マーゴット・ウィルキーは、昼食に来た後、私についてロザリンドへ嫌らしいことを語ったからです − それは、もちろん私に戻ってきました。(笑う)
 また、私の母と〔母が再婚した〕義理の父〔ウージ〕がやってきて、一回、昼食に来ました。
スコット−ふーむ。彼らはクリシュナジにどのように反応しましたか。
メアリー−彼は彼らに対して魅力的でしたし、彼らは、そうねえ、とても礼儀正しくて、むしろまごついて引き下がっていました。彼らは一回、〔ニューヨーク市、マンハッタンの私立総合大学〕ニュー・スクール(the New School)での講話にも行きましたが、(笑う)彼らがそこから何を分かったのか、私は知りません!たぶん何も分からなかったでしょう。
 でも、彼らは彼に会ったことがありました。そうねえ、彼らにとって大事なことは、彼がどのようなのかを見ることでした。私は彼らとあまり関わりがなかったので、分かりません。
スコット−ええ。
メアリー−この時にアランは、ハーヴァードでの用件を手配するためにボストンに行って、戻ってきました。それから、クリシュナジはニュー・スクールで話を始めました。さて、ニュー・スクールはダウンタウンの方にあります。ご存じかどうか知りませんが、ワシントン・スクエアの近くにあります。
スコット−ああ、NYU〔ニューヨーク市立大学〕の近くね!
メアリー−その近く、NYUのごく近くですが、別々です。
メアリー−私たちは、〔以前Kを泊めていた〕ピンター夫人(Mrs.Pinter)に会いに行きました。確かに彼女はクリシュナジに対処できませんでした。
 彼女は、ひどいおそろしいアパートメントを、持っていました!無礼なことをいうのではないですが、気が滅入りました。そのときまでに彼女は、ほんとに年老いたご婦人で、足がすっかり動かなかった。そこに泊まることは、彼女にとってあまりに困難だったでしょうし、彼にとっては憂鬱だったでしょう。でも、彼女はきわめて親切に毎日、彼のために、車を送ってくれました − 彼を講話に送って行くため、です。だから、私はその手配をしなくてよかった。
 さて、おかしな出会いが来ます(クスクス笑う)・・・講話の一つで、〔有名な詩人の〕アレン・ギンスバーグ(Allen Ginsberg)(原註11)がそこに来ていて、彼に話をしたいと思うという伝言を、受けとりました。それで手配しました。ご覧あれ、29日にアレン・ギンスバーグが、チィモシー・リアリー(Timothy Leary)(原註12)を引き連れて、現れました!(スコット、大笑い。メアリー、クスクス笑う)また、彼の友だちも、です。これは不謹慎になると思いますが、先へ進んで、ユーモアの目的でお話ししましょう。
スコット−もちろんです。
メアリー−私はその頃、何というか、うぶだったと思います。名前を、そうよね、名前が聞こえなかったので、私は彼の友だちが誰なのかを知りませんでした。でも、私は、「どうして女が、あんなに自分自身を魅力的でなくできるのだろうか。」と思いました。汚いジーンズと背中に長いポニー・テールです。ひたすら魅力的でなかった。結局、そもそも女ではないことが、私には明らかになりました。男だったんです!(二人とも心から笑う)でも、私はうーん・・・
スコット−(笑う)ええ、まあ、あなたはヒッピーでなかった。だから、分からなかった。66年には。
メアリー−ええ、ええ。私はそれに初めて触れました。やせこけた若者みたいのが長い髪を背中に垂らし、後ろで括っているのは、ありふれたことではなかった。歴史をそれほど遡って思い出せるなら、ふつうではなかった。
スコット−ええ、ええ。不幸にも思い出せます。
メアリー−でも、ともあれ、若者は一度も口を利かなかった。ギンスバーグが話すべてを始めました。クリシュナジが、ドラッグは良いことではない(クスクス笑う)と言っていることに、彼は反対だった、と私は思います。そして、彼はLSDについて話しつづけた、と思います − それは、宗教的体験か何かについて、でした。或る時点で、クリシュナジはギンスバーグに対して、「十字架の象徴が何なのかは、ご存じでしょう。」と言いました。それとともに彼は身振りをしました − 手でもって自己を垂直に横切り、次に水平に横切るようにです。それから彼は、それは自我の否定を表していると言いました。
 それでリアリーは跳び上がって、(クスクス笑う)答えようとしているギンスバーグを、沈黙させました。手を放り出して、「ええ、毎晩です!」と言いました。
 リアリーはグリニッジ・ヴィリッジで、何かしらの舞台で演劇をしつつあることが、分かりました。彼は、大きな劇的な身振りで、大きな声で、「私は舞台に立ちます。手を放り出します。私は手から釘を引き抜いて、それらを地面に投げつけます!」と言いました。キリストが自らの手から釘を抜き去る演技です。(笑う)
 クリシュナジはとても静かに話をして、キリスト教について何かを言いました。たちまちリアリーは座って、クリシュナジに同意しました。前に自らが言っていたことを、完全に論破して、です。
 私がいうのは、彼はまさに反転して、絶対的にクリシュナジに同意したんです。議論はありませんでした。(二人とも笑う)本当に!最終的に彼らは立ち去りました。
スコット−私は1970年にギンスバーグと二、三時間を過ごしました。ギンスバーグとクリシュナジの間の会話は、想像することさえできません。(大笑い)
メアリー−まあ、彼らのした会話は想像できないわよ。(もっと笑う)
スコット−ええ。
メアリー−そういうことでした。ともあれ、講話は〔マンハッタンにある私立総合大学、〕ニュー・スクールで続きました。私たちは映画と歯医者に行きました。公園で、貯水池のまわりを散歩しました。誰も私たちに襲いかかりませんでした。その頃はそうしなかった。まったく安全でした。人々はジョギングしていましたが、襲いかかる人はいませんでした。
スコット−(クスクス笑う)クリシュナジが午後に歩くところは、同じ種類の決まり事でしたか。
メアリー−ええ、同じです。
 ニュー・スクールでのクリシュナジの最後の講話は、10月7日にありました。翌日、クリシュナジと討論をするために、アランは〔滞在中の〕フラットへたくさんの若者たちを連れてきました。
 クリシュナジは、ラルフ・インガーソル(Ralph Ingersoll)とも会いました。彼はPMという新聞を刊行していました − それはあなたの時代より以前ですが、とっても良い新聞でした − きわめてリベラルで。彼には息子がいました。若いラルフです − 私たちはこの前にスイスで彼に会ったと思います。彼はタンネグ〔山荘〕にやってきたと思います。アランは、他の若者たちとともに、彼に会ったにちがいありません。彼はニューヨークで私たちに会いに来ました。それから彼の父親と、父親の妻です。彼女が彼の〔実の〕母親だったか継母だったか、私は知りませんが、彼らは昼食に来ました。私たちがそこにいるとき、〔ベルギーのKの支援者〕ヒュー・ヴァン・デル・ストラテン(Hughes van der Straten)(原註13)もまた昼食に来ました。
 〔弟〕バドは自分の車を私に貸してくれました。それで、私たちは或る日、田舎へ昼食に出かけました。
スコット−彼はどんな種類の車を持っていましたか。
メアリー−とても古いロールス・ロイスを持っていました。(クスクス笑う)
スコット−ああ、すばらしいなあ。どれぐらい古いんですか。
メアリー−ああ、分かりません。とても古い。
 14日にアランと私は、弟のバドとともに、〔かつてメアリーとバドの父親が所長を務めたニューヨーク〕株式取引所を訪問しました。なぜなら、アランがそこを見たがったからです。そして、〔ププル・ジャヤカールの娘で、梵文学、仏教学の〕ラディカ・ハーツバーガー(Radhika Herzberger)が新しく生まれた赤ちゃんを連れて、昼食に来ました。私たちは昼食をとる間、その子を私が泊まっていた部屋に寝かしたのを、憶えています。クリシュナジは、私がこの小さな赤ちゃんに注意を払ったという事実に、打たれていました。小さい赤ちゃんがそこに居るとき、ほとんどの女が同じように振る舞うことを、彼は知らなかった。(スコット、笑う)彼は、私の注意は意義深いと考えたようです。(二人ともクスクス笑う)
 私のメモ書きには、アレン・ギンスバーグがクリシュナジに会いに戻ってきたと、言いますが、二回目は憶えていません。
 10月16日に私たちは、〔東部の都市、〕ボストンに飛んで、ケンブリッジの或るホテルに泊まりました − そこはハーヴァード〔大学〕に近かった。そこで散歩ができました。
 クリシュナジは、どこかロゥエル・ハウス(Lowell House)というところで、ハーヴァードの学生たちとに会いました。
スコット−その討論はどのように進みましたか。
メアリー−まあ、彼らは質問をしましたが、鈍い種類の質問です。彼らは予習をやっていませんでした。だいじょうぶでしたが、何も特別なものではなかった。それから私たちはニューヨークへ飛んで戻りました。
スコット−あなたは、クリシュナジを〔自分の育ったマーサズ・〕ヴィニヤード〔島〕に連れて行こうという気を、起こさなかったんですか。
メアリー−ええ!(笑う)とんでもない!何て恐ろしい考えでしょう!
メアリー−ええ、そうです。(笑う)私はご家族のことは忘れていました。すてきな島のことを考えていただけです!
メアリー−ああ、そうです。まあ、もしも〔弟〕バド(原註14)だったなら、違っていたんでしょうが、その頃〔、島の住宅にいたの〕は〔高齢の〕母でした。
 実際にはクリシュナジはすでに〔1940年に〕、マルゴ・ウィルキーの母親とともに、島に行ったことがありました* 。ずっと何年も前にです。彼女の名前は何だったかな・・・ロインズ夫人(Mrs.Loyns)。彼女は昔の友人でした。彼女は島で、セヴン・ゲイト・ファームに生活していたと、思います。
スコット−ええ、そうです。それがどこなのか、私は知っています。
メアリー−それから10月18日に私たちは、〔ロサンジェルスの西、太平洋岸の〕マリブへ飛びました。そこ* は、彼らにとって初めてのことでした。私は運転して彼ら二人とともに門へ入ること、そして自分のキッチンで彼らのために夕食を作ることが、うれしかった。
スコット−いいなあ。
メアリー−〔年老いたイタリア人家政婦〕フィロメナ(Filomena)がそこにいました。もうすてきでした。
スコット−で、クリシュナジがマリブのあなたの家に行ったのは、それが初めてのことだった?
メアリー−ええ。1960年以来、彼がカリフォルニアに戻ってきたのは、初めてのことでした。
スコット−ああ、そのとおりです。彼は戻っていなかった!
メアリー−彼は1960年〔5月〕に講話を行いはじめましたが、体調が良くなかったから、〔8回の講話を4回に〕短縮しなくてはならなかった。私はその年に〔オーハイで〕彼と〔個人〕面談をしました。
スコット−ええ、それは憶えています。
メアリー−彼がそれらの年月に〔オーハイに〕戻ってこなかった理由は、ラージャゴパルとの不和であったということです。おそろしい紛争が起こっていて、66年のこの訪問は、あれこれの和解になると想定されていました。少なくとも、和平になる、と。
スコット−ええ。クリシュナジはこれらの問題について、あなたに話をしたことがありましたか。
メアリー−幾らかはね。私は前の夏に、クリシュナジが〔自らの討論会の〕オーディオ・テープを聴く許可を出せないこと、そして、ラージャゴパルだけが出せることを知ったとき、分かっていました。かなり奇妙だと思いましたが、私はそれについて何も言いませんでした。
スコット−でもあなたは、クリシュナジがそれらの年月ずっとカリフォルニアに戻っていなかったことを、奇妙だと思ったにちがいない。それについて誰かと話したにちがいないでしょう?
メアリー−まあ、いいえです。でも、クリシュナジがニューヨークに到着したとき、まさに一日目にラージャゴパルが彼に電話してきたのは、よく憶えています。アランと私はクリシュナジの寝室に、彼とともににいました − そこは、私の弟〔バド〕のところで、その場所の主な寝室でした。電話が来たとき、アランと私はその部屋にいました。二分以内にラージャゴパルは電話越しに彼に対して喚いていて、一方的にガチャンと切りました。
 それが、ラージャゴパルとどうなっているかについての、私の最初の感覚でした。そして、合衆国へ戻ることへラージャゴパルからの歓迎です。それで、彼らの間はうまく行っていないことに、気づいていました。
スコット−いいです。で、ラージャゴパルは実際には、東海岸でのそれら講話のどれのためにも、何もしなかった?
メアリー−ええ、しませんでした。事実、彼は不機嫌でした。なぜなら、招待がクリシュナジへ直接的に来たからです − どうして来たのか、私は知りません。
スコット−〔ニューヨーク市の私立大学〕ニュー・スクールからですか。
メアリー−ええ、ニュー・スクールからです。彼へ直接的に来ました。彼は私を呼び入れて − 前の夏だったにちがいないです − 彼は自らが受けるべきだと思うのかどうかを、私に訊きました。
スコット−あなたはそれについて話しましたか。
メアリー−ええ。話したのは知っています。私は、ええ、彼は受けるべきだと思うと、言ったからです。彼が「なぜ?」と言ったとき、私は、「まあ、私がそこについて知っていることは、そこが真剣で良い場所であるということだけです。」と言いました。そして、あの、うーん・・・ああ、彼の名前は何だったか、彼は、「委員会に入ることに同意していた」。うーん、宗教の著作者で、とても真剣な人です。彼は入るのを同意した直後に、亡くなりました。やれまあ、これはひどい名前の障害だわ。それは他の〔録音〕テープには出ています。私は自分がそれについて話したのを知っています。
 それからアランは、クリシュナジの代理で彼らと意見交換をしました。こういうわけで、私たちはニューヨークに来たんです。
スコット−で、これが本当にそのとき、クリシュナジのラージャゴパルからの解放の始まりでした。なぜなら、講話は突然にラージャゴパルなしで手配されつつあったからです。
メアリー−本当に初めてのことでした。私が言いたいのは、ヨーロッパでの講話はすべて〔フランスの実業家〕デ・ヴィダスと〔イングランドのドリス・〕プラット女史と〔オランダの〕アンネッケ〔・コーンドルファー〕により、手配されたんです。ラージャゴパルはそれらと何の関わりもなかった。でも、合衆国ではこれが初めてでした。ニュー・スクールが最初で、それからもちろん続いて、ハーヴァードでです。クリシュナジはこの旅行で後に、〔東部マサチューセッツ州の〕ブランダイス〔大学〕(Brandeis)に行った、と思います。彼はブランダイスで話をしました。これまた、〔秘書の〕アラン〔・ノーデ〕経由でクリシュナジと直接的に手配されました。アランがそれを取り扱いました。
 それで、ラージャゴパルはそれが気に入らなかった。自分がことを管理していなかった。それで彼は粗暴だったし、クリシュナジに対して電話をガチャンと切ったんです。
スコット−ふむ、ふむ。
 ともあれ、あなたは〔南カリフォルニアの〕マリブ〔の自宅〕で初めてクリシュナジとアランを晩餐に迎えました。
メアリー−ええ。私が彼らの料理をしました。(クスクス笑う)その頃は私が料理すべてをしました。
スコット−彼らはそこで夜を過ごしましたか。
メアリー−ええ、そうです。彼らはずっといつもマリブにいました。講話のためにオーハイにいるとき以外は、です。
スコット−分かります。分かります。それから彼らはいて、あなたのお客さんだった・・・
メアリー−彼らは、そのときずっと我が家のお客でした。
スコット−で、それはどれぐらいの間でしたか。
メアリー−まあ、彼らがその冬〔12月にローマ経由で〕、インドに戻るときまでです。
スコット−ふーん。ああ、分かります。
 で、そのとき本当の解放がありました。なぜなら、そのときクリシュナジは、ラージャゴパルの管理下の〔オーハイの東端の〕パイン・コテッジに、泊まらなくてよかったからです。
メアリー−そのとおり。私たちが講話のためにオーハイに行ったとき、彼はそこに泊まっただけです。まあ、私たちはそこに行くでしょう。なぜなら・・・
スコット−いいです、いいです。で、あなたたちみんながマリブに到着したのは、何日でしたか。
メアリー−10月18日にそこに到着しました。
 幾つか歯医者の用事がありました。20日に私たちは運転して、オーハイに行きました* 。私はその頃、フォード〔の車〕か何かを持っていました。何だったか分かりません。ラージャゴパルは、〔元妻の〕ロザリンド(原註15) − 彼女は他のどこかに生活していました − 彼女が〔パイン・コテッジ近くの〕アーリヤ・ヴィハーラ(原註16)に来て、私たちに食事を提供するよう、手配しました。それで、私たちは出かけて行き、昼食のため、まっすぐアーリヤ・ヴィハーラへ運転して行きました。クリシュナジは、私にそれがどこにあるかを、示さなくてはなりませんでした。
 彼はオーハイ〔の町中〕を通って、私をそこに案内してくれました。それから昼食の後、私たちは運転して別の入り口へ回り、パイン・コテッジに入りました。そこでラージャゴパルが待っていました。
スコット−では、ラージャゴパルは昼食にいなかった?
メアリー−ええ、ええ。ロザリンドだけです。
スコット−クリシュナジとロザリンドの間の関係は、どうでしたか。
メアリー−まあ、彼女は「こんにちわ」とか何か言っただけです。でも、それは悪夢になりました。それで、私はそこで食事をとるのを止めざるをえないほどでした。私は人生で、ああいう小言を一度も聞いたことがない。私は最後にあきらめました。私はそれらを聞いていると、潰瘍ができてくるから、食事に行けませんでした。クリシュナジは食卓の一方の端に座り、彼女は他方に座り、アラン〔・ノーデ〕と私は間に座りました。彼女は、「なんであなたは食べ物を済ませようとしないの?どうしたのよ?好きじゃないの?あれはあなたに良いのよ。あれを食べるべきです。あれはあなたに良いのよ。あれを済ませなさい。」といったことを、言ったものです。それが彼女の彼に対する話し方でした。間違った少年に対するように、です。
スコット−ふーん。
メアリー−彼女が食べ物を持ってくるときとか、私たちが座ったとき、彼女は、「まあ、みなさんはこれが好きじゃないでしょうが、さあどうぞ。」と言ったものです。食事を通してずっと毒づく、毒づく。
スコット−やれまあ。(深いため息)
メアリー−或る夜、ラージャゴパルとのことがあまりにひどくて、クリシュナジは眠れませんでした。彼は3時間ほど眠りました。それから午前に講話をせざるをえませんでした。講話の後、私たちが昼食に戻ったとき、クリシュナジは、前夜あまり眠れなかったと穏やかに言いました。彼女は、「ああ?!、なんで?!なんで?!」と、あたかも彼は子どもであり、何かひどいことをしでかしたことに対して叱責されなくてはならないかのような声の調子で言いました。
 彼女は耐えがたかった!私は、彼はどうしてこの恐ろしい女に耐えられるのか、と思いました。
スコット−ふーむ。
メアリー−それは、私がまだ、彼女が長年ずっとどんなに恐ろしかったのかを知る前のことでした。
スコット−ええ。では、ここで戻らせてください。で、アーリヤ・ヴィハーラのダイニング・ルームはどこにあったんでしょうか。正面 − 今人々が食事をするところ − でしょうか。
メアリー−ええ、同じです。今そうであるのと同じです。
スコット−はい、いいです。で、あなたたちが到着したとき、ラージャゴパルはパイン・コテッジで待っていました。
メアリー−ええ。私は二人の人を鮮明に憶えています。クリシュナジは車から降りて、彼のところに行きました。二人は抱擁か何かして、互いに腕を回しました。ラージャゴパルは、私の方を向いていました。私は、彼がクリシュナジから顔を背けたのを、憶えています − あたかも、彼は感じ入り、なおかつ嫌気がさしたかのようでした。よそよそしくて、ぞっとしました。私はまた、彼がクリシュナジを連れて、パイン・コテッジの扉を開く前に、私は自らがどこに泊まるはずかを教わるべきだと主張したことをも、憶えています。それで、彼一人が私を連れて階段を上がり、上のフラットに行きました。私たちがそこに着いたとき・・・
スコット−クリシュナジを車用の道に立たせたままで、ですか。
メアリー−ええ、アランとね。私たちが扉に着いたとき、扉のそばにはガーターヘビがいました。彼は、「私が故意にそこに置いたと思わないでほしいね。」と言いました。(クスクス笑う)
スコット−ふーむ。
メアリー−それで、彼はそこを開けて、私は入りました。彼はものがどこにあるかを、教えてくれました。それは、私たちが〔1970年代半ばから〕拡張する前のことでした。そこはほんの、半分、居間のようなものがついた小さな寝室でした − あなたも憶えているかもしれません。ともあれ、それから彼は行って、クリシュナジのフラットの鍵を開けました。それから、アランが泊まろうとしている別室に行って、鍵を開けました。二つの場所は連絡する扉がなくて、別々でした。
スコット−他のフラットはどこに位置していましたか。
メアリー−まあ、クリシュナジのアパートメントは今あるとおりでした − 私たちが手直ししたとき、わずかに拡張したという以外はね。もう一つには、別の玄関がありましたが、壁を共有していました。ここでは半分、別棟と言われるものでした。
スコット−ふーむ。では、パイン・コテッジの正面を、バルコニーを見ると、それはどちら側にありましたか。
メアリー−左側にありました。それは効果てきめんにパイン・コテッジを台無しにしました。クリシュナジがインドへ出掛けていたとき、作られましたが、彼は戻ってくるまで、そのことを聞かされていませんでした。彼が大切に思っていた自らの小さなコテッジの代わりに、コルクの床をつけ、監獄のように外が見られない高い窓をつけた、このおぞれましいものが、ありました。小さなキッチンとバス・ルームと小さな寝室と、階段を降りると、大きな事務室がありました。
 そこは信じられないほど醜かった。でも、アランはそこに入りました。ラージャゴパルが行ってしまった後、それからクリシュナジは私たちに少し見せてまわり、〔自らが1922年8月に宗教体験をした〕あの胡椒の木を見せてくれました。クリシュナジはアランとともに、私がいるところへ上がってきました。私は、彼が戸口に入ってきて、あたりを見回したのを、憶えています。彼は、かつてそこに上がってきたとき以来、長年そこに来たことがなかったと、言いました − ラージャゴパルは、彼が靴に泥を付けて持ち込んだことを、叱ったのでした。(スコット、ため息)それで、クリシュナジは二度と戻ってきませんでした!ラージャゴパルは、きれい好きの強迫観念の持ち主の一人でした。
スコット−ふーむ。
メアリー−ご存じでしょう、あらゆるものがきっちりと並んでいなくてはならなかった。明らかに強迫観念です。彼は、私がどの書物でも読んだことのある偏執症のあらゆる症状を、持っていました。(二人とも笑う)
 ともあれ、クリシュナジはフラットを見回しました。ラージャゴパルが壁に掛けた絵画が幾つかありました − 少し堅い種類の絵画です。クリシュナジはそれらを見て、頷いたりして、「彼はすごく劣化している。」と言いました。絵画についてではなく、彼に話をしたことからです。
スコット−ふーむ。
メアリー−それから、彼は自分のコテッジを、もっと私たちに見せてくれました。例えば・・・彼が裏玄関そばの戸棚を見せてくれているときのことでした。そこで彼が言ったのは・・・
スコット−そのときクリシュナジがあなたに語ったように、物語全部を話してください。私はそれを聞いたことがありますが、それは〔録音〕テープに残すべきです。
メアリー−ええ。この物語は何年も何年も前に起きました。そのときクリシュナジはあのコテッジで生活していました。ロザリンドとラージャゴパルは、アーリヤ・ヴィハーラに住んでいました。或る夜、クリシュナジは自分のアパートメントの鍵をなくしてしまい、それで中に入れませんでした。冬だったんだと思いますが、寒かった。あの年代と種類のカリフォルニアの住宅はふつう、外側に一種の物置に湯沸かし器を持っています。それで、水が漏れるなら、住宅の中にではなく、害のないところに漏れるように、です − この場合は、玄関の下か地面に、です。それで、クリシュナジは湯沸かし器の横に立って、夜を過ごしました − それはほんの二、三インチ〔、約5.2から7.6センチメートルから〕で、ほとんど押し入る隙間もなかった。彼が私にこれを話してくれたとき、私は怖くなりました!
 私は、なぜあなたは行って、彼に別の鍵をもらおうとしなかったのかとだけ、言いました。彼は、「ああ、それはできなかったでしょう。彼らはあまりに怒ったでしょう。」と言いました。
スコット−ふーむ。
メアリー−これは私にとって恐るべき啓示でした。ただもう、ものごとがどれほど間違っているのかを、示していました。
スコット−ふーむ。で、この状況は今、すべて、あなたにとって滅入ることです。
メアリー−あれは本当に、目もくらむ閃きのようでした。
スコット−ええ。
メアリー−翌日、ラージャゴパルがやって来て、クリシュナジに話をしました。アランと私は、アランのフラットに座っていました − そこは、いいですか、一つのフラットから他のへつながる扉はなかったんです。まったく時間もかけず、ラージャゴパルの声が聞こえました − 怒った声が、壁を通ってきました。彼が何を言うかは分かりませんでしたが、この怒った罵声が聞こえました。まもなく彼は立ち去りました。
スコット−あなたとアランは、これについて話をしていたにちがいないが?
メアリー−もちろんです。私たちはあきれました。本当にあきれはてました。
スコット−アランは本当にこのことを、前もって知らなかったんですか。
メアリー−知っていたというか。彼は、問題があるのは知っていましたが、私たちがそこに着いたときのそのようなものは何も、です。
 アランはまた、オーハイでの講話を、KQED − サンフランシスコの公共放送局 − をとおして録画されるよう、手配しておきました。彼らは、講話をフィルムに録画できるかを訊ねる手紙を書いてきていました。それら〔録画〕は今、持っています。またもやラージャゴパルの許可なしにでした。だから、彼はそれが気に入らなかった。
 或る日、私は運転して、音響設備を見に、アランを〔オーハイの西端の講話会場で、ブナ・ナラの林、〕オーク・グローヴに送って行きました。ラージャゴパルはそこで彼に会い、それがすべてどのように働くかを説明しました。後でラージャゴパルはアランに話をしたがりました。それで、彼らは私の車に座り、私は行って、〔オーク・〕グローヴ〔の木立〕に座りました。彼らは二時間、話をしました。最後に私は寒くなったために、戻って、おしまいにせざるを得ませんでした。後でアランは私に話してくれました − ラージャゴパルは、クリシュナジが誰に会うのか、クリシュナジがいつ〔個人〕面談を行うのかについて、それらをテープ録りするよう手配をするために、自分に報告してほしがった、ということでした。それは、〔カトリック教会で、神父に対する信者の〕告解を盗聴するようなものだったでしょう。なぜなら、人々はしばしばクリシュナジに対してきわめて個人的なことを話したいと思ったからです。
スコット−もちろんです。
メアリー−でも、それが、彼がアランにしてもらいたかったことです。私はあきれました。想像できますか。
スコット−ふむ。私がその人となりについて知っていることからすると、ええ、それはきわめて容易に想像できます。
メアリー−ええ。それで、事がますます悪くなってきたので、アランと私は、パイン・コテッジはたぶん(クスクス笑う)盗聴されていると感じるようになりました。私たちが何でも内密にしておきたいことを話すときはいつも、私たち三人は、盗み聞きができないように外に出ました。
スコット−ふーむ。あなたたちは、何でも真剣なことは、外に出て話をしなくてはならないと感じたということは、ひどいです。
メアリー−ええ、ええ。それが私たちの疑念だったという意味です。私たちはけっして盗聴器を見つけたり、実際に探したりしなかったですが、それほど悪かった。私たちは、彼が内密にあれこれテープに録っているのを、知っていました。*
スコット−わぁ。
メアリー−それから、もう一回、古い事務所で会合がありました − そこには今、アーチ形の天井があります(原註17)。私たちが初めてオーハイに着いたとき、クリシュナジは、ラージャゴパルに手紙を送っておきました − 彼、クリシュナジはKWINC(原註18)の委員会に再び就任したい* と、言うものでした。彼はまた、委員会を拡大したいと願っていました。彼は私をそこに就けたい、そして、入ってくる金銭がどうなるかの会計がほしいと思いました。クリシュナジはまた、KWINCはラージャゴパルだけが仕切るべきではないということも、述べておきました − 何か他の取り決めがあるべきだ、と。それで、古い事務所で行われたこの会合で、クリシュナジは、「あなたは私の手紙に答えていません。」と言いました。
 ラージャゴパルは、「ええ。なんで答えるですか。私はあなたからの命令は受けません。」と答えました。
 そのときクリシュナジは、「ラージャゴパル、あなたは理解していない。これはとても深刻な事態です。あなたが答えないし、私たちが何らかの取り決めに至らないのなら、私は手段を講じないといけなくなる。」と言いました。
 これにラージャゴパルは激怒して、「何だ、これは。これはバラモンの呪いか?。あんたは私を呪っている。まあ、私もバラモンだ。あんたが私を呪えるのより、私はもっとあんたを呪ってやる。」と言いました。
 それから彼は話しつづけて、見たところ、クリシュナジが私たちに話そうとしなかったことを、言いました。そして彼は、クリシュナジが言うところの、「他のもの(the Other)」(原註19)に反することを、言いました。ラージャゴパルが「他のもの」について話したとたんに、クリシュナジは立ち去り、自分のコテッジに戻りました。
 ラージャゴパルが立ち去るとき、扉をバタンと叩きつけるのが、聞こえました。事務所の光が見えたのですが、それが消されて、扉は叩きつけられ、それから車が走り去りました。それから私たちは、クリシュナジのもとへ入って行きました。彼は私たちに対して、何が起きたのかを話してくれました。
スコット−誰かがクリシュナジに対して、これらのことを手紙に記すよう、提案しておいたんでしょうか。
メアリー−いいえ。彼が自らの望むことの一覧表を作りました。
スコット−では、これは全くクリシュナジからでしたか。
メアリー−ああ、そうです。彼が一覧表を作りました。それはすべてまったく適正でした。
スコット−ええ、もちろんです。
メアリー−これらは、彼ができているべきことです。
スコット−でも、それらはまた強力なことでもある。
メアリー−ええ。
スコット−そうですね、これは、クリシュナジが、求めているべき正しいことすべてを、本当に知っていたということを、示しています。
メアリー−ええ。彼が〔ジェームズ・〕ヴィゲヴェノ(Vigeveno)を呼んだのは、その翌日だったと、思います。なぜなら、ヴィゲヴェノは〔ラージャゴパルの支配する〕KWINC の副会長であったからです。ヴィゲヴェノはやって来ました。クリシュナジは彼に対して、自らがラージャゴパルに送っておいたが、ラージャゴパルがヴィゲヴェノに見せようとしなかった手紙の写しを、見せました。ヴィゲヴェノは、手紙があることを知っていましたが、それを見るのを許されていませんでした。それで、クリシュナジはそれを彼に見せました。彼は彼に対して、副会長として行動してもらおうとしていました。クリシュナジは彼に、「あなたは責任があります。」と語りました。でも、ヴィゲヴェノはもちろん何もしませんでした。
スコット−まあ、あなたは「もちろん何もしませんでした。」と言われるし、私は「もちろん」なことを理解しています。でも私は、将来にこれを聞くであろう他の人たちのことを、考えています。ヴィゲヴェノは本当にラージャゴパルの思うがままだったということを、説明しなくてはいけません。
メアリー−ラージャゴパルは、思いのままになる人たちを、まわりに置いていただけです。
スコット−では、少し待ってください。ヴィゲヴェノ* については、何か物語がないでしょうか・・・ラージャゴパルは、ヴィゲヴェノと彼の家族をヒトラー〔によるナチス独裁政権〕の直前にドイツから引っぱり出したとか、そのようなことです。彼らはユダヤ人でした。
メアリー−ええ。それが物語です − なぜ彼らが彼に忠実だったのか。ラージャゴパルは、彼らがオランダに留まっているのは安全でない、と彼らに語っていたんです。彼はドイツ人ではなくオランダ人でした。〔妻の〕アニーはドイツ人だった、と思います。でも、彼らはオランダで生活しました。彼らはそこに画廊を持っていました。ラージャゴパルは、「あなたたちは抜け出さないといけない。」と言って、立ち去るように彼らを説得しました。
 彼らは持ち金を持ち出すことなどができました。
スコット−で、彼らは永遠に感謝していました。
メアリー−彼らは、ラージャゴパルに命を救ってもらったと感じました。
スコット−そのとおり。
メアリー−〔録音〕テープが切れそうですか。おそらく止めたほうがいいでしょう。
スコット−ええ。

原註
1)ラージャゴパルとロザリンドとの娘。彼女はおもにクリシュナジのまわりで成長していた。*
2)〔ロシアの高名なピアニスト、〕スヴィアトスラフ・リヒテル。
3)〔ロサンジェルスの東にある〕カリフォルニア州サン・マリノ(San Marino)のハンティントン図書館(the Huntington Library)は、ラージャゴパルが収集してきた〔クリシュナジ関係の〕アーカイヴス〔資料類〕のほとんどを、受領した。
4)バート・テイラー(Bert Taylor)。メアリーはふつう彼のことをバド(Bud)と呼ぶ。
5)有名な飛行士。合衆国からヨーロッパ大陸まで、〔大西洋の〕最初の単独、無着陸の飛行を行った。
6)ユーフディ・メニューイン(Yehudi Menuhin)は、多くの人たちにより、20世紀の最高のヴァイオリン奏者の一人であると考えられていた。
7)ジェラルド・ハード(Gerald Heard)は、高名な著作を著した歴史家にして哲学者であった。1960年代以降に広まった意識の運動(the Consciousness Movement)は彼が始めたと、多くの人が承認している。彼はクリシュナジの仕事を大いに推奨した人であった。
8)ブローニュの森(Bois de Boulogne)。
9)11を表すフランス語。
10)芸術家、編集者、作家で、メアリーの長く変わらぬ友人。
11)アメリカの詩人。ビート世代(the Beat Generation)の指導的人物の一人であり、60年代のカウンター・カルチャーの提唱者。
12)心理学者で、ハーヴァード大学の教授。彼は治療とリクリエーションのために幻覚作用の薬物を使用することを、提唱した人であった。
13)ベルギー出身の実業家。彼は後に、〔イングランドの〕クリシュナムルティ信託財団(the Krishnamurti Foundation Trust)と、ブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センター(the Brockwood Park Krishnamurti Educational Centre)の理事になった。
14)メアリーの弟〔バド〕は、1980年代にその島に住宅を建てた。
15)ラージャゴパルの最初の妻。
16)これは、パイン・コテッジからおよそ50メートルの邸宅の名前である。そして、クリシュナムルティの弟ニトヤ(Nitya)が1925年〔11月〕に〔重い肺結核にインフルエンザで〕亡くなった場所である。
17)この事務所はパイン・コテッジから10メートルである。
18)クリシュナムルティ著作協会(Krishnamurti Writings Incorporated)は、長年にわたって、クリシュナジの仕事に〔多くの支持者たちから〕捧げられた土地と建物のすべて、さらに寄付された金銭と、出版より生じた利益のすべてを所有することになった。そして、クリシュナジの過去と未来と仕事の著作権すべてを、所有していた。
19)これは、何か神聖だと考えられられるようなものを表示するために、クリシュナジが用いた用語である。


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