第3号 1965年12月から1966年5月まで


序論
この号において、メアリーは広汎に引用する。それらは、思い出しただけではなく、明白に彼女の日記から読み上げられつつある引用である。
 (クリシュナジのインド、ヨーロッパ、合衆国への旅の)「旅程全部」に行くことは、この号で終わりになる。しかし、メアリーの心において、継続しようとすることに疑問はない。彼女はインドにおいて、自らがクリシュナジを取り巻く主要人物になったし、何らかの果たすべき役割を持っていることを、悟った − 正確に、その役割が何であるかは、彼女にとって漠然としたままであったが。けれども、正味の効果は、彼女がクリシュナジにもっと会うこと、そして、結果的に、彼の面前にいることがどのようなことであったかを、私たちはもっと分かるということである。

メアリー・ジンバリストの回顧録 第3号
スコット−では、止めたところから、また始めましょう − すなわち、あなたたちはみなリシ・ヴァレー* に、クリシュナジは古い客用住宅に泊まっていました。
メアリー−リシ・ヴァレーには、古い客用住宅として知られたものがありました。クリシュナジは、二階に二つの小さな部屋を持っていました。また、ダイニング・ルームとキッチンと、会合が開かれる大きな空いた場所が、ありました。階下には幾つか客用の部屋がありました。フランシス・マッキャンと私は各々、階下に部屋を持っていて、かなり大きなバスを共有しました。〔秘書の〕アラン〔・ノーデ〕は建物の反対側で、自分の区画にいました。私たちは落ち着いて、最後に昼食に行きました。訪問客のための特別なダイニング・ルームがあって、食事は学校用のよりスパイスを減らして調理してありました。
スコット−それは、学生のダイニング・ルームに隣り合っているあの同じダイニング・ルームでしたか。
メアリー−ええ。職員の幾らかは、私たちと一緒にそこにいました − 仲良くするためだけに、または、たぶんそのほうを好んだのでしょう。私は即時にリシ・ヴァレーの美しさに打たれました − それは、〔海辺で暑く湿った〕マドラスとは全然違っていました。〔内陸の〕そこは乾いていたし、なぜか全世界から離れているというすばらしい気分があり、それが私は好きでした。〔谷の〕西のほうには山がありました − それはリシ・コンダ(Rishi Conda)と呼ばれ、クリシュナジはとても気に掛けていました。午後に学生たちは、リシ・コンダの向こうに日が沈むのを、眺めに行ったものです − それはすてきな光景でした。学生たちはスポーツをした後、みんな入浴し、小さな白いパジャマ・スーツに着替えておいたからです。*
スコット−憶えています。
メアリー−少年たちはみな、黒髪で、大きな目をし、白く清潔できちんとした服装をし、初々しかった。それを見るのは、ほんとうにすてきでした。クリシュナジは、リシ・コンダに何か神聖なものがあると、感じました。伝説では、かつて頂上に或る隠者が − 聖者、神仙が住んでいたということでした。彼は、或る種の何かを空気に残したのでした − クリシュナジはそれを感じたと、私は思います。彼はそれを感じるとは言わなかったが、リシ・コンダを大いに気に掛けていました。
 そこでふつう私たちの生活方法は、次のとおりです − 朝に、クリシュナジは時折、職員たちに講話をします − その場合に、私たち(アラン、フランシスと私自身と他のお客を意味する)は、討論会に加わりました。
スコット−それら討論会は、上の階の部屋で行われたんですか。
メアリー−ええ。
 一定の日々には、集会で〔サンスクリットの〕詠唱が行われました − そのとき、学生たちが詠唱し、クリシュナジも行ったものです。彼はふつう床に、学生たちの中に座り、結跏趺坐して、彼らとともに詠唱しました。とても美しく、とても感動的でした。或る日々、私は自分一人で山に登り、日向に寝そべって、日光浴をしました − この古代の谷で、時と場所が一時的に停止したようで、残りの世界全体から離れているというすばらしい気分を、感じました。私はそれが大好きでした。
 ふつう午後に私は散歩したものです。しょっちゅう私は、クリシュナジの散歩に同行するよう、招かれました − たぶん他の人たちと一緒に、です。私はそのとき〔ギドゥー・〕ナラヤン(原註1)に会って、彼とともに、クリシュナジとともに歩きました。また他の日々に、私は自分で散歩していて、ときに彼が散歩から帰ってくるのに会い、彼とともに散歩に戻り、話をしました。
 私たちがそこにいたそれらの週のどこかで、私はクリシュナジにもう一回〔個人〕面談をお願いしました。今回、私は彼との面談で、はるかに寛ぎを感じました。私は心に留めた質問を憶えています − それは関係についてのものでした。私は、人々が本当は互いにたくさん会わないのなら、彼らの間の関係には本当に実在性があるのかどうかを、訊ねました。彼は私に対して、何を心に留めているか、私が何を言おうとしているのかを、訊きました。まあ、私が話をしていたのは、私の姪のことでした − 彼女はそのとき全く幼い子どもでした。私は彼女に関心がありましたが、ほとんど会ったことがなかった。私は、家族の一員であるからというだけで、関係があるのかどうかを、質問していました。彼はそれについて私に少し訊ねました − その子の生活環境、彼女がどこにいるのか等、です。実質的に彼は、たぶん何も関係はないが、会話か手紙でか何か、或る種のやりとりがあるなら、関係があるだろうと、返答しました。もしも私が言語的に接触を確立するのであれば、そのとき関係は真実になりうるし、持続しうる。でも、そうでなければ、そうでない、と。
 それから彼は、このすべて(クリシュナジはそれにより、彼に本当に聞くこと、接触等を意味していた)が、私にとってどんな意味があるかを、訊ねました。
 私は、先の会話で彼に対して言ったことを繰り返したと、思います − すなわち、私はいわば用心している − 何か目的を達成しようとする傾向とそのことの危険のために、いつのときも自分がどこにいるかを測量しようとすることについて、です。私は、それが賢明なやり方ではないことが、分かりました。そのとき彼は私に対して、何かを恐れているかどうかを、訊きました。私は、「まあ、現実にはそうではありません、この瞬間には。でも、私はそれを信用していません。それは怖れないことへの恐れのようなものです。」と返事をしました。
 彼はこれに少し笑い、微笑んで、「そうであってはいけない。あなた自身で問題を作ってはいけない。」と言いました。
 私は、前に一回、自分が彼に対して言ったことを、言いました − 「私はあなたとの面談をお願いするのを、とてもためらっています。なぜなら、私は不必要にあなたの時間を取りたくないし、あなたに話をしたい人たちは、とても多くいるからです。それで、私はかなり長い間、あなたに話したいとお願いしませんでした。また、私が或る種の危機を抱えているのでなければ、それは正しいとは思えなかった。私はお願いすべきでないんです。」と。
 彼がこう返答したのを憶えています − 「今、私たちは少し話をしたし、お互いをもっと知っているので、あなたが話をするのは容易いでしょう・・・」と。また彼は私に対して、いわゆる手当のために来るよう言わなくてはいけないのを、望まなかった。ご存じでしょう、私はマドラスで病気でしたし、私は必要であると思ったときだけ、来るべきです。
 私は再び、そのようなことで彼を煩わせるのをためらっていることを、言いました。
 彼は、「まあ、今、私たちはお互いをよく知っているので、もっと容易くなるでしょう。」と返答しました。(笑う)それで、終わりだったんです。
スコット−彼はまだこの時点で、あなたのことをジンバリスト夫人と呼んでいましたか。
メアリー−ああ、彼は私のことを、ジンバリスト夫人と呼びました。何年間もです!いつ変更したのかは、今では忘れてしまいましたが、彼は七年間ほど、私のことをジンバリスト夫人と呼びつづけたと思います!(二人とも笑う)彼は、何年間も〔マリブの〕私の家のお客でしたが、(スコット、笑う)それでも私のことを、ジンバリスト夫人と呼んでいました。(笑う)これは先に跳ぶんですが、彼はジンバリスト夫人からマリアに変えました。まあ、まわりに多くのメアリーがいます − メアリー・ラッチェンス、メアリー・カドガンと。それで、私をマリアと呼びました。
スコット−それは、ときにあなたたちが一緒にイタリア語で話をするためかなと、いつも思っていました。
メアリー−私たちはフランス語のほうを多く話しましたが、時にはイタリア語です。ええ、それと何か関わりがあったかもしれないと思います。(スコット、笑う)ともあれ、何年間はやはりジンバリスト夫人でした。
スコット−この〔個人〕面談はどこで行われましたか。上の彼の部屋の一つですか。
メアリー−ええ。彼は床で一種の絨毯に座りました。
スコット−彼はその頃、〔二階の二部屋のうち、〕小さな部屋で寝ていましたか。
メアリー−ええ。彼は小さな部屋で寝ました。それを変更するうえで、私が幾らか助力したと思います。ともあれ、私たちは彼の大きい部屋で会いました。
 この〔個人〕面談の前に、彼は私の何かを治したいと思い、「話をする前にしたいですか、後ですか。」と言ったことを、憶えています。
 私は「後かと思います。」と言いました。
 正しい答えをしたのなら、クリシュナジについてはしばしば、言い当てられました。それを感じました。(笑う)また、面談がいつ終わったのかも、いつも分かりました。彼の注意は光のように切れました。興味深かったです − 彼の全的な注意ではありません。彼はやはり話しかけてくれるなどをするでしょう。でも、他のあの性質は、消えていました。そうであるということが、ただ分かった。終わったと感じました。面談から私が立ち上がったとき、彼は私が座るために椅子を引っ張り出しました。彼は両手を洗い、戻ってきて、しばらくの間、とても静かに私の後ろに立ちました。それから、常にとても軽く、彼は指を私のまぶたに置きました。彼の指の触れるのはとほうもなかった。それは、一枚の木の葉が水たまりに触れているように、繊細でした。それは、ほとんどの人間の触れるのとは、あまりに違っていました。
スコット−ええ、そうでした。
 その頃あなたは何を着ていましたか。インドの衣服を着ていましたか。
メアリー−インドの衣服を着ていました。サリーは着ませんでした。一回、着たこともありました。〔ナラヤンの妻〕シャクンタラが、私に白い綿のサリーを着せ付けてくれたときのことを、叙述したのかどうか、私は忘れました。それはお話したでしょうか。
スコット−いえ、まだです。
メアリー−それはこの時期のことでした。シャクンタラとナラヤン〔夫妻〕は、客用住宅の裏手のほうに、小さな家を持っていました。私は彼らとのお茶に呼ばれました。その夕方、後で学校では人形劇があることになっていました。初級学校の子どもたちは、〔古代ギリシャの〕ウリッセス* の物語とキュクロプス* の人形劇を作ったんです − まったくすばらしかった。張り子の大きな人形たちです。その頃、マーク・リー* が初級学校の校長でした。彼がこれらを組織したんです。お茶のとき、シャクンタラは訊きました − 「なぜあなたはサリーを着ないの?私があなたにお貸ししましょう。」と。でも、もちろん私はその着方を知らなかったし、いまでもそれがうまくありません。それで、彼女が文字通り私のサリーの着付けをしてくれました。私はマネキンのようにそこに立っていました!(笑う)それから私たちは、人形劇の行われることになる所へ歩いて行って、前列に着席しました。誰もがみな準備できて、それからクリシュナジが脇から入ってきました。私がいるところへ、直角に歩いてきました。彼は即時に私に気づいて、(ふふっと笑う)全くインド的でなくきわめて西洋的なことをしました − 彼は眉を上げたんです。(スコット、笑う)でも、一言も言わなかった!けれども、すべて終わったとき、彼はみんなにお休みなさいを言ったとき、私にお辞儀して、「あなたが新しい衣装をお持ちなのを見ました。」と言いました。(クスクス笑う。スコットも笑う)でも、ほとんどのとき、私はデリーで得たものを着ました − 綿のクルタとズボンとサンダルです。もちろん学校の仕立屋は、訪問客たちが来るとき、きわめて(笑う)愛顧されていましたが、彼は私のために幾つかクルタとズボンを作ってくれました。
 私は、クリシュナジのダイニング・ルームで昼食するよう、いつも呼ばれていた何人かの尼僧を、憶えています。私はまた、〔校長〕バラスンダラム(Balasundarum)(原註2)の妻、ヴィシャラクシー(Vishalakshi)は伝統的なインドの妻だったのを、憶えています。彼女は誰とも食事しませんでした。彼女は腰掛けに座り、すべてが適切に為されているかに気を配っていましたが、食事をしませんでした。たいへん古風なインドの様式です。*
 そして、パラメシュワラン(Parameshwaram)が料理人でした。
 また、何かが必要ならば、いろいろと世話をする下男のような人も、いました。やはりバケツのシステムでした。朝にお湯のバケツをもらいました。
スコット−パラメシュワランはいつ〔クリシュナジのインドを回る〕旅程に加わりましたか。彼は〔この年、〕デリーにいなかったと、想像しますが。
メアリー−ええ、彼はデリーにいませんでした。後年、彼はクリシュナジのいるところにどこでも行きましたが、この年はそうではなかった。この年、彼がいつクリシュナジに加わったのかは思い出せないですが、彼は確かにリシ・ヴァレーにいました。なぜなら、そこは、一年の残り彼が料理人だった場所であるからです。彼は、上の階の小さなキッチンに来て、クリシュナジのために料理をしたものです。
 そのとき、私たちがリシ・ヴァレーにいる間に、〔太陽神への収穫祭、タイ・〕ポンガル(Pongal)* が起こりました。去勢された雄牛はみな、角を花と飾りで装われました。村人たちは来て、笛のようなものと太鼓で演奏しました。子どもたちは踊って、すてきな時を過ごしました。クリシュナジは、自分の大きな雨傘をもって来て、見守りました。
スコット−クリシュナジは、若いとき日射病に罹ったことがあったから、あの日傘を使ったんでしょう。
メアリー−そのとおりです。彼はそれ日傘ではなく、日よけ雨傘と呼びました。彼の若い頃、いつかの時点で、正確にいつかは知りませんが、彼はインドで日射病に罹ったことがありました。それで、彼は日射しに敏感でした。そういうわけで、彼はいつも午後に、日が高くないとき、散歩したものです。
スコット−ナラヤンとシャクンタラはそこで何をしていましたか。彼らはそこでただ教えていましたか。
メアリー−教えていました。シャクンタラはちょうど〔一人娘の〕ナタシャを妊娠したばかりでした。彼女はこの後、次の5月に生まれました。これは1月のことでした。
 すばらしく平和な時でした。私は、クリシュナジ、彼の講話、美しい谷、遠く隔たっていること、静寂、まわりの子どもたち、あれらおかしな丘という組み合わせを、憶えています。そこの大いなる雰囲気。私は、突然すべてを離れて、そこで一種の隠者になることを、想像しました。それからもちろん、バニヤンの〔大きな〕樹のもとで、舞踏の上演がありました。同じ月光夫人さん − 〔クリシュナジと結婚したと妄想している〕頭のおかしいご婦人 − も、来ていたと思います。それでまた私たちは、クリシュナジのために、彼女をクリシュナジから遠ざけるよう、妨害に走らざるを得ませんでした。
 でも、全体的にリシ・ヴァレーは、ただもうすてきでした。*

 次の移動は、〔インド西部の大都市〕ボンベイ〔現ムンバイ〕へでしたが、〔インド南部の内陸の都市〕バンガロール経由でした。またもやアラン〔・ノーデ〕、フランシス〔・マッキャン〕と私は車を得ました − 今回は学校の車です。それが私たちをバンガロールへ送ってくれました。私たちは昼食をとり、少し買い物をし、それからクリシュナジに空港で会って、ボンベイへ飛びました。ボンベイで彼は、ププル・ジャヤカールのところに泊まっていました・・・
スコット−マラバール・ヒルズ(Malabar Hills)にですか。
メアリー−ええ、彼女の邸宅にです。アラン〔・ノーデ〕は彼女の姉妹の一人のところに泊まっていました。おやまあ、彼女の名前は何ですか。憶えているはずですが、今、出てきません。
スコット−〔クリシュナジを支援した〕ナンディニ〔・メータ〕ではなくて?
メアリー−ええ。ナンディニではない。もう一人の姉妹です。彼女はもっと世俗的な人でした。たくさんブリッジをして遊んでいました。時折、姿を見せましたが、ププルとナンディニほど親しくはなかった。
 フランシスと私は、タージ・ホテルに泊まりました。アランは最終的に私たちに加わったと思います。私は二日目ごろ、ププルのところへ昼食に招かれました。クリシュナジは、「あなたが安全に取っておきたいものを、私のもとへ持ってきなさい。」と言いました。言い換えると、お金、パスポートと、そのようなものを、です。それで、私はそれらを持って行き、彼はバス・ルームを通って、私を自分の寝室に連れて行き、(クスクス笑う)私のものを受けとり、しまい込みました。誰も自分の部屋には入ってこないから、完璧に安全だと、言いました。それから彼は、バス・ルームを通って出ながら言いました − 「私がここに着いたとき、彼らはインドの〔古代の寺院、神殿の〕彫像の壁のあらゆる種類の写真を、掲げていた。」と言いました。それらはあれらです。(笑う。スコット、笑う)彼がそこに着いた後、彼らはそれらを急いでしまい込んだんです。彼は、「でも、その前に私はしっかり見てしまいました!」と付け加えました。あれらエロチックな彫像です。私は、アランが「あれらはポルノ写真みたいではないでしょうか。」と言うのを、憶えています。クリシュナジは、「いや、いや。あれらは宗教的だよ!」と答えました。(二人とも笑う)
スコット−彼のからかう声で、ですか。
メアリー−ええ。(また笑う)
 私は、それらはみんなとても幸せそうに見えるから、ポルノ写真でありえるとは感じないと、言いました!まあ、会話が続いていくと、私はバス・ルームの壁に掛かっているものを見ていなかったことが、分かりました。私は、複写した本の写真を見ただけでした − 奇妙な体位などです。ともあれ、私はそこで昼食をとりました。それからクリシュナジは、講話を行いはじめました。それらは、ふつうの場所で、あの芸術専門学校* で行われました。彼はまた、カーレガート・ホール(Khareghat Hall)のようなところで、公開討論会を行いました − そこには、多くの人たちが来ました。外で(クスクス笑う)サンダルを脱いでおかなくてはいけなかったんですが、或る日、私が出てくると、サンダルすべてが盗まれていました!(笑う)
スコット−本当ですか?!
メアリー−何百足のサンダルがどこに行ったのか!(二人とも笑う)びっくり仰天ですよ。(もっと笑う)
スコット−誰かが、通りを行ったどこかで、少し履いたサンダルを売っていた。
メアリー−ええ。(もっと笑う)それから、マラバール・ヒルズの崖ぎわの庭園をまわる散歩があり、必要な数の周回をしました。或る日、クリシュナジは(回っていく人たちがいました)、ベンチに座ったカップルが互いに抱き合い、寝転がっているのを指さして、「この国はどうなろうとしているんだろうか。二、三年前にあれはけっして見られなかっただろう。」と言いました。(二人とも笑う)すっかり衝撃を受けたような声でした。
 明白に買い物がありました。これらの場所では買い物をします。
 クリシュナジは、〔ボンベイ近くのアラビア海の〕エレファンタ〔島のヒンドゥー石窟寺院〕(Elephanta)と、〔そこにあるシヴァ神の、〕マヘシュ・ムルティ(the Mahesh Murti)の大きな像について、何回も話をしました。私はかなり漠然と、それをもう一回みたいものですと言いました。それに対してクリシュナジは、「いや、いや。あまりにくたびれるよ。」と答えました。私は、「まあ、たぶん舟に乗るのはくたびれるでしょうが、もしも私がヘリコプターを借りたなら、どうですか。ヘリコプターで、行かれるでしょうか。」と言いました。
 彼は「ああ、いや、いや。気にしないで。気にしないで。」と言いました。それで、もちろん私はヘリコプターを探しに行きました。(スコット、笑う)それはあまり容易くなかったが、最終的に私は漠然とですが、可能かもしれないものを、突き止めました。
 それで、私は戻って来て、「私はヘリコプターが得られると思います。そうすれば、行かれますか。」と言いました。彼は、「いや、いや、それでもあまりにくたびれます。」と答えました。それで、私はアランとともに行きました。
スコット−舟でですか。
メアリー−ええ、舟でです。すると、それがなぜクリシュナジにとってまったく向いていないのかが、分かりました。
スコット−ええ。
メアリー−あなたはそれを見たことがあるでしょう。
スコット−ええ、あります。
メアリー−まあ、私たちは、それのある洞窟へ登って行きました。ラジオで音楽をかけて、子どもたちが走り回っていたという事実にもかかわらず、あのとてつもない像は、忘れられないものです。
スコット−絶対にです。
メアリー−ずっと後のことですが、クリシュナジはその写真を得ました − それを私はオーハイに持っています。彼は、「それは掲げないでおこう。それを見るのに馴れてはいかないからね。そうなると、見えないよ。」と言いました(私も同じように感じます)。今日までそれは、クローゼット〔物置〕の棚に載っています。時折私はそれを取り出して、見ます。
スコット−ええ、とてもいい。
メアリー−本当にすばらしい。他は何ですか。
スコット−〔ボンベイでは、〕ププル〔・ジャヤカール〕の家で私的な討論会がありましたか。
メアリー−ええ、ありました。私はププルのところに何回も招かました。特に、私が行った一回目のものを、憶えています。十五人ほどの人がいました。クリシュナジは質問しました − 「社会の崩壊に面して、個人は何ができるでしょうか。」と。彼は、それをとても興味深いものにしました。彼は、個人は他の個人により変化させられないことを、言いました。彼は、個人の意識と人間の意識との間を、区別しました − 個人の意識は自分のですが、個人は人間の意識の全体に作用しうる。もちろん彼は、それを以前に言っていました。
スコット−ええ。
メアリー−彼がしばしば話すことを、ほんの二人か三人の人たちができるなら、それは世界に変化を起こすだろうと、彼は言いました。彼はこの議論で、それを指摘していました。変化した個人は、広大な反響を持つ − 個人から出ていく波のように。個人に本当に変化があるなら、それは、人間存在の全体を通して波のように広がるだろう。彼は、その通りにそれらの言葉を使ったわけではないが、それが、彼の言っていることの含意でした。彼は、これが見えなくてはならないが、人々は見えないし、見ようとしないと、言いました。それは、欲求不満になる議論の一つでした。なぜなら、彼はそのようなことを言うし、次に必然的に、すべての討論会と同じく、「でも、クリシュナジ、私たちはそれが見えません!」と言う誰かがいたからです。
スコット−ええ、そうです!
メアリー−それから、議論は、彼の多くの議論がそうであるように、戻ったものです。それで、何が間違っているかの一覧表をおさらいしたものです。先には進みませんでした。何となく欲求不満でした。もし議論が先に流れて行ったなら、人々はそれとともに進んで行ったし、何かが見えていたでしょう。ああ、そうです!(クスクス笑う)或る日、また私的な討論会がありました。彼は少し遅れました − ふつう彼は、そういうことはけっしてなかった。彼は笑いながら入ってきて、「私はちょうど、或る導師に叱られたばかりです。」と言いました。明らかに、彼が導師たちは全く良くない!差し障りである!と言うことに関して、(スコット、笑う)或る導師が彼を叱責したようです。(笑う)彼はそれを大いに笑っていました!(もっと笑う)彼は講話においてそれを言ったと思います − そこで私は、時折一種の洞察を得ると感じました。そのとき思考は、その洞察をそれ自体にとっての危険だと知覚する。なぜなら、私たちはそれをほとんど死のように知覚するからです。なぜなら、もしも私たちが本当に先に進んだなら・・・
スコット−自己は消え去る。
メアリー−そのとおり。自己は消え去るでしょう。それが、思考過程により死として知覚される。それはとても怖いので、後退りし、先に進まない。
 ともあれ、彼は話をしました。私が何を言っても、言っても、彼は言い返しました。でも私は、彼は私に対して直接的に話をしている。言葉だけでなく、潜在意識で、という感じがしました − 多くの人たちは、クリシュナジとの話でこれらの感じがします。私はそれが私を目掛けているのが、感じられました − 彼が他の誰かに話をしていたり、何か特定の質問に応対しているときでさえ、です。それはとてもふしぎでした。後で彼は何かの理由で私のほうへやって来て、言いました − 「私があの話の中であなたを責めたのは、気にならなかったでしょうか。」と。私は「いえ、もちろんなりません。」と答えました。それは、異なった水準の疎通が行われている時の一つでした。
スコット−或る面で彼は、あなたにその質問をすることにより、その異なった水準に対するあなたの認識を、承認していたわけでしょうね。
メアリー−たぶんね。
 彼はしばしば言ったのですが、「あなたが進んでいる道が間違った道であることが見えるとき − あなたは北へ向かっているが、誰かが来て、それはどこにもつながらない、南か東か西へ行きなさい、と言う − なぜ、あなたはそうしないのですか。」と彼が言ったのは、その講話の中だったと思います。「なぜあなたは、自分の進んでいるところがどんなところにもつながらないことが見えて、止まらないのか。」と。
 私は、「でも私は、歩くのを止められません。私の精神は止まりません。それが無益であるのは見えますが。それは続かないんです。」と言ったのを、憶えています。
 彼は答えました − 「なぜそう言うんですか。あなたはできないと思うが、できますよ。」と。それを強く憶えています。それはまるで、彼はそのとき言わなかったですが、それは「考えるのを止めなさい。」というようなものです。私は・・・私はそれをしたことがなかった。私のいうのは、特定のことについて考えるのは止められたが、精神は何か他の形では動きつづけるだろう、という意味です。
スコット−これらの討論会は録音されつつありましたか。
メアリー−憶えていません。
スコット−アランが録音をしていたんでしょう?
メアリー−ええ、そうでしょう。憶えていません。それら〔録音〕はあったかもしれません。あるべきであったし、あったにちがいありません。されていたなら、まあ今は、〔当時〕アランが録音したものはどれも、〔K著作協会を支配する〕ラージャゴパルのところに行きました。彼らがインドのコピーを作って、取っておいたのかどうか、私はまったく記憶がありません。アランは憶えているかもしれません。彼に訊ねて、メモ書きを作りましょう。私は次回彼に話をするとき、彼に訊きましょう。
スコット−あなたは、〔ボンベイの〕マラバール・ヒルズの崖ぎわの庭園をまわる散歩に行くとき、ププルの家で彼〔クリシュナジ〕に会って、そこから行ったんでしょうか。
メアリー−ええ、そこから車で行きました。車で彼を乗せて行き、私は彼とともに行きました。散歩の終わりに私は、その家に戻って、それからホテルに戻ったんだろうと思います。
メアリー−散歩には誰がいたんでしょうか。
メアリー−まあ、マーダヴァチャリはいつもいました。ときにはナラヤンも。ナンディニが散歩していたのは、憶えていません。アランはいつもいました。
 この頃にクリシュナジは、私に来るよう電話をして、フランス南部のこの邸宅が、フランシス・マッキャンから提供されていたが、それを受けるのは良いことなのかどうかについて、議論しました。その時点ではまだ可能性でした。だから、彼はそれについて議論するよう、私を呼びました。
スコット−それをちょっと説明してもらえませんか。
メアリー−まあ、フランシスはローマで生活してきました。そこで、彼女はローマの古い部分、〔古代ローマの競技場をもとにした〕ナヴォーナ広場(Piazza Navona)の古い宮殿、パラッツオ(Palazzo)に、とても美しい古いアパートメントの一つを、持っていました − ローマのあの地区です。彼女はそこに生活してきましたが、自らの支援する画廊も持っていました。彼女はそのすべてを売り払い、結果として一定の金額を持っていました。彼女は、フランス南部にマス(mas)と呼ばれるもの − 大きな農場邸宅 − を、買いたいと思いました。そこは、クリシュナジが引退できる場所か、彼が何とでも望むように使える場所になるかもしれないものです − 彼は本当に〔自分の〕家を持っていなかったからです。
 で、それがいまだに議論されつつありました。ボンベイで彼は、私にそれへ関与してほしいと言っていました。彼は、それに責任を持つ人たちの委員会を作りたいと思いました。その考えは、〔出資者の〕フランシスがそれの世話をするだろうが、管轄権を持つ集団がなくてはならない、というものでした。
 彼は、ボンベイの後で彼らがフランスに戻ったとき、アランが行って、そういう邸宅を探すべきだと言いました。〔フランスの実業家で支援者の〕ジェラール・ブリッツ(Gerard Blitz)(原註3)もまた、これに関与していました。彼はその近くに生活していたからです。彼はフランスのその地域を知っていました。彼は、ええと何と呼んだのかな、かなり豪華な邸宅の共同社会で、生活していました。それで、ブリッツもそれを見つけるのを手伝おうとしていました。でも、人々の集団がなくてはならなかった − 他の人は忘れてしまいましたが、私自身とアランとおそらくヴァンダが、それに関与しようとしていました。私たちはまだ、それらの話をしていました。クリシュナジは、自らがこれをしたいのか、確かでなかった。彼は、フランシスが後悔するかもしれないと、少し怖れていました。または、フランシスはおそらくあまり〔精神的に〕安定していないし、彼女が本当に提供してくれたそのような場所を持つことは間違いになるだろうと、彼は感じました。でも、この時点ではまだ続いていました。私が思い起こすところでは、私たちが〔フランスに〕戻ったとき、アランが行って、いろいろと探しました。でも、それ以上は進みませんでした。もちろん、〔ヨーロッパでの〕学校〔創設〕の考えが浮かんでくるのは、その後でした。でも、私たちはまだ1966年にボンベイにいます。学校を真剣に探す二年前です。
 私はもう一つの討論会を憶えています。これは最後の討論会でした。またもや思考の主題と、思考を手放すことの困難について、でした。私はそれは不可能と思いました。クリシュナジは、何かまったくとほうもないことを言いました − それにより、私には全部が明らかになりました。彼は、静寂である太鼓の隠喩を用いました − 静寂が必要である、と。
スコット−彼は、太鼓は音を立てるには空っぽでなくてはならない、と言ったものです。
メアリー−空っぽ、そのとおりです。彼は、「思考は太鼓の調律を失うことです。」と言いました。また彼は、「あなたが思考を脇に置くとき、何が起きますか。それに背を向けるとき、です。」とも言いました。私はまたも、それはできないと答えて、「それの無益さが見えるときでも、どのように背くのでしょうか。」と言いました。
 彼は、「あなたは思考に入っていて、出られないという意味ですか。なぜそれを主張するのですか。」と言いました。私のできるすべては、ただはまり込んでいることだけでした。そのとき彼は、すっかり目立ったことをしました。全く突然に彼は私に言いました − 「ジンバリスト夫人、美しさは思考でしょうか。」と。それが私にとって切り開きました。それが見えました。それは思考ではない。それは全く突然の、目もくらむ光のようでした。」
スコット−これら討論会には、どれほどの人たちがいたんでしょうか。
メアリー−あまり多くはなかった。十五、十六、十八人、そのようなものです。
スコット−私たちが憶えているような人は、いたんでしょうか。
メアリー−まあ、ププル、ナンディニ、アランがいました。フランシスもいたにちがいないと思います − 彼女のことは憶えていないですが。スナンダ、パマ〔・パトワールダーン〕、マーダヴァチャリ、ボンベイのインド人の何人かもいただろうと、思います。ボンベイには、ふつう他の所には来ない集団がありました。部屋と、漠然とどれほどの人たちかは分かるようですが、個人は分かりません。
 また私は、その討論会の終わりに彼が、「もしも空っぽの太鼓が調律された美しさが見えたなら、そこから行為は出てきます。」と言ったことをも、憶えています。私は、「ええ、分かります。」と言いました。
 それから、彼は、さようならを言うとき、「その太鼓にしがみつきなさい!」と言いました。(笑う)
 また、メータ夫人(Mrs.Mehta)の邸宅で晩餐会もありました − ナンディニとププル〔姉妹〕の母親です。彼らの古い家族の邸宅で、ありました。まったく美しかった。本当にすばらしい食べ物、とほうもない食べ物で、誰もがすばらしくサリーといろいろ着付けていました。家族がクリシュナジに対して持っている大きな愛情の感覚が、ありました。議論の一つで、突然、扉が開いて、ナンディニの小さな孫、後で〔インド舞踊の〕舞踏家になった子が・・・
スコット−ああ、はい、はい。
メアリー−彼女を憶えていますか?
スコット−ええ、憶えています。
メアリー−まあ、彼女はそのとき六歳かそれぐらいの小さな女の子でした。彼女は部屋に駆け込んできて、クリシュナジに駆け寄りました。彼はさっと立ち上がり、彼女の両頬にキスをし、彼女を空中に放り上げ、彼女を喜ばせました。(スコット、笑う)その子の顔には興奮があって、この小さな子を見るのを彼は喜んでいた。すてきでした。
 それで、インドの時期は終わりました。
スコット−あなたにとって、そこにいることは、どのようでしたか。メアリー、あなたは何を感じましたか。思い出せますか。部外者のように感じましたか。何かのへりにいる人とかのように感じましたか・・・
メアリー−いいえ。私にとっては誰もが絶対に魅力的だったと、言わざるを得ません − インド人みんなが、です。彼らは親しみやすくて、買い物やそれらのことの何でも、わざわざ私の手助けをしてくれました。私は彼らの家に招かれました。それで、私は或る面で、お客として良くもてなされていると感じました。
 でも、クリシュナジとアランと私自身の間には、一種の私的な関係がありました。私がいうのは、彼は私たちとともに、他のインド以外の事柄を話したものです − 例えば、彼は、〔フランス南部での〕邸宅や、〔アメリカ東部、マサチューセッツ州の〕ハーヴァード〔大学〕と〔ニューヨーク市、マンハッタンの私立総合大学、〕ニュー・スクールでの講話への招待を受けるべきかどうかと、それらすべてのことについて、議論したいと思いました。まるでそれは、インドのあれこれを離れた彼の私生活であるかのようでした。
 そして、私はますます主要人物になったように思われました。実は、私たちがまだリシ・ヴァレーにいるとき、先に言及したあの討論会の終わりに、私は、彼が行ってくれた他の〔個人〕面談への言及に戻ったことを、憶えています* − それをもちろん彼は憶えていませんでしたが、私は言いました − 「私は、ますます自分があなたのまわりの固定器具になるように見えますから、あなたは私がどのようなものであるかを覗いて見るべきだと、感じます。あなたは何でも望むことを私に訊くべきです。あなたは、ご自分のまわりにいる人たちが誰であるかを、知るべきです。」と。それは、彼が自分は恥ずかしがりだが、今私たちは互いをもっとよく知っている等と言ったときのことの一部分でした。(クスクス笑う)私は、「私も恥ずかしがりです。でも、あなたが私について知りたいことがあるなら、どうか私にお訊ねになってくださることが、まさに正しいと思います。」と言いました。
 インドでは、ふしぎだとは感じませんでした。私がいうのは、それは全くふしぎでしたが、私は疎外されていると感じませんでした。そこにいるのはすばらしいと思いましたし、私はそこで自分に起こることがすべて好きだと感じました。
 インドでの最後の日、私はクリシュナジのところへ行きました − ププルの邸宅に、私のパスポートとか何であれ、彼のところに預けておいたものを、回収するため、です。私が入ってきたとき、小さな居間で人々は床に座っていました − 入ってくると、ちょうど左にです。黒いあごひげの吟遊詩人がいました − 彼は一弦の弦楽器と小さなカチカチ言うカスタネットのようなものを、持っていました。クリシュナジが部屋に入ってくるととたんに、彼は演奏し、歌いはじめました。すてきな忘れがたい歌でした。明らかにクリシュナジは、彼が〔街の〕通りで歌っているのを聞いたことがあり* 、演奏させるために連れてきてもらったようでした。
 私たちは座って、それを聞きました。クリシュナジは、通りでその歌声を聞いたことがあると言いました。そのあたりで生活する豊かな人たちは、それを聞かなくて、召使いたちだけがそれを聞こうとするのを、知っている、と言いました。(スコット、クスクス笑う)彼はまた、その人は〔インド〕南部から来たのであり、〔南部の〕テルグ語を話すと言いました。それが終わったとき、クリシュナジは行って、彼に感謝し、彼の横の床に布の贈り物を置きました。私は、彼がそのようなことをするときの優美さを、はっきりと憶えています。一人の人物が何でも自らのすることにおいてそういう人間的な優美さを伝えることができるというのは、希なことです。
 それで、その晩、誰もが空港に行きましたが、彼を見送りに来た信奉者たちの群衆がいました。彼らは或る部屋に大きな円を描いて座っていました。クリシュナジは椅子に座っていました。まったく静寂がありました。(クスクス笑う)私が入ってきたとき、〔西洋で〕女が部屋に入ってきたなら、そうするように、彼は立ち上がりました。クリシュナジが女のために立ち上がるという衝撃波が、インドの信奉者全体に広がっていくのが、感じられました。
スコット−ええ。
メアリー−(クスクス笑う)最終的に彼は立ち上がって、通路を出て行きました。パーシー教徒のご婦人 − 彼女はパーシー教徒* でした。彼女はそういうものでした。気の狂ったご婦人、月光夫人です。彼女は彼を追いかけました。だからまた、私たちは彼を保護せざるをえませんでした。
 明確にすべきでしょう − 私たちは、待合室として彼のために取っておいた或る種の居間に、いました。それから、外には野外の空港がありました。それで、私も行って、彼を保護しました。ついにマーダヴァチャリが来て、それから彼女を引き離しておきました。クリシュナジは私に対して、「そこに座って、じっと見つめられるのは、耐えられないな。」と言いました。(クスクス笑う)
スコット−ええ。
メアリー−それで私たちは旅立ちました。アランと私はツーリスト・クラスにいて、クリシュナジはファースト・クラスにいました。でも、彼は私たちに会うため戻ってきつづけ、「私は貧しい人たちを訪問しています。」と言いました。(二人とも心から笑う)
 それで、その時、インドの終わりでした。
 私たちはローマに着陸しました。クリシュナジはヴァンダ・スカラヴェッリのところへ泊まりに行きました − 彼女がローマに、〔南西部の〕カザレット通り(Via Casaletto)に借りておいた住宅に、です。私はホテルにいました。
スコット−それは、ヴァンダがローマで持っている決まった住宅でしたか。
メアリー−彼女は様々なのを借りましたが、あの時点で、その家を数回借りていました。後で彼女は他のところを借りました。この家はローマの外側にあって、庭がありました。とってもすてきです。アランもそこに泊まりました。私は、ナヴォーナ広場(Piazza Navona)近くのホテル・ラファエル(Hotel Rafael)に泊まりました − そこはとてもすてきな小さいホテルです。ですが、私は合衆国に戻るので、そこに長居をしませんでした。これは1966年の3月末のことでした。私はロンドンで4月まで、クリシュナジに会いませんでした。クリシュナジはしばらくローマに泊まりました。それは、彼がスイス〔、チューリヒ〕のビーチャー・ベンナー診療所(Bircher Benner Clinic)に行った年かもしれませんが、確かではありません。
スコット−彼は〔アメリカ東部の〕ハーヴァード〔大学〕で話をしようとしていたと思いました。
メアリー−それは次の秋です。私は4月にロンドンで彼に再会しました。
スコット−いいですよ。じゃあ、そこから始めましょう。
メアリー−いいです。これは4月の終わりです。また彼は、〔ロンドンの南西部、〕ウィンブルドンの小さなみすぼらしい借家にいました。ウィンブルドンそのものではなく、その近く、キングストンのどこか、キングストン・バイパス(the Kingston Bypass)近くです。
 アランが私に電話してきて、「〔サヴィル・ロウの〕ハンツマンで私たちと会いますか。」と言いました。もちろんこれは、私にとってたいへん娯楽でした。なぜなら、それは、私たちが前回、ロンドンにいたときの続きでしたから。
スコット−もちろんです。あなたはどこに泊まっていましたか。ゲスト・ハウスに戻りましたか。
メアリー−ともあれ、〔ハンツマンでは〕見本が大いに溢れ出して、彼らはスーツを注文しました。誰もがとても幸せでした。私は選択を相談されました。私の助言は実に博士の助言であったからです!(スコット、笑う。メアリーの声にはユーモアがある)または、私はそうと思われました。
スコット−私がメアリー・ラッチェンス(Mary Lutyens)と話をしていた、本当は面談していたとき、彼女はクリシュナジがどのようにリバティのところ(Liberty's)に入り、絹すべてに触れたかの話をしました。それはまさに、私がハンツマンとインドと他の場所で彼がするのを見てきたことです − 彼は顎を引き、(メアリー、笑う)あらゆるものに触れて感じ、とほうもない注意をもって、あらゆるものを見たものです。ただ彼を見守ることは驚きでした。
メアリー−そのとおりです。そして、ハンツマンへ入るという経験全体が、ただありました。彼らは格式をもって歓迎します − 「おはようございます」といって頭を下げます。彼はそこにいることを、いつも楽しみました。
スコット−ええ。
メアリー−彼は、ハンツマンは自らの言うところの「自分のクラブ」であると、言ったものです。(二人とも笑う)リントット氏は・・・あなたはリントット氏(Mr. Lintott)を知っていましたか。
スコット−ええ、もちろんです。
メアリー−まあ、もちろん、リントット氏も、クリシュナムルティ氏にお会いするのを喜んでいました。クリシュナムルティ氏がそこにいるので、ね。それで、服地の見本は「服地見本」と呼ばれますが、そのすべてが運び出されました。何が必要なのかについて大いに議論がありました。それからもちろん彼には加えて、彼が言うところの、ノーデは何が「必要」なのかを判断するおもしろさも、ありました。クリシュナジはいつも彼のことをノーデと呼びました。けっしてアランとは呼ばなかった。
 「ノーデは青いスーツを持つべきだ。」。
 それで、どんな種類の青いスーツか、どんな重さの青いスーツか。彼はどこで、どんな気候でそれを着ているだろうか。どんな場合か。これはすべてとても真剣な事柄でした。(笑う)そして私は大いに楽しみました。私は、窓のそばのあの古い革のものの上に座りました。
スコット−ええ。(笑う)百年の雑誌があって!
メアリー−ええ。まあ、彼らはもちろん、〔1849年創刊の月刊〕『カントリー・ライフ(Country Life)』を持っていました。それで、私は売り物の広告を読みました。「ああ、たぶん私はあれを貰いましょうかね。」と。私は勿体ぶったものです。(クスクス笑う)おもしろかったわ。
スコット−あなたが何か取り残したのを、知っています。
メアリー−何ですか。
スコット−イタリアでのシャツの買い物です。
メアリー−この旅行でだったとは思いませんが・・・私は旅行を混ぜてしまったかもしれません。私は、〔夫〕サムのせいで、シャツの生地をどこで買うかについて、すっかり知っていました。ローマの古い地域には、カステル(Castel)という場所がありました。インドから戻ってくる旅の一つで、私はそこにアランとともに行きました。するとクリシュナジは魅了されて、彼自身、行きたいと思いました。私は住所を憶えていませんでしたが、それがどこにあるかを知っていました。私は良い位置の感覚を持っているので、見つけられました。私たちはヤード単位の購入をし、それから、優れたシャツの仕立屋で仕立ててもらいました。
スコット−それはどこでしたか。それはモリタ(Morita)ようなところでしたか・・・
メアリー−なんとまあ、あなたは私の頭脳を掘り進めようとしている。ええと・・・
スコット−何かMで始まるものですか?
メアリー−マルチェッティ。それだわ。でも結局、マルチェッティ氏(Mr.Marchetti)は引退して、閉業しました。それが問題でした。でも、ええ、その頃はマルチェッティでした。
スコット−そのとおりです。
メアリー−それで、私たちは生地を買い、それからそれをマルチェッティに持っていき、彼がそれを仕立てたものです。それもまたごく真剣な用事でした。(二人とも笑う)それにとてもおもしろかった!
スコット−ともあれ、クリシュナジはどのようにあなたに挨拶しましたか。なぜなら、それは、あなたがハンツマンで二ヶ月間ほど彼に会った初めての時であったからです。
メアリー−ええ、ええ。そのときまでに、私は車を注文しておきました。私はその前に車を持っていたとは思わないからです。ともあれ、私はメルセデスではなく、〔スポーツ車の〕ジャガーを注文しておきました。
スコット−みっともない。
メアリー−みっともない。(スコット、笑う)でも私は、ロンドンで引き渡すよう、それを注文しておきました。ロンドンで引き渡すよう、カリフォルニアで注文したんです。〔ロンドンで〕私はそれを運転して、キングストン・バイバスわきの小さなぞっとする家へ、出かけました。私は、クリシュナジが窓の外を見ていて、車を見に駆け出してきたのを、憶えています。(スコット、クスクス笑う)彼はすっかり見てまわりました。でも、それは〔彼の好きな〕メルセデスでなかったから、彼はあまり多くを言わなかった。(二人とも笑う)それは、彼が〔ロンドン中心北部の〕ユーストン・ロード(Euston Road)沿いのフレンズ・ホール(the Friends Hall)で第一回の講話を行った日だったと、思います。私たちはジャガーでそこに行きました。そこは、ウィンブルドン〔の講堂〕より大きくて良いホールでしたが、それでもさほど大きなホールではありません。
 翌日、私は車で、彼らを一連の約束に連れて回りました − ほとんどが買い物です。(クスクス笑う)私はいまでも、彼らを乗せて、キングストン・バイバスの場所から出入りするのが、目に浮かびます − それが車の目的でした。
スコット−では、彼らは他にどんな買い物をしましたか。
メアリー−まあ、彼らはボンド・ストリート(Bond Street)を行き来して、いろいろと見ました − エドワード・バトラー(Edward Butler)、シャツと靴下等のところと、スルカ(Sulka)。そこに行ったものです。
スコット−スルカは憶えています。
メアリー−ええ、でも、それはボンド・ストリートを、上のボンド・ストリートに向かってちょっと行ったところにありました。
スコット−その頃、クリシュナジは、〔理髪店〕ツゥルーフィト(Truefitt)で散髪していたんでしょうか。
メアリー−もちろんです。ええ、いつもです。
スコット−私は二回、そこにクリシュナジと行ったことがあります。
メアリー−クリシュナジは車ですばらしいやり方をしました。私たちは何についてもおしゃべりしていましたが、彼は突然、「真剣な話をしても、構いませんか。」と言ったものです。当然、同意しました。彼は、「やり方を知っているなら、冥想はとてつもなくなりうる。」というようなことを、言いました。それから彼は、「謙虚さは何でしょうか。」と言いました。次に彼は、「それは、満足のないこと、何の方へも何の動きもないことです。」と言いました。これら、とてつもない記録されない小さなことが、ありました − 私は運良くこれらのメモ書きを幾つか作りました。
 それから彼は私に訊ねたものです − 「真剣な話をすると、あなたの運転のじゃまになりますか。」と。彼は議論をしたいのでした − 「真剣さは何でしょうか。あなたにとってそれは何ですか。」と彼は訊ねたものです。そのとき私は、どうでもそれは何かと思うことを言いました。
 彼は、「そこには判断があります。」と答えました。
 彼は〔友人の理論物理学者〕ディヴィッド・ボーム(原註4)に話をした後で、ディヴィッドが彼自身は判断しがちではないと言ったことを、言いました* 。その言葉はクリシュナジを打ちました。判断がこのすべての一部分であることが、です。
 その時点でノーデは、クリシュナジが前にいつか、真剣さについて言っていたことを引用しましたが、クリシュナジはそれを払いのけました。彼は自らがすでに言ったことに戻りたくなかった。彼はその瞬間にそれを新たに見つめていました。
 或る時点で彼は私に対して、私たちがともに知っている或る人について、その人物は真剣なのかどうかを、訊きました。私は明らかにしばらく止まってから、「いいえ。」と言いました。
 すると彼は、「それはどういう意味ですか。」と訊きました。
 私は、或る人がどこにでも探究の導くところへ行こうとしないなら、私にとってその人たちは真剣でないこと、そういうわけでこの人物について、私は「いいえ」と答えたことを、言いました。
 彼は、「なぜ人々はそうするんでしょうか。」と訊きかえしました。
 私は、真剣な人は利己心から選択や判断をしないと、感じました。
 すると、クリシュナジは私に対して、なぜ彼らはいつも利己心から行動するのかを、訊きました − それに対して私は、それは人々における衝動であるし、彼らは言うならば、持ち金すべてを一個所に掛けることを怖れていると思うと、応答しました。
 彼は、「でも、実際に人々はもっと多くを持っているでしょう。でも彼らは、それが分からない。」というようなことを答えました。
 すると彼は私に対して(クスクス笑う)出し抜けに、「あなたは、もしも結婚して(とんでもない!)家族を持っていたなら、真剣でしょうか。」と訊きました。(メアリーとスコット、二人ともクスクス笑う)私は、それは結婚と関係次第であると言いました。
 人々は仕事について、結婚相手について自分は真剣であると言う、と彼は言いました − 「私は〔仮縫いして〕着付けようとしているスーツについて、真剣です。」と。(二人とも笑う)
 私は、「まあ、それは、そこに筋違いの問題がないからでしょうか。」と言いました。
 彼は、「あなたは自分の車に利己心がありますか。」と答えました。私たちは運転していました。
 私は言いました − 「ええ。でも、これらのものは真剣さの尺度だったでしょうか。それとも、車が私にとって何を意味するかということだったのでしょうか。私は或る点まで車について真剣です。」と。でも、私は、「それには依存していません。」と言いました。それは続いていくような会話でした。いつのときも彼は、私に交通の指示をしています。彼は後部席の最高の運転手でした・・・
スコット−(笑う)知っています!
メアリー−・・・私がかつて出会ったり、聞いたことのあるなかで、ね。彼は手で合図したものです。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−赤信号が近づいていました。すると、まだ話をしている間に、彼は手で、私に減速させました。時折、私たちは(いわば)真剣に話をしていないとき、彼は「先に赤信号があるよ。」と言ったものです。(二人とも笑う)やれ、まあ。
スコット−ときには、私が彼を乗せて運転し、彼が後部席にいるとき、指が出てきて・・・
メアリー−ええ、触れます。ええ。
スコット−・・・私の肩に触れるんです。まるで私が速く走らせすぎているかのように。(声を上げて笑う)
メアリー−彼は後ろの席に座ったとき、私に対してそれをしました。ええ。彼は減速させようとしていました。(二人とも笑う)
スコット−減速ボタンを押すようなものです。
メアリー−ええ。(スコット、笑う)彼は私に対してもそうしました。(メアリー、笑う)
スコット−さて、アラン・ノーデは、何人かの人たちに対して − 例えばディグビー夫妻に対してのように、明らかに他の人たちもいました − クリシュナジがけっして自分に対して真剣に話をしてくれないと、不満をこぼしていました。すると、〔Kの本の編集を行っていた〕ジョージ・ディグビー(George Digby)は私に対して、クリシュナジは、私と真剣に話すことがあるのかどうかを、訊ねたものです − それはありました。クリシュナジは確実にあなたと真剣に話をしました。なぜ彼は、アランと真剣に話をしなかったんでしょうか。
メアリー−それは信じられません。
スコット−アランは、彼と話をする約束や、真剣な議論をする約束を、けっして得られませんでした − これは・・・
メアリー−ああ、そこには何かあやしいところがあります。なぜなら、彼らは多く真剣な議論をしたからです* − そこに私は出席していました。また、クリシュナジは、アランに対してたくさん口述筆記をしました。彼はそれをただ書き留めるだけではなかった。彼らはそれについて話をしたものです。
スコット−まあ、たぶんそれは、個人的なことや何かについてではなかったんでしょう。
メアリー−私には分かりません。
スコット−私は、ジョージとネリー〔・ディグビー〕が二人とも、これについて私に話したのを、憶えています。でも、これは、あなたにとって意味不明ですか。
メアリー−私にとっては意味不明です。私は、彼らがとても真剣な議論をしたのを、知っています。
 それから或る日、私たちは、〔オランダの〕アンネッケ〔・コーンドルファー〕(Anneke)との食卓で、その主題に進みました。私は食事のためにそこにいました。アンネッケは〔幻覚剤〕LSD〔の話題〕を持ち出しましたが、クリシュナムルティは、私がそれについて何かを知っているという驚きを表明しました。彼は再び私たちに対して、古代インドの〔神々の飲み物とされた〕ソーマについてと、どんなに自らがこのことを〔作家で友人のオルダス・〕ハックスレー(原註5)と議論してきたのか、そして、ハックスレーがLSDはすっかり本物というわけではないと語ってくれたのかについて、語りました。
 クリシュナジは、「それが本物のようなはずがない。」と言いました。
スコット−クリシュナジは、あなたがLSDについて知っていることすべてに関心がありましたか。
メアリー−あまり関心はなかったです。私は彼に対して、自分がその科学実験の一部になったことを、すっかり話していました。彼はむしろそれを撥ねつけました。ハックスレーは、クリシュナジを知っているときに、これらすべてのものを摂ったのでした。
スコット−ハックスレーはいつ亡くなりましたか。
メアリー−ハックスレーは、〔1963年11月22日、〕ケネディ〔合衆国大統領〕が〔ダラスで〕殺された同じその日に亡くなりました。
 私は、〔カリフォルニアで〕大きな火事があった後、まもなく晩餐で彼の隣に座りました。ハックスレーの邸宅は焼け落ちて、彼は文書類をすべて失いました* 。それはひどかった。私たちはそれについて話をしました。なぜなら・・・
スコット−あなたは、クリシュナジの関連以外で彼を知っていたはずです。
メアリー−私はクリシュナジをとおしては、まったく彼を知りませんでした。事実、私は本当に彼をまったく知らなかったんです。私はその晩餐会で彼の隣に座りました。その晩餐の間、私は彼に対して、クリシュナジのLSDへの知識と、そのすべては彼から来たのかどうか、そういうわけでクリシュナジはそれに大いに反対する気持ちなのかどうかを、訊ねました。ハックスレーは奇妙な返事をしましたが、それは正確だとは思いません。彼は、「ああ、まあ、それは彼の菜食主義の一部分です。」と言いました。
スコット−それは変です。
メアリー−ええ、ご存じでしょう、見たところ、肉とLSDを控えるといったことで、ね。(スコット、笑う)まあ、それはすべて前のことでした。
 ともあれ、この日について私は、彼が一走りしに行きたいと思ったことを、報告すべきです。それで、〔クリシュナジの好きな〕メルセデスでないジャガーに乗って、私たちは再びウィズレー〔の王立園芸庭園〕に行こうとしていましたが、ウィズレーに向かっていくと、彼は自分はそこに行きたくないと言いました。それで、私たちはリンクス家(原註6)へ行きました。彼は私に対して、自分はどのように彼女〔メアリー・リンクス、旧姓ラッチェンス〕を赤ん坊だったときから知っているのか、そして、彼女とその〔再婚した〕夫〔ジョー〕は、〔ロンドンの南西40キロメートルほどの、サリー州〕ハスルミア(Haslemere)の近くに家を持っていることを、話していたんです。それで、私たちはハスルミアへ向かいました。私たちはどこに行くべきかを知らなかったんですが、アランが調べて、私たちはついに家を見つけました。でも、そこには誰もいませんでした。畑にいる農家の人は、自分は私たちが話している人を知っているし、彼らは散歩に出かけたんだと思う、と言いました。それで、私たちは家のところに車を停めて、道路を歩いていき、彼らが戻ってくるのに会いました。
 クリシュナジは喜びました。もちろん彼らは彼を見て、わくわくしました。私は初めて彼らに会うのがうれしかったです。
 私たちは中に入り、お茶を頂きました。即座に誰もが大いに気心が知れました。メアリーはその著書* にそのことを、書いています − クリシュナジが、一緒に笑っていろいろと喜ぶ二人の人たち〔アランとメアリー〕とともに、生活に幾らか楽しさを得ていることを見て、自分はどんなにうれしかったか、と。それらのドライヴでクリシュナジは、昔〔、神智学協会の時代に〕自分の泊まったことのある場所を、思い出したものです。明らかに彼は、様々な人々とともにイングランド中に泊まったのでした。
スコット−そうだと思います。それが私の受けた印象です。彼は至るところに行っていました。
メアリー−ええ。彼は、若かったとき、自分一人で出かけるのをけっして許されなかったことを言って、それを説明しました。彼はいつも、〔神智学協会の大師から伝授を受けた〕二人のイニシエイト〔、伝授を受けた者〕* をすべてのときに、伴っていなくてはならなかった。理由は、〔養母で会長の〕ベサント博士が、彼はもっと安全になるだろうと考えたということですが、また彼は持ち金すべてを施してしまうからです。彼は一人でいると、それを必要とする誰かに与えてしまうでしょう。(二人とも笑う)それで、彼の言うところでは、ベサント博士は、「お願いだから、彼を一人で外出させないでください!」と言いました。(二人ともまた笑う)それから彼は、「〔亡くなった〕弟〔ニトヤ〕は、けっして私から離れなかった。」と言いました − それはすてきでした。
スコット−まあ、メアリー〔・リンクス〕の批評を考えるなら、それは本当です。あなたとアランが彼と一緒に旅行していたとき、彼が長年で幾らか楽しい感覚を持つ人たちと一緒にいるのは、それが初めてのことでした。
メアリー−ええ。
スコット−私がいうのは、長年ラージャゴパルと一緒に旅行することは、おぞましかったにちがいありません!私が聞いたことすべてからして、彼は自分のしていることすべてに憤慨しているように見えました。
メアリー−ええ。あれはひどかったです。常に不満を言い、批判をする。アランは実際に、とてもおもしろいんです。たいへんユーモアの感覚を持っています。事実、私のアランとの友情は、お互いに笑わせあうという事実に基づいていました。
スコット−そう聞いています。
メアリー−彼はとてもおかしく、たいへんユーモアの感覚を持っています。それで、事実、私のアランとの友情は、お互いに笑わせあうという事実に基づいていました。〔夏のスイスの〕サーネン〔集会〕の時期に、彼が私とともにカプリス(Caprice)〔というアパートメント・ハウス〕に泊まっていたとき、朝食のテーブルで私は、ウィーンの精神分析医、精神分析者の役を演じて、彼をからかったものです。(スコット、笑う)彼がいろいろとしている間に、私はひどい訛りで − 今はもうできませんが − 彼の批評と反応について(スコット、もっと笑う)批評したものでした。(二人とも笑う)とてもおかしかった。彼はとても付き合いやすかった。(クスクス笑う)で、クリシュナジにとって、それは新鮮な空気の一息でした。もちろんクリシュナジもすぐに加わりました。私たちがとてもおかしかったということではなく、ものごとの分かち合ったおもしろさでした。
 また、お分かりでしょうが、何でも可能であると見えました。私たちはときどき話をしましたが、明らかに、私たちはみな永遠にいつまでも一緒にいるだろうということが、クリシュナジの心において、当たり前のことになったようでした。そして、私たちはこの国かあの国か、ここの住宅かあそこの住宅に住むべきかについて、議論がありました。これら議論は続きました。彼が何を提案したのであっても、私は「ええ、はい、そうしましょう。」とか、「それはどうやればできるでしょうか。」とか言ったでしょう − それが何であってもです。
 それらについて、何も問題はありませんでした − 何かすてきなことが起こることは。彼を喜ばせることを提供するのは、とても楽しいことでした。
スコット−ええ。
メアリー−もし彼が望むなら、できるなら、何か小さなことや何か大きなことでも、です。(長い休止)
スコット−ふむ。
メアリー−さて、今はどこでしょうか。ああ、そうだ。私たちはまたリンクス夫妻とともにいます。あれはすてきな一日でした。まさにすばらしい一日でした。私たちは運転して戻りました。
 また別のドライヴがありました − それは或る面でほとんど歴史的でした。なぜなら、私たちは〔西方向へ、イングランド中央部に拡がる標高300メートル以上の風光明媚な丘陵地帯〕コッツウォルズ(the Cotswolds)へドライヴすると判断したからです。私は地図と旅行案内書とすべてを持って行きましたが、私が家に着いたとき、たぶんそこはあまりに遠すぎるだろうと判断されました。それで、私たちは〔西方向、イングランド南部、ハンプシャー州の州都〕ウィンチェスター(Winchester)に向かって出かけました。そして、私が振り返ってみると、私たちは〔後に学校ができた〕ブロックウッドへの道路を越えて運転したにちがありません。なぜなら、〔ロンドン西部の〕キングストンからA3〔道路〕を出て行ったし、曲がってA272〔道路〕へ行き、運転して通ったにちがいないからです。誰も未来〔にその地方にブロックウッドを購入すること〕を超常的に(スコット、笑う)予知していませんでした。私たちはウィンチェスターに着きました。私たちは昼食にロイヤル・ホテルを見ましたが、何も菜食のものがなかった。アランが入って行き、メニューを見て、だめだと知りました。それで、私たちはエセックスのところ(the Wessex's)に落ち着きました。
スコット−ああ、はい。
メアリー−昼食の後、私たちは〔11-12世紀に建てられたウィンチェスターの〕大聖堂に行き、あたりを見ました。それから道路を運転しました。私は、〔さらに西北方向、20数キロメートルの〕グレイトレー(Grateley)、ウォロップス(the Wallops)の名前を憶えています!ワロップスがどこにあるのか、知っていますか。
スコット−ええ、(笑う)ネザー・ウォロップス(Nether Wallop)とミドル・ウォロップス(Middle Wallop)です。
メアリー−そのとおりです。たぶんミドル・ウォロップスの中程で、私たちは昼寝をすることに決めました。私は車の後ろに、大きな膝掛けを入れていました − それを野原に持ち出して、芝の上に拡げました。各々が一定の膝掛けを持っていて、私たちは横になり、少しうたた寝をしました。
スコット−とてもいい。
メアリー−すてきでした。それから、私たちはさわやかになって、ストーンヘンジ〔の遺跡〕へ運転しつづけました − そこはその頃、フェンスで囲まれていなかったから、すばらしかった。あたりに誰もいなかった。石まで行くことができました。すばらしかった!私たちは別の道路を運転して帰りました。どの道を行ったのかは忘れました。行った道は帰らなかったです。
 車の中でクリシュナジは、前日会った或る若者たちの質問が朝に戻ってきたと、言いました。彼はそれを考えていました。そして、「時は流れる川に似ているが、私たちはそれを過去と現在と未来に分割する。しかし、それの全体が見えなくてはならない。そのとき、それが見えるとき、時は止まる。」ということを、言いました。
スコット−あなたは、若者たちとのその討論会に行っていましたか。
メアリー−そうは思いません。突然彼は、「そう、私は見える。でも、それについて今、話してはいけない。」と言いました − それは、彼は何かが見えたが、それについて話をしたくない。なぜなら、それについては公開講話で話すだろうから、という意味でした。それから全く突然に彼は言いました − 「〔1925年に〕弟〔ニトヤ〕が死んだとき、この人物は」 − 彼自身という意味です − 気絶した。幾日間も昏睡状態に陥った。そう〔、神智学協会からの古い友人、〕シヴァ・ラオ(Shiva Rao)が私に話してくれた。」と言いました。彼は憶えていませんでした。そして、彼が気がついたとき、彼らはみな彼に対して、彼はだいじょうぶだと保証しました − 大師たちとそのすべて、です。でも、彼は泣き叫んで、大きな衝撃であったけれど、その事実からけっして動こう、そのすべてがどういう意味なのかを問おうとはしなかった。彼はただ突然に、弟についてこのことを打ち明けました。そのとき彼は、時の観念によりとても強烈であり、意気軒昂でした。そして、「ちょうど今、講話をできたらいいのになあ!」と言いました。
 その夜、私は彼らとともに夕食をしました。私たちがそこに着いたとき、アンネッケ〔・コーンドルファー〕が準備してくれました。彼はテーブルで、「今、話をする準備ができた!」と言いつづけました。私たちは、彼が眠らないだろうと心配しました − 彼はそういう気分で眠るのは、むずかしいでしょう。それで、講話の前の夜に、充分眠りをとれないでしょう。だから、私たちは、彼を落ち着かせるために、睡眠薬としてテレビを(二人ともクスクス笑う)見ました。それから、私はイートン・プレイスに戻りました。
メアリー−あなたは彼を乗せて、フレンズ・ミーティング・ハウスでの講話に連れていったんでしょうか。
メアリー−ええ、ええ。そう思います。そうだったにちがいない。でも、私は宣誓証言はできないでしょう。けれども、私は車を持っていて、彼らは車を持っていなかったので、私がそうしたにちがいありません。この時までに、私がお抱え運転手でした。だから、それは意味が分かるでしょう。彼はこれらの時期に、ディヴィッド・ボームに話をしていました。彼らは議論をしていました。サラルとディヴィッド〔・ボーム夫妻〕は、その近くのスロアン・スクエア(Sloane Square)かどこかに、地下鉄で来ました。私はそこで彼らを乗せて、運転して連れて行きました。討論会の一つでクリシュナジは、「実質的に、聞くこと以外、何もすべきことはない。愛情をもって聞きなさい。」という発言をしました。それが彼の言い方でした。彼は、真実である発言がなされるなら、あなたが聞くと、それはそれ自体の作用を持つと、言いました。彼はこのことを、あの泥棒たちの物語で例証しました − 彼はそれを何回も話したことがあります − 泥棒の一団が、教えている教師のそばを通ったとき、彼らのリーダーが目と耳を塞ぐようにさせる、というものです。一番若い泥棒は刺を踏んづけて、手を下ろしてしまい、「盗みは悪だ」という言葉が聞こえます − 彼はそれを本当に聞いて、もはや盗めなかった。(クスクス笑う)それで、彼はその物語をしました。これら議論の後で私たちは、〔ロンドン南西部の巨大な〕リッチモンド・パークを大いに歩きました − ディヴィッドとサラルとクリシュナジと私自身です。
スコット−クリシュナジが、テームズ川沿いのキングストンとかどこにでも出ているとき、あなたがわざわざイートン・スクエアからやってくるのは、不便だったにちがいないですね。
メアリー−まあ、おもしろいことは、今日私にとって不便に思えるようなことが、その頃、私にとって何とも思えなかったということです。(笑う)ときには、私は過去の出来事のメモ書きを調べてみるとき、「何とまあ、私は一日でそのすべてをどうやってしたのか。」と思います。それはまた、〔カリフォルニアの〕マリブで生活した時の多くをも、特徴づけています。私は、何か用事の一覧表をもって街に急いで行き、戻ってきて、昼食を作り、準備したものです。私はどうやってそのすべてを成し遂げたのか、分かりませんが、やり遂げました。若さね!または、比較的若かった。私はこれらの間、さほど若くなかったわ。(スコット、笑う)まるで私が二十歳だったかのように聞こえます。私は・・・当時、何歳だったのかは言わないでおきましょう。(スコット、笑う)
 それからもちろん、〔仕立屋での〕仮縫いは続いていました。
 またクリシュナジは、「あの少年」 − 彼自身という意味です − についての質問を始めました。あらゆることにも関わらず、なぜ彼は条件づけられなかったのか。彼は車の中で、それについてたくさん話していました。
スコット−あなたたちはまた、フランス南部のマ(農場邸宅)についての議論をも、もっと多くしていたはずです。
メアリー−うーん、何というか。私は戻って考えないといけません。いつ彼がそうしないと決断したのかは、今の時点で私はお話しできません。私はきっとそれをメモ書きに取っていると思います。録音をする別のとき、私はそれを調べてみましょう。邸宅が見つからなかったから、考え全体が静まってしまいました。
 ともあれ、私たちは或る日、再び田舎のメアリーとジョー〔・リンクス夫妻〕のところに行きました。土砂降りの雨でした。私たちは、途中でとるピクニックの食事を持ってきましたが、雨のために車の中で、いただきました。私は、〔フランス南部の野菜煮込み料理〕ラタトゥイユを作ったことを、憶えています − 分からないけど、〔ロンドン西部、〕キングストンの家で作っておいたはずです。(クスクス笑う)あれこれと憶えているわね。ともあれ、私たちは行って、メアリーとジョーとともにお茶をいただき、またすてきな散歩をしました。雨が上がってしまっていたからです。
 それで、今、5月に来ます。10日だと思います。私たちは、パリへ車を運転することになっていました。それで、〔ロンドンの南東、ケント州の〕リド(Lydd)へ運転しましたが、そこは、車を空輸する手立てのあった場所です。
スコット−ああ、はい。
メアリー−リドから〔イギリス海峡を越えて、フランス北部パ・ド・カレー県の〕ル・テュケ(Le Touquet)に、です。
スコット−ああ、はい。車を航空機に載せるんですね。とほうもないことです。航空機のどの部分が降りてきて、車を入れたんでしょうか。
メアリー−大きな口みたいに開いて、車を運転して入れました。それから回って行き、客室に座りました。
スコット−あと2,3分で〔録音〕テープが切れてしまうでしょうから、フランスへ行く前に、あなたは、
クリシュナジのメアリーとジョー〔・リンクス〕との関係と、彼のドリス〔・プラット〕とアンネッケ〔・コーンドルファー〕とメアリー・カドガンとの関係を、どのように知覚しましたか。
メアリー−私がどのように知覚したかというのは、どういう意味ですか。メアリーとジョーは古い友だちでした。私は即時に、彼らが二人とも好きになりました。彼らも私を好きだったようです。
スコット−でも、ジョーは教えに対して関心を持っていませんでした。
メアリー−ええ。でも、彼はクリシュナジを好きだったし、彼と一緒にいるのを楽しみました。彼らは一緒に笑いました。
スコット−他方で、ドリス〔・プラット〕のような人もいました − 彼女はほぼ対極であって、教えに対してものすごい信仰を持っていました。
メアリー−ええ。ドリスは特徴ある人* でした。彼女は特徴ある人だと、即時に分かりました。良いことも悪いことも、彼女の性格の一部でした。これらが彼女をドリスにしました。あなたはそのすべてを正しく評価したわけです。
スコット−でも、歴史的な記録として、これは幾らか説明すべきでしょう。なぜなら、事は興味深いからです。例えば、メアリー〔・リンクス、旧姓ラッチェンズ〕は、クリシュナジに対して個人的な愛情をもって成長しましたが、それでも彼女は、教えとか、何か宗教的なことには、長い間、関係を持っていませんでした。
メアリー−そのとおりです。
スコット−それから教えに興味を持った。それから〔星の教団の解散などがあって、〕すべてを捨てて、クリシュナジに対する愛情を保っていただけです。〔彼女の夫〕ジョーは教えにまったく興味を持っていなかった* 。でも、クリシュナジと個人的な友情を持っていました。
メアリー−ええ。
スコット−そして、分かることですが、或る面で愛らしくなかったドリスですが(笑う)、それは彼女の魅力の一部でした。
メアリー−彼女の魅力の一部は、彼女のつむじ曲がりなところと、おもしろい性質でした。
スコット−ええ。そして、教えを信仰していた。アンネッケ〔・コーンドルファー〕はどこかその間のところでした。
メアリー−まあ、アンネッケもおもしろかったわ。アンネッケは笑うのが大好きでした。彼女とアランと私は、
オランダでクリシュナジがベッドに入ってしまったとき、起きていて笑いました − 今は何のことは忘れましたが、何かおかしなことが起きたのでした。アンネッケは陽気な人でした。明白に彼女は、クリシュナジの世話をするのを愛していました。彼女にとってはあらゆることが天国でした。彼女はアランも好きでした。彼はおもしろかったからです。大いに笑いがありました。彼女は同じ理由で私のことも好きでした。
スコット−ドリスとアンネッケは何をしたんでしょうか。
メアリー−まあ、彼女たちは料理をして、掃除をしました。ドリスはその日を組織立てました − 〔面談の〕約束やそれらすべてのことを記録するんです。クリシュナジは人々に会わなくてはならなかったし、彼女がそのすべてを取り仕切りました。アンネッケはたぶん、料理と家事のほとんどをやりました。ああ、また南アフリカから来たご婦人もいました。
スコット−ジョアン・ライト(Joan Wright)ね。
メアリー−ええ、ジョアン・ライトね。ジョアン・ライトもこれらのどこかに加わっていました。私がお抱え運転手になる前は、ジョアン・ライトがクリシュナジを約束に連れて行ったり、運転して講話へ連れて行った、と思います。
 テープが切れようとしていますか。
スコット−ええ。これら登場人物について話をすることは、重要です。さもなければ、彼らはただの名前ですし、今から百年後、人々は彼らが誰なのか見当も付かないでしょうから。
メアリー−ジョアン・ライトの正真正銘の資質は、縫い物をする能力でした。
スコット−ええ、クリシュナジのバス・ローブを作りました。
メアリー−ええ。また彼は、インドから美しい絹を持って帰りました − あの種のたっぷりとしたクリーム色のシルクです。彼女は、彼の寝間着シャツを作ったものです。彼は寝間着シャツを着ましたから。そんな容易く寝間着シャツは買えません − 特に、たっぶりとしたインドの絹で作ったものは。彼女は彼のために、それらすべてのものを作りました。
スコット−私たちは・・・今、〔録音〕テープが切れてしまったと思います。いいです。じゃあ、パリへの途中から継続しましょう − 66年です。
メアリー−ええ、5月ね。

原註
1)クリシュナムルティの〔長兄の息子で、〕甥。彼は〔リシ・ヴァレー学校で二十五年、さらにイングランドのシュタイナー学校で教えてから、〕後に〔1977年に〕リシ・ヴァレー学校の校長になった。
2)バラスンダラム(Balasundarum)は〔1950年代終わりから1977年まで、第二代の〕リシ・ヴァレー学校の校長であった。
3)ジェラール・ブリッツ(Gerard Blitz)は、〔世界的なバカンス会社〕「地中海クラブ(Club Med)」を始めた企業家、ヨーガの振興者、クリシュナジの仕事に熱心な人であった。
4)彼は、20世紀の最も重要な理論物理学者の一人で、哲学者と、広く考えられている。ディヴィッドは、クリシュナジの仕事を熱心に支援した人でもあり、イギリス・クリシュナムルティ信託財団(the Krishnamurti Foundation Trust in England)の理事と、ブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センター(the Brockwood Park Krishnamurti Educational Centre)の理事であった。
5)オルダス・ハックスレー(Aldous Huxley)は、〔イギリス生まれの〕高名な作家であり、当時の最も傑出した知識人の一人であった。ハックスレーは1920年代からクリシュナジの仕事を賞讃した人であり、1929年にはカリフォルニアで、クリシュナジと他の人たちとともに、〔ハッピー・ヴァレー〕学校* を始めるのを手伝った。
6)メアリー・リンクス(Mary Link)の旧姓にして、彼女が著作において作家名として用いた名前が、メアリー・ラッチェンス(Mary Lutyens)であった。だから、彼女はクリシュナムルティ関係者の間では、どちらの名前でも知られている。


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