第2号 1965年4月から1965年12月まで


序論
この号においては、私たちがこの第二の対談を始めるために、メアリーは、取り扱うだろうと思う時期の自分の日記を、読んでおいたことが、明らかに分かる。彼女は日付、数などについてより精確である。たとえそうでも、或る時点で彼女は、日記を調べるために、私〔スコット〕にレコーダーを止めさせる − その日記は彼女の前にテーブルにあったにちがいない。そして彼女は、自らの言っていたことを訂正する。
 第2号に扱われる期間は、まだメアリーがクリシュナジの助手になる前である。だから、ここでクリシュナジの映像は、まだ幾らか遠方からである − 彼女は後のように、毎日、一日の多くに彼に会っているわけではない。しかし、彼らの間の親しさが発展しはじめるのが、見られる − それにともない、クリシュナジへの関与が増えるにつれて、メアリーの生活と世界は変わっていく。
 ここにはまた、メアリーの初めてのインドへの旅行があり、そこが彼女の目にどのように写ったのかが、ある。そこと他の場所でメアリーは、初めて幾人もの人たちと出会う − クリシュナジの多くの伝記から、読者たちが認識するであろう人たち、である。

メアリー・ジンバリストの回顧録 第2号
スコット−では、私たちは、あなたの1965年5月の回顧録からまた、始めます − そのときあなたはロンドンから、パリでクリシュナジが話をするのを聞くために、行きました。
メアリー−ええ。私はパリへの汽船連絡列車に乗りました(原註1)。私は、クリシュナジと〔秘書〕アラン〔・ノーデ〕がどう行ったのかを、忘れましたが、クリシュナジは〔会場の〕サル・アディヤール(Sall Adyar)において、パリ講話を行う予定になっていました。
スコット−それはどこですか。
メアリー−それは、エッフェル塔の近く、その地区の、神智学の場所です。それは相当の大きさの講堂でした。
スコット−クリシュナジが神智学の場所で講話をするのは、異例でなかったんでしょうか。
メアリー−まあ、選ぶほど多くの現場はなかったし、そこは、彼が〔パリの友人〕シュアレス夫妻(the Suares)家に泊まっていたところから二、三区画だけでした。
スコット−彼らはどこに住んでいましたか。
メアリー−彼らは、ラ・ボードネー(la Bourdonnais)通り(原註2)に、最上階に住んでいました。そこは〔屋上の〕ペントハウスのようなものでした。彼〔クリシュナジ〕は、サル・アディヤールで二回、話をして、それから何日かお休みでした。明らかに私の運転能力は満足できるものでした。彼はヴェルサイユへ行こうと提案したからです。
スコット−あなたはどこに泊まっていましたか。
メアリー−私はオテル・ポン・ロワイヤル(the Hotel Pont Royal)に泊まっていました。そこは、サン・ジャルマン大通りを逸れた、〔セーヌ川〕左岸のすてきなホテルです。デ・バック通り(Rue de Bac)はその近くにあります。
スコット−ええ、ええ、デ・バック通りね。知っています。では、アラン・ノーデは?
メアリー−彼もシュアレス家に泊まっていました。かなり混み合っていましたが、何とかなったんです。
 ともあれ、クリシュナジはヴェルサイユへ行きたいと思いました。いつかの時点で私は、彼がメルセデス車が好きなことを知りました。それで、私は〔レンタカーの〕ハーツ〔社〕(Hertz)へ行き、メルセデスの車を得ました。(スコットから穏やかなクスクス笑い)そして、私たちはヴェルサイユに行きました。彼はそのときもそうだったし、けっして宮殿やそれらを見ることにあまり関心がなかった。彼は観光客ではなかった。でも、彼は庭園を愛していましたし、庭園を散歩することは彼の楽しみでした。私たちはいたるところを歩きました。長い散歩です。その後、私たちは、〔パリ最古の教会がある〕サン・ジャルマン(St.Germain)に行きました。私たちはお茶を一杯いただいて、それからさらにサン・ジャルマンを幾らか散歩しました − これも心地よかったです。
スコット−あなたはいつ運転したんでしょうか。クリシュナジは〔運転する〕あなたの隣に前〔の座席〕にいたんでしょうか。
メアリー−ええ。
スコット−アラン・ノーデは後ろ〔の座席〕にいました。
メアリー−後ろ〔の座席〕でした。そのとおりです。もう一つ講話がありました。その後でもう一回、遠足がありました − またもメルセデスに乗って、です。今回、私たちは〔パリの南西にある〕シャルトル(Chartres)に行きましたが、そこはすばらしかった。私たちは歩き回り、よく気をつけてあらゆるものを見つめました。クリシュナジはステンドグラスの窓に引かれて、それを特に美しいと見ました。私たちはみな、かつて見たゴシック〔建築〕の大聖堂すべての中で、ここが一番すてきだと合意しました。私たちは近くで昼食をしました。私はレストランの名前を忘れてしまいましたが、そこは大聖堂から一区画ほどでした。私は、もしもそこにいたなら、行けるでしょう。でも、名前は思い出せません。それから私たちは〔パリ近郊の〕ランブイエ(Romboulliet)に行き、もう一回、森を散歩しました。それもまたとても心地よかった。
 パリは彼にとって忙しすぎたんですが、私にとってはそうでもなかった。フランス人の友だちはみんな、彼に会いたがっていました。
スコット−もちろんです。クリシュナジはこれら外出の間、何を着ていましたか。
メアリー−彼はいつも優美でした。これらのような外出には、或る種のスポーツ・シャツを着ました。そうね、長袖でニットのあれらのシャツです。
スコット−ええ。あれらのシャツは憶えています。
メアリー−彼はツィードのジャケットも着て、グレイのフランネルのズボンと美しく磨き上げられた靴を履いていました。
スコット−ええ、もちろん。
メアリー−それに首にはスカーフ。
スコット−彼は話をするとき、ネクタイをつけて、もっと正装でした。
メアリー−ああ、そうです。彼はふつうの正装、スーツで話をしました。それがパリでした。
スコット−そこでの講話にはどれほどの人たちが来ましたか。
メアリー−まあ、そのサル〔・アディヤールの講堂〕は巨大ではなかったが、かなりの広さでした。そこはいっぱいでした。
スコット−千人ですか。
メアリー−ああ、いえ、いえ。たぶん五百人ほどでしょうね。推測です。
スコット−どれほど講話を行いましたか。憶えていますか。
メアリー−五回行ったと思います。
 講話の後、私は列車でスイスへ立ちました。私は列車で菜食主義者になりました。(クスクス笑う)いや、列車でではなく、6月1日にね。(笑う)私は菜食主義者になろうと分かって出発したんです。パリで、ではなかった − 私の〔実業界から引退した〕父は、その頃パリに住んでいて、彼のためです。彼の楽しみは、私をパリの最高のレストランすべてに連れて行くことでした。私は、「父さん、私は今、菜食主義者だということを知っておいてね。」と言う厚かましさとか勇気とか、何と呼ぼうとそれが無かったんです。それで、パリを発つ列車に乗るまで、変更するのを延期しました。(笑う)
スコット−その時期に、お父さんに多く会いましたか。
メアリー−ええ。私はどうにか何にでも合わせられました。私は父と昼食や晩餐に行ったし、慌てて戻って講話に行くとか、運転するとか、何でもしました。
スコット−その年、パリでクリシュナジと買い物はしなかったんですか。
メアリー−まあ、したはずです。ええ。パリではいつも大きな買い物でした。〔ジョン・〕ロブ(Lobb)の靴がありました。すごく重要です。
スコット−もちろん。(笑う)
メアリー−クリシュナジによると、ロンドンのロブはさほど良くなかった。それで、パリのロブでした。イギリスの名前なのにフランス生まれの巨大な男がいました。明らかに靴屋と競馬場には、移民したイギリス人がたくさんいます − 彼らはフランス人になって、フランス人女性と結婚していて、彼らは本当にフランス人です・・・まあ、彼の名前は思い出せないわ。大男で、革のエプロンを着けていました。
スコット−ええ、ええ。私は彼を憶えています。
メアリー−靴屋であれば、そういう衣装を着るんです。彼はこれら宝石のような靴を持って出しました。誰にとってもとても心地良いでしょう。私たちは皮革を選びました。たくさんの議論があって、当然、靴屋はすでに足の木型を造っていました。時には少し調整しなくてはならなかった。それから注文が出されました。もちろん、アランもそういう靴を持つということでなくてはならなかった − 彼は人生でかつてそういうのを持ったことがなかった。(クスクス笑う)アランは、衣服に対するクリシュナジの情熱を、共有していました。
スコット−ええ。とても感染力が強いんです!
メアリー−そして、私はこのことで適切な伴奏だったみたいです。なぜなら、私は承認を与えたし、私の助言が尊重されたからです。
スコット−絶対にです!今でもそうです!(笑う)
メアリー−私が「ハンツマン」という言葉を発したあの最初の時から、私はクリシュナジの心に一定の特徴づけを獲得したんです。(スコット、クスクス笑う)私はこれらのことについて知っていました。私が何かを気に入らないと、それで終わりでした。
スコット−クリシュナジは、私に言いました − パリの〔靴屋、ジョン・〕ロブ(Lobb)はロンドンのロブより良い。なぜなら、(メアリー、クスクス笑う)戦後、ロンドンのロブは新しい見習いを取らなかったから。それで、新しい本当に良い靴職人を得られなかった。ところが、パリのロブの店は、〔ソ連などの〕共産主義者たちが〔東ヨーロッパを〕抑えてしまったとき、ポーランドから逃げ出したポーランドの靴職人をみんな入れた。これが、パリのロブのほうが良いわけのクリシュナジ版〔の説明〕です。(クスクス笑う)
メアリー−(クスクス笑う)それは知らなかった。あなたのほうが事情通ね。私があなたにインタビューすべきね!(もっと笑う)まあ、ともあれ、とても満足できました。それから、もちろん、シャツの問題もあります − それはスルカ(Sulka)の店で見ましたが、思い起こすに、注文は出さなかったわ。
スコット−スルカはパリにあるんですか。
メアリー−ええ。でも、シャツはローマのほうが良いはずだった。
スコット−では、〔オーダーメイドのシャツ店〕シャルヴェ(Charvet)には行かなかったんですか。
メアリー−ああ、いえ、シャルヴェには行きました。それは本当です。実は私はシャルヴェでも幾つかシャツを得ました。ええ、まったくそのとおり。でも、彼はまた後でイタリアのをも得ました。また、シャルヴェでは幾つかスカーフをも買ったと、思います。もちろんそれらはインドのスカーフでしたが、シャルヴェはそれらを輸入していたんです。
 クリシュナジが私に、一つくれたことを憶えています。それは(笑う)とてもいい香りがしていたことも、憶えています。クリシュナジはけっして、〔オーデ〕コロンや香水やそのようなものは何も使わなかった。私はどこかで、「神聖さのにおい」について何かを読んだことを、憶えています。(笑う)私は、そういうわけでこのスカーフはこんなにすてきな匂いがするんだと判断しました。スカーフは彼のものだったんです。
スコット−ええ。
メアリー−それは相当の間、香りを保っていました。
スコット−それが、クリシュナジがあなたにくれた最初のものでしたか。
メアリー−ええ。綿のスカーフです。インドの、でもシャルヴェ〔の店〕からです。それで、今私たちは・・・
スコット−待ってください。もう一つ質問をしていいですか。これら質問をしつづけてすみませんが、これはすごく形式ばらないんで。
メアリー−どうぞ。
スコット−そもそもクリシュナジと一緒に外食はしましたか。
メアリー−招かれたと思います、一回、シュアレス家に。でも、他にはないわ。
スコット−パリで私的な討論会はありましたか。
メアリー−うーん・・・どの年にそれらが始まったのか、思い起こすのに私は苦労しています。アランは特に、若者たちを集めてくるのがうまかった。それが本当は、その頃の彼の役割でした。なぜなら、彼は、白髪のご婦人方が講堂を埋め尽くすという古い状況は、変わるべきだという意見だったし、クリシュナジもそれを分かち合い、私も分かち合っていたからです。ちょっとかき混ぜるべき時でした。それで、ノーデは若者たちを集めました。私は、この年だったのか思い出せないけれど − 私はもっと宿題をやっておくべきだったわ − でも、これらがこの年か次の年に始まったのを、憶えています。私は自分の泊まっているホテルに、討論会のために部屋を借りました。六十か七十人ほどの若者たちが来ました。クリシュナジは彼らと議論し、質問に答えました。
スコット−フランス語で?英語で?
メアリー−英語で。彼らの何人かはフランス語で質問しましたが、彼は英語で返事をしたものです。若者たちとのこれら会合は、何か新しいこと、良いことでした。それはそれから、アランが〔秘書として〕私たちと一緒にいる間は、継続しました。
 ともあれ、今や私はパリから〔スイス西部、レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴへの列車に乗っていて、私は食事のため食堂車に入ります − 今や菜食主義者であり、(クスクス笑う)メニューには、菜食のものは何もない。ポテト・フライを除くと、一つの野菜も見られないし、(もっとクスクス笑う)それはステーキに付いてきました。
スコット−もちろん。
メアリー−それで、まあ、最後の一回だと思い、食べました。私はジュネーヴに着いたとき、再び小さな車を借りて、グシュタードまでのんびり行きました。今回は、ホテル・ロッスリ(the hotel Rossli)に行きました − あなたは思い出すでしょう。
スコット−それがどこにあるのか、思い起こさせてください。
メアリー−それはちょうど角にあります − 〔スイス、レマン湖の東方にある〕グシュタードの真ん中で、〔レマン湖の北岸の都市〕ローザンヌに行くには、そこで左に曲がります。オルデン・ホテルの向かいね。憶えている?
スコット−ああ、ええ。
メアリー−私はそこに部屋を取りました。あまり長くなかったけれど、私がそこにいたとき起きた一番すてきなことを、憶えています。(笑う)私の部屋は目抜き通りを見渡せました。或る朝、カウベルが聞こえました。私が窓の外を見ると、山々の高い牧草地に登っていく牝牛たちの行進がありました。堂々たる雌牛、牛の女王に率いられていました。(クスクス笑う)彼女は一番大きなベルを付けていて、花の冠を載せたすてきな麦わら帽子を、被っていました。彼女は威風堂々と歩きました。
スコット−ええ、私も見たことがあります。
メアリー−あれはすてきだったわ!牛たちはどれも、通り過ぎていくとき、ベルを鳴らしていた。すてきでした。
 で、そこに着いた二、三日後に、電話が鳴りました。それはアランで、彼らが到着したと、私に知らせるものでした。彼らはパリからジュネーヴに〔飛行機で〕来ました。彼は「車をお持ちですか。」と訊きました。
 「ええ、車は持っています。」「そのお、クリシュナジは列車で行くより車でグシュードへ上がりたいと思っています。あなたは来て、私たちを乗せてもらえますか。」
 それで、私は運転して降りて行きました。私は少しだけ大きな車を得たと思います。私はいつまでも、一番小さくて一番安い車から(クスクス笑う)行事にふさわしいものへ乗り換えていました!(笑う)私はジュネーヴへ運転して行き、彼らに会いました。彼らはオテル・ド・ローヌ(the Hotel du Rhone)で夜を過ごしていました。そこは、あなたが憶えているなら、ちょうど川に面しています。
スコット−よく憶えています。
メアリー−私たちはダイニング・ルームに入りました。私は、「そうねえ、私は今や菜食主義者なの。何を注文しようかな。」と考えながら、メニューを精査したのを、憶えています。クリシュナジはあらゆることに気づくので、私を見て、「最近は何を食べていたんですか。」と言いました。(スコット、心から笑う)まあ、私が食べていたのは、(もっとクスクス笑う)チーズ・オムレツと、チーズ・オムレツと、またもやチーズ・オムレツでした。私は、「余生の間、チーズ・オムレツを主食にするんだろうか?!」という気持ちでした。(メアリーとスコット、笑う)私はチーズ・オムレツについて説明しました。
 彼は、「あなたに食べ方を教えましょう。」と言いました。そして彼はまったく・・・断言しました。(スコット、笑う)それから彼らは、野菜とサラダと果物と、以来私たちがみんな主食にしてきたものすべてのすてきな食事を、注文しました。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−私は、ホテル・ロッスリで自分でのその最初の週の後、苦労をしていました。(もっと笑う)ともあれ、私たちはタンネグ山荘に運転して上がりました。ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕はいつものように、タンネグ山荘の一つの階を借りていました。でも、彼女はそこにいなくて、7月まで来ませんでした。これはまだ6月のことでした。私は6月の1日にパリを発ちました。だから、〔彼女が来て、山荘を開けた〕その後は良かったんです。
スコット−すみません。でも、進む前に、クリシュナジはオテル・ドゥ・ローヌで、いつも同じ部屋に泊まらなかったんですか。
メアリー−ええ。部屋すべてが同様でした。バスのついた小さな部屋でした。それらのどれにも何も特別なことはなかった。オテル・デ・ベルグー(Hotel des Bergues) − そこに私たちは後で泊まったし、すてきでした − それとは違って、少し商業的なホテルでした。それがあなたの考えていることです。
スコット−ええ。それが私の考えていることです。ええ。お訊ねしますが、〔サーネン地方の〕山へどの道路を取って上ったのか、憶えていますか。
メアリー−ええ、いつも〔スイス、フランスにまたがるレマン〕湖(the Lac)沿いでした。彼は湖畔の道路を行くのが好きでした。
スコット−〔サーネンの北西、フリブール州の街〕ビュル(Bulle)を通らなかった?
メアリー−後ではふつうビュルでしたが、初めてのとき、私はビュルへの道を知っていたとは思いません。憶えていません。
 ヴァンダは、クリシュナジの世話をし、食べ物とそれらを提供するために、先に料理人を寄越していました、本当はシェフね。グシュタードはすてきでした。そこには誰もいなかった。ふつう私は昼食に呼ばれました。夕食ではなかった。なぜなら、彼はそれを自分の部屋でとったからです。ふつう昼食でした。そして私は自分の車で、どこでも彼が午後に散歩したいところに、運転したものです − 丘を登り、森に入るのでないならば、です、とても心地よかった。
スコット−これらの散歩の幾つかを憶えていますか。どこでしたか。
メアリー−まあ、ときには、〔南方向の〕クシュタイク(Gsteig)のほうへ上がって行って、歩きました。道があったのを憶えています − 後ではまったくそうしなかったんですが、道路をそれて、どこか高い野原に行く道があり、そこを歩いて上がりました。また私たちはよく、川沿いを − サーネン川です − 〔サーネンの〕空港に向かって歩いて降りました。あの道です。また〔南東方向の〕ラウェネンの散歩もありました。すてきでした。
 それから、グシュタードに到着してほどなく、私たちはジュネーヴに戻らなくてはならなかった。またもや私たちは、オテル・ドゥ・ローヌで昼食をしました。それから私たちはシャツを選びに戻りました。クリシュナジはジュネーヴでシャツを入手しました。なぜ彼がジュネーヴでシャツを入手したのか、私は分かりませんが、そうでした。ドゥ・ローヌ通りに、彼が或る種のシャツを入手する場所がありました。
スコット−それらは、ほぼフランネルだが、まったくそうでもない暖かいものでしたか。
メアリー−実はそれらはイングランドのアレン・ソリー(Allen Solly)で作られました。でも、そこで入手できました。とてもいい仕入れをしていました。
 私が日記を調べる間、しばらくレコーダーを止めてもらえますか。(テープは途切れて、それから戻る)
 ドライヴは間違っていました。私たちはグシュタードから、ピヨン峠(Col du Pillon)経由で降りて、〔レマン湖の南東方向、アルプスの入り口の〕エーグル(Aigle)を通って、それから湖〔の南岸〕のフランス側を回って行きました。
スコット−ああ、ドゥーヴィル(Deauville)* か。
メアリー−ええ。フランスを出たり入ったりして、両端で税関を通りました。私たちは〔レマン湖南岸の〕イヴォワール(Yvoire)でレストランを探したが、見つからなかった。それで、ついにオテル・ドゥ・ローヌになってしまいました。クリシュナジは仮縫いをして、それから、パテク・フィリップ〔の時計店〕へ、憶えきれない多くの訪問の第一回に、行きました。(二人ともクスクス笑う)
スコット−ええ。
メアリー−これはいつも彼にとって無限に楽しかった。彼は入っていき、彼らはお辞儀をしました。彼を知っていたからです。彼の〔普段使いの〕鉄の腕時計* が出てきて、彼はすごく厳粛な協議に入ったものです − お辞儀をした人とではなく、本当に時計を作り、調整する人と、です。
スコット−ええ。
メアリー−彼らは頭を下げて、そうね、わずかに頭を垂れて、腕時計を見ながら、協議したものです。それから、(スコット、クスクス笑う)その男がそれを持って行き、何か神秘的なことをします。その間、私たちは他の腕時計すべてを見ます。最後にクリシュナジの腕時計が、ちょうど「オー・ポワン(au point)」で戻されました − 完璧でした。あなたも彼とそこに行ったことがあるから、憶えているかもしれません。
スコット−よーく憶えています!
メアリー−これは儀礼的な訪問でした。
スコット−ええ!メッカへの巡礼に似ていないわけでもない!(クスクス笑う)
メアリー−これは夏の重要な瞬間の一つです!(もっとクスクス笑う)けっして急いだり、軽く取ったりすべきではなかったし、とても満足できました。
スコット−知っています。知っています!
メアリー−それから運転して帰りました。今回は〔サーネンの北西、フリブール州の街〕ビュル(Bulle)経由で。この時までに私は、ビュル経由の道を知っていました − そこはすてきでした。でも、山々へ上がっていく前に、彼はいつも〔レマン湖の〕湖沿いを行きたがりました。彼は自動車道を行きたくなかった。まあ、私たちは、そうせざるをえないとき、時にはそうしました。それは、私がクリシュナジは速く運転するのが好きだと気づいたときです。でも、この時、私は、ハーツ〔社のレンタカー〕の車を持っていました。私は彼が速く運転するのが好きだと知って、そのとき − 後年ですが − ジャガー〔の車〕を持ちました。でも、それは別の章のことです。それで、私たちはビュル経由で帰りました。その夜、彼と夕食をとりました。それは、あの種の最初の遠足でした。
スコット−ビュルで停まりましたか。
メアリー−いえ。私たちは後ではいつも、有名な〔お菓子、〕ガトー・ビュルワーズ(Gateau Bulleoise)を買いましたが、それは何年も後のことでした。
 その年、とても興味ある他のことが起きました。〔プエルトリコの〕エンリケ・ビアスコェチェア(Enrique Biascoechea)をあなたが知っていたのかどうか、私は知らないけれど。
スコット−私は彼に会ったことがありませんが、彼については知っています。
メアリー−彼とその奥さん、イザベラ(Isabell)は毎年、サーネンにクリシュナジの話を聞きに来ました。彼らは、下の川沿いにアパートメントを取りました。イザベラは料理がとても上手ででした。彼女は昼食を作ったものです。エンリケは年老いた神智学者でした。とてもすてきな人です。彼は、クリシュナジのメルセデス〔車へ〕の気持ちについて、知っていました。それで、彼は、二座席の小さなメルセデスを買うという考えを持っていて、それをサーネン集会委員会に与えましたが、(スコット、クスクス笑う)誰だけが使うためか、分かりますか。
スコット−ええ。
メアリー−で、或る日、私がタンネグ〔山荘〕に上がって行くと、この美しい小さな銀の宝石のような車がありました。クリシュナジはとても喜んでいるようでした。彼は私にそのすべてを見せてくれました。それから彼は、私がドライヴしたいと思うかどうかを、訊きました。私は「ええ、ドライヴしたいですね。」と言いました。それで彼は、〔サーネンの西隣〕シャトー・デー(Chateau d'Oex)へドライヴをしてくれました。私が運転する代わりに彼が運転するのに乗せてもらったのは、それが一回目だと憶えています。彼は運転用の手袋をはめて、とても優雅に見えましたし、見事に運転しました。明白に経験豊かな運転者です!
スコット−(クスクス笑う)ええ。
メアリー−(クスクス笑う)それからタンネグ〔山荘〕に運転して戻りました。
スコット−シャトー・デーでは何かしましたか。
メアリー−いえ。シャトー・デーに行っただけです。それから向きを変えて戻ってきました。戻ったとき、彼は車のほこりを払いました − 外出したんです!(スコット、笑う)次の日、私が〔山荘に〕上がって行ったとき、彼とアランが二人とも洗車しているのを見た、と思います。外出したからです。私は、アランが仕事をしているのを見ていると、「なんとまあ、彼は音楽家〔、ピアニスト〕です。彼は手をだめにしようとしている。」と思いました。(笑う)でも彼は、すべきことをしていましたし、クリシュナジもまた洗っていました。洗った後、クリシュナジは〔車の〕フードを開けて、内側の機械すべてのほこりを払いました。そうして初めて(スコット、笑う)だいじょうぶでした。
 またもや毎日散歩しました。
 彼はまたこの時点で、インドから〔サンスクリットの〕詠唱の〔録音〕テープを幾つか受けとりました。私たちはそれらを聞きました − それは楽しかったです。
スコット−詠唱していたのは誰でしたか。憶えていますか。
メアリー−それらは、〔インド南部、〕リシ・ヴァレー学校* で子どもたちが詠唱して、作られました。
 雨でも晴れでも、私たちは毎日散歩しました。また、私が〔その冬に〕インドに行くことについて、たくさんの話がありました。私はその年、〔クリシュナジの講話の〕行程全部に行く計画をしていました。それで、私たちはそれについて話をしました。クリシュナジは、私がインドで適切な世話をしてもらえるように、自分が計らわなければならない、自分が私の住居を手配しよう、と言いました。彼は、私は〔インド南東部の大都市〕マドラス〔現チェンナイ〕でホテルに行くべきではなく、フランシス・マッキャン(Frances McCann)とアラン〔・ノーデ〕と私はマドラスで家を借りるべきだ、なぜなら、その方が健康的だろう − 自分たちの食べ物を管理できるから、と言いました。想像できるでしょうが、私はマドラスでの家の借り方は、さっぱり見当が付きませんでした。(スコット、クスクス笑う)でもアランは、まさにどうすべきかを知っていました。彼は〔そこの主要な支援者〕ジャヤラクシュミー夫人(Mrs.Jayalakshmi)に宛てて、クリシュナジがこれを提案したが、彼女は(クスクス笑う)それを世話できないかと言う手紙を、書きました。その部分に来るとき、彼女がどのように世話をしたのかを、お話ししましょう!
スコット−ええ、ええ、必ずね!
メアリー−サーネンに戻ります。私たちはしばしば昼食に、ビアスコェチェアのところに降りて行きました。私もまた昼食をとるよう呼ばれたり、または、私が運転して〔タンネグ山荘から〕彼らを送って降ろしました。後で彼らを乗せて丘を上り、送っていました。それは、エンリケが少年のクリシュナジとその〔三歳下の〕弟ニトヤの写真を取り出したときでした。ビアスコェチェア夫妻は、それらを私たちに見せようと持ってきました。クリシュナジはあれを見て、あれを見て、戻って再び見つづけました。彼は、〔兄弟二人で神智学協会に保護された〕その時をまったく憶えていないと、言いました。後で私が彼を車に乗せて丘を登るとき、私は、「あの写真にそんなに興味を持たれたのは、なぜでしたか。」と言いました。
 それが彼が発言したときです − 「あの少年がなぜ条件付けられないで、空虚なままにとどまったのかが分かりさえすれば、おそらく私たちは、学校の子どもたちがそんなに条件付けられないよう、助けられるかもしれない。」と。彼は、あの少年が − 彼自身という意味です − なぜあのように留まったのかの感覚を、何とか得ようとしていました。なぜ彼は本当にまったく何にも、精神的に傷つかなかったのか。私は、彼が写真を、ああ、長い間見ていたのを、憶えています。(メアリーの話を聴く)*
 〔タンネグ山荘を借りてくれている〕ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕がついに〔イタリアから〕到着しました。私はその間、ホテル・ロッスリでチーズ・オムレツで人生を過ごしたくなかったので、レ・カプリス(Les Caprice)というアパートメント・ハウスに、〔数室からなる〕フラットを借りていました。
スコット−ええ、それがどこにあるのか、憶えています。
メアリー−ヴァンダが来たとき、〔タンネグ山荘に〕もやはアランの部屋はなかった。彼女は〔山荘の〕一つの階を借りただけでしたから − 入ってくるところと同じ高さの階です。そこには二つ寝室があるだけでした。所有経営者は上の階に住んでいました。彼はドイツ人でした。彼は夏に短期間に来るだけでしたが、自分の階はけっして貸し出さなかった。山荘は丘に建てられたから、〔数室のある〕フラットがある下の階がありました。でも、ヴァンダは中の階を取っているだけでした。ヴァンダが来たとき、アランは行くところがなかった。幸運にも私が借りていたフラットは、二つの寝室がありました。それで私は、アランを私のところに泊まるよう、招きました − 彼はそうしました。
 それから講話が始まりました。またもやふつう私は、午後にクリシュナジとアランとともに散歩しました。ヴァンダは散歩したくなかった。彼女は午前ずっと〔ハタ・〕ヨーガをしていて、あまり散歩に向いていなかった。それで、私はふつう散歩をしました。
 或る時点で、〔インドから〕ププル・ジャヤカール(Pupul Jayakar)が到着しました。それが私の最初の彼女との出会いでした。彼女は短い間だけ泊まりました。またもや私たちはみな、幾つかの食事で、ビアスコェチェアのところに行きました。誰もがです。
スコット−ちょっと戻りましょう。講話へは誰が運転して、クリシュナジを送ったんでしょうか。
メアリー−ヴァンダです。
スコット−彼女はどういう車を持っていたのか、憶えていますか。
メアリー−ええ。彼女は今でもそれを持っていますが、もう動きません。少なくとも最後に彼女に会ったときは、そうでした。それは〔イタリア車の〕ランチアで、そのときでさえもとても古かった。これは65年です。古くてかなりすばらしいランチアでした。彼女はそれをたいそう器用に高速で運転しました。その頃に彼女は、イタリアから〔スイス西部サーネンの山村〕グシュタードまで運転して来ました。クリシュナジを講話〔会場〕のテントに連れて行った後、彼女はいつもボーイスカウトのキャンプのそばに、樹々の下に停めたものです。
スコット−ププル〔・ジャヤカール〕は来たとき、彼女はタンネグ山荘に泊まりましたか。
メアリー−彼女はビアスコェチェアのところに泊まりました。彼女は短い期間そこにいただけです。またププルの〔一人〕娘のラディカ(Radhika)も到着して、またビアスコェチェアのところに泊まりました。みんなと散歩に行ったのを、憶えています − ププル、ラディカ、アランと、忘れましたが他の誰かと。私は後ろを歩いていましたが、クリシュナジは私とともに、歩みが遅れました。これは、彼が私に恥ずかしげに言ったときです − 「私はカリフォルニアで、あなたを知っていたんでしょうか。」と。(スコット、笑う)もちろんこれは、私が受けていた〔個人〕面談への言及です − それは私の人生で大地を揺るがす事件でした。
スコット−そして、あなたがサーネンでそこにいた理由の全部です。
メアリー−全部です・・・あらゆることが変わってしまいました。(もっと笑う)彼はもちろん、何も憶えていなかった。私は笑って、とてもうれしかったのを憶えています。それが彼のあるべき姿でした。(メアリーの話を聴く)*
スコット−ええ。(クスクス笑う)
 講話には、おおよそどれほどの人たちが来ましたか。
メアリー−ふつうは、テントいっぱいです。
スコット−でも、私が出席していた〔1972年以降の〕年月にわたって増えました。
メアリー−後のテントはもっと多く入れました。これが違っていました。列になった座席でした。見栄えのいいテントでしたが、座るのは同じ堅いベンチなどでした。
スコット−それは、野原のボーイ・スカウトのキャンプ側に向かって、広がっていましたか。
メアリー−いえ。ちょうど、いつもテントがある所でした。同じ場所です。入り口は川〔の方向〕からでした。
 その頃、多くの人たちが自分のテープ録音をしました。それには何も規則がなかった。人々は、演台の近くの一種のテーブルに座って、テープに録りました。
 それから、ジョージ・ヴィソウルカス(George Vithoulkas)が現れました。ジョージは同種療法医になろうとしているギリシャ人でした。彼とアラン〔・ノーデ〕は互いに知り合いで、同種療法への関心を分かち合っていました。ジョージはその専門家になりました。最終的にすっかり有名になった、と聞きました。けれども、これはまだ前のことです。ジョージはいわば、クリシュナジの症例を引き受けました。ジョージについて〔インドでの〕残りは後で聞くことになるでしょう。ともあれ、彼はサーネンにいました。
 クリシュナジはその頃、恐ろしくたくさんの講話を行いました。十かそれぐらい〔の講話〕があったと思います。各講話の終わりに彼は、座席からの質問に答えたものです。
 講話が終わった後、彼は再び、若者たちの討論会を開きました。アランが若者たちを引き寄せておきました。彼は、たくさんの若者たちがキャンプをするキャンプ場を回って、ハメルンの笛吹きのように、若者を集めたんです。ときにこれら若者たちの討論は、みんな入れたなら、タンネグ〔山荘〕でありましたが、川の向こうの野原で、ありました。
スコット−〔会場の〕テントのある所から向こうですか。
メアリー−いえ、グシュタードのほうへさらに下って、です。川沿いに歩くと、そこに来ます。
スコット−あのホテルに着く前ですか。
メアリー−ええ。若者たちの討論会が幾つもありました。
 また、〔理論物理学者の〕ディヴィッド・ボーム(David Bohm)* も来て、彼らは対談しました。それらが六回あって、タンネグ〔山荘〕でのことでした。
スコット−彼らは以前に会っていたんです。彼らはここイングランドで対談していたんでしょう。
メアリー−ええ。彼らは以前、60年代の初めに遡って、会っていました。
 それから、もう一回〔レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴへの旅行がありました。いつだったかよく憶えていません。でも、その時点で(クスクス笑う)クリシュナジは私に、〔南インドの〕リシ・ヴァレー学校(the Rishi Valley School)の委員会に加わるよう、頼みました!
スコット−(心から笑う)あなたは、大したインドの専門家でしたね!
メアリー−想像してごらん!私は何の資格も持っていなかったんですが、それは彼にとって何でもなかったんです!私は何て返事したのか、憶えていませんが、幸運にも何ともなりませんでした。(スコットとメアリーは一緒に笑う)
 私たちはまた別のときジュネーヴに行きました。今回私たちはオテル・デ・ベルグー(the Hotel des Bergues)で昼食しました − そこはもっと通常の場所になりました。
 私は〔その冬、Kに付いて〕インドに行こうとしていましたが、インドに行く前、私は合衆国に〔飛行機で〕飛んで戻らなくてはいけませんでした。
スコット−合衆国に飛んで戻る前に、お訊ねしていいですか。クリシュナジとのジュネーヴへのこれら旅行に、アランはいつもあなたたちに同行しましたか。
メアリー−ええ、ええ、いつも。
 それで、私は〔ロサンジェルス郊外の〕マリブに飛んで戻りました。他に何をしたにせよ、私は〔アメリカ東部にいる〕家族に会いに行きました。それで、物語は再び始まります − そのとき、〔8月から〕9月〔23日〕にインドとパキスタンの間で〔第二次印パ戦争の〕戦いがあり、〔クリシュナジの〕インドの冬の旅程全部が危険にさらされました。アランは私に電話してきて、クリシュナジは計画通りインドに行くべきか、また月末まで延期すべきかを決断しようとしていることを、言いました。それから彼は、私がローマに来ること、もし私たちがインドに行かないのなら、私たちはみんなイタリアで冬を過ごすことを、提案しました。しかし、たまたまでしたが、停戦があり、アランはインドへのビザを拒否されてきましたが、今ではインドへのヴィザを得ることができました。それで、私は10月にローマで彼らに会うため、〔空の便で〕飛んで戻りました。クリシュナジとアランは、ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕が借りておいた場所、ヴィラ・デル・カサレット(Villa del Casaletto)に泊まっていました − それは、ローマの外の、空港のほう、ヴィラ・フロリエ(the Villa Florie)などの向こうの邸宅でした。
スコット−あなたはローマでどこに泊まりましたか。
メアリー−その時はホテル・フロラ(the Hotel Flora)に泊まりました。
スコット−それはどこにありますか。
メアリー−それは、〔ホテル・〕エクセルシオール(the Excelsior)の隣、〔イギリス式の〕ボルゲーゼ公園(the Borghese Gardens)の真横です。
スコット−あなたがローマに戻ることはきつかったですか。(原註3)
メアリー−ええ、実際はね。
スコット−きっとそうでしょう。
メアリー−ええ。私は二度とローマに戻りたくないと思っていましたが、こうするには戻らざるをえませんでした。私はそこにあまり長くいませんでした。
スコット−あなたがローマに戻ることがどれほどむずかしいのかに、クリシュナジは気づいていましたか。
メアリー−私はその話をしませんでした。
スコット−ええ。
メアリー−それで、到着後、二、三日目、11月1日だったと思いますが、私たちは〔飛行機で〕デリーに飛びました。空港で〔シヴァ・ラオの妻、〕キティ・シヴァ・ラオ(Kitty Shiva Rao)とププル〔・ジャヤカール〕の出迎えを受けました。
スコット−あなたたちの飛行機は、どこかで停まりましたか。
メアリー−分かりません。たぶんね。あの頃のあれらの空の便すべては、どこかで停まりました。ふつうどこかアラブの国で給油するために、降りました。
 私は、クリシュナジがデリーに到着したとき、飛行機から降りる階段のもとで、車が彼を出迎えたという事実を、憶えています・・・
スコット−(笑う)ええ。
メアリー−それはとてもすてきです。
スコット−あなたは飛行機でクリシュナジと一緒に座りましたか。それとも、アランが彼の隣に座りましたか。
メアリー−どちらでもないです。始めクリシュナジはファースト・クラスにいて、アランと私はツーリスト〔・クラス〕にいました。彼はいつも私に、ファースト・クラスで自分の席に着くよう説得しようとしましたが、明白に私はそうしませんでした。
 ともあれ、私たちはデリーに到着し、VIPラウンジに案内されました。他方、他の人たちは荷物に気を遣っていました。私は何もしなくてよくて、それはすばらしかった。私たちのパスポートは預けられました(思い起こすに、パマ〔・パトワールダーン〕がそうしたと思います)。手続きが終わった後、ついに旅券が戻されました。私たちはデリー〔の街〕に連れていかれ、初めにクリシュナジのために、〔友人〕シヴァ・ラオのところに停まりました。〔その妻〕キティ・シヴァ・ラオはとても親切に、私がインド国際センター (the Indian International Center)という場所に泊まるよう、手配しておいてくれました − 彼女の家から遠くなくて、そこに私はとてもすてきな部屋を取りました。彼女は、ロディ公園(Lodhi Park)から遠くないところに住んでいました。同じその日、クリシュナジと、ププルとアランだと思いますが、私たちは、私にちょっといろいろと見せるために、運転して車で回りました。私たちはロディ公園に乗り付けましたが、その時刻には暗かったです。
スコット−戻ってよろしければ、あなたは空港から車でクリシュナジと別に行きましたか。
メアリー−いいえ。私は同じ車でホテルに行きましたが、車は初め、シヴァ・ラオの邸宅に停まり、シヴァ・ラオ夫妻とクリシュナジとアランは降りました。
スコット−アランはどこに泊まりましたか。
メアリー−初め、彼はシヴァ・ラオのところに泊まりました。それから二、三日後、彼も国際センターに部屋を取りました。家庭内の状況がどうだったかは知りませんが、そこは混み合っていたと思います。でも、キティは私に対してとても親切に、彼らの家で食事すべてをとるよう呼んでくれました。知っているでしょう、インドでは人々はとても歓待してくれます。私は或る意味でクリシュナジのお客として扱われました。たぶん彼がそのように見せてくれたのでしょう。
スコット−でも、彼らはしばしばとても歓待してくれます。ええ。
メアリー−クリシュナジは、私がこれとあれを食べるべきではないと、心配していました。
スコット−あなたはそこでどれほど過ごしましたか。
メアリー−まあ、私たちは11月2日にそこに着きましたが、彼は7日に憲法クラブ(the Constitution Club)の庭園で、第一回の講話を行いました。彼は、シャミアナ(原註4)の下、彼を日射しから守る明るい小さな布地を張り、少し高くした演台の上に、いました。人々が座るために、すばらしい赤と青のカーペットが、敷かれていました。私はアランとともに、台の真ん前に、〔スイスの〕ナグラのテープ・レコーダーをもって座りました。それが、クリシュナジがインドの聴衆とともにいるのを私が見た、一回目でした。彼は、聴衆に対して本当にあからさまなので、私は驚きました* − 私が思い起こせるのでは、「あなたたちはこれらの年月ずっと、非暴力について話してきました* 。けれども、今年、あなたたちの誰一人として戦争への反対を言い出さなかった。」というようなことを、言っていました。〔インドの〕彼らはほとんどパキスタンと、戦争をしていました。彼は本当に彼だけが言えるように、表しました − 怯ませるように、です!私は本当に衝撃を感じたのを、憶えています − 彼はその時にインドの聴衆に対して、異なったように話をしたのです。彼は彼らに対して、より手きびしかった。
 それから、寄り道がありました。これについて聞きたいですか。そこにクリシュナジは関与していません。
スコット−すべてほしいです。(二人とも笑う)
メアリー−どうしてそれが始まったのかは忘れましたが、ともかく15日ごろにフランシス・マッキャン、アラン〔・ノーデ〕、私とジョージ・ヴィソウルカスは、運転手と車でもって、〔ガンジス河上流のヒンドゥーの聖地〕リシケシ(Rishikesh)に行きました。私たちは、泊まる場所が無いだろうし、それに耐える準備をしなければならないと言われました。私たちは、ともあれ行こう、必要なら寝袋で寝ようと考えました。私たちは、(クスクス笑う)湯冷ましの大きな水筒とクルミの袋を持って、出かけて行ったのを、憶えています。(スコット、クスクス笑う)それは、或る種、私たちの糧食でした。私たちはリシケシに着いたとき、本当にホテルの部屋が無いことを、発見しました。でも、アランは人々を説得するのがとてもうまいので、旅行代理店に入って話をし、ダク・バンガローズ(Dak Bungalows)という名だと思いますが、そこに泊めてもらえるようにしました。これらは政府の監査官が回ってくるとき泊まる場所でした。たまたま、ちょうどガンジス河沿いにありました。門の小さな番兵を通り過ぎて入りました。彼は槍を持っていました!(笑う、それからスコットも笑う)彼は銃を持っていませんでした。(もっと笑う)彼はそこに、槍をもって門の前に、まったく一人きりで立っていました。私たちはかなりの道のりを運転して、バンガローを見つけましたが、そこは染み一つなく清潔でした。そこには三つの寝室と四つの浴室があったと、思います。それは大したものでした。フランシスと私は浴室を共有しました。これは、私の初めてのインドのトイレの経験でした!(笑う)
スコット−ああ、はい。(笑う)
メアリー−でも清潔でした。すてきでした。落ち着いた後、私たちは街へ戻り、どこか食事をする場所を探しました。ご存じかもしれませんが、カワリティ・レストラン(Kwality Restaurant)というレストラン・チェーンがありました。それらが今でもインドにあるのかどうかは、知りませんが。
スコット−見た憶えがあります。
メアリー−それで、私たちはカワリティ・レストランに行きました。プトマイン* が含まれていない思う加熱された食べ物を、よく気をつけて注文しました。私たちはたくさんお茶を飲んだと思います。(クスクス笑う)他はあまり憶えていません。
 朝には、かなり冷たいにわか雨が、降りました。それから私たちは、ハードヴァル(Hardvar)のシヴァナンダ・アシュラム(Shivananda Ashram)まで行きました − ここは、黄色の衣の大勢のサンニャーシのせいで、興味深かった。それは、私が初めてライ病〔、ハンセン氏病〕の乞食たちを見たときでした − それらは、〔亡き夫サムの製作した映画〕『ベン・ハー』の物語の一部分でした。私たちはアシュラムに行き、その長が見えるのを待ちましたが、彼は忙しかった。それで、私たちは立ち去り、或る特定のヨーガの導師を探しに行きました − 彼はすばらしいとの評判でしたが、外に出ていました。それで、私たちはリシケシに戻りました。
 それからジョージ〔・ヴィソウルカス〕は、何かを探しに行きました。何だったかは思い出せませんが、彼は、隣に〔インドの伝統医学〕アーユル・ヴェーダの医師がいると言って、戻ってきました − その医師は彼に対して、偉大なスワミ〔、ヒンドゥーの行者〕が到着しようとしているが、私たちはその偉大なスワミに会いたいかと、言いました。私たちはそうしたいと返事をしました。それで、約束の時間に隣に行きました。この風変わりな(クスクス笑う)人が入ってきました。彼は太っちょで、大きな丸顔をしていました。彼は私たちを一人ずつ見つめて、質問をするようでした − 「これらの人たちは誰ですか。彼らは何をするんですか。」と。私たちは座りました。彼は幾つか質問をし、ジョージはこの人に魅了されました。後でジョージは、できるなら、この人の弟子になりたいと決心しました。まあ、アランは恐怖して嫌悪しました。次の日、アラン、フランシスと私は〔北部ウッタル・プラデーシュ州の都市〕デヘラドゥーン(Dehradun)に行きました。
スコット−ああ、そうか。
メアリー−ヒマラヤを登って、登って、登って、登って行きました。ご存じのように、雪の線へ、そしてそれを越えて、最高にすばらしい山々です。私たちが戻ったとき、アランとジョージは、口論を始めました。アランは、「あなたはクリシュナジの世話をするためにここに来たんです。この導師と行ってしまうって、どういうつもりですか。」と言いました。
スコット−彼は、クリシュナジの何を治療していましたか。
メアリー−ただ彼の健康を見守るだけです。でも、ジョージは魔術を知りたかった。彼は成就、力、これらすべてのものが欲しかったんです。
 それで、私たちは車で、かなりへこんだ雰囲気で戻ってきました。ジョージはその晩、クリシュナジに会いに行きました。クリシュナジは彼に、自らが何を追求しているのかがはっきり分かるよう手助けしようとしましたが、ジョージは自らの意図に反対することとは何の関わりも持とうとしなかった。アランは激昂していました。これは非道であり、配慮に欠け、無責任であるなどと考えました。
 で、ジョージはそのスワミのところへ行ってしまい、残りの私たちは〔ヴァーラーナシーの〕ラージガートに行きました。私は(クスクス笑う)デリーの空港で飛行機を待っていると、待っている乗客たちの部屋があったのを、憶えています。そこには、頭に灰色のスカーフを巻いた人が、いました。彼は太って背が低かったんですが、〔シヴァ派の風習として〕額に灰を塗りたくっていて、ショールに包まっていました。私はクリシュナジに対してフランス語で、「ケル・エ・ソン・マキラージ?彼のお化粧は何ですか?」と言いました。(スコット、笑う)クリシュナジは、困った仕草をしました。それから彼は、いつも空港でやることをやりました − 彼は、大きな威厳をもって歩き回り、あらゆるものを容れるが、何もじろじろ見つめなかった。私の言う意味が分かるなら、です。彼は間接的にあらゆるものが見えました。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−(笑う)彼は戻ってきたとき、「さあ、あらゆるものが見えた。」というような、おもしろい発言をしました。
 私たちが〔ガンジス河中流の古都〕ベナレス〔現ヴァーラーナシー〕に着いたとき、クリシュナジは、〔インドでの仕事の担当者〕マーダヴァチャリ(Madahvachari)と他の何人かと一種のバスに乗って行ってしまいました。
 私はベナレスを一目見たのを、けっして忘れないでしょう。なぜなら、それまで私はインドに行ったことがなかったと感じたからです。荷車での交通すべては、いつも互いに警笛を鳴らしあい、それらの装飾すべて、山羊と雌牛が歩きまわり、女たちは乾かすために〔燃料用の〕牛糞のパイを壁に貼りつけていた。他の女たちは、大きな真鍮の水差しを頭に載せて〔運んで〕いた。いろいろとものが乾く臭いと、あれら並んだベッドに臥せっている人たち − 道路わきの低いベット。それがインドでした。デリーよりはるかにそうね!(笑う)
スコット−ええ。(笑う)誰が〔飛行機で〕飛んだんですか。あなたとアランとクリシュナジと・・・
メアリー−フランシスだと思います。私はクリシュナジの横に座ったこと、彼が早朝、私にヒマラヤのピンクの雪を指し示してくれたことを、憶えています − 何と美しかったことか。
スコット−では、夜明け前に飛び立ったはずですね。
メアリー−ええ。なぜかインドの空の旅はその頃、いつも奇妙な時刻にありました。私たちが〔ベナレスの〕ラージガートに着いたとき、私たちのために用意された部屋というこの案件が(笑う)続きました。
スコット−すみません。もう一度、止まって、未来の人たちが持ちそうな質問をさせてください。この時にクリシュナジはあなたたちと〔ベナレスへ〕飛んだとき、インドの服を着ていましたか。
メアリー−ええ、そうです。彼はずっとインドの服を着ました。インドにいるときはいつもです。これで、私たちがデリーにいたとき、彼はチュリダース(churidars)* をはいたのを思い起こしました。チュリダースが何か、知っていますか。
スコット−ええ。
メアリー−それらは脚より長いのを、知っていますね。それらは押し上げると、ふくらはぎの上で締まりますが、合わなくてはなりません。クリシュナジは私に、自分のを試すよう一足、送ってくれました。あいにく彼の脚は、〔女の〕私のよりはるかに細いし(笑う)、私はそれにはまり込んでしまいました!それを裂かないで脱ぐのに、大変な時間を過ごしました。(メアリーとスコット、笑う)また、デリーでは初めに、私のための衣服の買い物がたくさんありました。
スコット−どこに行きましたか。
メアリー−コットン・インダストリーズ(the Cottage Industries)に行きました。キティ・シヴァ・ラオはそこの重役の一人でした。彼女が私を連れて行ってくれたのか、送ってくれたのか思い出せませんが、コットンのもののように、インドで着るものをたくさん入手したんです。
スコット−あなたは、それらをクリシュナジに見せるために、持ってかえりましたか。後で彼はそれをとても喜んだのを、私は知っていますが。
メアリー−いいえ。私はそれらを着て現れただけです。(笑う)
 ともあれ、私たちは今、ラージガート(Rajghat)* にいます。学校では、彼を迎えるために大きな集まりがありました − 小さな子どもたちが花を持つなど、あらゆることです。フランシスと私は部屋をもらいました。大きな部屋と小さな部屋があり、バスルームは共有しました。それは、クリシュナ・アシュラムと呼ばれる、〔ガンジス〕河を見渡すそれら建物の一つにありました。私たちは二回の自室に上がり、扉を開けて、驚愕しました。そこは何年も使われていなかったにちがいなかった。(メアリーとスコット、クスクス笑う)なぜなら、誇張はしていませんが、埃が砂漠にあるようにたくさんあったからです。私たちが入ったとき、その雲が立ち上りました。砂のように見えましたが、埃でした。部屋には、ただロープのついたベット一つ以外、何もなかった。マットレスもない、シーツもない、毛布もない、蚊帳もない、何もない!小さな部屋も同様な状態でした。
 フランシスと私は、誰が大部屋を取り、誰が小部屋を取るかについて、論争をしました。彼女が勝って、小部屋を取りました。(クスクス笑う)壁には、ものを掛けられる掛けくぎが三つありましたが、それがそこにあるすべてでした。他には何もない!(スコット、笑う)バスルームはあまり大きくなくて、おもに洗面台のせいでとんでもなかった − それは小さくて、あなたのテープ・レコーダーほど黒かった。どうして洗面台を、白い磁器の洗面台をあんなに黒くできるのか、分かりません。それにタールを注いだのなければ、ね!(スコット、笑う)普通の汚れではそうならなかったし、何年もの普通の汚れでも(スコット、もっと笑う)白い流しをあんなに黒くできなかったわ。それから、トイレの床には穴があるだけでした。アランは同じ建物にいましたが、どこか他でした。私たちの場所を見た後、彼はまっすぐクリシュナジのところに行って、言いました。それから明らかに、マーダヴァチャリは − 彼は、インドでのKの活動すべてを取り仕切りました − すべてがよくないと、言われました。彼はインド鉄道の或る種の大物だったんですが、今は退職していました。とても背が高く大きな人で、とても厳格なバラモンの種類ですが、彼は人々の快適さには関心を持たなかった − 少しもです!(笑う)彼は来て見つめ、何か「ああ、そうか、準備できていないな。うーん、まあ、誰かを寄越しましょう。」というようなことをつぶやきました。でも、まったく誰も来なかった!明らかにクリシュナジに再び情報が伝わったようで、今やクリシュナジが到着しました。そして、彼が来て、これを見てから続いた仕事は!(笑う)これは、彼の認識や注目に似つかわしくないはずでした。
スコット−もちろんです。(笑う)
メアリー−でも、彼は入ってきて、(クスクス笑う)自分の権威を主張しはじめました。たちまち、人々がバケツの水や箒等を持って来ました。ついに敷物が見つかって、幾つかシーツと毛布と、最後に蚊帳が見つかりました。或る気の毒な運び手 − 朝に私たちの熱い湯のバケツをもって階段をふらついて上がった人は、それを沸かすために夜明けのずっと前に起きていました(彼が薪を切って、火をおこし、バケツの水を沸かしているのが、聞こえました。)このかわいそうな人が、洗面台の清掃に取りかかりました。彼は初日それを四時間掃除しましたが、三週間後、私たちが立ち去った日、彼はまだカミソリでこすっていました。ひどいわ!でも、クリシュナジがやってきて、自分のお客さんが何を被っているかを見たことに対する〔担当者たちの〕驚愕は − みんなの顔は青ざめていました。(メアリーとスコット、笑う)
スコット−もちろんです。あなたはどこで食事をしましたか。
メアリー−どこで食事をしたんでしょうか。どの食事も憶えていないわ。(笑う)まあ、悪くはなかったはずです。さもないと、それを憶えているでしょう!(クスクス笑う)
 ともあれ、クリシュナジは、たくさんの講話を行って、子どもたちに講話をしました。
スコット−それらはどこで行われましたか。
メアリー−学校のホールです。知っていますね、河沿いに下ると、学校の大きなホールに来ます。そこは〔ベンガル出身の詩人〕タゴールが創始したものです。ともあれ、教師たちへと学生たちへの講話がありました − 一緒のも、別々のも、です。そして、12月の或るすてきな日に、フランシスと私は、クリシュナジの部屋に招かれました − そこで彼はサルマン氏(Mr.Salman) − 彼は音楽の教師です − とともに、詠唱しました。私たちは床に座りました。彼の部屋は憶えています。とってもきちんとしていました。この枕にはタオルが掛けてありました。蚊帳は、すごくきちんと引き戻されていていました。そして、金属の衣装だんすと、何か引き出しのついたものと、肘掛け椅子がありました。いまでもそれは鮮明に見えます。私たちが座った小さな絨毯がありました。そして、彼らは詠唱しました。すばらしかった。
スコット−午後には、クリシュナジと散歩に行きましたか。
メアリー−ええ。しばしば運動場を回りました。敷地をぐるっと回る大きな散歩がありました。また、小さな川、ヴァルナ川を越えて、村々まで自分一人でたくさん行きました − あなたはそうしたことはありますか。
スコット−ええ、何回も。
メアリー−土地は砂色のようなものだと憶えています。建物はその同じ土から作られていたので、同じ色でしたが、白い装飾をつけていました。それらは、普通の住宅のように角張っていなくて、まるで子どもたちが造ったかのように、丸いようなものでした − 知っているでしょう、子どもたちが浜辺で造る家に似ています。私はそこをたくさん散歩したものです。また私は、〔ラージガートの敷地内の〕農学校まで歩いて行ったものです。
 また、かんぬき(そう呼ぶんだと思います)を買うために、アランとともにベナレスに行くよう頼まれたのをも、憶えています。なぜなら、農業専門校には、狂犬病のジャッカルに噛まれた学生がいて、彼はパスツール療法を受けなかったんで、死んだからです。私たちは、狂犬病のジャッカルを寄せ付けないために、かんぬきを、大きな重いものを、買うよう頼まれました。私は一度もジャッカルを見ませんでしたが、それがお使いでした。ベナレスのとほうもないことを、憶えています − それもまた、(スコット、笑う)世界の他のどんなところにも、似ていません。
スコット−ええ、そこはインドの本質のように見えます。
メアリー−ええ、またタクシーとトラックが警笛を鳴らし、山羊と雌牛がうろついていました。或る時点で、フランシスとアランと私は〔ガンジス河の岸の〕ガート(the ghats)(原註5)に向かって歩いて行き、角を曲がっていました。私は、後ろに死体を載せた自転車と、ほとんど衝突しそうになりました!包んでガートの焼き場(原註6)へ持って行くんです。それから、河沿いに、ガートを歩いていました。私たちはちょうど灰の中を歩いていました。私はアランに言ったのを、憶えています − 「ねえ、私が倒れこんだなら、そのまま歩きつづけて、私を知っていたのを忘れてね。なぜなら、(スコット、笑う)私は死んでいるでしょうから!」と。(二人とも笑う)ふしぎな街だわ!
スコット−ええ、ええ。この時期にあなたは、クリシュナジとどんな種類の接触を持ちましたか。討論のために彼の部屋に行きましたか。
メアリー−ええ、幾つか討論会に招かれました。
スコット−これら討論会の間に、彼に会っただけですか。
メアリー−まあ、討論会の間に彼に会いました。そして、昼食に呼ばれたと思います。そのとき〔料理人の〕パラメシュワラン(Parameshwaran)(原註7)が彼とともにいたと、思います。だから、彼の建物の二階で昼食がありました − ダイニング・ルームだった、あの裏の部屋です。
スコット−憶えています。で、あなたはそこでクリシュナジと昼食したんですね。
メアリー−ええ。
スコット−あなたは多くの討論会に参加して、散歩で彼に会ったんでしょうか。
メアリー−ええ。でも、他の場所ほどではない。
スコット−あなたは〔その近郊の〕サールナート(原註8)に行ったはずです。
メアリー−ええ。私はサールナートへ行きました。一人だったか、誰かと一緒だったか − たぶんアランね。私はそこに歩いて行き、博物館に行きました。その散歩は憶えています。通り過ぎたのは、小さな・・・寺院でもないが、そこに住んでいる或る導師がいました。人々は供物やいろいろと持って来たものでした。
 私たちはまた、舟でガンジス河を下りました。
 また年老いた犬がいたことをも、憶えています。その名前は忘れてしまいましたが、ローヴァーのようなものでした。朝早く私が散歩に出かけると、犬がタンパク質を求めて河に出ているのが、見えました!(笑う)それで、ハゲタカもいました。
 それから、私は午後にお茶に行き、〔その犬が〕バジャー(原註9)のようにここで床に臥せって、眠っているのを見ました。おじいちゃんのローヴァー。彼のことで大騒ぎしている西洋のご婦人たちは、(笑う)朝早く彼がどこに行っていたのかを、知っていたとは思わないわ!
スコット−ええ、死体を食べて。
メアリー−ええ、死体を食べて。
 最後に私たちが旅行を続けることになったとき、空港には、ご婦人がいたのを憶えています − 彼女はジャイナ教徒* でしたが、動揺していて、自分はクリシュナジと結婚していると信じていました。だから、私たちは彼女から彼を保護しなくてはなりませんでした。彼女は横たわって、彼を待っていました。なぜなら、彼女はいつも彼に触れたかったのですが、彼はそうしてほしくなかったからです。それで、私たちはフットボール〔の試合〕のように妨害しに走らざるをえませんでした。私たちは彼女を、月光夫人(Mrs.Moonlight)と呼んでいました。なぜなら、幾らかの人たちがそうであるように、満月になると、彼女はより狂気になったからです。或る時点で、空港で彼女はあわや彼に触れそうでした。私は、彼が彼女に対して、「私に触らないでください。」と厳しく言ったのを、憶えています。彼は後で物語を語ってくれました − かつて〔西インドの大都市〕ボンベイ〔現ムンバイ〕で彼が一人でいましたが、彼女が現れた。彼は「立ち去りなさい。」と言い、最後に「あなたがそうしないなら、警察を呼びますよ。」と言わざるをえませんでした。彼女は「どうぞ。私はあなたの妻よ!」と答えましたわけです。(スコットとメアリー、笑う)運良くその時点で、路面電車が通りかかり、彼は路面電車に飛び乗り、逃げました。(笑う)彼女は一人娘がいましたが、かわいそうな娘に、クリシュナジに対して、「愛する父さん」とか手紙を書かせました。
 ともあれ、私たちはさらに、〔インド南東部の大都市〕マドラス〔現チェンナイ〕へ旅行しました。ラージガートはかなり涼しく乾いていました。事実、かなり寒かった。私たちは〔まず飛行機で〕デリーに飛んで戻りました。マドラスに行くには、デリーに行かなくてはならなかったからです。
 またもや私は、〔デリーの〕国際センターで夜を過ごしました。クリシュナジはシヴァ・ラオのところに泊まりました。それから、クリシュナジとアランと私は、マドラスへ飛びました。私は、マドラスで飛行機から歩いて出たのを、憶えています。突然に熱帯でした* 。午後遅くのことで、全然違っていました。クリシュナジを歓迎する人たちの群れが、いました。彼らの多くは花輪をもっていて、彼らの一人がジャヤラクシュミー夫人(Mrs.Jayalakshmi)でした。彼女に会ったことがありますか。
スコット−ああ、はい、はい。何度も会ったことがあります。
メアリー−まあ、会ったことのない人たちのためには、彼女はインドの女性としては、全く背の高くて、大きな存在感と威厳をもっていました。彼女は南インド流の服装をしていました − それはいつも、美しくとっても重々しい絹のサリーに、コットンのブラウスでしたが、彼女はそれらを違ったように着こなしました。それは、違ったやり方で腰に巻かれていました。それは肩に掛けるやり方ではなく、たいへん優雅さを持っていました。結局、私は彼女のサリーのコレクションを見ましたが、あれはとてつもないものでした。彼女はとても静寂で、むしろ恥ずかしがりでした。そして、わずかにきびしかった。
スコット−すばらしいご婦人です。
メアリー−ええ。
 アラン〔・ノーデ〕が彼女に挨拶したとき、彼女は、「家を見つけておきました。」と言いました。彼女はさらに運転して、私たちのために借りておいてくれた家に、送ってくれました。彼女はまた、街のスペンサー〔百貨店〕から調度品すべてを借りて、しかも一日一食の料理をするように、自分の調理人を私たちに貸してくれました!彼女のおもてなしは信じられなかった。彼女は、フランシスを知らなかったし、私を知らなかった。彼女は、アランを知っていました。そして、彼がクリシュナジがこれこれを望んでいると彼女に手紙を書いておいたから、彼女はこれらの面倒を見てくれていたんです!本当にとほうもない。で、私たちは引っ越してきました。フランシスと私は、バスつきの二階の部屋を取りました。アランは一階にいました。私たちにはキッチンがあり、そこで私は朝食と夕食を造ることになりました。私は(笑う)初めてキッチンを一目見たのを、憶えています − 10フィート〔、約3メートル〕かける20フィート〔、約6メートル〕ほどの部屋、かなりの部屋でした。狭い端には鍋をのせた棚がありました − それらは銀に見えましたが、取っ手がない。部屋の反対の端には、正方形の穴を切り込んだ石のカウンターが、ありました − その上には、水の蛇口がありました。それが流し台でした。その左には、キャンプをするあなたたちには馴染みぶかいものがありました。すなわち、パラフィン〔すなわち灯油〕のコンロです。(スコット、笑う)巨大なものです。
スコット−(笑う)では、豪華なキッチンがあったわけです!
メアリー−ええ。(笑う)それがそこにあったすべてです!他には何もありませんでした。
スコット−でも、そこは半ダースの召使いたちで充たすと思われます・・・
メアリー−まあ、一人、召使いが到着しました。バラモンの料理人です。とても凜々しい若者でした。とても礼儀正しく厳しく威厳がありました。でも私は、彼が床の上で昼食を準備しているのを、見ました。床の上でザク、ザク、ザク、ザクと。さて、彼はバラモンですから、とても清潔ですし、私は靴を脱がず足をきれいにせずに、そこに入っていってはいけないことを、悟りました!(笑う)でも、たとえそうでも、床の上です!
スコット−ええ。分かります!(笑う)
メアリー−それで、私の最初の食事は朝食でしたが、その前に牛乳屋が水牛の乳をもって来ました。彼はそれを大きな水差しで運んできました。顧客たちは自分の容器を持っていて、彼はそれをあなたの容器に注いでくれました。私は、それをこのように支えている彼の汚い親指がいつもあったし、牛乳は汚い親指の上を流れ落ちたのを、憶えています。牛乳は煮立てなくてはならなかったので、これらのことには騒ぎ立てしないんです。(スコット、クスクス笑う)それで、私は牛乳を煮立てたものです。また、湯冷ましのための蓋つきの土器の壺があり、それはバラモンの料理人が充たしました。その水は信用できました。私はフォークにトーストを突き刺して、(笑う)キャンプ・ファイアの道具でトーストを作りました。
スコット−(笑う)では、パラフィン〔灯油〕の味がしたわけです!
メアリー−ええ。果物がありましたが、赤痢に罹らないよう、気をつけて切ってありました。それが朝食でした。(笑う)
 初めての経験としては興味深かったです。フランシス〔・マッキャン〕はその頃、朝食には何もしませんでした。私が一人で朝食を作りました。(クスクス笑う)ともあれ、私はヴァサンタ・ヴィハーラ(Vasanta Vihar)(原註10)に招かれました。クリシュナジは、私をすっかり見せて回り、自らがもやはTS〔神智学協会〕(原註11)に歓迎されなかったとき、ラージャゴパルが寄付を集めて、ヴァサンタ・ヴィハーラの6エーカー〔、24300平方メートルほどの敷地〕を買ったことを、説明しました。二つの小さな建物を建てるつもりでしたが、どうにかこの大きなものが建てられた − それはクリシュナジが選んだようなものではなかったが、そのとおりだ、と。彼は、あらゆるものを見せてくれました。大きなホールを含めて、です − そこは、あなたもよく思い出すでしょう。二階の彼の部屋等、全部です。
 その後で私たちは、散歩に行きました。ジャヤラクシュミー夫人が運転して、私たちを〔マドラス市内の〕鹿の公園(the deer park)へ連れて行ってくれました。私たち三人は鹿の公園を歩き回りました。そこはすてきでした。
 それから公開講話が始まりましたが、その時点で私はインフルエンザに罹りました。私は本当に病気になって、ベットに留まらざるをえませんでした。私は肺炎になろうとしていると思ったのを、憶えています。なぜなら、さらにますます病気が重くなったからです。最終的に或る夜、私はアランの部屋に降りて行き、「ねえ、私はどうしようかしら。」と言いました。彼は、「私はあなたの友だちとして、約束します − あなたが本当に重病になるなら、私はあなたをパリのアメリカ病院に連れて行くでしょう。私自身があなたをそこに引きずっていかなくてはならないなら、ね。」と返答しました。それで私は安心しました。私はインドの病院に入れられるのは、恐ろしい気持ちでした。私は幻覚を見つづけました。映画からだと思います − そこでは、砂漠を越えていく隊商がいました。誰かがラクダから落ちて、残りの人たちはひたすら進みつづけるんです。
スコット−(笑う)ええ。
メアリー−それが私になろうとしている!インドに取り残される!(笑う)それで、私の元気は戻ってきて、菌に勝利したと思います。熱が下がったとたんに、アランがクリシュナジに告げて、彼は「彼女をここに連れてきなさい。」と言いました。アランが戻ってきて、私に「クリシュナジはあなたに、今すぐ会いたがっている!」と言いました。で、私はよろめいて立ち上がり、服を着ました。私たちが「癒し」と呼ぶことになったものを、彼はしたいと思っていました。それが、彼が私に対してそれをした初めてのときでした。彼は私を椅子に座らせて、私の肩に両手を軽く置いたので、鳥の翼が自分に触れているかのようでした。それから彼は私に、どこに病気を感じるかを、訊きました。もちろん私はひどい洞鬱血がありました。彼は私の目の真上、上と下に手を置きました − まるで指の先で皺を伸ばすように、です。それから、片手を片目に、片手を肩に置きました。痛みが即座に止まりました。彼は、「では、毎日来てください。私はそれをしましょう。」と言いました。
スコット−痛みが止まったほかに、何を感じましたか。
メアリー−私は彼の親切に泣きたくなりました。とても感じ入りました。すごく感動的でした。何年も後、彼は一度、私の家政婦、フィロメナ(Filomina)の手当をしました − 彼女はひどい〔痛風などの〕関節炎を持っていました。彼女は後で私に対して、〔イタリア語で〕「ア・レ・マニ・デ・ウン・サント」、彼は聖者の手を持っている、と言いました。そのようなものでした。(休む)
スコット−その時に他に何か感じたり、他に何か考えたりしましたか。
メアリー−いいえ。ただとても静か、とっても静かでした。何か意図した故意の静けさでなかった。彼がこうしたとき、感じました。彼が終えた後、私はそこに座っていられました − どれほどか分からない間、です。
 彼はいつも後で立ち去って、手を振ったものです − すべてを振り払っているようでした。
スコット−ええ。手から水を振り払おうとするかのように。
メアリー−ええ。でも、私には、彼は何か病を振り払うようなことをしているように見えました。それから彼は行って、手を洗ったものです。
 質問をしてください。
スコット−その頃、誰がインドでの〔クリシュナジの〕活動を取り仕切っていましたか。
メアリー−マーダヴァチャリ(Madhavachari)です。
スコット−場所の雰囲気はどのようでしたか。歓迎を感じましたか。
メアリー−ええ。幾つかのおかしなことにも関わらず、感じました。彼らはみな、とてもすてきでした。
 マドラスではあまり多くの散歩を憶えていません。それは、〔アディヤールの神智学協会の敷地を抜けて、ベンガル湾沿いの〕砂浜での散歩の日課が始まる前でした。代わりに、彼は鹿の公園を散歩しました。
スコット−クリシュナジは〔近くの〕ジャヤラクシュミー邸に歩いて、行き来しなかったんですか。
メアリー−たぶんね。彼女は〔ヴァサンタ・ヴィハーラの前のグリーンウェイズ〕道路を行ったところにいました。
スコット−知っています。思うに、彼はかつて・・・私はそこを彼とともに歩きました。
メアリー−私は本当は、マドラスで彼と散歩に行きませんでした。鹿の公園以外はね。
スコット−昼食での議論とか、そのような、あなたが加わるようなものが、ありましたか。
メアリー−ええ、時折ね。私が招かれた最初の昼食は、あの大きな部屋で行われました − 会合すべてが開かれたところです。その端にテーブルがありました。マーダヴァチャリがそこにいて、クリシュナジと、私は他の誰も憶えていません。
スコット−私はまた、タパス(Tapas)* についても、お訊きしたかったんです。タパスを憶えていますか。
メアリー−ええ!
スコット−彼女はとてもすてきなご婦人で、クリシュナジにとても献身的でした。彼女は、デリーとラージガートとマドラスで、そこにいたにちがいないと思います。
メアリー−たぶんね。ちいさな小柄な女性です!彼女はスナンダ、ププル、ナンディニ(原註12)と戦争を続けていました − クリシュナジの世話をしていると思われている人々みんな、とです。なぜなら、彼女が彼のインドの衣服をしまっておいたからです。彼女がそれらを計らったし、彼女は、自分がどこにそれらをしまっているのかを、彼女たちにけっして(笑う)言わなかったんです。(スコット、笑う)彼女はそれらについてとっても所有欲が強かった。それで、彼が到着しそうになり、彼女たちが彼のインドの衣装をかき集めようとしているとき、毎年危機がありました。衣服は突然、出現したものです。でも、(笑う)彼女たちがすっかり失望した後、やっとのことでした!(スコットとメアリー、二人とも笑う)それは彼女の領土主張でした。
スコット−ええ、ええ。彼女はまた彼の部屋をも掃除したんですか。
メアリー−ええ、しました。彼のバス・ルームもです。私は先に飛びます − タパスが現れてきたからです。でも、これは後で起きました − 彼女がここ、ブロックウッドにいたとき、です。シドゥー姉妹(the Siddoos)(原註13)が〔1974年から〕彼女の旅費を払いました。彼女はまたその夏、スイスにも来ました。この時までに私は〔クリシュナジの身の回りの〕これらすべてのことをしていたので、彼女はきびしく私を問い詰めました − 「彼のシャツはどうなるの?」と。
 私は「家で洗いました。」と言いました。
 「誰が洗ったの?」。
 「私です」。
 「ああ、誰がアイロンをかけるの?」。
 「私です」。
 「ああ。」と彼女は言いました。(メアリーとスコットは二人とも笑う)ことは満足できました。私は、それらを他の人たちの汚い〔シーツなど〕リネン類と一緒に送り出さなかった!
スコット−とんでもない!(さらに笑う)それに誰かふさわしくない人が、それらにアイロンをかけなかった!(二人ともまた笑う)ええ。
メアリー−彼女はとてもすてきでした。とてもすてきでした。(笑う)
 で、私たちはマドラスから運転して、〔インド南部、アンドラ・プラデーシュ州の内陸部〕リシ・ヴァレーに行きました。
 クリシュナジはパマ〔・パトワールダーン〕(Pa ma)(原註14)とともに、車に乗りました − 他の人を私は忘れました。アラン〔・ノーデ〕とフランシス〔・マッキャン〕と私は、私が運転手つきで借りた別の車に、乗っていました。私たちはみんな、朝4時に出かけました。あなたも思い出すでしょうが、〔暑い気候と遠い距離もあって、〕リシ・ヴァレーへ出かけるには、普通の時刻です。
 クリシュナジの車が先でした。彼は私に、南十字星を探すように言っていました* − 私はそれを見たことがありませんでした。私は、あの朝、日の出前に車を走らせたのを、憶えています − 牛車が田舎から都市へ野菜を運んでくる。急がせないで、ゆっくりと棒でつつくあれら白い牛の車です。貨物トラックが警笛を鳴らす − 全部です。インドの夜明け前に暖を取るために、人々が小さな煙たい火のまわりに縮こまり、みんな包まり、特に手と首を包まっている村々を、通りぬけました。
 あなたも憶えているにちがいないわ。
スコット−ええ、いつもとほうもなく見えました。
メアリー−私たちはみんな、道路沿いのどこかで待ち合わせて、ピクニックの朝食をとることになっていました。でも、私たちが一定の道路区画、いわば検問所に着いたとき、私たちの車は適切な書類を持っていないことが、分かりました。
スコット−ああ。そうです。私は、或る地点で一定区域を運転できる許可のみを与えられていたのを、憶えています。
メアリー−そのとおり。で、車は〔タミール・ナドゥ州カンチプーラム県の〕ナッローレ(Nallore)という場所に戻らざるを得ませんでした。多くの手振りと話などをした後で、私たちはもう一台タクシーを雇いました − それは適切な書類を持っていました。それで、私たちはかなり遅くリシ・ヴァレーに着きました。もう一台の車は、ピクニックの朝食に停まっていたのですが、私たち〔の車〕は現れなかった。私たちが到着したとき、クリシュナジは、古い客用住宅の前に出ていました。
 私はリシ・ヴァレーで、即座に気分が良くなりました。そこは異なった気候であったからです − 乾いていました。私にとってそこは、〔アメリカの西部の乾燥地帯〕アリゾナのようでした。あのインフルエンザのような病気にともなう私の困難すべては、良い気候で終わりました。
 クリシュナジは、古い客用住宅の二階のあの小さな部屋にいました。
スコット−ここで止めましょう。なぜなら、テープが5分ほどしか残っていないし、ここから会話をまた始めるのが容易いだろうからです。あなたはリシ・ヴァレーに到着したばかりです。
メアリー−ええ。
スコット−リシ・ヴァレーへの到着前に、他に何か思いつくことが何かありますか。
メアリー−私にはいつも子どもたちのおもちゃのように見えた、あれらとほうもない岩々がある、谷のふしぎな様子を、ただ思い出します − そこに巨人の赤ん坊が置いたにちがいなくて、まさにそのように均衡している岩々、です。自然がどうにかそれらを造り出したわけがない。
スコット−ええ。
メアリー−自然がそれをあのようにしたんではないでしょう。
スコット−(クスクス笑う)ええ。
メアリー−私が触れるのを忘れたことが一つあります − その年、私たちがリシ・ヴァレーに行く前に、マドラスで起きたことです。〔ギリシャ人の〕ジョージ・ヴィソウルカスが突然、現れました。彼は〔師事しようとしていた〕そのスワミ〔、ヒンドゥーの行者〕が怖くなったんだと思います。彼は、或る種の黒魔術が行われていると、考えました。ともあれ、彼は現れたし、アランは、彼の振るまってきたさまについて、本当に彼に怒っていました。なぜなら、アランは、彼をクリシュナムルティに紹介したことに関して、責任を感じたからです。彼ら二人の間は、かなり不愉快になりました。
 それで、ジョージは立ち去りました。思い起こすところ、かなり失礼な立ち去り方でした。まったく不愉快でした。
 インド人たちのほとんどは、これらを強く非難していました。でも、そのことで彼らは、むしろアランを責めました。
スコット−なぜ彼らはアランを責めたんですか。インドでアランについての評価はかなり低かったということは、知っていますが。
メアリー−ええ、そうでした。その一部分はこれを巡って、です − 彼らはジョージのことで彼を責めました。でも、彼らは、アランが彼らにとって突然に割り込んできた人であったから、進んで彼を責めたと思います。彼らは、クリシュナジに会ったり、彼のためにいろいろと手配するには、或る程度、アランを通さなくてはならなかった。彼らは、アランは割り込んできた人だと感じて、そのために彼が好きでなかった。
スコット−ああ。アランは、クリシュナジにとって、〔神智学協会会長で養母の〕アニー・ベサントや〔その盟友〕レッドビーター以来、インド人でない最初の助手であったにちがいありません − 彼をどう呼んだのかは分かりませんが。なぜなら、〔Kの助手役は、実弟〕ニトヤの〔亡くなった〕後、ラージャゴパルでした。そして、ラージャゴパルは・・・
メアリー−ええ、彼は彼ら〔インド人でバラモン〕の一人でした。
スコット−ええ、それはインドの見栄でした。ええ、彼らの一人です。そのとき突然に、彼らの一人ではなかった。
メアリー−ええ。
スコット−それは全く思いつきませんでした。でも、それはもちろん、そうであったにちがいなく・・・
メアリー−大きな憤りがあったと思います。それにアランは丁重でなかった・・・
スコット−・・・これらにとって、そうであるべきほどには・・・
メアリー−ええ、ええ。
スコット−知っています。(笑う)
メアリー−〔インドでの仕事の担当者〕マーダヴァチャリは、特に彼を嫌っていました。
スコット−そのとおり。リシ・ヴァレーから再び始めましょう。

原註
1)列車はロンドンからドーヴァーに行き、次にフェリーがドーヴァーからフランスのカレー港に行き、次に列車が人々をカレーからパリに運んでいくから、そう呼ばれた。
2)カルロ(Carlo)とナディーネ・シュアレス〔夫妻〕(Nadine Suares)は、デ・ラ・ブールドネ(de la Bourdonnais)通り15の8階建てのアパートメントに、住んでいた。
3)メアリーの夫〔、映画制作者のサム・ジンバリスト〕は、映画『ベン・ハー』を完成させた後、まもなくローマで〔心臓発作で〕亡くなっていた。
4)インドの色鮮やかなテント。側面は取り外しが可能で、野外の儀式、結婚式、大きなパーティ等に用いられる。
5)〔ガンジス河の沐浴などのために〕水面へと降りていく、ふつう石でできた、階段。
6)これらは、特に死者の火葬のために設計された、幅の広い階段である。
7)1950年代終わりから時折、インドでクリシュナジのために料理を造った、優秀な料理人。
8)仏陀が初めて説法した場所で、最初の仏教寺院の敷地。
9)イングランドのブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センターで、1986年から1998年まで、学校で飼われた犬。
10)1930年代初期にクリシュナムルティの仕事のために造られた建物で、彼がマドラスで泊まる場所。後にそこは、インド・クリシュナムルティ財団の事務所になった。
11)〔TSというのは〕神智学協会(The Theosophical Society)〔の略称〕である。
12)スナンダ・パトワールダーン(Sunanda Patwardhan)、ププル・ジャヤカール(Pupul Jayakar)とその妹ナンディニ・メータ(Nandini Mehta)は、当時クリシュナムルティの仕事に関与しており、後にインド・クリシュナムルティ財団の有力メンバーになった。
13)〔医師の〕二人のシドゥー(Siddoo)姉妹、サルジト(Sarjit)とジャッキー(Jackie)は、カナダ・クリシュナムルティ委員会の創設者であった。*
14)パマ・パトワールダーン(Pama Patwardhan)は〔デリーで出版社を経営し、〕後に〔1976年〕、インド・クリシュナムルティ財団の幹事になった。



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