第1号 1944年から1965年4月まで


序論
これは多分に、私たちが知らなかったことの始まりである。メアリーと私が知っていたのは、私たちが二人ともクリシュナジ(原註1)に対してきわめて深い愛情を、そして彼の「教え」に対して大きな愛を、持っているということであった − 「教え」というのは、彼の仕事を指示するのに用いられた名称であった。私たちはまた、クリシュナジの〔三歳下で、ともに神智学協会に迎えられ、いつも一緒にいた〕(1925年に亡くなった)弟〔ニトヤ〕以来、誰一人、メアリーほどはクリシュナジをよく知っていなかったことをも、知っていた。私〔スコット・フォーブス〕はクリシュナジのことをはるかに知らなかったが、それでもなお、彼からは彼の幾つかの旅行に同行するよう頼まれたし、彼が〔1986年2月にオーハイで〕亡くなったとき、その身辺にいたほどであった。
 この第一回の対談が行われたとき、私はイングランド〔南部、ハンプシャー州の〕のブロックウッド・クリシュナムルティ教育センター − 彼がヨーロッパで設立した唯一の学校 − の校長であった。クリシュナジの死後、メアリーは、クリシュナジの存命中にいつも居住していたアパートメントを、〔そこに〕維持していた。そして、〔毎年5月から10月まで〕一年の半分をブロックウッドで過ごしたものである。これがその第一回となる対談は、当初、彼女のアパートメントのキッチンで行われた。私がブロックウッド〔の校長職〕を離れて〔教育哲学の研究のため〕オックスフォードに行った後でも、彼女がそこにいる月々の間には、週末にそこに戻ったものである。そして、私たちの対談を継続するために、私のテープ・レコーダーをもって私たちは、彼女のキッチンで会った。
 これら文字おこしの読者は、これが、互いへの愛を持っていた二人、そしてクリシュナジの仕事だけでなくクリシュナジという人に対しても深い愛情を持っていた二人の人たちの間の会話であるということを、理解されることが重要である(メアリーは私にとって大いに第二の母であった。彼女が言うには、私は彼女自身の持たなかった息子であった。)。クリシュナジが亡くなった後、十年以上にわたって、私は気がつくと、彼に語るべきおもしろい話をいまだに脳裏に集めていた。クリシュナジを笑わせることが、私の喜びの一つであったからである。だから、読者は、これら対談の性質は、真摯な解説のそれではなく、むしろ二人の親友が、両者にとって深く意味があり喜ばしかったことについて、一緒に議論するのを楽しんでいるというものであることを、理解されることが重要である。
 私は、メアリーに訊ねるにあたって、どんなことも些細すぎるとは考えなかった。だから私は、幾らかの読者に些細だと思われかねない質問を、多くした。私は、クリシュナジの生の特質のすべてについてのメアリーの知覚は、知るに値するものであると感じた。だから、幾らかの読者は、私の質問の幾つかは噂話の類いであると、感じられるかもしれない。私は、彼女とクリシュナジが様々な場所において何をしたかについて、果てしなく質問をしたものである。だから、多くの読者は、私が彼女から引き出している情報の幾つかは、クリシュナジの教えにとって全く重要でないと感じるのは、確実だと私は思う。この結論は妥当であろう。しかし、小さな日々の事柄は、メアリーにとってクリシュナジの面前にいるのがどのようであるかの一部分であった。また、私の作業仮説はいつでもこうであった − 後でいろいろと削除するのは容易いが、今、現にそうであるように情報源が失われてしまったとき、いろいろと補完するのは不可能である、と。だから、読者が、クリシュナムルティのとてつもなくて特別なことだけにして、些細なこと、個人的なこと、世俗的なことを跳ばしてしまいたい、外してしまいたいと思うのなら、どうぞそうしていただきたいし、私はそのことで彼らに拍手喝采するだろう。そういう読者は、私より編集が上手である。
 この資料の編集は、可能なだけ少なくした。それでもなお、資料の半分以上が削除された。メアリーまたはクリシュナジが当人について言ったことを読んだために、傷つくかもしれない人 − そういう人の感情を傷つけるのを避ける試みがなされたし、これからもなされるだろう。*
 私たちがこの第一回の対談を始める前に、メアリーは自分の日記を参照していなかったし、この資料で扱われる初めの歳月には、まだ日記を付けてもいなかった。彼女は1960年代から日記を付けた。そのため、彼女が私たちが継続する前に自分の記憶をよみがえらせたり、いろいろ探してみたりする必要性に触れるとき、彼女は、以降の対談に先立って自分の日記を読もうと言っているのである。にもかかわらず、彼女の記憶は、クリシュナムルティとの出会いの始まりから、きわめて鮮明である。この時期は彼女に対して甚大な衝撃を与えたからである。

メアリー・ジンバリストの回顧録 第1号
スコット−私はあなたに対して、ご自身のクリシュナジとの出会い、またはクリシュナジとの時間のすべて、たくさんの詳細について、お訊きしようとしています。
メアリー−あなたが質問するかぎりは、何らかの形で答えましょう。では、どこから始めたいですか。
スコット−まあ、あなたが持った最初の接触から、始めましょう。それは四十年代だったのを私は知っていますが、あなたが彼に初めて会った時とか何でも。
メアリー−ええ。1944年のことでした。〔第二次世界大戦の〕戦時中です。それに先立つ逸話があります。それは、もう一回話してほしいということなら、私がどのように彼のことを聞きつけたのか、ですね。*
スコット−絶対に、です。
メアリー−いいですよ。次の通りです − 私には、医者の友人がいました。かかりつけの医師ですが、彼は精神医学に関するすべての種類のことに関心を持っていました。私もそうでした。それで、私がインフルエンザの注射のためとか何だったにせよ、行くと、私たちはいつも頭脳や精神とか、それがどのように動くのかといった議論をすることになりました。そうね、1944年の春の(そうだったと思います)、ある日、私は何か医療の理由で彼の診察室に行きましたが、彼は「ああ、お入りなさい。あなたに話したいことがあります。」と言いました。彼はさらに、自分の友人、或る精神科医について話を進めました − その人は、自らが何かの不治の心臓病に罹っていると知ったのです。それを知るとただちに彼は、自らの生活しているシカゴの家族、友人たち、あらゆるものから立ち去って、「私はカリフォルニアに行って、クリシュナムルティという名の人から、死に方を学ぼう。」と言った。それで疑いもなく誰もが驚いたんです。私の医者の友人は、とっても興味を持っていたので、その友人に会いに行きました − 死のうとしている医者にです。もちろん彼はクリシュナムルティに会います。
 それは週末のことでした。私は後で、たまたま月曜日に〔その医師のところに〕行きました。彼は私に対して、「このとてつもない人に会ったよ。彼は、私がかつて聞いたことのある誰よりも、人間の精神について知っている。」と言いました。ええ、もちろん私はこの表現に大いに耳を傾けました。それから、しばらく間がありました。思い出せませんが、一、二ヶ月か、たぶん三ヶ月でしょう。そのとき、このクリシュナムルティがオーハイ(原註2)で講話を再開することになると聞いたんです(どうやって聞いたのかは忘れましたが、聞きました。)。私たちが〔伝記などをとおして〕今ではみんな知っているように、戦時中、彼はオーハイにいました。戦争が勃発したとき、彼はたまたまそこにいて、〔インドへ〕旅行できなかったからです。で、彼は単にオーハイで静かな生活を送っただけで、全く公開の講話をしませんでした。けれども、〔1944年には〕いまや戦争が落ち着こうとしていたので、彼が再び話をすることが決定しました。まあ、私は、これはどういうものなのかを見たいと思いました。それで、ロサンジェルスからオーハイへ運転していきました(前にそこに行ったことは無かったのです)。そして、彼が講話をするはずの場所〔オーク・グローブ〕を見つけて、講話を聞きました − 第一回の講話です。
 戦争はまだ終わっていませんでした。〔戦略物資として〕ガソリンの統制があったことを、ぼんやりと憶えています。私は、手持ちのガソリンでオーハイに行けるのかどうかを、考えなくてはなりませんでした。ともあれ、私は行きました。彼が、〔オーハイの西の端、メイナーズ・オークスにある、ブナ、ナラの林である〕オーク・グローヴ(the Oak Grove)(原註3)に彼が入ってきたのを全く鮮明に憶えています − 彼の威厳と静けさ、そして後でひんぱんに会うようになったとき、彼のしたことを、です。彼は、話す前にあたりを見回し、それから話します − 彼の声には打たれました。それは部分的にイギリス的でしたが、全くイギリス英語でもなかった。彼自身のイントネーションのみに、イギリスのアクセントがありました。講話と彼の話し方はきわめて印象的だと思いました。でも、或る面で私には全く耳慣れぬものでした。それで、後で私は行って、いくつか小冊子を買いました − 『講話記録(The Verbatim Talks)』と呼ぶことになったもの、あれら小さなパンフレット、です。私はそれらを家に持ち帰り、読みはじめました。私は精神分析の素養のせいで、ページごとに彼と論争しました。これらのことでは前進できませんでした。私は、「なぜ彼はそう言うのか。」と考えつづけました。これは二日間、続きましたが、どうにか運良く私には明らかになりました − これらの書かれたものをとおして論争するのはなく、ただ行って、彼が何を言うかを聞くべきであるということが、です。
スコット−では、オーク・グローヴでのその講話に戻りましょう。彼は、後年オーク・グローヴで話した* のと同じ場所で話していましたか。
メアリー−ええ。
スコット−全く同じ場所ですか。
メアリー−全く同じです。
スコット−彼は演台の上にいましたか。または、地面の椅子にですか。
メアリー−いいえ。彼はその頃、立って話していました。演台の上ではなく地面にだと思います。
スコット−聴衆は地面に座っていましたか、それとも椅子にですか。
メアリー−地面にだと思います。幾つか椅子があったかもしれません。憶えていません。私は地面に座りました。私が憶えているところ、ほとんどの人たちが地面に座りました。
スコット−聴衆にはどれほどの人たちがいたと思いますか。
メアリー−ああ、たくさんいました。ずっと後〔の講話集会〕で憶えているのと、違っていたようには憶えていません。たぶん千、少なくとも七百人です。さほどいっぱいではなかったが、かなり大勢でした。
スコット−彼らはどこに駐車しましたか。
メアリー−〔東側の〕野原にです。そこには後でも駐車しました。いつもそこでした。全体の仕組みは同じでした − 販売のための本やパンフレットを載せたテーブルがあったことを除いて、です* 。〔当時は〕本、わずかな本ですね。本を売っていた人たちの一人が、〔アニー・〕ヴィゲヴェノ夫人という人(a Mrs.Vigeveno)でした。私は彼女からパンフレットを買いました。彼女とその夫〔ジェームズ〕は、ロサンジェルスのウエストウッドに、画廊を持っていました。私はいつかの時点でそこに絵を見に行ったことがありました。彼女が私の名前を知っていたのかどうか分かりませんが、私が画廊に入ったことがあったことから、彼女は私を認識しました。それで、私が小さなパンフレットを買ったとき、彼女は「関心がおありですか」と訊ねました。ともあれ、私はそれらの講話の残りにも行きつづけました。それで、私はクリシュナジを初めて見たのです。
 さて、物語の中で〔アニー・〕ヴィゲヴェノ夫人* の関連は、その年のいつか後で私は電話をもらったことです。彼女からだと思います。私は〔ヴィゲヴェノ夫妻の〕画廊に行って、彼女に再会したのかどうか分かりませんが、私は彼女の画廊での討論会に加わるよう招かれました(彼らの画廊は彼らの自宅の一部分でした) − 一週間に一回、小さなグループの人たちと、です。それで、私は行きましたが、たぶん十二人か十五人の人たちがいたと思います。たぶんもう少し多かったか。そこの人たちの何人かを、私はすでに知っていました。ヴィゲヴェノ夫妻 − 私は彼らを知っていましたが、ごくふつうに〔知っている〕だけでした − 彼らに加えて、二組の夫婦を知っていました。それら討論会にはラージャゴパル(Rajagopal)(原註4)がいました。そして、クリシュナムルティが来るかもしれないと言われていました。実際、最終的には彼が来ました。私はそれらすべてに出席しました。
スコット−そのような会合は、幾つありましたか。
メアリー−憶えていません。でも、これらの会合は二組ありました。クリシュナムルティが第一回の組に来たのか、それとも第二回だけだったのか、今は思い出せません。でも、私はどちらにもいました。また、私の夫、サム〔・ジンバリスト〕(Sam)(原註5)を招待してもらい、彼が行ったことをも憶えていますが、彼はそれが何なのか分からなかった。彼は、私が興味を持っていることを知りたがっていました。その好奇心から出かけただけです。
スコット−これらの二組〔の会合〕の間には、一ヶ月とかありましたか。それとも一週間とか。
メアリー−憶えていません。
スコット−で、クリシュナジが出席したとき、あなたは直接的に彼と実際に話をする機会を得たわけです。
メアリー−ええ。それらは討論会でした。二人の人が − 私がよくよく知っている人でしたが − そこにいましたし、〔先にオーハイの〕講話にも出席していました。夫婦です。
スコット−彼らの名前は何でしたか。
メアリー−彼らの名前はアイスナー(Eisner)でした。彼らは、〔ロサンジェルスの〕私が住んでいるところの近く、通りを行ったところに住んでいました。妻のベティ・アイスナーと私は二人とも、戦争中、病院で一緒に看護助手として働いていました。それで、私たちは車に相乗りしたものです。それで、友だちになりました。後で、或る時点で彼らは、私と、ラージャゴパルとクリシュナムルティの二人を、昼食に招待しました。私は、クリシュナジが一回来たのを憶えているだけですが、私は彼の隣に坐りました。彼がとても恥ずかしがりだったのを憶えています。これは少し後に起きました。私はこれを正しい順序で話していません。
 講話が行われている間、私はどういうわけか、クリシュナジとの〔個人〕面談を要請できることを、聞きました − 彼は、人々に個人的に会ったのです。それで、私は手紙を書きました。首尾良く、これこれの日にこれこれの時刻にこれこれの場所に来られるなら、クリシュナムルティ氏との〔面談の〕約束ができるだろうと言う返事を、もらいました。面会の住所は、オーハイではなく、ハリウッドの住宅でした。それで、私は行って、ベルを鳴らし、クリシュナムルティ氏がドアを開けました(スコット、クスクス笑う)。私は、彼が何かお辞儀したさまを、きわめて鮮明に憶えています。彼は、美しくとてもフォーマルな作法を持っていました。彼は、「おはようございます。マダム」と言いました。
スコット−もちろんです。
メアリー−私が入っていくと、見たところ、家には他に誰もいなかった。分かりません。とても静かでした。私たちは居間のようなところへ行きました。
スコット−これは誰の家でしたか。
メアリー−後で、それは〔エルマ・〕サルク夫人(Mrs.Zalk)の所有する家だとかそのようなものだと、知りました − ロザリンド・ラージャゴパル(原註6)の妹です。でも、その家は、彼らみんなにとって都会の別邸として機能しました。ここが、ロサンジェルスでクリシュナジが人々に会った場所でした。そこはビーチウッド・ドラィヴ(Beachwood Drive)にあったのを、憶えています − ハリウッドの古い部分です。ともあれ、クリシュナジはそこに坐って、何も言わなかった。それで、私はなぜここにいるのか、なぜここに来たのかを言う必要があると感じました。私が彼に対して自分自身のことを少し話してから、彼に訊ねるつもりでいた質問に近づいていたとき、彼は私に幾つか質問しました。そのやりとりは憶えていません。それは、私がかつてしたことのある、どんな心理的なことの議論とも、実に他のどんな種類の議論とも異なった系統だったことを、憶えているだけです。私は出てきたとき、まるで頭が切り開けられて、内側のすべてが手術を受けたかのように感じました。おそろしく動かされました。また彼が、私を私自身の中へ連れて行ってくれたことを、憶えています(ですが、それは他の人たちに数多く起こるのを見ました) − 何と言うのか、精神、または意識、または何か理解の水準へ・・・まあ、私は大いに泣きました。私が言うのは、それはとても深かった。それは私の内側でとても深い何かに触れました。それで、私は泣きました。私は、多くの人たちがクリシュナジへの話から出てくるとき、それを経るのを見てきました。
スコット−ええ、ええ。
メアリー−実は、それは私には後で他の〔個人〕面談で起きました。ともあれ、私はその年の講話すべてに行きました。最初の講話の後、私は本当にただ聞きました。私は、自分の考えることについて続けるべきではないことが、分かっていました。ただ行って聞きました。まあ、それが、私が余生の間、一番中心的な関心を持ったことになりました。
スコット−では、あなたがしたこの面談は、画廊のあれら討論会の間だったんですか。
メアリー−討論会の前でした。下手に話してしまいました。
スコット−いえ、いえ。順序は問題ではありません。順序だっていなくていいんです。
メアリー−順序は、私は彼の話を聞く。パンフレットと論争する。戻って彼の話を聞く、というものです。その後、私はただ聞きました。それは染みこんできました。
スコット−いいです。それから、あなたは面談を行った。
メアリー−ええ。それから小さな討論会に加わっていました。
スコット−それで、小さな討論会に行ったときまでに、クリシュナジはすでにあなたと幾らか接触していた。
メアリー−ええ。でも、彼は、前に私に会ったことがあるというしるしを、何も見せませんでした。何年も後に、〔スイスの〕サーネン(Saanen)(原註7)* で彼は一度私に言いました − 「私はあなたをカリフォルニアで知っていましたか。(クスクス笑う)それとも、カリフォルニアで会いましたか。」と。もちろんこの出会いは、私の人生において圧倒的なマイル標石でしたが(スコット、今笑う)、彼はもちろん何の記憶もなかったんです!見たところ、まあ、私はとてもうれしかったから、笑ったのを憶えています。彼が憶えていないのは、正しかったし、まさに彼らしいことでした。もちろん彼が、これら、私のようにやって来て、たぶん退屈な質問を浴びせかける人たちをみな、憶えているはずはありません。
スコット−ええ。そのときあなたが彼に対して持っていた質問が何だったのか、憶えていますか。
メアリー−いえ、いえ。憶えていません。
スコット−で、このすべてが1944年に起きた?
メアリー−44年と45年にかけて、です。それが45年の冬に入ったのかは、言えません。それとも・・・〔個人〕面談は45年にあったと想像するんでしょうが、でも、確かではありません。それは問題ではありません。ともかく、私たちが今知っているように、そのとき彼は〔1948年にヨーロッパ経由で〕インドに行ってしまいました。オーハイではしばらくの間、もはや講話がありませんでした。彼は明白にインドで話をしました。たぶん〔その後、〕ヨーロッパでも。でも、私はそれらのどれにも出席しませんでした。
スコット−あなたは彼の本を読みつづけましたたか。
メアリー−ええ。読みつづけました。私は郵送者名簿に載っていました。〔夫の〕サムは関心がなかった。それで、私は自分で読みつづけました。それから、これらには大きな隔たりがあります。なぜなら、私は本当に1960年まで、再び彼が話すのを聞かなかったからです。
スコット−本はどこで得られましたか。
メアリー−クリシュナムルティ著作協会(原註8)からです。彼らは、新しい本が出るとき、小さな葉書を送りました。葉書を受け取って、そのカードが広告するものを注文し、それを得ました。
スコット−では、1960年までクリシュナジを再び聞かなかったんですか。
メアリー−ええ。彼は1960年に戻ってきて、一連の講話を始めました。6月だと思います。*
スコット−メアリー、あなたがこの語りに個人生活を含めたいのかどうか、私は知りませんが、それは関連性があると思います − それらの中間の年月にあなたに起きた事柄です。〔夫〕サム〔・ジンバリスト〕はその時期に亡くなっていた。あなたにはそのすべてがありました。
メアリー−サムは1958年の終わりに亡くなりました。私は彼をローマに残したばかりでした。〔彼の制作した〕映画『ベン・ハー』が、完成していなかったからです。でも、私は戻ってきて、〔山火事で〕焼け落ちた私たちの〔ロサンジェルスの西の海辺の高級住宅地マリブの〕住宅* の再建を始めなくてはならなかった。私は、クリスマスにはローマで彼に再会しようとしていましたが、私たちは住宅に着手し、建築業者と契約を結び、それらのことすべてをしなくてはならなかった。私がマリブに戻り、契約に署名し、建築を始めて十日後、サムは重大な心臓発作で急死しました。私はそれについて続けたくないですが、それはまるで、分かりません、なにやら私の人生も終わったかのようでした。とてもふしぎでした・・・これはとても個人的なことです。でも、それは・・・自分はまだ生きているので、何か私にはすべきことがある、との感じがありました。何か見知らぬ形で、私はそれを彼のためと自分のためにしていると感じました − まるで、何か私には学ぶべきことがあるかのように、です。どのようにかを、私に訊かないでください。でも、なぜだか、彼のためにもそれをできる、と。私は・・・これは論理的なことではありません。
スコット−ええ、理解します。
メアリー−それはとても深遠な感情でした。彼の死を知ったまさにその夜、私は何かしなくてはならないことがあると感じたのを、憶えています。私は、これらはどういうことかを見出さなくてはならないと、感じました。私にとっては、それがただ一つの重要なことでした − 生と死を越えて何があるのか、私たちはみんな人生で何をしているのか、なぜ私たちは間違うのか、と。疑問のすべては・・・たぶん私たちが、クリシュナジの教えのように何か真剣なことと接触するとき、みんなが私たちの生について抱くことです − または、あなたの生で誰が亡くなるような深刻なことと、です。それは本当に危機です。それに対する答えは、私は戻って、クリシュナムルティの言うべきことを聞かなくてはならない、というものでした。それは、或る種の避難所や覚りや慰めを求めて、クリシュナムルティへ逃げていくということではなかった。それは、私は彼が何について話しているかを理解しなくてはならないということでした。なぜなら、彼が話していることは、真実と真理に関わりがあるにちがいない、そして、それが私がまだ生きていることの意味すべてであると、私は本能的に、深遠に感じたからです。それは、私がしたいと思い、関心を持っているただ一つのことでした。それが、その時点で私にとって何かのただ一つの理由でした。
 でも、私は、続く何週間、何ヶ月間に、何かから逃げ去ってはならない、というとても強い感情を持っていました − 私は問題を解決するため、何らかの形でどうにか気分を良くするために、誰のところにも行ってもいけない、と。私は起きたことから逃げ去ってはならない。むしろ、私自身の生において起きたことと折り合わなくてはならない。言い換えると、自己動機をもって何にも行くな、と。
スコット−ええ。理解します。(メアリーの話を聴く)*
メアリー−私はそれを強烈に、強く感じました。だから、どんな試みもしなかったし、彼に会いに行おうとさえも考えませんでした。そのとき、1960年に突然彼が〔カリフォルニアに〕戻ってきました。これは、サムが逝った後、一年半ごろでした。私は講話に行きました。私はまた手紙を書いて、〔個人〕面談を求めました。彼は八回の講話をすることになっていましたが、四回行っただけでした。第四回の最後に彼は、これが最後の講話になることが残念だと発表しました。健康上の理由のため、彼は止めなくてはならなかった。その間、彼は、誰でも申し込んだ* 人に許可し、一定数の面談を行っていました。私のは幸運にもそれらの中に入っていました。
 それで、私はまたもや、一定の日付と時刻と場所に行くよう、連絡されました。でも、今回はオーハイで、ヴィゲヴェノ宅でした。彼はまたも私にとてもフォーマルな挨拶をしました。私が前に彼に会っていたことへの言及はなかった。私たちはとても長い時間、話をしましたが、それはすべて死についてでした。またもやそれは反復可能でないですが、その終わりのことは・・・まあ、私は彼に対して、人々は嘆き悲しむ状態にあるとき、それは多分に自己憐憫であることが、私自身で分かったと、語ることができました。彼らは、なぜこれが私に起きたのか、なぜ私は何かを失ったのか、と感じています。私は、それは偽りであり厭わしいと考えましたが、私自身はそのように感じなかった。私はそれがとてもはっきりと見えたと感じましたし、彼に対してこれを語ることができました。彼が頷いたのを憶えています。そして、私はそれが分かったということ、そして、彼は、私とともにそれを経ていかなくていいので、彼はそこから先に行けるということが、彼は分かったと、私は言えました。または、彼の態度が示していました。この種類の結論は、ごく単純に表すと、その時に私が理解して、以来持っている彼の発言でした − すなわち、「あなたは毎日、あらゆるものごとに対して死ななければならない。そのときだけ、あなたは本当に生きている。」。私は、それが自らの生をしまい込み、すべてを忘れることを意味していないことを、理解しました。それは、あなたの感じること、または喪失感を変えてしまわない。あなたが愛する誰かを失ったとしても、それを − 彼らを愛している感覚、または実に、彼らを憶えていること − を、変えてしまわない。しかし、〔憶えていること〕それは依存の要因です。それはエゴイズムの要因です。それは私と全部の要因です。あなたは、それに対して死ななくてはならない。そのときだけ − さもなければ・・・まあ、私たちは今、彼の教えから知っているように、過去の陰全部を持ち運び、それに反応してはいけないんです。それは、私がかつて得てきた中で、クリシュナジから聞くという最も深い経験でした。それはたいへん多くを意味していました。その後、彼はオーハイを去ったと思います。どうなりつつあるのかは知りませんでした。でも、そのとき、私は、また彼の話を聞き、彼の言っていることを真剣に辿ろうと決心しました。(メアリーの話を聴く)*
 さて、私が知らなかったのは、彼がオーハイに戻ってこないということでした。彼はオーハイでの講話を再開したから、戻ってくるだろうと推測しましたが、戻ってこなかった。その頃、私はヨーロッパに戻りたくなかった。それは私がサムと一緒にいた場所であったからです。私はただ、静かでありたい、これらすべてのことを考えたいと思いました。それで、彼がオーハイで話をするために戻ってこないと悟ったのは、1961年になってのことでした。
スコット−なぜ彼はアメリカで話していなかったんですか。
メアリー−まあ、それはラージャゴパルの問題なんだと、後で分かりました。彼はそのために戻ってこなかった。
スコット−彼はオーハイには戻ってきた。
メアリー−彼はその一回だけオーハイに戻ってきました。
スコット−そして、彼はもはや公開講話をしなかった?
メアリー−ええ、ええ。彼は1963年に公開講話をしました* が、もはや公開講話をしなかった。彼はヨーロッパで話をしました。
スコット−彼はニューヨークやシカゴやどの場所で話すこともしなかった?
メアリー−ええ。この国では。数年はしなかった。最終的に、まあ、私はその人が話すのを聞きたいのなら、彼が話しているところへ行こうと思いました。私は63年の冬に行こうとしていましたが、〔マリブの自宅の家政婦〕フィロメナ(原註9)が病気だったので、彼女を放っておけなかった。で、私が彼の話しているところ − それはスイスのサーネンでした − へ初めて行ったときは、64年の夏でした。私はその夏、彼の行程全部に付いて行こうと決心しました − その翌年、本当に徹底的にこうしよう、と。私は、ヨーロッパでどこでも彼が話をするところに、出発しようとしました − それはロンドンであることが分かりました。そして、私は、サーネンとインドに行こう − 丸一年そうする、と。それが私のしたことです。
スコット−では、64年にあなたはサーネンで話を聞いたんですね。
メアリー−64年にサーネンで話を聞きました。その夏、私はもう一回、〔個人〕面談を受けました。
スコット−それが、彼がサーネンで話した最初の年だったんですか。
メアリー−いえ。彼は63年に話をしたと思います。*
スコット−それは、彼がランドハウス(Landhaus)(原註10)で話をしたときでしたか。
メアリー−たぶん、そうかもしれません。
スコット−でも、64年は〔会場に〕軽量ドームのようなテントを使った最初の年でした。
メアリー−軽量ドームです。ええ。すてきでしたよ、あのテントは。
スコット−あなたはどこに泊まりましたか。
メアリー−私はどこに泊まるのかが分からなかったので、フォドー(Fodor)の旅行ガイドを参照して、レルミタージュ・ホテル(L'Ermitage Hotel)という場所があるのを、知りました。私はその響きがすてきだと思いました。それで、そのエルミタージュに部屋を予約しました(原註11)。
スコット−ふーん(笑う)。あまりエルミタージュ〔隠棲所〕らしくないね。
メアリー−ええ!(笑う)私は〔スイス西部、レマン湖の南西の端、〕ジュネーヴ〔の空港〕に着陸し、小さな車 − ハーツの車かアヴィス〔社のレンタカー〕 − を借りたのを、憶えています。ハーツ〔社の〕だったと思います。地図をもって湖畔を運転し、サーネンというこの場所にどう行くのかを考えました。ヨーロッパに戻ってきたことは、ふしぎでした。私は前にスイスに来たことがなかったが、突然に自分一人でヨーロッパの真ん中を運転しているんです。私はその前にロンドンに来たものです。私は、ロンドンで〔友人の〕フライ(Fry)夫妻(原註12)に会ったのを、憶えています。それから私は、湖畔沿いに、サーネンまで、レルミタージュ・ホテルへ運転していていました(クスクス笑う)。それから講話が始まりました。私は、各講話の終わりに彼が質問を受けたことを、憶えています。私は質問したかったんですが、なぜかうまく行かなかった。そして、講話は終わりました。各講話の最後にクリシュナジは、その頃彼を車に乗せていたヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕(Vanda)(原註13)が幾らかの木々の下に車を停めていた場所に、立って待っていました。そして、ボーイ・スカウトのある方へ戻って行きました。彼は木々の下に立って、やってくる二、三の人たちに話をし、握手しました − いつも講話の後で彼らがそうしたように、です。で、私は彼のところに行って、言いました − 「クリシュナムルティさん、私はメアリー・ジンバリストです。私を憶えておられないでしょうが、前にオーハイでお話させていただきました。私はあなたに・・・これこれをお訊ねしたいと思いました。」と。彼は「ええ、ええ。明日それを訊ねてください。」と返事をしました。それで、私は彼にありがとうを言い、歩みさりました。(スコット、クスクス笑う)もちろん、次の日、講話は全然異なった方向に進んでしまい、(スコット、笑う)私の疑問は、彼が言っていることに何の関連性もなかった!で、訊ねませんでした。またもや、〔故人〕面談を受けたいと思いましたが、私はお願いするのが恥ずかしくて、そこでどうやるべきかが分からなかった。けれど、その頃、彼とヴァンダとフランシス〔・マッキャン〕(Frances)(原註14)の友人がいました。あなたが彼を知っているとは思いませんが、すてきな人です。〔イタリアの〕ピエトロ・クラニョリーニ(Pietro Cragnolini)です。クラニョリーニに会ったことはありますか。
スコット−いいえ。
メアリー−まあ、クラニョリーニはおかしな人でした。とても、とてもイタリア的で、ね。彼はクリシュナジを、〔大戦前のオランダ、〕オーメン〔集会〕(Ommen)(原註15)の頃から知っていました。彼は私に、オーメンで本当は何が起きていたかの(スコット、笑う)物語をすべて、語ってくれたものです − 人々は真夜中に間違ったテントを出たり入ったり(スコット、笑う)、森で寝たり、これらお話のすべてです。私は彼と散歩したり、ときには彼と昼食したりしました。彼は、私の望んでいることが分かって、「面談を望んでいますか。」と訊きました。私は「ええ。でも、頼むのをためらっています。」と言いました。彼は「気にしないで。」と言って、(笑い)翌日、これは日曜日か月曜日でしたが、私は水曜日にタンネグ山荘(Chalet Tannegg)(原註16)で三時に約束をもらいました。それで私はタンネグ山荘に行きました。またもやクリシュナジが扉を開けて、居間へ入れてくれました。
 その頃は、あなたは憶えているでしょうが、〔後の〕あの恐ろしい大きなブラウンのソファーの代わりに、黒い革のものがありました。彼はその一方の端に座り、私は他方の端に座り、そして話をしました。
スコット−どこにソファーがあったかを叙述してください。
メアリー−ええと、それは窓に向かっていました。あの食器棚の前です。それは黒い革で、輝いていたというか。それは、後で取り替えたものより良好だったわ。(スコット、笑う)私はまた、クリシュナジの眼も憶えています。彼の眼は白内障が進行しつつあるように見えると思いました。そして、ひどい!彼は視力を失おうとしている、と考えたのを憶えていますが、もちろん彼はそうならなかった。でも、彼の眼は曇り気味でした。
 私は、この瞬間のあなたと私との距離ほどに、坐っていました − それは何だろう、4フィート〔、約1.2メートル〕ほどね。そして、彼の眼が気になりました。でも、幸いにも私の診断は下手でした。
 そのとき私は彼に何を訊ねていたかを、憶えています。私は彼に対して、進行中の世界の動乱に本当に苦悩していることを、語っていました(そのときそれらが何だったのかは忘れてしまいましたが、いつものように、恐ろしいことが起きていたんです)。そして、私が自由で覚りを開いて心理的に明晰な人物ではない程度に、私は本当は、人間のそれら悪に対して責任があるということを、です。私は、それについて、全体について何かしなくてはならないと感じました。私はこの恐ろしい重荷を感じました。彼は何というかそれを振り払いました。彼は、それが本当にその根であるとは感じませんでした。彼は、「あなたはこれらすべてのことをすごく深刻に取りますね。」と彼は言いました。私は「ええ、そうです。」と言いました。彼はそこから進みましたが、その疑問が私が彼に訊ねに来たことであったことを、憶えています。
スコット−どのような形で彼が話しつづけたのか、または何について話すことになったのかを、憶えていますか。
メアリー−あまりよくは。いえ。報告するほどではない − それがどうにか私をこのことから外してくれたことを除けば、ね。
 私が思うに彼が言っていたのは、私が世界の状態に置き換えているということでした − 私の責任は私自身であるし、私は他のこのすべての不健全さ・狂気の重荷を感じるべきではない、と。もう一つ、あれらの日々のすてきなことは、クラニョリーニが時折、クリシュナジと散歩していることでした。或る日、クラニョリーニは訊ねました − 「あなたは散歩に来たいでしょうか。私はこの午後、クリシュナジと散歩していますよ。あなたも来なさい。」と。私は、「うーん、かまわないなら、ええ、もちろんそうしたいです。」と言いました。私たちは〔南東方向の〕ラウェネン(Lauenen)に向かって散歩したことを憶えています。ラウェネンへの道路を、です。
スコット−ラウェネン道路へ森を通って歩いたんですか。
メアリー−ええ。道を歩いていったのを憶えています。私たちはラウェネンまで歩かなかったが、そうとうな道です。私はシャモア〔スイス・カモシカ〕(原註17)を探していました。シャモアを見たことはありますか。私はそれを探していて、見えるのを望んでいました。私たちはみな、とても気安く話をしました。何についてかは憶えていませんが、それはまったく変ではなかった。〔予定された一連の〕講話が終わりつつあったので、これらの散歩で或るとき、彼は私に言いました・・・
スコット−ああ、では、何回も散歩に行ったんですね。
メアリー−ええ。何回も行きました。彼は、「あなたは講話の後で、留まろうとしていますか。あなたはここにいるんでしょうか。それとも、講話の後で発とうとしていますか。」と訊ねました。私は発つつもりでいると言いました。彼は、「まあ、私たちは講話の後で小さいな討論会を行おうとしています。あなたがそれに参加したいと思うなら、歓迎します。」と答えました。それで、当然、私は計画を変更し、留まりつづけました。彼はあの会合に、およそ三十人の人たちを迎えていました。それもまたタンネグ〔山荘〕でありました。この時までに私は〔山荘の借り主〕ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕に会っていました。彼女が私を昼食に招待してくれたのかどうか、今は忘れてしまいましたが、〔日記で〕探すことはできます。私はまた、〔後にKの秘書を務めた〕アラン・ノーデ(Alain Naude)にも会っていました。彼は講話に来たばかりでしたが、〔Kに付いて〕インドに行こうとしていました。彼はそれらについてとても真剣だったし、一種の助手として活動とかをしていました。例えば、彼は、私に電話をかけ、いつ会合のためにタンネグ〔山荘〕に来るかとか、そのようなことを言ってくれた人でした。彼はすでに、クリシュナジのために、ヴァンダを支援することをいろいろとし始めていました。
スコット−その夏では、他に誰を憶えていますか。
メアリー−まあ、様々な人たちを憶えています。アイリス・ツリー(Iris Tree)* がいました。あなたはアイリスを知らないわ。アイリスは何年間もクリシュナジを知っていました。彼女とその夫のレデブール(Ledebur)は、戦争が終わりかけたとき、〔カリフォルニアの〕オーハイに行って住みました。彼女はそのとき女優でしたが、彼女はオーハイに劇場を始めました。彼らはクリシュナジにとてもよく会っていました。私はニューヨークから彼女を知っていました。初めてヴァンダを訪ねる時に私をタンネグ〔山荘〕に連れていってくれたのは、彼女でした − そういうことで、私はヴァンダに会ったんです。
スコット−他の人たちのことも話してください。
メアリー−ヴィマラ・タカール(Vimala Thakhar)が、討論会にいました。私は車を持っていたからですが、彼女に車に乗せてくれるよう頼まれたことを、憶えています − 彼女もサーネンにいたんで、乗せてあげました。アイリス〔・ツリー〕が去った後 − アイリスは討論会にいなかったからです − 彼女〔ヴィマラ〕は、〔高名な女性科学者、〕マダム・キュリーの看護をしたことのある年老いた小柄の女中の姉妹から、部屋を借りていました。姉妹はスイス人でしたが、二人とも訓練を受けた看護婦、そうね、〔フランス語で〕インファーミエール(infirmieres)でした。彼女たちの人生で大きなことは、マダム・キュリーを看護していたことでした。彼女たちはどちらも九十歳代だったと思います。彼女たちはシャルメウス山荘(Chalet Charmeuse)を所有していましたが、それは後にパレス・ホテルが引き継ぎました。今ではそこのフラットに分けていますが、そこは古風な山荘でした。アイリスは一部屋を持っていました。私は〔サーネンのすぐ北の〕ショーンリート(Schonried)にいることに、かなりうんざりしかけていました − そこ〔のホテル〕で、私は一番古くから生活している住人になっていました。ホテルの客たちは来ては去りましたが、私はいまだにダイニング・ルームにいました。(スコット、心から笑う)そこは、夏中、私に食事を出してくれたウェイターがいた場所です。私はドイツ語を知らないから、彼にはフランス語で話しかけました。夏の終わりに私は、彼にフランス語で、「あなたはどの国の人ですか。」と言いました。なぜなら、彼が生来、フランス語を話しているのではないことを、知ったからです。彼は「私はアイルランド人です。」と彼は言いました。(心から笑う)彼は夏の仕事をしていたんです!私に言ってくれなかったんです。ともあれ私は、そんなに長くホテルにいるのが、嫌でした。私はいつもホテルを嫌ってきました。それで、アイリス〔・ツリー〕が空けた部屋を借りました。それはとても古風な山荘で、とてもすてきでした。私はヨーグルトを買って、夜通しそれを冷たくしておくために、窓の下枠に載せました。そこには、タンネグ〔山荘〕からちょうど丘を下ったところにあるという利点も、ありました。
スコット−ヴィマラ・タカール* について教えてください。その頃、彼女はどのようでしたか。
メアリー−まあ、彼女はすでに、はた迷惑でした。彼女はすでに、「あなたはどこに住んでいますか。」と言っていました。私がどこに住んでいるかを話したとき、彼女は私を訪問しに来よう、そして、彼女の〔アメリカ〕西海岸の来たるべき旅程の間、私が彼女を泊めてくれるだろうと、決意しました。私はまったくそうしようとしていなかった。彼女はすでにヴィマラ・タカールでした!(スコット、クスクス笑う)
 で、他には誰かな。シュアレス夫妻(the Suares)のような人たちもいました。マルセル・ボンドノー(Marcelle Bondoneau)(原註18)もいたと思います。
スコット−他に誰か思い出せませんか。
メアリー−いいえ。
スコット−いいでよ。これら三十人の人たちが来る会合は、どれほどありましたか。
メアリー−思うに、ウーン・・・探せるでしょう。私はこれらの記録を持っています。この時までには、私は小さい予定帳を持っていて、これらを書き留めました。
スコット−タンネグ〔山荘〕の居間で、クリシュナジはどこに座りましたか。あのL字の長椅子の端、あの隅の長椅子ですか。
メアリー−いえ。彼は〔一人用の〕椅子に座りましたが、彼は部屋の他方の端に座りました。ダイニング・ルームの端です。
スコット−ダイニング・ルームの端ですか。
メアリー−ええ。そして、私たちは〔一人用の〕椅子の列に坐りました。これら討論会の後、私は飛んで帰りました。
スコット−でも、少し待ってください。すみません。ここで中断させてばかりですが。
メアリー−いいですよ。
スコット−タンネグ〔山荘〕での昼食には行きましたか。
メアリー−行ったと思います、二回ほど。それについては、あまりはっきりしません。
スコット−サーネンでのその夏の間に、あなたは誰を一番知ることになりましたか。クラニョリーニですか。
メアリー−クラニョリーニとフランシス〔・マッキャン〕です。もちろんアイリス〔・ツリー〕も。彼女のことはすでに知っていました。それですべてです。お分かりでしょうが、私は人々を探し求めなかった。私は講話の後に、あたりに坐って話をしませんでした。私は誰にも話しかけたくなかったんです!
スコット−ええ。私もいつもその気持ちを抱いてきました。講話の後には、静寂がほしかった。
メアリー−私は、このことの何についても、そこの誰とも議論したくなかった。それで、自分一人で行ってしまい、たくさん歩いて、山々に登りました。私はその頃、録音機を掛けました。私は去って、私の車で〔サーネンにある〕滑走路に坐り、録音機を掛けました。ついに警察がやってきて、私を止めさせました。(二人ともクスクス笑う)それから、私はカリフォルニアに戻りました。
スコット−あなたはジュネーヴからまっすぐ飛んだんですか。それとも、ロンドンに戻ったんですか。
メアリー−いえ、ロンドンには戻りませんでした。ジュネーヴからニューヨークに飛びました、思い起こせるかぎりでは。
スコット−あなたは戻ってきたとき、ロンドンでどこに泊まりましたか。
メアリー−マルチネス(Martinez)夫人という人がいました。彼女は、〔西ロンドンのベルグレイヴィアにある住宅庭園、〕イートン・プレイス(Eaton Place)に家を持っていました。そこで、ベッドと朝食のお客を、受け入れました。その頃は〔格式張ったホテルでの滞在ではなく、〕ベットと朝食の日々の始まりでしたが、彼女は、友人の友人である人たちだけを、受け入れました。或る人物がただ〔玄関で〕ベルを鳴らして入るわけではなかった。私の母はそこに泊まったことがありました。なぜなら、母のイギリス人の友人がそこを母に教えてくれたからです。彼女はそこに泊まったことがあったので、私も行きました。そこは理想的でした。なぜなら、夜に住宅に入るには自分のドア・キーを持っているし、大きな重いトレイで朝食を届けてくれる執事もいたからです。
スコット−すばらしい。
メアリー−ええ。そこはとてもすてきでした − 部屋とバスは。高価でなかった。完璧でした。私はそこに何回も泊まりました。
 それで、この物語の次のかけらは、今やラージャゴパルが画面に入ってくるということです。なぜなら、これら会合がタンネグ山荘で行われている間、そのうち何人かの人たちは、私も含めて、会合の録音を聴きたいと思いました。それで、私はアラン〔・ノーデ〕に対して言いました − 「私たちの多くは、これら討論会の〔録音〕テープを聴きたい、または〔それを文字に起こした〕書き写しを読みたいとも思っているので、もし認めてもらえるなら、それを私たちの何人かのために書き写す何か筆記者に、私は喜んで支払いたいと思うんですが。」と。アランを通じてクリシュナムルティから返事が返ってきました − 「クリシュナムルティ氏はその許可を与える権利を持っていない。ラージャゴパル氏だけが持っている。」と。それには、かなりうろたえました。
スコット−きっとそうでしょう!
メアリー−そうでした。(二人とも笑う)それで、私はカリフォルニアに戻ったとき、・・・
スコット−すみません。でも、誰が録音をしていたんでしょうか。
メアリー−アラン〔・ノーデ〕です。アランが〔スイスの〕ナグラ〔の録音機〕(Nagra)(原註19)について気づいたのは、次の夏のことでした。
スコット−では、ともあれ、あなたはカリフォルニアに戻ったと。
メアリー−私はラージャゴパルに電話して、「いいでしょうか。私はこの討論会にいました。あなたがテープをお持ちだと知っているんですが・・・」と言いました。ああ、ところで、〔録音〕テープは、録った当日に送らなくてはならなかった。録音機からまっすぐラージャゴパルに郵送しなくてはならなかったんです。で、私は彼がテープを持っているのを知っていました。私は「それらを聴きたいと思うんですが。」と言いました。まあ、そういうやりとりが続きました。「まあ、誰もがみな、それらを聞きたいのは、お分かりでしょう。私は誰にでもそれらを聞かせることは、とてもできません。だから、だめですが、まあ・・・」と、彼はこのことで、ぐずぐずと行ったり来たりを続けました。最終的に彼は、「まあ、あなたがオーハイにまで来られるなら・・・あなたはメモ書きを取りましたか。」と言いました。「ええ、メモ書きを取りました。」「じゃあ、あなたのメモ書きを持ってきてください。一つテープを聞いていいですよ。テープを選んでいいですよ。でも、ノートを持ってこないといけません。」と。そして、(クスクス笑う)それは、隣に住んでいるヴィゲヴェノ夫妻が、オーハイにいない日でなくてはいけなかった。なぜなら、彼は、私が〔録音〕テープを聞くのを許されたことを、夫妻に知られたくなかったからです。それで、私は夫妻がいないときに行かなくてはならなかったし、さらに、隣の彼らに見えないように車を停めなくてはならなかったんです。
スコット−それで、あなたはすでに、自分がここで、とってもおかしな人とやりとりしていることに、思い当たった。
メアリー−とっても、ね。でもそのとき、私は前からこれを知っていました。なぜなら、あの昼食会以外の時々に、彼はアイスナー家にいたことがあったからです。私が晩餐会でそこに二回行ったとき、彼も晩餐会のためにそこにいたし、私はすぐに分かりました − 彼は・・・まあ、率直に言って、彼は飲酒の問題を抱えていると思いました。*
スコット−それが、私の聞いていたところです。
メアリー−ええ。そして、私がそう思った理由は、彼が、晩餐の前に酒を飲むべきか飲むべきでないかで、大騒ぎをしたことでした − ごく当然に、それは彼に振る舞われましたが。彼は、「まあ、分からないな。私が飲むべきでないと思いますか。たぶん飲むべきじゃないんでしょう。まあ、私はそうできると思います。」と言ったものです。彼は延々と続けました。お分かりでしょうが、私は、「するかしないかを言うだけにしてよ。これら大騒ぎは何なの?」と思いました。そこで何かが起きていると思ったんです。
スコット−それは興味深い。(二人ともクスクス笑う)で、これは、マリブのアイスナー家に戻って、ですか。
メアリー−マリブではありません。これは44年の頃に戻って、です − そのとき私は、ロサンジェルスで生活していました。彼らはロサンジェルスで、私〔の家〕から通りを行ったところに住んでいました。
スコット−クリシュナジが出席していて、彼はこのようなことを続けたんですか。
メアリー−いえ。クリシュナジは晩餐会のためにそこにいませんでした。昼食にだけです。これは夜のことだったと思います。また彼は、私の知っている他の友人たちを、知っていました。だから、彼自身が生活を送っている街のあたりで、この人の足跡が見えました。
スコット−まあ、話してください。(笑い)
メアリー−まあ、彼が、或る種、からかい、色っぽい振る舞いをしていたことは、言えるでしょう − 私に対して、ではなく、彼にすっかり興奮している他の女に対して、ね。彼は或る種、自分自身を注意の中心に仕立てていました − 仇っぽい振る舞いによって、でなく、彼のあらゆる反応へ注意を引きつけるようなやり方で、です。それで私は、彼はちょっと神経症なんだと思いましたが、〔討論会の録音〕テープをめぐるこの戯言は、なかなかでした。ああ、私は昼食にも呼ばれました。それで、私たちは昼食をとって、それから私はテープを聴くことができました。
スコット−その昼食はどのようでしたか。
メアリー−フルーツジュースとサラダか何かです。
スコット−でも、会話と雰囲気はどうでしたか。
メアリー−落ち着かないというか。それで、ラージャゴパルと彼の〔再婚した〕奥さん〔アンナリーザ〕と私は、居間に厳かに座りました。そこは或る種の小部屋でした。私たちは居間の角のテーブルで食事をしました。それから、他の区域に移って、そこに彼はテープ・レコーダーを置いていました。私は、自分のすばらしいメモ書きを手渡さなくてはいけなかった。私はテープを聴いてメモ書きをとれたんですが、そのメモ書きも彼に渡さなくてはいけなかったんです。
スコット−では、あなたは、サーネンで付けていたメモ書きを、渡さなくてはならなかったんですね。
メアリー−ええ。それにまた、そのとき取ろうとしたメモ書きも、です。何のためか。想像できません。それで、私は〔録音〕テープを聴きました。彼らは二人ともそこに座って、私とともに聴きました。私は突然、なぜ彼が私にテープに近づけているのかに、思い当たりました − 彼は、テープで自分の知っている人たちの声の幾つかを認識していたんですが、他の声を認識しなかった。それで、彼は私にそれらを確認させたいと思った。そういうわけで、これらの行事が行われていたんです。
スコット−あなたはまだ、これが起きたとき、64年の秋について、話しています。なぜなら、これは、あなたがカリフォルニアに戻ったとき、ほぼ直後に起きたからです。
メアリー−ええ。この時までに、私はマリブで生活していました。当然、私はいつどこで将来の講話が行われることになるかを、知りたいと思いました。それで、彼〔ラージャゴパル〕に電話しました。彼は平然と、自分は知らないと言いました。私は、とても奇妙だと思いました。彼は、「あなたはロンドンの〔担当者〕メアリー・カドガン(Mary Cadogan)夫人に手紙を書かなくてはならない。」と言いました。それで、メアリー・カドガン夫人に手紙を書きました。それで、私ははるか遠くから来ようとしているから、いつどこで講話があるかを、知らせましょう。でも、どうか、それらがどこであるのかとか、なぜ私がロンドンに行こうとしているのかを、私の家族も含めて他の誰にも、言ってはいけません、と言う手紙を、受けとりました。私は、これは狂っていると思いました(スコット、クスクス笑う) − これらは公開の講話です。でも、私はそれらを聞きたかったので、論争しようとしませんでした。
 春が来たとき、私はロンドンに戻り、マルチネス夫人のところへ帰り、〔ロンドン南西部、〕ウィンブルドンに出かけて行きました − そこで講話が行われようとしていました。講話は、ウィンブルドンのボーイ・スカウトのホールでありました − そこはとても小さなホールでした。私はこれについて以降、メアリー〔・カドガン〕に訊ねてきましたが、彼女はホールがとても小さかったことに同意します。なぜこういう小さなホールを借りたのか、私は理解できなかったんですが、お分かりでしょう、ラージャゴパルは本当にこれらを押さえ込もうとしていました − これら小さな冊子を印刷して、それらは郵送者名簿に載った人たちに送られるだけで、誰も何も知らなかった。それはすべて、大きな闇の秘密にされていました。彼はあらゆることを秘密にしたし、もちろん彼は全体の裏でスヴェンガリ(the Svengali)(原註20)のようなものでした。
スコット−もちろんです。
メアリー−彼はこの全体の裏で操っていました。ともあれ、私は行きました。後でクリシュナジが外に立っているとき、今回は私は彼に近づいていきました。アラン〔・ノーデ〕がそこにいて、クリシュナジは私を認識するようでした。彼はチャーミングでした。私たちは少しおしゃべりしました。
 アランは結局、私に電話をかけてきて、〔ロンドン南西部の〕ウィンブルドンの家での昼食に来ていただきたいと言った、と思います。そこは、ウィンブルドンのあれら恐ろしい貸し家の一つでした・・・
スコット−アンネッケ〔・コーンドルファー〕(原註21)とドリス〔・プラット〕(原註22)が見つけて(クスクス笑う)、料理とすべてをやっていたところですか。
メアリー−ええ。(クスクス笑う)クリシュナジを、あれら恐ろしい家に入れるなんて、本当にひどかった。でも、そうしたんです。それで、私は行きました。私はそこに出かけていくのに、再び小さな車を借りました。それで、私たちは昼食をしました。二人の女性、アラン〔・ノーデ〕とクリシュナジがいて、私がただ一人のお客でした。彼はいっぱい疑問を持っていました − 彼が言っていたところの、「アメリカ人の精神とは何か。」について、です。「アメリカでは何が起きているのか。」まあ、そうなったわけで、私は〔アメリカの公民権運動で、1965年にアラバマ州〕セルマへの行進に行っていました。〔黒人指導者の〕マルチン・ルーサー・キング〔牧師〕とともに、セルマからモンゴメリーに(原註23)です。私は、彼はそれに関心があろうと思いました。なぜなら、それはその時点でアメリカの大きなニュースだったからです。彼はすごく関心を持ちましたし、私はすっかり詳細に全体を叙述しました − それがどのように起こったのか、何が起きたのか、そのすべてを、です。彼は大きな関心をもって、それを聞きました。彼は、後でアランとともに私を車まで送ってきて、「おそらく映画に行ってもいいね。」と言いました。
 私はもちろん「ええ!」と答えました。すると彼は、「じゃあ、あなたが決めてください。」と言いました。それで、私は立ち去り、「一体全体何!」と(スコット、心からクスクス笑う)考えました。「私はこの人を何に連れて行くんだろうか。映画?彼は何が好きなんだろうか。」と。
スコット−もちろんです。
メアリー−それで、私は新聞をにらんで、考え込み、最終的に、『マイ・フェア・レディ』が上演されているし、それは良い映画でふさわしいだろうと、決断しました。(スコット、クスクス笑う)ともあれ、それが私の決断したことです。それで、私がアランに電話したのか、彼が私に電話したのか、どうだか分かりませんが、私は自分の選択を告げました。アランは言いました − 「ああ、クリシュナジは今では心変わりしました。彼は映画に行きたくないんです。彼は田舎にドライヴに行きたいんです。だから、あなたが場所を選んで、私たちを田舎へ運転してもらえるでしょうか。」と。それで、私は自分の問題に戻りました(笑う)。私はどこに行くべきかを知らなかった。私はさほど馴染んでいなかった − 私はロンドンで二回冬を過ごしたことがありましたが、田舎へドライヴに行ったことはなかったんです。(スコット、笑う)特に、クリシュナムルティという名の人を喜ばせるような何かの目的をもっては、ね。それで、幾らか調査しました。
 * 私はウィズレー(Wisley)のことを聞いて − 〔イングランドの南東部、ロンドン近郊のサリー州の〕ウィズレーの王立園芸〔協会〕庭園です。たぶんそこがふさわしかろうと思いました。それで、予行演習をしました。私は出かけていって、ウィズレーを検分してみて(笑う)、よし、ここは本当に美しいし、おそらく彼はそこを気に入るだろう、と決断しました。私は、運転していたのより良い車を入手して、ウィンブルドンの家に行ったことを、憶えています。(笑う)ドリス〔・プラット〕があのまったくドリスらしいやり方で出てきて、「さて、6時までに必ず彼をここに戻してください。」と言いました。(スコット、クスクス笑う)「彼は6時に約束があります。それに間に合うように彼がここにいることが、とっても重要です。」と。「はい、はい、プラットさん。そうしましょう。」(スコット、クスクス笑う。メアリーも笑う)
 それで、私たちは車に乗り込みました。クリシュナジはとても幸せに、喜んで見えました。「どこに行くんでしょうか。」と彼は訊きました。私は「まあ、おそらくウィズレーというところ、庭園かと思いました。」と言いました。彼は、「ああ、ウィズレーか!」と言いました。彼はそこを知っていました。(二人ともクスクス笑う)でも、彼は長い間そこに行ったことがなかった。「ああ、いいね!」と。
 それで、私たちはウィズレーへ出かけていきました。これは成功でした。私たちは歩き回りました。私は、彼はあらゆる花とあらゆる樹とあらゆる鳥とあらゆるものを見るという感じがしました。それは私のあの最初の経験でした・・・彼のとてつもない・・・
スコット−・・・分かります。
メアリー−彼が・・・あらゆるものを知覚しているような・・・。私たちが車に戻ったとき、彼は「ああ、もう少し先へドライヴしましょう。」と言いました。「さて、彼をどこに連れて行くべきか。」(スコット、クスクス笑う)運良く、私は〔ロンドンの南西30キロメートルほどにある丘陵ノースダウンズの頂上〕ボックス・ヒル(Box Hill)に行ったことがありました。あなたはその先に行ったことがありますか。
スコット−いえ。それは何ですか。
メアリー−まあ、そこは、〔イングランド南部、ハンプシャー州東部の〕ピータースフィールド(Petersfield)へつながる道路を、〔南西方向に〕さらに行ったところだと思いますが・・・私は近頃、見ていないんです!ともあれ、そこがどこにあるのか、そこがさほど遠く離れていなないことを、知っていました。それは〔イングランド南東部の〕サセックスで最も高い地点です。南イングランドのすべてを見わたせます。美しいんです!
 それで、ボックス・ヒルへ上りました。私たちは外へ出て、眺めを見ました。美しくてとても楽しかった。そこで、6時に〔ウィンブルドンの家に〕戻る時間でした。私たちはA3〔の道路〕を戻ったと思います。午後の交通渋滞でした。さて、〔アメリカ人の〕私は〔イギリスの〕左側での運転に馴れていなかったし(スコット、笑う)、私は確かに、世界教師の運転をすることには馴れていなかった。(スコット、もっと笑う)そして、責任は私に重くのしかかってきました − 特にひどい渋滞の中で、あそこへ6時に着くことは、ね。私は(スコット、クスクス笑う)絶対の精神集中で運転して、6時に彼を送り返したんです。
 彼は降りると、私に感謝しました。「ほんとにありがとう、マダム。とても親切にしてくださった。」と。私は「どういたしまして、クリシュナムルティ。」と返事しました − いや「クリシュナジ。」ね。彼はサーネンの討論会で、私に対して自分をクリシュナジと呼ぶよう言いました。その前に、私は彼をクリシュナムルティと呼んでいましたが、どこかの時点で、彼は私に対してかなりはっきりと、「私のことをクリシュナジと呼んでください。」と言ったんです。私がもう一方の呼び名を使ったのは、間違えたんだと思いました。ともあれ、それはクリシュナジでした。で、私は彼に感謝しました。私は〔宿泊先の〕イートン・プレイスのマルチネス夫人のところへ戻りました。私は友人たちと晩餐に出かけるはずになっていましたが、突然、運転手役を仰せつかったんで、両手にこの人の命を任されるという(二人ともクスクス笑う)尋常でない責任です。私は身震いを始めて、あまりに身震いしたんで、晩餐には出かけられませんでした。取り消さざるをえませんでした。(スコット、笑う)遅れた反応ね。
スコット−あなたが省いたお話があります。
メアリー−何?。
スコット−これは〔ロンドンのセヴィル・ロウの仕立屋、〕ハンツマン(Huntsman)(原註24)のお話です − それは、あなたが〔スイス、〕サーネンでクリシュナジに初めて会ったとき、そこで起こったと思います。
メアリー−それはどの年だったかな。そのとおりです・・・私が呼ばれた昼食会の一つでした。
スコット−それは64年にあったにちがいありません。なぜなら、あなたはクリシュナジをさほどよく知らなかったから・・・64年か、65年か。
メアリー−あなたのためにそのことを調べないといけないでしょう。
スコット−まあ、ともあれ、そのお話をしてください。
メアリー−お話は次の通りです − 私は昼食に呼ばれました。テーブルは八人だけが座れたので、八人ほどだったと思います。私はクリシュナジの左に着席しました。私のもう一方には、ハリー(Harry)がいました。
スコット−ムーアヘッド(Moorhead)ですか。*
メアリー−ムーアヘッドです。
メアリー−見たところ、クリシュナジの助言によって、ハリーはハンツマンに行って、一着のスーツを買ったことがあり、彼はそれを着ていました。で、そのことで会話がありました。
スコット−昼食会には他に誰がいましたか。
メアリー−まあ、明らかに女主人のヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕ね。〔秘書役の〕アラン〔・ノーデ〕がいたし・・・
スコット−ヒルダ・ムーアヘッドですか。
メアリー−ヒルダ(Hilda)はいたにちがいないわ。それで二人になり、四人、六人・・・そんなところね・・・ほんとのことを言うと、憶えていないわ。でも、ハリーが私の左に座り、クリシュナジはテーブルの端に、私の右にいました。それで、彼らは話をしたとき、私越しに話をしていました。或る時点で、私はクリシュナジに言いました − 「あなたがたは、ハンツマンについて話しておられるように思いますが。」と。それは、そこでのすばらしい一日についての話でした。クリシュナジは、急に私の方を向き、「ハンツマン?あなたはハンツマンについて知っているの?」と言いました。(スコット、クスクス笑う)それで、「まあ、そこは私の夫〔サム〕の仕立屋でした。」と言いました。彼は私を熱心に見つめました。(笑う)後で彼が、再び私を礼儀正しく私の車に送っていき、ドアを開け、私が彼に感謝などしたとき、です。私は車を動かしました。私が振り返ってみると、彼はそこに立っていて、すばらしい身振りをしました − 彼は、小さな敬礼のように指を頭に掲げて、「ハンツマン!」と言ったんです。(二人とも笑う)私は、ハンツマン経由でこの人の視野に滑り込んだと感じました。私はアイデンティティを持っていました。私はハンツマンについてを知っている女である − これはとっても重要なことね。(スコット、クスクス笑う)私は、それがたぶん何か一種・・・何かを確立したんだと思います。(クスクス笑う)
スコット−ええ、それは重要です。
メアリー−ええ。(メアリーの話を聴く)*
スコット−では、〔あなたの夫で、映画制作者の〕サムは、〔1954年の英米合作の歴史映画〕『洒落者ブランメル(Beau Brummell)』* かそのような何か〔の映画〕の衣装を造ることから、ハンツマンを知っていたんですか。
メアリー−まあ、なんと。あなたは私より良い記憶を持っているわ。ええ、サムはロンドンのMGMスタジオで『洒落者ブランメル』を造りました。『洒落者ブランメル』の衣装はハンツマンで作られました。サムはそのときから、ハンツマンでスーツを得ました。それで、で、これが私のアイデンティティでした − 博識な女、ね。彼女はハンツマンについて知っている、と。(二人とも笑う)
スコット−これら小さなお話はみな、実際に、この談話を生きたものにするんです − 少なくとも私にとっては。
メアリー−ええ。(二人ともクスクス笑う)実際、ハンツマンはすっかり絆になりました。彼は、私はこれらのことを理解している、私は趣味が良くて、そこから恩恵が得られると思うようになりました。
スコット−ええ、そうです!
メアリー−それで、後の年月に分かったことですが、彼はこれらのことについて私に相談したいと思ったんです。私はいつまでも、ハンツマンに彼を送り迎えしていました。
スコット−では、これは翌年のことでしたか。
メアリー−ええ、翌年ね。
スコット−ああ。でも、まだ私たちは65年にいます。あなたはボックス・ヒル〔へのお出かけ〕から〔6時の約束でウィンブルドンの家へ〕震えて、戻ってきたばかりです。
メアリー−ボックス・ヒルから震えて戻ってきました。
スコット−で、あなたがクリシュナジをハンツマンに送り迎えをしはじめたのは、その年だったんですか。
メアリー−そう思います、ええ。お分かりでしょう、私は車を持っていたからです。彼らは車を持っていなかった。そして、〔ロンドン南西部の〕ウィンブルドンから〔ロンドンの中心の〕街に入る手段がなかったんです。それで、私は彼らの行き来でたくさんタクシーをやりました。ときにはアランだけ、私は彼を、分からないな、歯医者か何かに連れて行ったし、ときにはクリシュナジを、です。または、彼らはどうにか街に行ったんです。どうやってか私は知りません。私は彼らを車に乗せて、家に送ったものでした。
スコット−では、この時にも、あなたのアラン〔・ノーデ〕との友情は発展しはじめたし、あなたは彼と本当の接触を持ちはじめた。
メアリー−ええ、この時、1965年までには、アランはクリシュナジの秘書として雇われていました。アランはその冬、インドで彼の秘書になりました。彼は64年から65年の冬にインドへ行っていました。1月にアランは私に、二通の手紙を送ってきました。そのとき彼は私に、クリシュナジが自分に秘書、助手のようなものになってほしいと頼んだと書いてきました − そうね、彼のためにいろいろなことをするわけです。それで、それが彼のしていることでした。
スコット−ともあれ、あなたはドライヴから戻ってきて身震いした。そして、その夏また、あなたはクリシュナジの送り迎えを始めたと思うわけです・・・
メアリー−ええ、借りた車で。
スコット−では、このハンツマンのお話があったのは、64年だったにちがいありません。なぜなら・・・
メアリー−ええ、そうにちがいない。
スコット−・・・なぜなら、65年にイングランドで、それは〔夏のスイス、〕サーネン〔集会〕の前であったからです。
メアリー−そのとおりです。ええ、そのとおりです。
スコット−じゃあ、それが、サーネンでのあなたのクリシュナジとの最初の接触だったにちがいない。
メアリー−ええ。ムーアヘッド夫妻がいて、ハンツマンの全エピソードがあったとき、〔女主人の〕ヴァンダ〔・スカラヴェッリ〕が私を昼食に呼んでくれたにちがいないわ。(クスクス笑う。それからスコットもクスクス笑う)また、次の夏、ヨーガ〔という主題〕が〔この〕画像に入ってきましたが、そこには来るでしょう。ともあれ、ロンドンの後、パリが来ました。
スコット−ロンドンでの唯一の〔一連の〕講話は、ボーイ・スカウトの場所であったんですか。
メアリー−その年はそうね。少数の人たちとだけでした。
スコット−他には、あなたの憶えている誰がいましたか。
メアリー−私は、ドロシー・シモンズ(Dorothy Simmons)と〔その夫〕モンテーニュ(Montague)(原註25)の後ろに座っていたこと、そしてドロシーにはすっかり戸惑ったことを、憶えています。何かが・・・それが何だったのかは忘れてしまったわ・・・彼女は気が合わないように思いました。(クスクス笑う)彼らは私の真ん前に座っていて、彼女が居ることの何かは、座席に関してかなり無愛想でした。何だったかは忘れてしまいました。でも、彼女はそこにいたし、〔元女優の〕アイリス〔・ツリー〕もまたいました。私は他の人を誰も知っていたとは思いません。
スコット−他の誰も知らなかった。いいですよ。
スコット−メアリー・カドガン(Mary Cadogan)に会ったはずですが。
メアリー−いえ、そのとき彼女には会わなかった。私がいつ彼女に会ったのかを、言いましょう。とてもおかしいわ。これもまた年代順を外しているわ。〔夏のスイス、〕サーネン〔集会〕では〔会場の〕テントで、人々を座席に案内して行ったり来たりする女性がいました − シフォンのような衣装をしてね。私は〔『ハムレット』を思い起こして、〕「彼女は、自分がオフィーリアだと思っている!」と考えたのを、憶えています。(笑う)私はカドガン夫人という人を探していました − ラージャゴパルが私に、カドガン夫人の名前を教えていたに違いありません。私はデ・ヴィダス(De Vidas)夫人がカドガン夫人にちがいないと決めました。彼女もまた、人々を案内してまわっていました。それで、私は彼女に近づいて行って、「あなたがカドガン夫人ですか。」と言いました。彼女は、「ああ、ノン、ノン!」と言いました。(笑う)彼女はあまり英語を話さなかった。オフィーリア役の人物がカドガン夫人でした。(スコット、心から笑う。メアリー、クスクス笑う)でも、〔ロンドンの〕ウィンブルドン講話ではカドガン夫人を見なかったし、アンネッケ〔・コーンドルファー〕とドリス〔・プラット〕との昼食でも、ね。
スコット−その頃、クリシュナジとともにハンツマンに行ったことは、憶えていますか。
メアリー−ああ、そうね。私は彼らを送って行ったか、拾ったのか。たぶん〔予定帳を〕参照しましょう。以降の年に、アラン〔・ノーデ〕もまたスーツを入手しました。大いに協議がありました。(スコット、クスクス笑う)ああ、それからシャツもあったし、それからネクタイもあったし、それからパリに行ったときは・・・
スコット−もちろん靴も。
メアリー−パリでは〔靴屋のジョン・〕ロブ(Lobb)に行きました。彼が講話をしていないとき、買い物が(スコット、クスクス笑う)日々の計画でした。彼は楽しんだわ。
スコット−よろしい。(メアリー、笑う)この対談はおもしろいですか。
メアリー−ええ!
スコット−じゃあ、継続しましょう。〔今回〕終わったところから、〔次回の〕物語を始めましょう。

原註
1)インドでは、尊敬と愛情を表示するために、名前の後に「ジ」が加えられる。クリシュナムルティは、彼を知る人たちからは、「クリシュナジ」と呼ばれた。
2)オーハイ(Ojai)は、ロサンジェルスの北、約八十マイル〔、約128キロメーター〕の小さな街である* 。〔神智学協会に保護されていた〕クリシュナムルティとその〔三歳下の〕弟のニトヤナンダ(Nityananda)は、1922年に初めてそこを訪問した。クリシュナジは断続的に、1986年の死去までそこで生活した。アメリカ・クリシュナムルティ財団(The Krishnamurti Foundation of America)は今、そこに位置している。
3)クリシュナジの仕事のために〔神智学協会会長で養母のベサント夫人により〕1920年代に購入されたオーハイ〔の西端、メイナーズ・オークスの南隣〕の土地。そこで彼は晩年の1985年まで講話を行った。アメリカでのクリシュナムルティの唯一の学校は、その土地にある。*
4)クリシュナジを取り囲む活動を運営していた弟〔ニトヤ〕が1925年〔11月〕に〔肺結核の悪化でオーハイで〕亡くなったとき、ラージャゴパルは、クリシュナジの〔周囲の神智学協会の〕年長者たちにより、その役割に就かされた。
5)サム・ジンバリストは、大成功を収めた映画プロデューサーであり、没後に〔翌年、アメリカ・アカデミー賞の〕最高映画賞に対するオスカーを受けた唯一の人物であった。メアリーは彼に代わって、それを受けとった。
6)ラージャゴパルの妻。
7)クリシュナジは1963年から1985年まで、スイス、サーネンで〔夏に〕公開講話を行った。
8)クリシュナムルティ著作協会(Krishnamurti Writings, Inc.)は、1945年頃に造られたが、〔ラージャゴパルの支配下にあり、〕最終的に法律上の係争点になった。
9)フィロメナ(Filomena)は、長年メアリーの家政婦であったが、若いときから〔ローマで〕メアリーの伯母のために働いていた。だから、彼女はメアリーにとって家族の一員のようなものだった。
10)サーネンでのホテル。
11)これはユーモアの点である。なぜなら、そこは隠棲の場所とはかけ離れて、豪華なホテルであるから。
12)メアリーとサムの友人たち。クリストファー・フライ(Christopher Fry)は、〔映画〕『ベンハー』のためにサムが雇った作家の一人であった。
13)ヴァンダ・スカラヴェッリ侯爵夫人(Marchese Vanda Scaravelli)は、クリシュナジの親友で、宿泊先の主人になった。彼女は初めに1930年に〔オランダ、オーメンの集会で〕彼の話を聞いたが、〔個人的には〕1937年まで彼に会わなかった。彼女は、スイスとイタリアでの彼の宿泊先の主人であった。
14)フランシス・マッキャン(Frances McCann)は、クリシュナジの仕事に対してとても熱心な人であった。彼女は彼の講話に出席して、世界を旅してまわった。そして、彼が設立した諸学校を支援するために設立された財団の仕事に対して、頻繁に〔財政的に〕貢献した。
15)オーメン(Ommen)は、1920年代にクリシュナムルティが〔国際的な集会を開いて〕話をしたオランダ〔東部〕の場所である。*
16)タンネグ山荘(Chalet Tannegg)は、スイス、グシュタート(Gstaad)(クリシュナジが講話したサーネンの隣にある)の山荘であり、そこは講話の間、彼の宿泊のためにヴァンダ・スカラヴェッリが借りたところであった。タンネグはまた、クリシュナジが開いた討論会のための現場でもあった。
17)ヨーロッパの山岳地方で見られる、俊敏なカモシカ。
18)1920年代からのクリシュナジの友人で支援者。
19)ナグラは、プロ用のポータブル・テープレコーダーを造ったが、それは長年にわたってクリシュナムルティの講話を録音する最善の道具であった。
20)1800年代から、私利私欲の意図を持って、他の人物や状況を制御する架空の登場人物。
21)アンネッケ・コーンドルファー(Anneke Korndorffer)は、1930年代からクリシュナジの仕事の支援者であり、オランダでの彼の活動を組織した人であった。
22)ドリス・プラット(Doris Pratt)は、1920年代からクリシュナジの活動のために働いてきた。そして、〔ラージャゴパルのもとで、〕イングランドにおけるクリシュナムルティ著作協会の代表であった。
23)〔合衆国南東部の〕アラバマ州のセルマからアラバマ州のモンゴメリーまでの三つの行進は、アメリカの公民権運動の頂点と転回点を記した。メアリーはシャネルのスーツで行進したが、それは、公民権の支持者は貧しい人たちや学生たちだけでないことを、人々に見てほしかったからだ、と私に話した。
24)ハンツマン(Huntsman)は、ロンドンのセヴィル・ロウの仕立屋である。
25)ドロシー・シモンズは、クリシュナムルティがヨーロッパに〔1969年に〕設立した唯一の学校、〔イングランド南部ハンプシャー州の、〕ブロックウッド・パーク・クリシュナムルティ教育センター(the Brockwood Park Krishnamurti Education Centre)の初代校長になった。


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