冥想とエネルギー

質問者 今朝私は、冥想のもっと深い意味、もっと深い感覚に入りたいように思うのです。私は、少しの禅を含めて、その多くの形態を実践してきました。気づきを教える学派はさまざまにあるのですが、それらはすべてむしろ表面的なように思われます。それで、私たちはそのすべてをわきに置いておき、これに入れるでしょうか。

K 私たちはまた権威の意味全体をもわきに置かなければなりません。なぜなら、冥想のなかで、どんな形態の権威も、自分自らのも他の人の権威も、障害になり、自由を防止するからです。新しさ、新鮮さを防止するのです。それで、権威、順応、模倣は完全にわきに置かなければなりません。そうでなければあなたは、単に言われてきたことを模倣し、倣うだけですし、これは心をとても鈍く愚かにするのです。そこには自由がありません。あなたの過去の経験は導き、指導し、新しい道を確立するかもしれません。それで、それさえも去らなければなりません。そのときにだけ、冥想と呼ばれるこのとても深くとてつもなく重要なことに、入れるのです。冥想はエネルギーの本質です。

質問者 長年の間、私は自分が他の誰かの権威やある様式の奴隷にならないようにしてきました。もちろん私自身を欺瞞する危険はあるのですが、私たちが進むにつれて、私はたぶん見出すでしょう。しかし、あなたが冥想はエネルギーの本質であると言われるとき、あなたの言われる「冥想」と「エネルギー」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。

K 思考のあらゆる動き、あらゆる行為がエネルギーを要求します。あなたが何をしようと、考えようと、エネルギーが要るのです。このエネルギーは、葛藤、抗争をとおし、さまざまな形態の不必要な思考、情動的追求、感傷的活動をとおして、消散するかもしれません。二元性に、「私 'me' 」と「非私 'not-me' 」に、観察する者と観察されるもの・こと、思考する者と思考されるもの・こととの間の分割に生ずる葛藤、抗争のなか、エネルギーはむだになるのです。このむだがもはや起きていないとき、気づきと呼べるエネルギーの性質があるのです − そのなかに、評価づけ、判断、非難、比較がなく、単に注意深い観察、思考 − すなわち過去 − の干渉なく内的、外的にものごとをまさに有るとおりに見ることのみがあるところの気づき、です。

質問者 私はこれをとても理解するのが困難だと思います。もしも全く思考がなかったなら、樹や私の妻や隣人を認識することは、可能でしょうか。あなたは樹やお隣の女性を見るとき、認識は必要であるでしょう。

K あなたが木を観察するとき、認識は必要でしょうか。あなたがあの樹を見るとき、あなたはあれは樹であると言うのでしょうか、それともあなたはただ見るだけでしょうか。あなたがそれをニレ、カシ、マンゴーの来と認識しはじめるなら、そのとき過去が直接的観察に干渉するのです。同じように、あなたは、あなたの妻を見るとき、やっかいや楽しみの記憶をもって見るのなら、あなたは本当は彼女を見ていなくて、あなたが彼女について心に持っているイメージを見ているのです。それが直接的知覚を防止します。直接的知覚には、認識が要りません。あなたの妻、あなたの子ども、あなたの家、あなたの隣人の外的認識はもちろん必要です、しかし、なぜ眼、心、頭に過去の介入があったりするのでしょうか。それはあなたが明確に見るのを防止しないでしょうか。あなたが何かについて非難したり、見解を持つとき、その見解や先入観は、観察を歪曲するのです。

質問者 はい、それは分かります。その微細な形態の認識は歪曲するのです。それは分かります。あなたは、これらすべての思考の干渉はエネルギーのむだであると言われます。あなたは、どんな形態の認識、非難、判断もなく観察しなさい、名づけず観察しなさい、と言われます。その名づけ、認識はエネルギーのむだであるからです。それは論理的に現実的に理解できます。そのとき次の点、すなわち、二元性を創り出す観察する者と観察される者・ことの間に存在する分割、分離、あるいはむしろあなたがしばしば表してこられたとおり空間があるのです。あなたは、それもまたエネルギーのむだであり、葛藤、抗争をもたらすと言われます。私はあなたの言われることすべてを論理的だと思うのですが、その空間を取り除くこと、観察する者と観察される者・こととの間に調和をもたらすことを、とてつもなくむずかしいと思うのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。

K 「どのように」はないのです。「どのように」は、機械的になる体系、方式、実践を意味します。もう一度私たちは、「どのように」という言葉の意義を離れなくてはなりません。

質問者 それは可能でしょうか。私は可能という言葉は、未来、努力、調和をもたらそうと奮闘することを含意するのを、知っています。しかし、一定の言葉は使わなければなりません。私たちがそれら言葉を乗り越えられるのを私は願うのです。それで、観察する者と観察されるもの・こととの間の統一をもたらすことは、可能でしょうか。

K 観察する者は観察されるもの・ことにいつも陰を落としています。それで、二つの間の統合をどのようにもたらすのかではなくて、観察者の構造と本性を理解しなければなりません。観察者の動きを理解しなければなりません。その理解のなかおそらく観察者は終わりになるでしょう。私たちは、観察者が何なのかを検討しなければなりません。それは、意識的、無意識的な記憶、人種的、民族的な遺産、知識と呼ばれる蓄積された経験、諸反応をともなう過去なのです。観察者は本当は、条件づけられた事物です。彼は、その人はある、私はあると主張する者なのです。彼自身を保護するなかで彼は抵抗し、支配し、快適と安楽、安全を求めます。そのとき観察者は内的、外的に、自分自身を、観察されるもの・こととは異なる何かとして、分け隔てます。これが二元性をもたらすし、この二元性から葛藤、抗争があるし、これ(葛藤、抗争)がエネルギーのむだなのです。観察者、その動き、その自己中心的活動、その主張、その先入観に気づくには、自分は異なっているという分離主義的感情を築くこれら無意識的な動きすべてに、気づかなければなりません。それは、どんな形態の評価づけもなく、好き嫌いなく観察されなければなりません。ただそれを日々の生のなか、その諸関係のなか観察してください。この観察が明らかであるとき、観察者からの自由がないでしょうか。

質問者 あなたは、観察者は本当は自我であるとおっしゃっています。あなたは、自我が存在するかぎり、彼は抵抗し、分割し、分離する、というのは、この分離、この分割のなか彼は生きていると感じるから、とおっしゃっているのです。それは彼に、抵抗し戦う活力を与えるし、彼はその戦いが慣習となってしまったのです。それが彼の生きる道なのです。あなたは、この自我、この「私 'I' 」が、好き嫌いの感覚のなく、見解や判断のなく、ただ行為のなかこの「私 'I' 」の観察のみがある観察をとおして解消しなければならない、と言われていないでしょうか。しかし、そういうことは本当に起きるのでしょうか。私は私自身をそんなに完全に、真実に、歪曲なく見られるでしょうか。あなたは、私がそんなに明らかに私自身を見つめるとき、「私 'I' 」は全く動きを持たないと言われます。そしてあなたは、これが冥想の一部であると言われるのですか。

K もちろんです。これこそが冥想です。

質問者 この観察は確かに、とてつもない自己修練を要求します。

K あなたの言われる自己修練とはどういう意味でしょうか。自己に拘束服を帰せることにより自己を修練するという意味でしょうか。それとも自分自身(について)、主張し、支配し、野心的暴力的などである自分自身について修学する、それについて学ぶ、という意味でしょうか。学ぶことはそれ自体が修練です。修練という言葉は、学ぶ、修学するという意味です。蓄積ではなく、学びがあるとき、現行の学びがあるとき、それには注意が要るし、その学びがそれ自体の応答する責任能力、それ自体の活動、それ自体の次元をもたらすのです。それで、それに課されるものとしての修練はないのです。学びがあるとき、模倣はなく、順応はなく、権威はないのです。これがあなたが修練という言葉でいわれる意味であるのなら、そのとき確かに学ぶ自由がありますか。

質問者 あなたは、私をあまりに遠く、おそらくあまりに深く連れていっています。私は、この学びが関係するところでは、あなたにぜんぶは付いてゆけません。私は、観察者としての自己が終わりにならなければならないことが、明確に分かります。論理的にそのとおりですし、葛藤があってはなりません。それはごく明確です。しかし、あなたは、まさにこの観察が学びであるし、学ぶなかにはいつも蓄積があると言われています。この蓄積が過去になるのです。学びは付け加えの過程ですが、あなたは明らかにそれに全く違った意味を与えられています。私が理解したところからは、あなたは、学びは蓄積なき常の動きであると言われています。そのとおりでしょうか。蓄積なしの学びがありうるのでしょうか。

K 学びはそれ自体の行為です。一般的に起きることは、学んでおいて − 私たちは学んできたことにのって行為する、ということなのです。それで、過去と行為の間に分割があるし、ゆえに、有るべきもの・ことと有るもの・こと、またはあったもの・ことと有るもの・こととの間に、葛藤があるのです。私たちは、学びの動きこそに行為がありうると言っているのです。すなわち、学ぶことはなすことです。それは、学んでおいてそれから行為するという問題ではないのです。これを理解することがとても重要です。なぜなら、学んでおいてその蓄積から行為することは、「私に 'me' 」、「私 が 'I' 」、自我、またはどんな名を付けたくても、まさにその本性です。「私 'I' 」は過去のまさに本質ですし、過去は現在に触れて、さらに未来になるのです。ここには常に分割があるのです。学びがあるところには、常に動きがあるのです。「私 'I' 」になりうる蓄積はないのです。

質問者 しかし、科学技術の分野には、蓄積された知識があるのでなければなりません。知識なしには、大西洋を飛んだり、車を走らせたり、またはふつうの日々のことのほとんどをすることさえもできません。

K もちろんですね。そういう知識は絶対に必要です。しかし、私たちは、「私 'I' 」の作動する心理的分野について話しているのです。「私 'I' 」は、何かを立場や信望を達成するために、技術的な知識を用いられるのです。「私 'I' 」は、作用するためその知識を用いられるのです。しかし、作用するなかで「私 'I' 」が干渉するのなら、ものごとはおかしくなりはじめるのです。というのは、「私 'I' 」は技術的な手段をとおして地位を探し求めるからです。それで、「私 'I' 」は単に科学的な諸分野に関心を持つだけではありません。それは、何か他のものを達成するためにそれを用いているのです。それは、有名になるためピアノを用いる音楽家に似ています。彼が関心を持つものは、それ自体での、それ自体のための音楽の美しさではなくて、名声です。私たちは、技術的な知識を除かなければならないと、言っているのではありません。反対に、技術的な知識があるほど、それだけもっと良い生活状況があるでしょう。しかし、「私 'I' 」がそれを用いるととたんに、ものごとはおかしくなりはじめるのです。

質問者 私はあなたの言われていることを理解しはじめていると思います。あなたは、学びという言葉に、全く違った意味と次元を与えられています − それはすばらしいのです。私はそれをつかみはじめています。あなたは、冥想は学びの動きであるし、そこにはあらゆるものごとについて、冥想についてだけではなく、生き方、車の走らせ方、食べ方、話し方、あらゆるものごとについて学ぶ自由がある、と言われているのです。

K 私たちが言いましたように、エネルギーの本質は冥想です。それを違うように言うと − 冥想者があるかぎり、冥想はないのです。彼が他の人たちの叙述した状態や何か経験の閃きを達成しようと試みるなら・・・

質問者 お話を遮らせていただくと、あなたは、学ぶことは常であり、絶え間なき流れ、線であり、そのため学びと行為が一つ、または常の動きであるようでなければならないと、言われているのでしょうか。私はどういう言葉を用いるべきなのか知りませんが、私の言いたい意味は必ず理解なさると思うのです。学びと行為と冥想の間に絶え間があるととたんに、その絶え間は不調和ですし、その絶え間は葛藤です。その絶え間には、観察者と観察されるもの・ことが(あるし)、ゆえにエネルギーのむだ全体があるのです − それが、あなたの言われていることなのでしょうか。

K はい、それが私たちの言っている意味なのです。冥想は状態ではありません。行為が動きであるように、それは動きです。そして、ちょうどいま私たちが言いましたように、私たちが学びから行為を分離するとき、観察者が、学びと行為の間に来るのです。そのとき彼は、隠密の動機のために行為と学びを用いるのです。これが、行為し、学び、冥想する一つの調和的動きとしてごく明確に理解されるとき、エネルギーのむだはないし、これが冥想の美しさです。ただ一つの動きがあるのです。学びは、冥想や行為よりもはるかに重要です。学ぶには、完全な自由が、意識的にだけではなく、深く、内的に、あるのでなければなりません − 全的な自由です。そして、自由には、調和的全体として学び、行為し、冥想するこの動きが、あるのです。全体 whole という言葉は、(語源的に)健全 health というだけではなく、神聖 holy という意味なのです。それで、学びは神聖ですし、行為は神聖ですし、冥想は神聖です。これは本当に聖なることですし、美しさはそれを越えてではなく、それ自体にあるのです。


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