情熱と受苦

質問者 情熱とは何なのでしょうか。あなたはそれについて話してこられたし、明らかにあなたはそれに特別の意味を与えられるようです。私は自分がその意味を知っているとは思いません。あらゆる男と同じく私は、性的情熱と、速いドライヴや美しい庭の育成のような表面的なものごとへの情熱を、持っています。私たちのほとんどは、何らかの形態の情熱的活動に耽溺します。その人の特別の情熱について話をすると、その人の目が輝くのが見えるのです。私たちは、情熱 passion という言葉が、苦痛を表すギリシャ語から来るのを知っていますが、あなたがこの言葉を使われるとき私の受ける感情は、苦痛のそれではありません。むしろ、西から轟きながら来て、その前のごみくずと雲を追い払う風のそれのように、何か駆り立てる性質のです。私はこの情熱を所有したいように思うのです。どのようにそれに近づくのでしょうか。それは、何について情熱的なのでしょうか。あなたの言われる情熱は、何なのでしょうか。

K 私たちは情欲と情熱は別々のものであることを明らかにすべきであると、私は思うのです。情欲は思考により維持され、思考により駆り立てられるし、思考において成長し、実体を得て、ついに性的に爆発するにいたるし、またそれが権力への情欲であるなら、それ自らの暴力的形態の充足において、です。情熱は何か全然違ったものなのです。それは思考の産物ではないし、また過去の出来事の思い出でもないのです。それは、充足のどんな動機によっても駆り立てられません。それはまた悲しみでもありません。

質問者 性的情熱すべては情欲なのでしょうか。性的応答はいつも思考の結果です。それは、その愛らしさに圧倒される誰かにふいに出会うときのように、接触なのかもしれません。

K どこでも思考が楽しみのイメージを築き上げるところでは、それは必然的に、情熱の自由ではなく、情欲であるにちがいないのです。楽しみが主な駆り立てる力であるなら、そのときそれは情欲です。性的感情が楽しみから生まれるとき、それは情欲です。それが愛から生まれるなら、たとえそのとき大きな歓喜が存在していようとも、それは情欲ではありません。ここで私たちは、愛は楽しみと味わいを排除するのかどうかについて明らかであり、私たち自身で見出すのでなければなりません。あなたは雲を見て、その広大さとそれに当たる光に歓喜するとき、もちろん楽しみはあるのですが、楽しみよりももっと多くがあるのです。私たちは全くそれを非難していません。あなたが、思考や所作において刺激のためにその雲に戻りつづけるなら、そのときあなたは、空想の想像的高まりに耽溺しているし、明白にここでは楽しみと思考が、作動する誘因です。あなたがまず初めにあの雲を見つめて、その美しさが見えたとき、そういう楽しみの誘因は作動していなかったのです。セックスの美しさは、「私 'me' 」、自我の不在なのですが、しかし、セックスの思考はこの自我の定立です。そしてそれが楽しみです。この自我は、すべてのときに楽しみを探し求めているのか、苦しみを回避しているのかのどちらかで、充足をほしがり、よって欲求不満を招いているのです。このすべてのなか、情熱の感情は、思考により維持され、追求されるのです。ゆえに、それはもはや情熱ではなく、楽しみです。憶えられ思い出される情熱の希望、追求は、楽しみです。

質問者 それでは、情熱自体は何なのでしょうか。

K それは、喜びと忘我と関わります。これらは楽しみではありません。楽しみにはいつも微細な形態の努力があるのです − 探し求め、奮闘し、要求し、それを保とう、それを得ようと格闘すること、です。情熱には、要求がないし、ゆえに格闘がないのです。情熱には充足のいささかの影もないし、ゆえに欲求不満も苦しみもありえないのです。「私 'me' 」は充足と苦しみのすべての中心ですが、情熱は「私 'me' 」からの自由です。情熱は、有るから、要求しないのです。私は、何か静止したものについて語っているのではありません。情熱は、「あなた」と「私 'me' 」がない自己放棄のきびしさです。ゆえに、情熱は、生、いのちの本質です。動き生きるのは、これなのです。しかし、思考が、持つこと、保つことの諸問題すべてを持ち込むとき、情熱は停止するのです。情熱なしには、創造は可能ではないのです。

質問者 あなたのいわれる創造とは、どういう意味なのでしょうか。

K 自由です。

質問者 どういう自由ですか。

K 環境に依存し環境の産物である「私 'me' 」 − 社会と思考により組み立てられる「私 'me' 」 − からの自由です。この自由は明晰さであり、過去から灯されない光です。情熱はただ現在のみなのです。

質問者 私には、ふしぎな新しい感情が、燃え立ちました。

K それが学びの情熱です。私が日々生きるなか、どういう特定の行為が、この情熱が燃えて作動していることを、確実にしてくれるのでしょうか。

質問者 学びの注意以外に、何もそれを確実にしてくれないでしょう。その注意は行為であり、いまなのです。これには情熱の美しさがあるし、それは「私 'me' 」とその時間の全的放棄です。


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