学び

質問者 あなたはしばしば学びについて話してこられました。私は、あなたの言われるのがどういう意味なのか、よくは知りません。私たちは学校、大学で学ぶよう教えられるし、生もまた私たちに多くのことを教えるのです − 環境に、私たちの隣人に、私たちの妻や夫に、私たちの子どもに適応することです。私たちはほとんどあらゆるものごとから学ぶように思われます。しかし、あなたが学ぶことについて語られるとき、それがすっかりあなたの意味されることではないのは、確かであると思います。なぜなら、あなたはまた教師としての経験をも拒否されるように見えるからです。しかし、あなたは経験を拒否するとき、学びすべてを拒否していないでしょうか。つまるところ、科学技術でも人間的な日常生活でも、経験をとおして私たちは、私たちの知るものごとすべてを学ぶのです。それで、私たちはこの疑問に入ってもよろしいでしょうか。

K 経験をとおして学ぶこと − それは条件づけの蓄積です − と、客観的ものごとについてだけではなく自分自身についてもすべてのとき学ぶことは、全く別々のことなのです。条件づけをもたらす蓄積があります − これを私たちは知っています。そして、私たちが語る学びがあります。この学びは観察です − 蓄積なく観察すること、自由のなか観察することです。この観察は、過去から方向づけられません。それら二つのことを明らかにしておきましょう。
  私たちは経験から何を学ぶのでしょうか。私たちは言語、農業、礼儀作法、月へ行くこと、医療、医薬、数学のようなものごとを学びます。しかし、私たちは、戦争をするのをとおして、戦争について学んだのでしょうか。私たちは戦争をもっと命取りで、もっと効果的にするのを学んだのですが、しかし、私たちは戦争をしないことを学んでいないのです。私たちの戦争状態での経験は、人類の生存を危険にさらすのです。これは学びでしょうか。あなたはもっとよい家を建てるかもしれません。しかし、経験はあなたに、その内でもっと高貴に生きるすべを教えてくれたのでしょうか。私たちは経験をとおして、火は燃えて熱いことを学んできたし、それは私たちの条件づけになったのですが、しかし、私たちはまた私たちの条件づけをとおして、国家主義、民族主義が良いことを学んできたのです。それでもなお経験はまた私たちに、国家主義、民族主義が命取りであることをも教えてくれるはずなのです。証拠すべてがあるのです。私たちの条件づけに基づくような宗教的経験は、人から人を分離してきたのです。経験は私たちに、もっと良い衣食住、庇護を得ることを教えてくれました。しかし、それは私たちに、社会的不正が人と人との間の正しい関係を妨げることを、教えてくれなかったのです。それで、経験は、私たちの先入観、私たち固有の傾向、私たち特有の教義と信念を、条件づけ、強めるのです。私たちは、このすべてがどんなに愚かな無意味であるかを、学びません。私たちは、他の人たちと正しい関係に生きることを、学びません。この正しい関係は愛なのです。経験は私に、社会と他の諸家族と対立する単位として家族を強めることを、教えてくれます。これが闘争と分割をもたらすし、それは、家族を保護的に強めることをさらにもっと重要にするのです。それで、悪循環が継続します。私たちは蓄積し、これを「経験をとおした学び」と呼ぶのですが、この学びはますます断片化、狭さ、専門化をもたらすのです。

質問者 あなたは、技術的な学びと経験に対し、科学と蓄積された知識に対する、反例を示しておられるのでしょうか。私たちはそれに背を向けるなら、野蛮状態に戻るでしょう。

K いいえ。私は全くそういう反例を示しているのではありません。私たちは互いに誤解しあっていると思います。私たちは、二つの種類の学びがあると言いました − 経験をとおした蓄積と、その蓄積から行為すること。蓄積は過去であり、知識の行為が必要であるところではどこでも、これは絶対的に必要です。私たちはこれに反対しているのではありません。それはあまりに愚劣でしょう!

質問者 ガンジーは生活から機械を締め出そうとし、インドで「国内産業」または「家内工業」と呼ばれる産業すべてを始めました。それでもなお彼は、近代の機械化された運送を使いました。これは、彼の立場の不一致と偽善を示すのです。

K 他の人々はここから外しておきましょう。私たちは、二つの種類の学びがあると言っています − 一つは、知識と経験の蓄積をとおして行為することで、もう一つは、蓄積なく学ぶこと、まさに生きる行為のなかすべてのときに学ぶことなのです。前者は、技術的事態すべてにおいて絶対的に必要です。しかし、関係、行動は技術的な事態ではないし、それらは生き物ですし、あなたはすべてのときにそれらについて学ばなくてはなりません。あなたが行動について学んだことから行為するなら、そのときそれは機械的になるし、ゆえに関係は課業になるのです。
  それから、もう一つとても重要な点があるのです。蓄積と経験である学びすべてでは、利得が、学びの効率を決定する基準です。そして、利得の動機が人間関係に作動するとき、それは孤立と分割をもたらすから、それら関係を破壊するのです。経験と蓄積の学びが、人間行動の領域、心理的領域に入るとき、それは必然的に破壊するにちがいないのです。開明的な利己心は一方では前進ですが、他方では、危害、悲惨、混乱のまさしく所在です。どんな種類でも利己心があるところに、関係は花開けないのです。そういうわけで、関係は経験や記憶に導かれるところで花開けないわけなのです。

質問者 それは分かります。しかし、宗教的経験は、何か違ったものではないでしょうか。私は、宗教的な事柄において集められ伝えられた経験について、話しています − 聖人と導師の経験、賢者の経験です。この種の経験は、無知のなかの私たちには有益ではないでしょうか。

K 全くそうではないのです!聖人は、社会に認識されなければならないし、いつも社会の聖人たることの概念に順応するのです。そうでなければ、彼は聖人と呼ばれないでしょう。同等に導師は、伝統によって条件づけられている従う人たちにより、それとして認識されなければなりません。それで、導師と学徒はどちらも、彼らが生きる特定の社会の文化的、宗教的条件づけの一部です。彼らが自分たちは真実と接触した、自分たちは知っていると主張するとき、あなたは、彼らが知っているものは真実ではないことを、全く確実だと思っていいのです。彼らが知っているものは、過去からの彼ら自身の投影です。それで、自分は知っていると言う人は、知っていないのです。これらすべてのいわゆる宗教的経験には、認識の認知過程が本来的に備わっているのです。あなたは、前に知っていたものを認識できるだけなのです。ゆえにそれは過去のであるし、ゆえにそれは、時間に縛るし、無時間ではないのです。いわゆる宗教的経験は、利益をもたらさないで、単にあなた特定の伝統、傾向、性癖、願望に応じてあなたを条件づけるだけで、ゆえにあらゆる形態の幻想と孤立を助長するのです。

質問者 あなたが言われるのは、真実を経験できないという意味でしょうか。

K 経験するとは、経験者があるのでなければならないという含意ですし、経験は条件づけすべての本質です。彼が経験するもの・ことは、すでに知られたもの・ことなのです。

質問者 あなたが経験者について話されるとき、それはどういう意味なのでしょうか。経験者がないのなら、あなたは消えさるという意味でしょうか。

K もちろんです。「あなた」は過去ですし、「あなた」が留まる、または「私 'me' 」が留まるかぎり、無量であるものはありえないのです。浅く小さな頭、経験、知識をもち、嫉妬と心配の重荷を負った心をもつ「私 'me' 」は − そういう事物がどうして、始まりもなく終わりもないもの、忘我であるものを、理解できるでしょうか。それで、英知の始まりはあなた自身を理解することなのです。あなた自身を理解しはじめなさい。

質問者 経験者は、彼が経験するもの・ことと違うのでしょうか。挑戦は、挑戦への応答と違うのでしょうか。

K 経験者が経験されるもの・ことであるのです。そうでなければ、彼は経験を認識できないでしょうし、それを経験と呼ばないでしょう。経験は、彼がそれを認識する前に、すでに彼にあるのです。それで、過去はいつも作動して、それ自体を認識しているのです。新しいもの・ことは、古いもの・ことに呑み込まれてしまうのです。同様に、挑戦を決定するのは反応です。挑戦は反応です。二つは分離してありません。反応なしには、挑戦はないでしょう。それで、経験者の経験、または経験者から来る挑戦への反応は、古いのです。というのは、それらは経験者によって決定されるからです。あなたが考えるにいたるなら、「経験」という言葉は、何かを経る、しるす。それを蓄えておくのではなく、それを終了させる、という意味です。しかし、私たちが経験について話すとき、それは現行としては反対の意味なのです。あなたは、経験について語るたびに、そこから行為が始まる何か蓄えられたものについて語るし、楽しんできて再び得たいと要求するもの、または嫌ってきて反復されるのを恐れているものについて語るのです。
  それで、本当に生きるとは、累積的過程なく学ぶことなのです。


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