心と頭


質問者 人間が自らの存在を異なった諸区画 − 知能と情動 − に分割してきたのは、なぜなのでしょうか。それぞれがもう一つに依らず独自に存在しているように思われます。生におけるこれら二つの駆り立てる力はしばしば矛盾しあっていて、そのため私たちの存在のまさに織地を引き裂くように思われるほどなのです。人間が全的存在として行為できるようにそれらをまとめることは、いつも生の主要な目的の一つでありました。そして、人間のなかのこれら二つのものに加えて、変化する環境たる第三のものがあるのです。それで、人間のなかのこれら二つの矛盾したものはさらにまた、人間自身の外側にあるように見える第三のものと対立しているのです。ここに問題があり、こんなに混乱させ、こんなに矛盾し、こんなに広大であり、そのため知能は、それらをまとめるために神と呼ばれる外側の機関を考案するほどです。そしてこれが、さらにいっそう事態全体を錯綜させるのです。生にはただ一つこの問題があるのです。

K あなたは、あなた自らの言葉に乗せられていくように思われます。これは本当にあなたにとって問題なのでしょうか。それともあなたは、よい議論をするために、それを考案しているのでしょうか。それが議論のためであるなら、そのときそれは本当の内容をもちません。しかし、それが本当の問題であるなら、そのとき私たちはそれに深く入れます。ここで私たちにはとても複雑な状況があるのです − 内がそれ自体を諸区画に分割し、さらにまたそれ自体をその環境から分離するのです。さらにまた、それは環境を − それを社会と呼ぶのですが − 諸階級、人種に、経済的、国家的、民族的、地理的諸集団に分離するのです。これが、世界で現行として起きていることであるように思われるし、私たちはそれを生きることと呼ぶのです。この問題を解決できないので、私たちは超越的存在を考案します。私たち自身と私たちの間に調和と束ねる性質をもたらしてくれるだろうと私たちが願うところの機関です。私たちが宗教と呼ぶこの束ねる性質は、今度はもう一つの分割の要因をもたらすのです。それで、疑問はこうなります − 諸分割がない生きることの完全な調和、知能と心がどちらも全的存在の表現である状態を、何がもたらすのでしょうか。その存在は断片ではないのです。

質問者 私はあなたに同意しますが、しかし、どのようにすればこれはもたらされるのでしょうか。これは、人間がいつもあこがれてきたし、諸宗教すべてと政治的、社会的ユートピアすべてをとおして探し求めてきたものなのです。

K あなたはどうすればを訊ねます。「どうすれば」は最大の誤りです。それが分離的要因なのです。あなたの「どうすれば」と私の「どうすれば」と他の誰かの「どうすれば」があるのです。それで、もしも私たちはけっしてその言葉を用いなかったなら、決定された成果を達成するための方法を探し求めているのではなくて、本当に探究しているでしょう。それで、あなたはこの方法や成果という観念をそっくり片づけられるでしょうか。あなたが成果を定義できるなら、あなたはすでにそれを知っているし、ゆえにそれは自由ではなく、条件づけられてあるのです。私たちが方法を片づけるのなら、そのとき私たちはどちらも、外側の機関を考案せずに調和的全体をもたらすことがいったい可能なのかを、探究する能力があるのです。というのは、外側の機関すべては、環境的であっても、超環境的であっても、ただ問題を増大させるからなのです。
  まず初めに、それ自体を感情、知能、環境とに分割するのは、頭です。外側の機関を考案するのは、頭です。問題を創作するのは、頭です。

質問者 この分割は頭のなかだけではありません。それは感情においてさらに強いのです。イスラム教徒とヒンドゥー教徒は自分自身を分離していると考えません。彼らは自分自身を分離していると感じるのです。そして、彼らを実際に分離させ、彼らをして互いに破壊させるのは、この感情です。

K そのとおり。思考と感情は一つです。それらは始まりから一つであったし、それがまさしく私たちの言っていることなのです。それで、私たちの問題は、異なった諸断片の統合ではなく、一つであるこの頭と心を理解することなのです。私たちの問題は、どのように諸階級を取り除くのかや、どのようにもっとよいユートピアを築くのか、もっとよい政治的指導者や新しい宗教的教師を生み育てるのかではないのです。私たちの問題は頭です。理論的にではなくこの点に来ること、現行としてそれをみることが、最高の形態の智恵なのです。というのは、そのときあなたはどの階級や宗教的集団にも属していないからです。そのときあなたはイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒ではないのです。それで、私たちはいまただ一つの主題があるのです − なぜ人間の頭は分割するのでしょうか。それは自らの諸機能を感情と思考に分割するだけではなく、それ自体を「あなた」から(異なる)「私」、「彼ら」から(異なる)「私たち」として分離するのです。頭と心は一つです。それを忘れないようにしましょう。私たちが「頭」という言葉を用いるとき、それを思い出してください。それで、私たちの問題はこうなのです − なぜ頭は分割するのでしょうか。

質問者 そうです。

K 頭は思考です。思考の活動すべては分離、断片化です。思考は、頭脳たる記憶の応答です。頭脳は危険を見るとき、応答しなければなりません。これは智恵なのです。しかし、この同じ頭脳はなぜか、分割の危険を見ないよう条件づけられてきたのです。その諸行為は所作を扱うとき、妥当で必要です。同等に、それは、分割と断片化が自らにとって危険であるという所作を見るとき、行為するでしょう。これは観念や思想や原理や概念ではありません − それらのすべては白痴的で分離的なのです。危険を見るには、頭脳はとても鋭敏で目覚めていなくてはなりません。それの一断片だけではなく、それのすべてが、です。

質問者 頭脳全体を目覚めさせておくことは、どうすれば可能なのでしょうか。

K 私たちが言ったとおり、「どうすれば」はなく、ただ危険を見ることだけがあるのです。それが論点のすべてです。見ることは宣伝や条件づけの成果ではありません。見ることは、頭脳全体でもってです。頭脳が完全に目覚めているとき、頭は静かになるのです。頭脳が完全に目覚めているとき、断片化はなく、分離はなく、二元性はないのです。この静けさの性質は、最高の重要なのです。あなたは、薬物やあらゆる種類の仕掛けで、頭を静かにできます。しかし、そういう欺瞞は、さまざまな他の形態の幻想と矛盾を生み育てるのです。この静けさは、けっして人格的、非人格的ではなく、けっしてあなたのや私のではない最高の形態の智恵なのです。無名であるので、それは全体的で、清浄無垢なのです。それは性質を持たないので、叙述を拒むのです。これが気づきです。これが注意です。これが愛です。これが最高のものなのです。頭脳は完全に目覚めていなければなりません。それですべてです。密林のなかの人は、生存するには恐ろしく目覚めていなければなりません。それと同じく、世界の密林のなかの人は、完全に生きるには、恐ろしく目覚めていなければなりません。


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