自殺


質問者 私は自殺について話したいように思います − 私自身の何かいのちの危機からではなく、また私が何か自殺の理由を持つからでもありません。老齢の悲劇 − 身体的崩壊、体がだめになること、これが起きるときの人々の本当の生の喪失 − が見えるとき、その主題は必ず迫ってくるからです。その状態に至るとき、いのちを長らえ、その余命を続けることに、何か理由があるのでしょうか。おそらく、生、いのちの有効性が済んだときを認識することは、智恵の行為ではないのでしょうか。

K もしも、あなたに生を終えるよう督促するのが智恵であったなら、まさにその智恵が、あなたの体が未熟なまま衰退するのを禁じていたでしょう。

質問者 しかし、心の智恵さえもこの衰退を防止できない瞬間がないのでしょうか。結局、体は擦り切れるのですが、それの来るときをどのよう認識するのでしょうか。

K 私たちはこれにかなり深く入るべきです。それに関与したものごとはいくつもあるでしょう。体、有機体の衰退、心の老衰、抵抗を生み育てる全くの無能力。私たちは慣習、嗜好、怠惰をとおして体を終わりなく濫用するのです。嗜好が命令します − そして、その楽しみが有機体の活動を制御し、形作るのです。これが起きるとき、体の自然な知恵は破壊されるのです。雑誌には、とてつもなく多様な食べ物が見られ、美しい色合いです。体にとって何が有益であるかに(訴えるの)ではなく、あなたの嗜好の楽しみに訴えるのです。それで、若い頃から先あなたは、大いに敏感で活動的で、完璧な機械のように作用しているべき器を、徐々に殺し、破壊するのです。それが一部分です。それから、二十年、三十年、八十年の間、常なる戦いと抵抗に生きてきた心が、あるのです。それはただ、情動的、知的な矛盾と葛藤、抗争のみを知っています。あらゆる形態の葛藤は、歪曲であるだけではなく、破壊をともなうのです。それでは、これらは、衰退の内と外の基本的要因のいくつかです − 孤立させる諸過程をもつ永続的な自己中心的活動、です。
  自然に、体は不自然に擦り切れるのとともに、物理的に擦り切れることもあるのです。体は能力と記憶を失うし、老衰が徐々にまさるのです。あなたは訊ねます − そういう人物は自殺を行い、おしまいにしてくれる錠剤を摂るべきではないのでしょうか。誰がその疑問を訊ねているのでしょうか − 老衰した人たちでしょうか。老衰した人たちを、悲しみをもち、自分自らの衰退の絶望と恐怖をもって見守っている人たちでしょうか。

質問者 まあ、明白に私の視点からの疑問は、他の人々の老衰を見ることの悲嘆に、動機づけづけられています。というのは、おそらくそれはまだ私自身には始まっていないと思われるからです。しかし、体の予想される衰えをあらかじめ見越して、ひとたび有機体がもはや智恵ある生の能力がないとき続けていくことはただ単にむだではないかと疑問を問う知恵の行為もまた、何かあるのではないでしょうか。

K 医者は安楽死を許すでしょうか。医者や政府は、患者が自殺を犯すのを許可するでしょうか。

質問者 確かにそれは法律的、社会学的な疑問で、ある人々の心には道徳的な疑問です。しかし、それは、私たちがここで議論していることではないでしょう。私たちは、社会がそれを許可するのかどうかではなく、個人は自らの生を終わりにする権利を持つのかどうかを、訊ねていないのでしょうか。

K あなたは、自らのいのちを取る権利があるのかどうかと訊ねています − 老衰していたり、老衰の接近に気づいたときだけではなく、いつでも自殺を犯すことは道徳的に正しいのかどうかと。

質問者 道徳は条件づけられたものであるから、私はそれに道徳を持ち込むのには躊躇します。私は、純粋に智恵という疑問について訊ねようと試みていました。幸運にも現時点で私は個人的にその主題に直面していないので、そうとう冷静にそれを見つめることができると思うのです。しかし、人間の智恵の行使として、答えはどうなのでしょうか。

K あなたは言っているのです − 智恵ある人は自殺を犯せるでしょうか。そういうことでしょうか。

質問者 または、一定の境遇を与えられると、自殺は智恵ある人の行為でありうるでしょうか。

K 同じことです。自殺はつまるところ、深い挫折をとおしてもたらされる完全な絶望から(来る)のか、または解決不可能な恐怖から(来るのか)、または一定の生き方の無意味さへの気づきから来るのかのどれかです。

質問者 言葉を差し挟ませていただけるなら、一般的にはそのとおりなのですが、私は、どんな動機づけをも外れて、その疑問を訊ねようとしているのです。絶望の点に至るときには、ものすごい動機が関与しているし、智恵から情動を分離することはむずかしいのです。私は、情動なく純粋な智恵の領域の内に留まろうとしているのです。

K 貴方は言っているのです − 智恵は、何らかの形態の自殺を許すでしょうか。明白に許しません。

質問者 なぜでしょう。

K 本当はこの智恵という言葉を理解しなくてはなりません。慣習をとおし、耽溺をとおし、嗜好、楽しみの養成などをとおして体が衰退するのを許すことは、智恵なのでしょうか。それは智恵なのでしょうか。智恵の行為なのでしょうか。

質問者 いいえ。しかし、体に効果は出ていないが、智恵に反する体の使用が一定量あったような生の点に至ったなら、戻って自らの生を再び生きることはできません。

K ゆえに、私たちの生き方の破壊的本性に気づき、それをいつか未来の日にではなく即時に終わりにしてください。危険の前での即時の無媒介の行為は、健全さ(の行為)、智恵の行為です。そして、楽しみの追求とともに後回しは、智恵の欠如を表示するのです。

質問者 それは分かります。

K しかし、あなたは、何か全く現実の所作 − 自己中心的活動をもつこの孤立的な思考の過程は、自殺の一形態であること − もまた見えないでしょうか。国家や民族の(孤立)や宗教組織の(孤立)や家族の(孤立)や共同体の(孤立)であっても、孤立は自殺です。あなたは、究極的に自殺につながるであろう罠に、すでに捕らわれているのです。

質問者 個人という意味で言われるのでしょうか。それとも、集団でしょうか。

K 集団とともに個人もです。あなたはすでに様式に捕らわれているのです。

質問者 それは究極的に自殺につながるのでしょうか。しかし、誰もがみんな自殺を犯すのではないのです!

K 全くそのとおりですが、逃避したいという願望の要素はすでにあるのです − 所作に向き合うことから、「有るもの」からの逃避、です。そしてこの逃避は、自殺の一つの形態です。

質問者 これは、私がお訊ねようとしていることの核心であると思います。なぜなら、あなたが言われたばかりのことからは、自殺は逃避であるように思われるからです。明白に百度のうち九十九度はそうなのです。しかし、逃避ではなく、「有るもの」と言われるものの回避ではなく、反対に「有るもの」への智恵の応答である自殺も、またありえないでしょうか − これが私の疑問です − それもまたありえないでしょうか。多くの種類の神経症は自殺の形態であると言えます。私がお訊ねしようとしていることは、自殺は神経症的な応答より他でありうるのかどうかです。それもまた、所作に向き合うこと(の応答)、維持不可能な人間の状況に即して行為する人間の智恵の応答でありえないでしょうか。

K あなたが「智恵」と「維持不可能な状況」という言葉を用いるとき、それは矛盾です。二つは矛盾しているのです。

質問者 あなたは、断崖絶壁や咬みつこうとする毒蛇に向き合っているのなら、智恵は一定の行為を命令するし、それは回避の行為である、と言われました。

K それは回避の行為でしょうか。それとも智恵の行為でしょうか。

質問者 それらはときには同じではありえないでしょうか。もし車が高速道路で私に迫ってきて、私がそれを回避するのなら・・・

K それは智恵の行為です。

質問者 しかし、それはまた車を回避する行為でもあるのです。

K しかし、それは智恵の行為です。

質問者 まったくです。ゆえに。あなたの直面するものが解決不可能で命取りであるとき、生きることに必然的帰結はないのでしょうか。

K それなら、それを離れるのです − あなたが断崖絶壁を離れるように。それから歩み去ってください。

質問者 その場合、歩み去ることは自殺という含意です。

K いいえ。自殺は反智恵の行為です。

質問者 なぜでしょう。

K 私はあなたにそれを示しています。

質問者 あなたは、自殺の行為は断定的に必然的に生への神経症的応答である、と言われているのでしょうか。

K 明白です。それは反智恵の行為です。それは、明白に、あなたが完全に孤立したため抜け出す道が見えないほどの点に来てしまったと意味する行為です。

質問者 しかし、私はこの議論の目的のために、苦境を抜け出す道はないこと、苦痛の回避という動機からは行為していないこと、それは真実から歩み去ることではないことを、仮定しようとしているのです。

K 生には、あなたが歩みされない出来事、事件、関係があるのでしょうか。

質問者 もちろん多くあります。

K 多くですか。しかし、なぜあなたは、自殺がただ一つの抜け出す道であると主張するのでしょうか。

質問者 命取りの病気を持っているなら、それからの逃避はありえません。

K ここで気をつけてください。私たちが言っていることに気をつけてください。もし私が癌を持っていて、それでいのちが終了しそうになっていて、医者は「そうですね、あなたはそれとともに生きなくてはなりませんよ」と言うのなら、私は何をすべきでしょうか − 自殺するのでしょうか。

質問者 おそらくは。

K 私たちはこれを理論的に議論しています。もしも私が個人的に末期癌を持っていたなら、そのとき私は決断するでしょうし、何をすべきなのかを考慮するでしょう。それは理論的な疑問ではないでしょう。そのとき私は、何が最も智恵あるなすべきことなのかを、見出すでしょう。

質問者 あなたは、私がただ実際にその立場にあるのでないと、この疑問を理論的には訊ねられないと言われているのでしょうか。

K まさにそうです。そのときあなたは、あなたの条件づけに応じ、あなたの智恵に応じ、あなたの生きる道に応じて行為するでしょう。あなたの生きる道が回避と逃避、神経症的な事態であったのなら、そのとき明白に神経症的な態度と行為を取るでしょう。しかし、あなたが真実の智恵の生を − その言葉の全的な意味において − 送ってきたのなら、末期癌があるとき、その智恵が作動するでしょう。そのとき、私はそれに耐えるかもしれません。私は、私に残されたもう数ヶ月か数年を生きようと言うかもしれません。

質問者 そう言わないかもしれません。

K 私はそう言わないかもしれません。しかし、自殺は回避不可能であるとは言わないようにしましょう。

質問者 私は一度もそうは言っていません。私は、末期癌といった一定の逼迫した境遇のもとでは、自殺はおそらく状況への智恵ある応答でありうるのかどうかを、訊ねたのです。

K おわかりでしょうが、これには何かとてつもないことがあるのです。生はあなたに大いなる幸せをもたらしてくれました。生はあなたにとてつもない美しさをもたらしてくれました。生はあなたに大いなる利益をもたらしてくれました。あなたはそのすべてとともに進みました。同等に、あなたは不幸せであるとき、それとともに進みました − これも智恵の一部です。いまあなたは、末期癌に至ります。そして、「私はもはやこれに耐えられない。私は生を終わりにしなければならない」と言うのです。なぜあなたは、それとともに動き、それとともに生き、進んでいきながらそれについて見出そうとしないのでしょうか。

質問者 言い換えるなら、その状況にあるまで、この疑問には返答がないのです。

K 明白です。しかし、そういうわけで、私たちが瞬間に瞬間に所作に向き合い、「有るもの」に向き合う、それについて理論化しないことがとても重要であると私が感じるのは、分かるでしょう。もし誰かが病んで、絶望的な癌を病んでいたり、完全に老衰してしまったなら − 私のような単なる観察者にとってではなく、医者、妻、娘にとって、何が最も智恵あるなすべきことなのでしょうか。

質問者 本当はそれに答えられません。なぜなら、それは他の一人の人間にとっての問題であるからです。

K まさにそうなのです。それこそが、私の言っていることなのです。

質問者 そして、他の一人の人間の生や死について決断する権利はないように、私には思われます。

K しかし、私たちはそうするのです。暴政すべてはそうなのです。そして、伝統はそうなのです。伝統は、あなたはこのように生きなければならない、あなたはあのように生きてはならないと言うのです。

質問者 そしてまた、自然が譲ったであろう点を越えて人々を生かしつづけることが、伝統になろうとしています。医療技術をとおして、人々は、生かされつづけます − まあ、何が自然の状況なのかを定義することはむずかしいのですが、しかし、今日の多くの人々ほど長く生存しつづけることは、たいへん不自然に思われるのです。しかし、それは異なった疑問です。

K はい。全く異なった疑問です。本当の疑問はこうです − たとえ、不治の病気を持っていると医者に言われたとしても、智恵は自殺を許すでしょうか。この事情で何をなすべきなのかを、とうてい他の人へは語れません。不治の病気を持つ人間が、彼の智恵の応じて行為すべきなのです。彼はそもそも智恵があるのなら − それは、彼が、愛、気づかい、敏感さ、優しさのある生を生きてきたという意味であり、そのとき、こういう人物は、それが生ずる瞬間に、過去に作動してきた智恵に応じて、行為するでしょう。

質問者 それでは、この会話全体は、ある面では無意味です。なぜなら、それは、どちみち起きたであろうことですから − 人々は必然的に、過去に起きたことに応じて、行為するでしょうから。彼らは自分の頭を吹き飛ばすか、または座り込んで、死ぬまで苦痛を受けるか、またはその中間かのどれかでしょう。

K いいえ。無意味ではなかったのです。聞いてください。私たちはいくつものことを発見しました − 第一には、智恵をもって生きることが最も重要なことである、と。最高に智恵ある生の道を生きることは、心と体のとてつもない鋭敏さを要求するのです。そして、私たちは、不自然な生き方により体の鋭敏さを破壊してきました。私たちはまた、葛藤、抗争をとおし、常の抑圧、常の爆発と暴力をとおして心、頭脳をも破壊しつつあるのです。それで、このすべての否定である生の道を生きるなら、そのときその生、その智恵は、不治の病気に直面するとき、その瞬間に正しく行為するでしょう。

質問者 私はあなたに自殺についての疑問を訊ねましたが、正しい生き方についての解答を与えられたことが、分かります。

K それがただ一つの道なのです。橋から飛び降りる人は「私は自殺を犯すのだろうか」とは訊ねません。彼はそうしているのです。それで終了です。ところが、私たちが安全な家や研究室に坐り、人は自殺を犯すべきなのか犯すべきではないのかを訊ねるのは、意味はないのです。

質問者 それで、これは訊ねられない疑問です。

K いいえ。それは訊ねなければなりません − 自殺を犯すべきなのか、犯すべきでないのか、です。それは訊ねなければなりません。しかし、疑問の裏には何があるのか、何が疑問を促進しているのか、何が彼をして自殺を犯したくさせているのかを、見出してください。私たちは、いつも自殺すると脅しているけれども完全に怠けているから一度も自殺を冒したことはない人を、知っています。彼は何一つしたくないし、彼は誰でもみんなに自分を支えてほしいのです。こういう人はすでに自殺を犯してしまったのです。頑固で疑い深く権力と地位に貪欲である人もまた、内的に自殺を犯してしまったのです。彼はイメージ、像の壁の裏で生きるのです。それで、自分自身、自分の境遇、生態環境、政治的権力、宗教のイメージ、像とともに生きるどの人も、すでに終了しているのです。

質問者 私には思われるのですが、あなたが言われていることは、直接的に生きられないどんな生も・・・

K 直接的に智恵をもって。

質問者 イメージ、像、条件づけ、思考の影の外側で・・・そのように生きるのでないのなら、人生は一種の低調な存在です。

K もちろんそうなのです。ほとんどの人々を見てください。彼らは壁(の裏) − 自らの知識、自らの願望、自らの野心的な衝動、欲求の壁 − の裏で生きています。彼らはすでに神経症の状態にあるし、その神経症は彼らに一定の安全を与えるのです。これは自殺の安全です。

質問者 自殺の安全!

K たとえば歌手のように。彼にとり、声は最大の安全です。それが損なわれるとき、彼はいまにも自殺しようとしています。本当におもしろく真実であることは、大いに敏感で最高に智恵ある生の道を、自分自身で見出すことなのです。恐怖、心配、貪欲、妬み、羨み、イメージや像の構築、宗教的孤立の生活があるのなら、これは可能ではありません。その孤立は、諸宗教すべてが提供してきたところです。信じる人は決定的に、自殺のきわにいるのです。なぜなら、彼はある信念に自らの信仰すべてを置いてきたから、その信念が疑問となるとき、彼は恐れていて、いまにももう一つの信念、もう一つのイメージ、像をつけ、もう一つの宗教的自殺を犯そうとしているのです。それで、人はどんなイメージ、像もなく、どんな様式もなく、どんな時間感覚もなく、生きられるでしょうか。私がいうのは、明日何が起きるのか、昨日何が起きたのかを気にしないような生活、という意味ではありません。それは、生きることではないのです。「現在を受けて、それをできるだけ良くしよう」と言う人たちがいます。それもまた絶望の行為です。本当は、自殺を犯すのは正しいのか正しくないのかを訊ねるべきではないのです。何が、希望を持たない心の状態をもたらすのかを、訊ねるべきなのです − 希望は未来を含意するから、間違った言葉ではあるけれども。むしろ訊ねるべきなのです − 時間なくある生はどのように訪れるのでしょうか。時間なく生きることは本当は、この大いなる愛の感覚を持つことなのです。なぜなら、愛は時間のではないし、愛はかつてあったものや先にあるであろうものではないからです。これを探検しそれとともに生きることが、本当の疑問です。自殺を犯すべきか犯すべきでないかは、すでに部分的に死んでいる人の疑問です。希望は最も恐るべきものなのです。「地獄に入るとき、希望は後に置いて行け」と言ったのは、ダンテではなかったでしょうか。彼にとって天国は希望でした。これは恐ろしいのです。

質問者 ええ。希望は独自の地獄です。


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