クリシュナムルティと仏教との交照
    − 玉城康四郎氏の誤読を正す (2) 

                               藤仲孝司

(本原稿は、玉城康四郎氏のクリシュナムルティに関する論文「仏教と他との対比・交照 − クリシュナムルティの場合 − (『仏教と異宗教』所収、平楽寺書店 1985)」の論文の残りの部分に関してである。)

γ 冥想三昧の習熟p.400
玉城氏はさらに、「クリシュナは生活の中で模索と苦闘を続けていた如くであるが、そうすればするほど、その冥想三昧はますます深く確立してきているように思われる」と述べて、Kの三十九歳のときの対話、手紙を要約する。紹介される対話はこうである:
   「私が知性 intelligence と呼ぶのは、もっとも広い意味である。すなわち、心、情緒、意志を総括した深い内的な知性である。真に知的な人は、いかなる選択も持たない。というのは、その心は、ただ真実なるもの what is true のみを覚知しているし、したがって真理の道のみを選ぶのであるから」
  「私の内的覚知はつねにここにある(筆者註 原文は過去時制)。しかし、それをますます明瞭に感ずるのには、時間がかかった。そしてそれを言葉に表すのにも、同様に時間がかかった。それは、けっして突然のひらめきではなく、つねにここにある或るものを絶えず明瞭にしていくことである(ここも同じく過去時制。「いつもある何かを緩やかながら常に明確化することであった」)」
  紹介される手紙はこうである:
  「私は知的に、思慮深く intelligently, wisely 酔っています。言葉に表わすのは愚かしいことです。新鮮味のないものになってしまいます。ブッダやイエスの詩のような、詩のなかの詩を書いた人の気持ちを想像してごらんなさい。そうすれば私の気持ちがお分かりになるでしょう」
  そして玉城氏は論評する:
  「この頃になると、冥想三昧がますます確立していることが分る。その日常生活の中心になっているものは、「真実なるもの」である。真実なるものは、まったく形のないものである。形はないが、明瞭にここには存在する或るものである。その或るものは、自分の全人格体に関わり、全人格体を総括し、かつ集約するものである。クリシュナは「心・情緒・意志を総括した内的な知性」といっている。しかし、筆者には、身体に関わっていないことが気にかかる。全人格体であるから、クリシュナのいうような精神的なものだけではなく、当然ながら身体もまた一つに融け合っていなければならない。身体的なもの、業異熟的なものがもとより核になっているはずであるが、それが見落とされている所に、問題が残る」と。
  手紙の翻訳は誤訳だらけである。原文の後半は Imagine the state of the man who wrote Song of Songs, that of Budda and Jesus, and you will understand what mine is. である。正解は「ソロモンの雅歌を書いた人の境地、ブッダとイエスの境地を想像してください。そうすれば、私の境地がどうであるかが分かるでしょう」である。 state が「境地」または「状態」ではなく「気持ち」と誤訳されているのは、前に指摘したとおり、Kが真理なり何なりを「知った」のではなく「実現した」とある文章を歪曲したの同様である。「ソロモンの雅歌」に関しては、伝記のなかにKが若い頃、旧約聖書のいくつかの章、特に「ソロモンの雅歌Song of Songs」を愛好したことが記されているし、特異な大文字の表記からも気づくべきである。比較思想を論ずるのなら、常識的なことである。
  手紙の中で玉城氏は intelligence, intelligentlly を「知性」「知性的」と翻訳する。しかし、「知性」「知性的」と翻訳される intellect , intellectually との対比でいえば、これらは単に知性、知能、知力という意味ではない。健康的な身心全体が有する健全な理解力、判断力を意味する。「智慧」「智慧をもって」という意味である。それはKの手紙が説明するとおりである。よって、玉城氏の「筆者には、身体に関わっていないことが気にかかる」以下の論評は、勝手に誤読しておいて過失を他者に転嫁しただけである。玉城氏は直前の部分でも、Kが誤解を与えない明確な言語的表現に苦心していることをも見落としたが、ここでも自分が知能、知力に任せた強引な誤読を展開して、注意の行き届いた健全な読解や理解ができていないのである。氏は誤読を追求する:
  「クリシュナにとって、真実なるもの、形なきもの、或るものが、真理の道として開かれており、それだけが選ばれている。その外については選択の要はない。むしろ、形なきいのちに全有されて透徹した意識になっているのであるから、選択の観念も無用である。このことが後には選択なき覚知と呼ばれるものとなっている。このような真理はつねに、ここに現存するものであるが、それが明瞭になるのには時間を要したことを告白している。しかし、明瞭になればなるほど、ますます全人格体は真理によって全有されるし、いよいよ言葉では表現できなくなってくる・・・」
  論拠の原文と逐語訳を示そう:
A truly intelligent man can have no choice, because his mind can only be aware of what is true, and can thus only choose the path of truth. It simply cannot have any choice.
「真に智慧ある人は、選択できません。なぜなら、彼の心は何が真実なのかに気づきうるだけで、かくして真理の道を選択できるだけだからです。その心はまさにどんな選択もできないのです」
  玉城氏の論述では、 only 「ただ〜だけ」が何を限定するのかがでたらめである。そして、可能の助動詞 can 「できる、しうる」が無視されている。何ができる、何ができないと言われているのかよく読むべきである。氏が提示するのは、いわゆる「諦執」(真実への実体視)である。「その外については選択の要はない」から、「真実なるもの」のみを選択するし、それのみが重要であり、何とそれが万能であるから、他は選択する必要がない − 安易な機械論である。まさしく選択に他ならない。さらに氏は「このような真理はつねに、ここに現存するものである」などと述べる。しかし、それがつねにどころか、そもそも存在するかしないかは、次の不死に関する文章にも見られるが、ここで what is true という語句は、 true は名詞でなく形容詞であるから、「真実なるもの」ではなく「何が真実であるのか」「何が真なのか」である − もの・ことに関して何が真実なのかの判断、弁別である。この説明はまた、 intelligence の語源「間より選び取る、見抜く」にも適う。Kは世間の義からも妥当なことを説明している。思慮分別のある態度である。健全な智慧というからには、あらゆるものごとに関して何が真実なのかに完全に気づく。或るものごとに関して何が真なのかを知覚できなくて、少しでも不明なことがあるのなら、世間の義からしても、健全な智慧という用語に矛盾する。そして、あらゆるものごとに関して何が真実なのかに気づくので、選択する余地がないのである。
  さて、Kが四十歳のときの不死に関する文章を見よう。まず玉城氏の誤読である:
  「不死ということがあるが、これは私にとっては個人的な経験である。その不死が実現されるのは、心が未来に眼を向けない時である。不死は限りない現在である。その現在を理解するためには、自己を守る取得というならわしから、心が自由でなくてはならない。つまり、心が全く裸のとき、不死が存在する」
  これに関して玉城氏は論評し、問題を見る:
「不死の経験は、限りなき現在である、という。そういう経験を得るためには、自己を守る習得が消失しなければならない、いいかえれば、心が裸にならねばならない、という。しかしながら、いったいそういうことが可能なのであろうか。問題はむしろ、どうすれば心が裸になるかということであろう。これが先に提出した、かれの基本見解に対する疑問である。すなわち、人間存在の果てしなく深い記憶・経験の堆積が、単に事実の観察・理解という程度で一掃されうるのか、という問題である」
  そして安易な解答を出す:
「しかし、これまで見てきた生活経験からいえば、きわめて明瞭であり、先に提出した問題も解けてくる。すなわち、形なきいのちなる真理がすでに彼の人格体に顕わになり、つねにここに存在し、かつ長い時間をかけてますます明白になっている。いいかえれば、その人格体は形なきいのちに全有されて形が消失しているのであり、つまり裸になったのであり、自己を守る取得たる我執も雲散霧消しているからである。それがすなわち、不死の経験であり、限りなき現在として意識されているのである」
  まず、もとの文章を原文から逐語訳しよう:
「いま私は不死があると言えるし、私にとってそれは個人的経験です。しかし、それは、心がもっと完全にもっと完璧にもっと豊かに生きるであろう未来に頼っていない( the mind is not looking to a future in which it shall live... )ときにのみ、実現されるのです。不死は無限の現在です。十分な豊かな意義をもつ現在を理解するには、心は、自己保護的な取得の習慣から自由でなければなりません。それ(心)が全く裸であるときに、不死があるのです」
  まずKは、「いま私は不死があると言える Now I can say there is immortality. 」と言う。これは今現在のKにして、初めて不死が存在すると言えるというのである。「私にとってそれは個人的経験です」という言葉とともに、不死というものが無条件に存在するというのではない。存在するといえばただちに自性により成立する、経験されるということを、否定するのである。そして、「心は自己保護的な取得の習慣から自由でなければ」ならないが、自由であるとき、「それ(心)が全く裸であるとき」 − その条件つきで、無限の現在の理解や不死が、存在するのである。ゆえに、それらは自体により存在するのではなく、空である。したがって、目標とするにも空であるから、玉城氏の言うような、「そういう経験を得るためには、自己を守る習得が消失しなければならない、いいかえれば、心が裸にならねばならない、という」といった有所得の態度自体が、基本的に誤りである。その上で、「しかしながら、いったいそういうことが可能なのであろうか。問題はむしろ、どうすれば心が裸になるかということであろう」などということは、無意味な愚癡の垂れ流しである。Kが「どうすれば」と問うことを否定するのはなぜなのかを、全く理解できていないのである。
  玉城氏が理解するのは、「その不死が実現されるのは、心が未来に眼を向けない時である」というとおり、未来への視線、関心を排除するなら、「その現在」、不死である「限りなき現在」が実現される、得られるという単なる足し算、引き算である。有所得の態度から他者の言葉を並べ替えて、でっち上げた「不死」を取得したいと言い、その方法を考える − 実に安直な態度である。これは、かつて華厳を学んだ人の態度とは思われない。思慮ある人なら取り合わないほどの内容である。Kにおいては、「その満ちて豊かな意義を有する現在を理解するには」といって、現在を理解すること自体が、すでに問題なのである。そのとき、 not look to a future 「未来を見ない、未来に頼らない」という否定でもってのみ、限りなき現在または不死が成立する、存在するのである。そのときにのみ、現在における時間すべてのの円融が、ほのめかされるのである。
  次に玉城氏は、Kが四十八歳のときの八月三十一日のエミリー夫人 Lady Emily への手紙に関して、「かれは・・・自分の内面のいのちは驚くほど活気にあふれており」などと述べる。しかし、原文は He was 'leading an extraordinarily strenuous life inwardly' である。 lead ...life 「生活を送る」の語句からも、 strenuous 「たゆまず奮闘努力する精力的な」という形容詞からも、その前後の大戦下の石油統制という事情にもかかわらず多くの人々が訪ねてくるので、次々面談するといった記述からも、「内的にとてつもなく精力的な生活を送っている」という能動的な意味であるい。単なる内面に関する叙述ではない。玉城氏が「内面のいのち」を強調したくてたまらないだけである。そして、エミリー夫人への手紙について、「正しい冥想」に関して逐語訳を示そう:
「正しい冥想は本当に、人が経験しうる最もとてつもない現象です。それは創造的発見かつ解放的過程過程であり、最高のものが開示されるのです。私は三年間話をしていませんが、静かであるのは良いことです。この年月の間に深く進展し、多くのものごとを見出しましたし、永遠のものの光と愛を再発見しました。いまこそそれは深く確立されて不滅です(1)。私は言いましたように、一日に数時間冥想するし、無尽蔵の宝があるのです。この愛は、いつも溢れ出す泉のもと a spring well に似ています(2)」
  玉城氏はこの手紙に関してもいくつか誤訳している。内容のみに言及すると、(1)は原文は Only now, it is deeply established and imperishable. から分かるように、それはいまこそ、いまだけ成立するのであり、自体により成立するのではなくて空であることを、含意する。(2)の a spring well を玉城氏は「春の泉」とするが、これは八月末の手紙である。拙訳のように「源泉」であるなら、先の「内的に精力的な生活を送る」の「内的」、「深く確立されて」の「深く」と同じく、凡庸な知覚の対象を越えていることに言及するし、「いつも溢れ出す ever overflowing 」にも妥当するように思われる。
  手紙に関して玉城氏は論評する:
  「かれはここではっきり、一日に数時間冥想している、と述べ、三年以上も沈黙してその間に深まってきたことを告白している。そして、最高者は開示され、永遠なるものの光と愛に包まれて、溢れ出る無尽蔵の宝に歓喜しているさまがうかがえる。これこそが非凡な現象としての正しい冥想であると、かれは強調している。それは、著作の中の冥想とは、およそかけ離れたものであり、生活自体の中でかれの人格体に熟しつつある冥想の実態が、これによって明らかになってくる」
 氏はここで、Kが冥想をしているとの言質を取ったと思うらしい。しかし、「正しい冥想」は、「誤った冥想」ではないし、冥想なら何でも良いわけではない。氏の叙述によれば、いかにも静的、内向的であることと言い、存在・精神・歓喜を説くことと言い、ヒンドゥーの梵我一如である。さらに氏は、仏教において、長寿天や無色界の高度な禅定の境地、いわば冥想三昧の状態に生まれることが、出離の道でないとして否定されていることを、知らないのだろうか。ここKにおいても、「正しい冥想とは」といって、冥想の弁別がある。しかも、「それは、著作の中の冥想とは、およそかけ離れたもので」あるどころか、ものごとの観察、理解として始まって進展し、「いまこそ深く」広く「確立した」のである。また伝記作者が指摘しているとおり、面談し、講話してきたことが、たとえかすかにでも疲労を残し、完全な明晰さを曇らせるなら、さらに面談、講話、著作は不可能である。それからしても、冥想はものごとの観察・理解を離れて存在するのではない。心身を病んだり、傷ついたりした断片的活動のありとあらゆる人々と面談し、対談することは、たいへんである。かつてロシアの作家が「幸福な家庭はどれも同じようなものであるが、不幸な家庭は実に多様である」と述べたようなものである。したがって、Kの生活自体において全人格体に冥想が熟しつつあると述べながら、Kの生活が無数の講話、面談とそのための精力的な活動であることを無視する玉城氏は、当然、次の感想を抱く:
  「ところで、五十三歳の五月の記事の中で、意外なことに遭遇するのである。それは、例の二十七歳の八月十七日から二十日にわたる深刻な経験、そしてその後も数年の間、断続的におこっていた、あの全人格的な病が、五十三歳の今もなお続いているという記録である・・・後頭部が激しくいたみ、腹はふくれて耐えがたくなり、うめき、叫び、あらぬことを口走り、しばしば失神する。これはまさしく、あの二十六年前の錯乱状態と同質のものである」
  二十六年前から続いている同質のこと − それは、自他を目覚めさせるための自己浄化である。これは、たとえ正覚を成就したときでも、大悲の力に摂持されるゆえに諸仏が単なる涅槃、解脱に陥らないという大乗仏典の説明を想起させる。乱心との区別がない「錯乱状態」ではない。たとえば、『維摩経』(文殊師利問疾品第五)に言うとおり:
「一切衆生病めるをもって、このゆえにわれも病む。一切衆生の病滅すれば、すなわちわが病も滅せん。ゆえんはいかに。菩薩は衆生のために生死に入る。生死あらばすなわち病あり。もし衆生、病を離るるを得れば、すなわち菩薩もまた病なからん。たとへば長者ただ一子ありて、その子、病を得れば父母もまた病、もし子の病、癒ゆれば、父母もまた癒ゆるがごとし。菩薩もまたそのごとし。諸の衆生においてこれを愛すること、子のごとし。衆生病むときはすなわち菩薩も病み、衆生病癒ゆれば、この疾いずこによりて起れるやと言はば、菩薩の病は大悲をもって起これるなり」
  単に個人的解脱に関わっていて、有情すべてのために無上の正等覚を求めなかったなら、多くの不幸な人、病める人、傷ついた人と会い、ともに行うということもない。ゆえに、自己の苦痛、受難( passion )もないであろう。伝記はそのことを示して、そういう苦痛の経験には畏怖と神聖と祝福の感覚がともない、ブッダの臨在が感じられたこと、直後には必ずすばらしい説法をしたことが、述べられている( 'Krishnamurti' Pupul Jayakar p.129など)。それは「人格的な病」とは全く異なった事態である。

   3両者の交照 p.404
a 合致せる根本態度 p.404
玉城氏は、すでに指摘した五つの類似性なるものに関連して、交照や個性の展開を見ようとするが、それらの成立、不成立に関してはすでに論じた。氏は両者の基本態度の合致として、「ブッダもクリシュナも、一切の伝統・古典・先入見を排除して、みずから頷くところの体験・観察・理解にのみもとづいているという態度である。これには人間存在の根源に根ざすという意味が含まれている」と述べる。そして、仏陀の如実知見と、Kの事実の観察・理解は、全く同じであり、最も根本的であり、前者は苦集滅道の四聖諦として仏道の出発点でありなおかつ目標達成にまで貫徹するし、後者も少なくともKの著作の中ではそれが宗教とされ冥想とされることを述べるが、これは単なる反復である。

b 目標達成 p.405
玉城氏は直ちに「いかにして目標が達成されうるのかという問題である」と述べる − 目標がいったい何なのか、そして目標はいったい存在するのか、どのように存在するのかという基本的なことを、自明のことと決め込んで、問おうともしない。:
  「これについてクリシュナの場合には、事実をありのままに観察・理解することによって、断片的・分裂的なすがたから全体的・総合的な世界へ転換し、言葉や思想や時間を超えた或るものが顕わになってくるというものである。これが、かれの著作における基本見解である。しかしながら、かれの主張するとおりに、いかに慎重に注意深く、事実の観察・理解に専念しても、第三者(ここでは筆者 [すなわち玉城氏自身] )にとって、クリシュナの説くような世界が実現してこない」
  氏の述べる「事実をありのままに観察・理解すること」が、自性により成立したものであること、関係においてのみ成立した、それ自体では空なる観察・理解ではないことは、先に指摘した。氏は、「私の」事実、「私の事実観察・理解」を考えているだけである。また「ありのままに観察・理解する」といっても、先入観のままに観察し、理解することを出ていない。『三昧王経』に「眼、耳、鼻は量(=妥当な認識根拠)ではない。舌、身、意もまた量ではない。もしこれらの根(=認識能力)が量であるとするなら、誰に聖道が必要であろうか」、そして『入中論』に「世間はすべて量ではない」という。玉城氏には「ありのまま」といっても、凡愚のありのままと出世間のありのままとの間に何も区別がない。または、自分の見たまま感じたまま考えるままの固執があるだけである。道元もまた、「仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきわむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽といふ(『正法眼蔵』唯仏与仏)」と、『法華経』に言及して言う。自己の先入観のままを固執しつづけて、説かれることを理解しようとしない人に、説かれる世界が実現しないのは、当然のことである。
  さらに玉城氏は述べる:
「しかるに、クリシュナの伝記からうかがわれることは、けっして事実の観察・理解だけではなく、かれ自身が長期にわたって冥想三昧に専心し、さまざまな宗教経験を経て、つねに限りなき現在に充足しているさまが、生々しく語られている。ブッダもまた、冥想三昧にもとづいて解脱に達したことは周知のとおりである」
  先に引用した龍樹の『宝行王正論』に説かれたように、事実の観察・理解だけではなく、事実の観察・理解によって誓願と行道と廻向がなされ、無量のそれらによって目的に到達するのである。目的もまた氏の考える単なる解脱ではなく、無上正等覚である。Kもまた事実の観察・理解をとおして普遍的な慈悲を生じ、誓願と行道と廻向があり、無量のそれらとによって目的に到達したのである。
  さらに、ブッダの伝記を調べてみるなら、玉城氏が「ブッダもまた、冥想三昧にもとづいて解脱に達したことは周知のとおりである」と述べることは、むしろ正しくない。すなわち、仏陀は凡人が発菩提心から無限の菩薩行、利他行をとおして正覚を開き、仏陀となるという主張は、大乗仏教そしてジャータカ(仏陀の過去世の物語)の基本的な考えである。それは、初期仏教においては直接的な論拠ではないが、それでもなお若き日のシッダールタ太子が凡人ではなかったことは、初期の経典にも記されている − 太子の誕生時にアシタ仙人が吉祥な夢を見て、彼が偉大な覚者になるだろうという予言したこと。出家した太子の偉容を見て、大国マガダの王ビンビサーラが出向いて、王族としての世俗の活動を勧めたこと。無所有処、非有想非無想処というきわめて高度な禅定の師であるアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタにそれぞれ師事して冥想三昧に専念して、それらの境地を成就し、師と対等と認められるに至ったので、ともに信徒を指導しようと師から勧められたが、それらはどちらも出離、正覚に役立たないとして放棄して去ったこと。その後、類を見ない超絶的な苦行を行いながら、これも出離につながらないと見て放棄したこと。以上のように、他の凡人とは異なっていたし、単なる冥想三昧への専念によって解脱、正覚を成就したわけではない。まして玉城氏が連想するアングリマーラのような極悪非道の人の話ではない。仏教は因果説を本質とするから、無師独悟した仏陀には、他者すなわち仏陀に教えられて開悟した弟子いわゆる声聞とは異なった因果が、、設定される。それがジャータカを初めとする仏陀の前世に関する無数の物語である。そこには、仏陀が偶然の所産や天賦の才能などではなく、人類の存在に関する無限の苦しみ、悲しみとそれからの解放を願ってなされた無量の善の所産であるとされる。いかにわずかな善でも清浄な善は、世俗の倫理となるだけでなく、仏果こそに直結する。だから、仏法は尊いのである。人間の事実の観察・理解によってこそ冥想や三昧があるのであり、それとは別に存在する「冥想三昧」や「限りなき現在に安らう」ことなどは、どうでもいい。
  Kに関して、多くの神智学者は輪廻転生による進化の説明をした。伝記作者ルティエンスは、空っぽであった少年K、覚者となりながらそれを残しているKについて、伝記の中心課題としてたびたび考察している。そして、その特質、KをKたらしめた可能性として、輪廻転生による進化は一番合理的でありそうであるが、それでもなお真実とは思われず、真相は結局分からないとしている。しかし、この伝記作者による輪廻説の否定 − 言説として、仮のものとして成立するが、真実としては成立しないということこそが、中観派による業とその果報、すなわち輪廻の説明である。中観帰謬論証派によれば、それこそが業と輪廻の肯定であり、それ以外の説明は正しいとされない。釈尊の言葉に「世間が認めるほどのことは私も認める。世間が認めないほどのことは私も認めない。世間は私と争うが、私は世間と争わない」というようなことである。
しかし、玉城氏は、冥想三昧という方面からのみ議論する。まずKの二十七歳のときの根本的経験を次のように要約し、紹介する:
  「私は、過去の不都合な蓄積 the past wrong accumulation を根絶しようとした。初め私は、私の肉体すべてを、ブッダの水準と調和させねばならなかった。そのためには、肉体のすべてをブッダのそれと共に震え合うようにせねばならない。この至福の結合をもたらすために、私の自我がブッダの水準を見出さねばならなかった。それは、主マイトレーヤと諸のマスターに仕えることである。自分の肉体をその方へ方向づけ、そしてコントロールしたのである。約三週間、私は主マイトレーヤの思いに心を集中する。それは何のむずかしいこともない。私はますます静かに、晴れ晴れしくなる」
  そして、「ブッダやマイトレーヤについて何らのコメントもないので、その内容については知らないが、それが超越的な存在として宗教的ないのちであり、仏教に関わっていることは明らかであろう」と論評するが、特に見るべき内容はない。
  しかし、ここで「(過去の)不都合な(蓄積)」と翻訳されている単語は、玉城氏自身が示すとおり、 wrong 「誤った、間違った」である。「不都合な」という言葉は、他の目的との関係において兼ね合いが悪くて好ましくない、といった意味である。その目的が、たとえ「私は、すべての悲しみ、苦しみを消し去る慈悲にふれた。それは私自身のためではなく、世界のためである」と玉城氏が要約引用するKの言葉の示すとおり正等覚であれ、にもかかわらず玉城氏の考える単なる解脱であれ、そういう目的との兼ね合いが、悪くて好ましくないといった意味である。
 しかし、それは wrong の二次的、三次的な意味である。ここに言う wrong accumulation とは、仏教的に言うと、誤った主観、認識を作り出す習気、随眠のことである。自己の知覚の虚偽性に対する自覚を意味する語句である。菩薩行のなかでも、凡夫の状態を捨てて聖者となった十地のなかでも高位の菩薩に至るまで、根絶はおろか消去を始めることさえできないと、されている。それは、誤った主観、認識を作り出すという意味で「誤った過去の蓄積」である − 過去の誤った蓄積、すなわち所知障が根絶されないかぎり、勝義と世俗のすべてを悟る一切智は、得られない。現在の誤った認識だけでなく、不明晰な認識を生じさせうる過去の蓄積にも気づいて根絶するということは、単なる解脱との関連においてではなく、完全な明晰さすなわち無上正等覚との関連において、言えることである。
 ともあれ、「不都合」などと目的との兼ね合いに歪曲することは、他の或る何かのために或る何かをするという、有所得の立場で考えるということである。すでに指摘したとおり、p.398 に紹介された手紙でも、玉城氏は「私はいま、適切な思索と冥想を試みています・・・」としているが、そこにおける good に対する「適切な」という訳語も、そして「試みている」という誤訳もまた同様に、有所得の立場を捏造して、Kに帰しているのである。無所得ということに関して、『般若心経』にも「・・・無智亦無得。以無所得故、菩提薩捶、依般若波羅蜜多故、心無?礙。無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提・・・」という。有所得の立場には、阿耨多羅三藐三菩提すなわち無上正等覚はおろか個人的な解脱、涅槃を得ることもありえないというのである。Kにおいても有所得的な態度は退けられる。玉城氏がそれを固執しているだけである。
  先の手紙に戻ろう。「私の肉体すべて」「肉体のすべて」と翻訳されている。原語は all my other bodies, the various bodies, the other bodies と常に複数形であるから、単なる肉の体だけではなく、精神的な身体をも含めて、人間が複合的な存在であることを、示している。すなわち「私の他の諸身体」である。なぜ複数形で表現されるのか − これらの言葉を、Kはこの時期にしか用いないが、当時影響を与えた神智学特有の、ヨーガの身体理論や輪廻転生に関する教義によるものであろう。(玉城氏の論文は、神智学協会とその思想、状況に関するかぎり、きわめて研究不足である。ルティエンスによる伝記の索引を用いると、当時何が信じられていたのかに関して相当の多くの資料が得られるのに、氏は放置するだけでなく全く不明であると公言している。)ここで思い出されるのは、Kが根本体験のほぼ直後に記した 'the Path(道)' という著作である( From Darkness to Light, 1980 K&R Foundation )。この著作は、K自身が正覚を拓くまで自己の経てきた無数の苦闘の生涯を想起し、いまやそれが成就されたので、人々を済度できるとの確信を、述べたものである。
  この著作 'the Path' 「道」は三部からなる。第一部では、はるか昔にいのちがあったとしても今や死に等しいこの苦の世界においてふいに自己を唯一人、はてしない道の途上に見出したこと、道は歩みやすく平穏な部分もあるが、突如激しい苦難をもたらし、前途も知れぬこと、誰が築いたとも知れない道は太古から名もなく存在し、私が他のすべての関係を捨てて無条件に歩むよう、ときには慈悲深くときには残酷にときには無頓着に、いずれにしてもはてしなく歩み続けるように命令し、そうせざるを得ないこと。私は狂信者のごとくその道にのみ専念して前進してきたし、前進し続けるが、そのなかで関係、愛憎など人間の経験するすべてを経験し、人の心の造ったものごと、神への信仰などに欺瞞されつつ巡歴し、しかも混迷のまま何の満足、安住も得られず、幸福、悲惨など人類のあらゆる生存状態を経巡ってきたことを述べる。第二部では、同じ混迷にありながらも、ほとんど到達不可能と思われ、見失うこともたびたびの目的を求めて歩みつづけてきたし、歩みつづけるであろうこと。道を探し求める者の孤独、苦悩、絶望とその中での安らぎを求めての救済者への呼びかけ、そして何も答えてくれない道の静寂。苦痛にもかかわらず這ってでも進まざるを得ないこと、ふいに与えられるいささかの安息とそれを一挙に奪い去って襲いくる激しい苦痛。見出しては欺かれ、欺かれては求めてゆくなかで、道を歩もうという熱意は更新され、いつしか速やかに進んでいること。そして、無限の時代と距離を経て、苦の世界を下に見ながら険しい道を、恩寵を感じながら歩んでいくと、いつか安息の場に至り、そこに安らう間にいくら時がたったのかも知らないが、切望は満たされず、非真実に欺かれたと悟って、再び激しい苦悩の中を強い意欲を持って歩み始めること。そして無量性に触れ、格闘に幸せを感じることが、述べられる。第三部では、さらに道は遥か遠くて、歩む者は孤独であるが、さらに偉大な苦難と勝利を求めて、幾世紀にも渡って歓喜と悲哀の中、歩んで、振り返ることもできないが、次第に豊かな地へ入り、激しい苦痛を癒す豊かさ、安らぎの機会も与えられるし、それらに誘い込まれるときもあるが、それらの欺瞞性に気づいて、住することなく道に戻るし、道は導くが、さすらいは果てしなく、苦痛ゆえに安らぎを求めたいとの欲求も苦しいこと。裏切られた希望は、激しい熱意、盲目的願望をかえって強めたが、道が究極の至福につながるのかの確信は得られたり、失われたり、果てしないこと。生の苦痛に力尽きそうになり、深遠な静寂は完全な静寂でもって優しく答えてくれるが、よろめいてゆく中、旅の無限性を感じるで、目的の近さを感じること。道はさらに険しくなり、弱々しく登ってゆくと、誘うものはほとんどなくなり、危険な中を前人未踏の道をどことも知れず歩むこと。ふいに懇願は答えられ、旅は終わりになる。そして、先には私の訪ねるべき多くの道と門があり、多くの孤独な旅人、かつての私のような者たちが迷妄と苦痛のなか歩んでいるのが見え、彼らのために涙を流すこと。私は彼らに道を示せるだけで、直接的に助けることができないこと。至高者の久遠の栄光のなか無知の闇はなく、私はいまや尊いもの、卑しいものの差別なくものごとすべてであることが、説かれる。
  以上まことに粗雑な紹介であるが、これは仏陀が正覚を成就する夜に、まず無数の過去世を想起したいわゆる宿命通(過去世を知る神通力)を成就したことを、想起させる。さらに、いわゆる三明(三つの超感覚的神通力)のうち残りの、さまざまな者たちの状態と行く末を見る天眼通、煩悩を滅尽する漏尽通を、かすかに想起させる。仏陀の場合はたとえばこうである:
  「こうしてわれは種々の過去の生涯を想いおこした、− すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三重の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を、「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカーストであり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死に方をした。そこで死んでからかしこに生まれた」と。このように、われはその一々の相および詳細の状況とともにいくたの過去の生涯を想いおこした。これが夜の最初の部分において達せられた明知である。ここに無明が滅びて明知が生じたのである。闇黒は消滅して、光明が生じた。それがつとめはげみ努力精励しつつある者に現れるごとくに・・・」(『ゴータマ・ブッダ』中村元 p.412)」
  これは、人間存在が単なる現世の存在のみではなく、生物学的な本能、欲求、衝動だけでなく民族、社会、宗教など人類的な苦闘の産物であるということを、含意する。さらにKの叙述は、大乗の仏道の基本的な構造を示しているとも、言える − すなわち、凡夫が道に目覚め、出発し、輪廻におけるあらゆる生存を無限に経巡って、ときには声聞、縁覚の安らかな寂滅に陥ることもあるが、いつしかその欺瞞性に気づいて大いなる道に出発し、ますます困難な道を無限に進み、福徳と智慧の資糧を円満して、道の究極である無上の正等覚を成就する。しかも、それで終わりではなく、大悲の力ゆえに輪廻のかぎり住しつづけ、有情を導きつづけるという行道である。
 これらを見るとき、また p.407 に玉城氏が要約、紹介している部分 − 「・・・私は、いのちの泉の清浄な水を飲みほし、渇きがいやされた。私は、もはや渇かないであろうし、もはや暗闇にいないであろう。私は光を見た。私は、すべての悲しみや苦しみを癒す慈悲に触れた。それは私自身のためではなく、世界のためである・・・( 'The Years of Awakening' p.171)」、さらに、Kが神智学の影響下ながらも人類のために仏陀やマイトレーヤ(弥勒)、大師に誓願しているこれ以前の数々の例を見るとき、目的は単なる個人の解脱ではなくて、苦しむ世界のための正覚であった。それに関する評価は様々であろうし、それはそれでいい。しかし、いやしくも研究を自称するのであれば、当時のKや周囲の人々の信念はそうであったのだから、少なくともそれが信じられていたという事実は、提示しなければ、話にならない。すでに述べたとおり、単なる解脱のための道としては、事実の観察・理解であるが、正等覚のための道としては、依るべきなき有情すべてという事実の観察・理解による大悲、発菩提心、彼らをいかに済度しうるのかという方便を含めた菩薩行である。Kの教えは、ものごとは関係において名づけによってのみ存在すること、すなわち縁起を説いて、無明により執された対象を否定し、業と煩悩を滅して個人の解脱を成就させるという面でも、説かれている。それと同時に視点を変えると、同じ文章が、個人の解放を成就しかけた人にとって、他への働きかけ方についての教えでもある。関係のなかでの存在ゆえに、個の存在の普遍性、責任の重大性を示し、ゆえに普遍的な慈悲、愛を生じさせ、さらに、愛の働きにおいて行為対象、行為、行為者の実体視に対する否定、いわゆる三輪空寂の行為を説いているので、大乗の利他行ともなる。これは、古来「一音説法」と呼ばれるものであり、聞く人の機根によりそれぞれがふさわしい理解を得ることができるという仏陀の説法の特徴の一つである。玉城氏のように、条件づけからの解放、解脱という一面のみを見て、ものごとは関係において名づけによってのみ存在するし、ゆえにそれ自体としては空であるという心髄を抹消するとき、玉城氏が、いくら事実の観察・理解に努めてもKの説く世界が実現しないと繰り返すように、単なる解脱に関しても、すべてが無効になる。玉城氏は、「究竟一乗」ということや「般若ハラミタ」、すなわち単に自己の解脱を求める者にとっても、広大な菩薩行を願う者にとっても、正法の要、生命である心髄を、見事に抹殺したのである。
  さて、玉城氏は初期仏典の「実にダンマが、熱心に冥想しつつある修行者に顕わになるとき、かれの一切の疑惑が消失する。・・・かれは悪魔の軍隊を粉砕して安立している。あたかも太陽が虚空を照らすがごとくである」の文章を引用したうえで述べる − 「・・・結跏趺坐したクリシュナに、光が顕わになり、真理の源泉が開かれて、すべての悲しみや苦しみが消えているのであり、しかも過去の不都合な蓄積の根絶のためにさらにそのように働いているからである・・・このことは、解脱の原点において、ブッダとクリシュナが同質ばかりでなく、そうしたそれぞれの立場を越えて・・・」と。さらに、古代ギリシアの哲人たちやキリストやパウロなどとも共通していること、その永遠の生命、真理に万人が帰入すべきだと、述べる。
 確かに、仏陀にしてもKにしても、縁起、中道、空といった教えの心髄を抹殺し、一部分のみかけの類似をもって類似すると言うなら、他のどんな哲人、宗教者とも共通するだろうし、Kの教えも仏陀の法も存在する意義はないであろう。そして、当時の神智学協会の指導者たちと同じく、「すべての道は真理につながる」ということこそが、正しいことになる。ところが、Kは「真理に至る道はない」と述べて、自分のための教団を放棄した。もちろん、他の道は真理につながらないが、自分の道だけが真理につながるといったことではない。そして、仏陀も「自己こそ自己のよるべである。自己をおいて誰がよるべであろうか。よく調えられた自己にこそ、獲がたきよるべを獲ることができる」と教えられた。他の宗教、哲学と共通しているなどということが、どうして問題となるのだろうか。

    c 問題 p.409
玉城氏は結論的に、仏教とKとの交照における問題として二つを挙げる:
  「それは結局、ブッダのいう業異熟と、それに比定されるクリシュナの過去の一切の諸経験の堆積についてであり、第二は、クリシュナの生活経験では、あれほど重視された冥想が、著作の中では消えて、ただ事実観察・理解のみが強調されたのはいかなる理由か、という点である」
  第一の問題について、氏は便宜的に「人格的身体」という語を用いて説明する:
  「ブッダにおける人格的身体は、解脱にかかわる最終の課題であって、いかに解脱を果てしなく持続しても、どうしても残れるものであり、したがって解脱はつねに個の人格的身体にこそ顕わになっていくということができる。経典の性質上、ついには人格的身体が解決されるという結びにはなっているが、しかし全体的に見ればけっしてそうではなく、どうしても残るのである。しかるにクリシュナの場合には、その著作においてはもとより、生活経験の中でも、かれ自身、およびその周囲の人々のクリシュナ観は、次のようになっている。すなわち、クリシュナは或る時点で人格的身体、いいかえれば過去の諸経験の記憶から完全に解放されたということである。・・・どうしてこういう自覚がおこったのか。けだし思うに、一つには、彼の目覚めの力があまりにも強烈で、過去の諸経験は吹き払われ、つねに光とともにあり、つねに果てしなき現在に住みつづけたであろうこと、そしてもう一つは、一応かれは、身心関係の全本性であるとか、身心の偉大な調和などといいながら、実際には主として、心の方に重点があって、身体的なものにはそれほど顧慮を払わなかったことということである。そのために、かれ自身、および親しい人々のクリシュナ観では、かれは過去の記憶から完全に自由であるという所見が出てきたものと思われる。しかし、すでに見てきたごとく、五十三歳の時の深刻な身体的経験がなお続いているということが、伝記の中で記されている。人格的身体から完全に自由になったという自覚と、実際にはそうではないという、この矛盾は人間存在の主体性として微妙かつ深刻な問題を孕んでおり、重大な課題を今後に残すことになるといえよう」
  「実際には主として、心の方に重点があった」などということが、玉城氏の誤読であることは指摘した。さらに、氏が全面的に依拠しているルティエンスの伝記にも、身体に対する無執着さは繰り返し指摘されているが、これは仏教でいう「捨」の態度、無執着の態度である。注意を払わないという意味ではない。それどころか伝記では、自己とまわりのものごとについて、いつも大きな関心を持って観察し発言していることが、ときにはユーモラスなまでに記されている。「実際には心の方に重点があって、身体的なものにはそれほど顧慮を払わなかった」どころではない。「そのために、 [事実に反して] かれ自身、および親しい人々のクリシュナ観では、かれは過去の記憶から完全に自由であるという所見が出てきた」などということが正しいのなら、玉城氏が第二の問題として挙げている事実の観察・理解さえ彼自身や親しい人々はできていない、世間の義からも倒錯している、ということになる。「全人格的思惟」により「時間を離れた光が顕現し」、「永遠の現在に住みつづける」などと議論するのもよいが、「如実知見」「ありのままの観察」を語りながら、自らがいま全面的に依拠している文献さえ、如実にありのままに読めていないということは、世間からしても滑稽である。これのみをもってしても、事実の観察・理解のみが強調されるのは、当然である。むしろ、事実の観察・理解を別にして、「全人格的思惟」「目覚めの力」「(時間を超えた)光」「果てしなき現在に住すること」がありうることが、奇異である。事実の観察によってのみ、それらは成立しうる。ゆえに、それらは自性によっては空である。「全人格的思惟」の「冥想三昧」に没頭するあまり、自分がいま何を、どのように思惟しているのかにも気づかないというのでは、あまりに情けない状態である。かかる態度は、一方的に生死という事実とは別に達成されるべき涅槃を立てて追求する態度として、大乗仏教においてはいかなる局面においても、徹底的に弾呵されるところである。初期仏教においても中道が本質的であることには、いささかの違いもない。結局、玉城氏は全人格的思惟における超越的な光や純粋生命やダンマの顕現を言いながら、現実には主として、有所得の態度により、自己保存的に取得した対象の改変と定式化のほうに重点があって、仏陀やKの言っていることには、それほど顧慮をはらわなかった。そのために、仏陀に関してもKに関しても、珍妙な所見が出てきたのである。
  さらに、玉城氏は仏教に関して述べる:
「これに対してブッダは、人格的身体について詳細克明に探究しつづけ、その容易ならぬ、精細にして重要な意味を明らかにした。しかるにブッダ以降の仏教は、必ずしもその意味の重大性に気づいていない。唯識説と浄土教を除く、ほとんどの学派・宗派は、ブッダの趣旨をまともに受けとめなかったというべきである。仏教にとってもまた、人格的身体は、今後の重要な課題である」
  玉城氏は、心が過去により条件づけられているというKの言明を、仏陀の業異熟すなわち業とその果報の問題と等しいとしたうえで、Kによるそれの設定の仕方に問題を見出す。しかし、玉城氏は、ものごとに自性による成立がなければ、虚無に転落して、因果を設定できないために、自性により成立した業異熟体こそが因果の作者、享受者であると、主張する。そして、それを認めないから、Kは不十分であると主張する。玉城氏が構想し、提起しているものは、唯識説におけるアーラヤ識、すなわち一切種子識として、眼耳鼻舌身意の六識とは別体の業異熟体である。唯識説では、無明ゆえに生存を流転する凡夫が、唯識観によりいわゆる転識得智し、三劫の菩薩行の結果として正覚者、仏陀となるとされる。しかし、チャンドラキールティが言うように、自性により成立したアーラヤなどは現実には作用を持たず、産まず女の子に等しい。過失はKにではなく、唯識説ないしそれを固執する玉城氏にあるのである。
  さらに、唯識説は、発菩提心から三無数大劫の菩薩行、利他行の結果として無上正等覚という壮大な理想主義と、外的対象の存在を否定して内的な識の転変に還元し、一切の種子であるアーラヤ識からのものごとすべての生住滅を説くという普遍的な観念論から、成っている − idealism の極致である。しかし、玉城氏は後者の観念論のみを主張するから、唯識説としても全く不充分である。加えて、玉城氏は、無自性空即縁起の思想を撥無するから、提示されている浄土教さえも、依るべきなき無力な凡夫、末世における罪業のみの悪人をして、弥陀の本願、成仏、浄土を信じて念仏するだけで救済せしめることのできない、全く無意味なドグマである。
  すでに第二の問題点にも言及したが、玉城氏は述べる:
「クリシュナ自身は冥想に専念しつづけ、長時間をかけてますます深くその境地が確立し、最高者が顕わになって、永遠なるものの光と愛に包まれているのに、人々を導くための著作では、まったくその点にはふれずに、ただ事実の観察・理解についてさまざまな視点から納得せしめようとしている。それはいったいどういう理由によってそうなったのかという問題である・・・ただ事実の観察・理解のみでは、いかに注意深くそれに従っても、第三者(ここでは筆者)には、クリシュナの主張するような、時間を越えるものが顕わになってこない。おそらく、クリシュナに導かれる人々も五十歩百歩であろう。そうではなく、冥想三昧に専念する過程において、第三者にもクリシュナにも、そうした永遠の生命が顕わになってくる。それほど事情は明白であると思われるのに、観察、理解のみを強調するのにはなぜかという問題である」
  Kが自性により成立した冥想なるものを是認しないこと、そしてまた有と無の二辺を離れた如実観察、正見が中道である八聖道の始まりであり、それが、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念と進展して初めて、正定すなわち正しい禅定が修されるのであり、それによらない冥想三昧は、邪なるものであることは、すでに言及した。それらのことを考えるなら、玉城氏のいう「人々を導くための著作では、まったくその点にはふれずに、ただ事実の観察・理解についてさまざまな視点から納得せしめようとしている」ということは、全く当然である。したがって、「冥想三昧に専念する過程において、第三者にもクリシュナにも、そうした永遠の生命が顕わになってくる。それほど事情は明白であると思われるのに」などというのは、無意味である。そして、「ただ事実の観察・理解のみでは、いかに注意深くそれに従っても、第三者(ここでは筆者)には、クリシュナの主張するような、時間を越えるものが顕わになってこない。おそらく、クリシュナに導かれる人々も五十歩百歩であろう」などと、正法を自分で破壊しておいて、自分も他者も得られるべきものが得られないなどと勝手なことを言ってはならない。
  よく知られた例を取るなら、『大無量寿経』において、無量寿仏の因の位の菩薩であった法蔵菩薩は、はるか久遠の昔に世自在王仏のもとで自らが無上の正等覚を開き、仏国土を荘厳すなわち実現することへ発心した。しかも、世自在王仏の「修業せらるるごとき荘厳の仏土、なんじ、自らまさに知るべし」という言葉に対して、かの菩薩は「この義は弘く深くして、わが境界にあらず。ただ願わくば、世尊よ、広く、ために、諸仏如来の浄土の行を敷演したまえ。われ、これを聞きおわりて、まさに如説に修行して、所願を成満すべし」と全面的に自己の無能、無力を告白し、師である世自在王仏の教示を全面的に正しく受けて、本願を立てた。そして、世自在王仏が説かれたとおりに、五劫の思惟すなわち五つもの永遠の宇宙期間の間、無所得の菩薩行を修習して、安楽世界、極楽浄土を完成した。この話は神話的であるにしても、一人の正等覚者の出現は、個人の単なる解脱の問題ではありえないことを示している。このことを理解しないのでは、大乗仏教をまるで理解しないのと同じである。しかも、上記の要約において玉城氏は「私の自我がブッダの水準を見出さねばならなかった」として個人の探究と発見ということに問題を矮小化するが、逐語訳では「私の自我が、仏陀の水準で願うもの、仏陀の水準での命がけの興味関心は何なのかを見出さなければならなかった」であり、Kにおいても発菩提心、誓願ということが為されているのである。
  したがって、菩提心、誓願も捨てて、個人的解脱の面でのみ考え、利他行の修習に欠けるだけでなく、聞、思の段階においてさえも説かれたことを正しく理解もせず、「クリシュナの著書を調べてみる(p.393)」程度で、邪分別を逞しくするのなら、「かれの説くような世界」、仏教的に言うなら仏陀の諸徳性や美しく荘厳された仏国土が「実現してこない」ということに、何の不思議があるのだろうか。あまりに常識的なことである。
  そしてまた、『法華経』の譬喩品も、舎利弗(シャーリプトラ)は仏になるであろうといって、釈迦牟尼仏により次のように予言されている:
  「・・・舎利弗、なんじ未来世において無量無辺不可思議の劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩の所行の道を具足して、まさに仏となることを得べし。号を華光如来、応供、正G知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊といひ、国を離垢と名づけん・・・」
  これは、Kの根本体験において示している諸身体ということに関しても、いくらか洞察を与えてくれる。ここでは、正法を学ぶ人間存在が複合的存在であること、ゆえに、舎利弗が、今生で初めて釈迦牟尼仏に出会って教化されて悟ったのではなく、無量の過去世においても教化されつづけたのであり、さらに今後も無量の仏陀の世界を転々として、正法を受持し、修習を重ね、最終的に仏陀となる、というのである。ここ『法華経』には、数多くの仏弟子のなかでも智慧第一の舎利弗においても、この生涯どころか次の生涯においてさえも彼の実現すべきもの、成就される世界が顕わになるとは、説かれていない。舎利弗さえも、無量無辺不可思議の劫を経て、無数の仏陀に仕えて、正法を護持し、菩薩の行を修習して、仏となるであろうというし、それを聞いた舎利弗その他の弟子たちは、未曾有の教えであると大いに感動し、大いに歓喜するのである。もちろん無自性空の立場によれば、ここに言う無限の未来世はいま現在と相即、円融するのであり、単に無限に遠いはるか未来世のことではない。『法華経』自体に説かれるように、舎利弗はすでに空法において悟りを得ているのであり、ゆえに釈迦牟尼仏によるこの予言を聞くときも、直ちに意味を理解して無上の歓喜を生ずるのである。
 玉城氏は、以上のとおり無意味な議論を重ねたうえで、次のように述べる:
  「これについての本当の理由はよく分らない。ただひとつ思われることは、冥想三昧における目覚めは、言葉を越えたものであり、それを言葉で語ろうとすれば、聞く方の側では、あまりに抽象的、高踏的で、言葉の繰り返しにすぎないではないか、という受けとめ方になっている。実際にそういう批判がおこっていた。そのためにクリシュナは、どこまでも生活を離れず、生活そのもののなかで冥想を徹底した結果、冥想とは伝統的な手法ではなく、ひたすら事実の観察・理解であるという見解になったものと思われる」
  これでは、聴衆からの反応、批判の噴出ゆえに、Kが説き方を改めていったかのようである。こういう反動がありうるのは、有所得の立場においてのみである。しかし、議論の愛好のためではなく、一切法空の立場から縁のままに単なる利他のために語っている立場には、全く関係する余地もない。このことは、Kの談話にしばしば見られる全くの謙虚さとたくまざるユーモアから、充分に推測されるところである。玉城氏は、自らが唯一の資料とするK自身の言葉をも、ルティエンスの伝記をも、正しく読んでいない − 正当な論拠を全く欠いたまま、先入観から論ずるだけである。
  さらに玉城氏はここに限らず、Kの言葉について「言葉の繰り返しにすぎない」とか「簡単である」などと繰り返し述べている。Kの言葉を自己の先入観、定式に合わせて改変する人にすれば、それは当然であろうが、これもまた正しくない。たとえば、ブッダの二大弟子の一人で智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)に関して、初期仏典は次の話を伝えている:
  あるとき、尊者シャーリプトラが仏陀の説法を聞いて歓喜して戻ってきた。そのとき一人の外道者がやってきた。外道者はシャーリプトラが師の説法を聞いて戻ってきたと聞くと、それは子牛がいまだに母牛について母乳を飲んでいるようなものであるが、自分はもはや師の法話を聞くのは止めたと述べた。そのときシャーリプトラは答えた − あなたの学ぶ法は依るべき法ではないし、邪見の法であり、解脱のためにもならないし、正覚の道でもないし、あなたの師は正等覚者ではない。だから、あなたも乳を捨てて師の教えを離れたのであり、それは母牛が粗悪で騒乱し、乳が乏しいので、子牛も乳を飲んですぐに捨て去るようものです。しかし、私の法は正しい法と律であり、正見、解脱、正覚の道であり、不滅であって依るべきであり、師は正等覚者です。それは、母牛が善良で、乳も多いので、子牛も飲んで飽きないようなものであり、私も法を説かれるのを長らく聞くのです、と(雑阿含経第35巻『国訳一切経 阿含部三』pp.498-499; 友松円諦編『仏教聖典』(講談社文庫 pp.261-262)
  また釈尊の侍者アーナンダが、縁起の法ははなはだ深遠であると言われるが、それは私には奇妙な不思議なことです。それは明々白々であるに思われます、と述べたとき、ブッダは次のように言ってたしなめられた:
  「アーナンダよ、そういってはいけない。アーナンダよ、この縁起の法は、はなはだ深くして、深遠の相を呈している。アーナンダよ、この法をさとらず、この法を知らないから、世の人々は、まるで糸のもつれたように、腫れ物におおわれたように、あるいはムンジャ草やパッバジャー草のように悪しきところに生まれ、悪しきところに赴き、いつまで経っても地獄の輪廻を出ることができないのである」(増谷文雄『阿含経典 第1巻』pp.198-199; 南伝 相応部12.60)
  確かに初期仏典では、十二支縁起と四聖諦を中心として、定型化されて同様な説法が繰り返される。しかし、シャーリプトラの発言あるいは仏陀の教訓のように、それは、単純で自明なことの繰り返ではない。何度聞いても尽きることのない法、はなはだ深遠で悟りがたい法である。すなわち、事実を私事とするのではなく、社会性をも同時に了解して、生きとし生けるものの苦とその克服を対象として修習される法である − これらは、言葉でこそ明示しないが、大乗仏教における不生不滅の深遠な縁起、大悲ということを、すでに含意するのである。Kにおいても、同じことが繰り返し繰り返し述べられているわけではない。そうでなければ、教養ある人たちをかなり含む人たちが、インド、アメリカ、ヨーロッパで六十余年も同じような講話を聞くために、毎年毎年はるか遠くからも旅をして、数千人も集まったり、同じような書物を次から次へ購入し、繰り返し繰り返し読んでいるわけがない。Kは講話に人が多く集まることに関して、まるで他人事のようにユーモラスな感想を述べている − 「論壇の上のあの人はたいへん多くを知っているにちがいない」と。また六十数年も講話を続けたことに関して、「出される質問もその解答もすべて知っている − それでは、語り手(すなわちK)には少しもおもしろいことがない」と。玉城氏は、信と行ということの意味を全く理解していないのである。
  玉城氏は本論の結末として述べる:
  「ところで、クリシュナにとって人格的身体の問題が今後つきまとうとしても、ともかく過去の諸経験の蓄積から完全に離脱したという自覚を持つということは、卓越した人物であることにちがいない」
  ともあれ、単に記憶の蓄積から完全に離脱したという自覚を持つからというだけで卓越した人物であるというのなら、健忘症の人は卓越した人物であろう。乱暴な議論で申し訳ないが、玉城氏にとっては、乱心状態と「プロセス」との区別もないのだから、健忘症とも区別がなくてもよいだろう。さらに、「眠っていても本来の心は目覚めており、みずからそのことを意識しているという」と引用して、それを「時間なき光の顕わになる力の強烈さ」に帰し、「この状態を最高であるとか、絶対であるとかいうのではなく、冥想の一境たるに外ならないが、なかなか到達しがたい境地であるといえよう」などと述べて、なぜそうなのかの理を少しも明らかにしないのは、仏道やKの合理的精神を破棄した行為である。単に業異熟の整備された理論構成としてアーラヤ識と業異熟が説かれているというだけで唯識の観念論を評価する態度といい、Kや釈尊の理知の極みを無視し、合理的思惟を抹殺して人間を弱者に貶めること、さらに本願、廻向、成仏、浄土荘厳と深信因果、往生といった事柄を成立せしめる無自性空という根本を破棄したうえで浄土教を評価する態度といい、愚かしいことである。
  氏は最後に、寝ても起きても目覚めているということで盤珪禅師に言及し、その法語から「この仏心は、不生な物でござるによって、体は土とも灰とも成りますれども、心は焼いても焼けませず、また埋めても朽ちる物ではござらぬ」云々を引用したうえで、締めくくる:
「(この盤珪の言葉)にいたれば、おのずから明らかであろう。そして、近年においては、久松真一であり、このクリシュナであるといえよう」
  久松は禅の悟りを開いたとされる在家であるが、彼は西洋哲学を相手にして東洋の無の哲学や芸術などを説いた大学教授であって、苦悩する万人に道を拓いた人でない。さて、引用された言葉を見れば、いかなる真理が考えられているのが、おのずから明らかである。玉城氏は自己の先入観に始まって、そのままに通徹しただけである。
  伝記作者メアリー・ルティエンスは、「Kのノートブック」に関して、「Kが変容をとげたふつうの人ではなく、ふつうの人類とは異なった次元に存在している特異な存在であることが分かる」と考え、この点をKに質した。Kは「電気の光をともすのに、私たちみんながエジソンである必要はない」は答えた。またKは他の人たちに、Kは特異な存在として生まれたのであり、他の人たちは彼の状態をとうてい成就できないと言われたのに対して、「クリストファー・コロンブスは帆船でアメリカに行ったのですが、私たちはジェット機で行けるのです」と述べた。ルティエンスは論じている − 「彼がこれら両方の暗喩で伝えようとしていることは、もちろん彼が苦労して悲しみから人々を解き放つ道を発見したので、いまや誰でも、彼が経てきたすべてを経なくても彼の発見から利益を得られるということであった」と。Kも晩年親しい人たちに、教えを腐敗させるなと繰り返し注意された − かくして深く確立できた教えは無上の方便であり、かけがえのない真実であるからである。それに触れて学ぶのなら、自己を益しないだけでなく、他者の妨害をもするようなことは、すべきではない。筆者も戯論しすぎたので、ここで置く。



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