改訂版の掲載にあたって

藤仲孝司 

 同人の中では他の諸氏が継続的に発表されている中で、永らく休眠させていただいています − Kの翻訳に関してお手伝いをしているだけです。先日或る方からメールがあり、小早川氏との共訳『知恵のめざめ』の後書きを読んで、Kとチベット仏教との関連について何か書いたものはないのかというお問い合わせであったようです。小生が以前、同人誌に出していた原稿については、基本的な考えに変化はないので、大幅な改訂を加えて、重複や不正確な記述をなくし、分かりやすく編纂して、何らかの形で発表しようと思っていましたし、現に何度か着手しては挫折していました。その理由の一つは、チベット仏教のツォンカパの著作類を中心として、もっと広く深く学び、思索を整理したいという思いがあり、それらの翻訳、研究に専念しているという状況もあります。ここ6年ほど京都の大谷大学教授ツルティム・ケサン(白館戒雲)先生の助手兼共同研究者をしており、同先生との共著として『ツォンカパ 中観哲学の研究』V、W、X(文栄堂 2001,2002,2003)と、『悟りへの階梯−チベット仏教の原典『菩提道次第論』』(Unio 2005)を発表しております。今は横山氏のKの翻訳書の最終確認と、『ツォンカパ 菩提道次第大論の研究』(文栄堂)の原稿を確認をしており、両著ともまもなく出版する予定です。そういうこともあって旧稿の大きな改訂はできませんが、自分自身の考えたことを多少なりとも明らかにしておきたいと思い、今回、以前の原稿をわずかに手直しして、掲載することにしました。今後も少しずつ整理し、掲載したいとは思っていますが、正直なところ、どれだけ実行できるのかは分かりません。
 今回発表したのは、1998年にこのホームページの前身であった同人誌に、順次発表したものです。高名な仏教学者、故玉城康四郎氏はKについていくつか論文を紹介しています。その分量はわが国のいわゆる「アカデミック」な学者のものとしては最大のものだと思われます。玉城氏はKを取りあげつつ、仏教に関する記述を多く行っています。しかし、その文章はかなり誤読、曲解があります。私の原稿はそれを取りあげ、Kの文章そのものに当たりながら、批評したものです。さらに仏教の理解に関しても、いくつかの基本的な典籍に当たりながら、徹底的に論駁を加えたものです。古稿でもあり、私自身の論述にも未熟さが目立ちます。いずれ、大幅な改訂は必要かと思っていますが、今回はかなり長い論文の内、初めのおよそ3分の1を発表します。
 序論として申し上げておきたいのは、以下のことです − ブッダの教えの中心は四聖諦、十二支縁起であろうと思われます。すなわち、人間存在は他の生類と同じく、条件付けによる苦の存在であるとし、その条件付けの滅・寂静を、最高の真理とします。仏弟子たちの実践(声聞乗)はその滅・寂静をいかに実現するかということになります。大乗仏教は、その滅・寂静が実現されるためには、ものごとすべてが本質的に空であるという真実を理解することが必要であるとします。条件付けられたものごとの滅を、条件付けられたものごとが本質的に生じていないし、滅していないこと、本来寂静であると同義である、とします。『般若心経』などですべて無である、空であると説かれているとおりであり、ナーガールジュナ(龍樹)などの中観派は、これを了義(決定的、最終的内容)、勝義諦(絶対的真理、最高の真理)であるとし、それ以外の言説であり事実であるものごとを、未了義(決定的でなく予備的な表現)、世俗諦(スクリーン的な真理、世間的な真理)とします。ただし、大乗仏教はこの甚深な見、空の悟りだけなら、仏弟子たちの宗教(声聞乗)にもある。利他のために最上の正覚を求める菩薩たちの大乗においては、さらに広大な行が必要であるとしています。条件付けられたものごとは、すべて本来的に空である、本質的に生じていないし、滅していない、本来寂静であるという教えに関しては、ナーガールジュナ自身がすでに『中論』において虚無論的な誤解はきわめて危険であることを、述べています。後にアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)など唯識瑜伽行派の人たちは、三自性すなわち遍計所執、依他起、円成実の説により、正しく解釈すべきであるとします。すなわち、否定の基盤である条件付けられたものごと・依他起は、実体として存在しており、決して否定されない。その上に名と思考により立てられたもの、別体である知られるものと知るものである遍計所執が否定される。そして依他起の基盤のうえに後者が無いのが、正しい空の理解であるとします。すなわち、別体である知られるものと知るものは、汚染の存在ないしその原因として否定される。一体である知られるものと知るものは、清浄の存在またはその原因として肯定される、というのです。さらに、唯識瑜伽行派の説明によれば、否定されるべき条件付けられたものごとに関しても、分別構想されたものと生来のものとの二種類を認めます。そして、生来のもの、いわば根本的な無知を中心に否定が為されなくてはならないとします。真実に関しても、人的主体に関する空すなわち人無我、それ以外のものごとに関する空すなわち法無我という二種類だとします。また克服されるべき障害についても、煩悩障と所知障の二種類とします。人的主体に関する空すなわち人無我を修習することにより、単に個人の葛藤や苦悩である煩悩障が滅したことは、仏弟子たちの宗教(声聞乗)にもある。利他の大乗においては、それ以外のものごとに関する空すなわち法無我を修習することにより、認識対象に対する誤解や無知をその種子とともに滅することが必要である、といいます。
 このような唯識派の主張は、中観派もおおむね承認します。論理的な否定対象に関しては中観派は異なった解釈をします。中観自立論証派は、条件付けられたもの・こと(縁起)において、自性により成立したもの・ことは、世俗(言語表現)としては承認されるが、勝義(絶対的真理、究極的真理)として否定されるとします、チャンドラキールティ(月称)など中観帰謬論証派は、勝義としても、世俗としても、自性により成立したもの・ことが、否定されるべき対象となります。唯識派や自立論証派が、人無我と法無我との二つでは、後者がより微細であるとしますが、帰謬論証派はどちらも空性として浅い深いの違いはないとします。さらに、煩悩障に関しても、法無我を理解しなくては根絶することはできないとし、仏弟子たちの承認する教え(声聞乗) − 『阿含経』などにおいても、簡略ながら最も深い真理が説かれている。仏弟子たちの宗教が究極に至らないのは、彼らの利他行が乏しいためである、そしてそれを教えるのが大乗経典である、としています。
 これらをまとめると、仏弟子たちの宗教(声聞乗)によると、条件付けられた滅・寂静が最高の真理です。唯識派によると、別々の存在である知られるものと知るものが否定された滅・寂静が、最高の真理です。これらは、多くの人々がKの教えにおける最高の真理だと考えているものと一致しているようです。またKの読者の中には、直接性を意味する「即時」という表現に釣られて、文字通り即時の成果のみを気にしているような傾向があります。それは、唯識の示した行の体系からすれば、仏弟子たちが現法の滅・涅槃寂静のみに専注していたのと同様の事態です。まさに小乗と言えるような状態です。大乗と同じように、またKと同じように、生きとし生けるものすべての苦を滅し、楽を成就することを、目的としているわけではありません。
 中観派、特にその帰謬論証派は、それら唯識派による行の説明はそのまま承認するが、見に関する説明は巧みな方便であり、それ以上のものではないとしています。そして、仏弟子たちの教え(『阿含経』など)にも、簡略ながら最も深い真理が説かれていると、主張します。私はそれに共感しています。すなわち、Kの教えに関しても、条件付けられた滅・寂静が最高の真理であるということはそのとおりです。さらに、別々の存在である知られるものと知るものが否定された滅・寂静が最高の真理であるというのは、巧みな方便ではあっても、それ以上のものではない。Kは中観派の理解するような深い空の真理を説いている。にもかかわらず、それを学ぶ私たちが完成に至らないのは、ナーガールジュナやアサンガが仏弟子たちに関して指摘するのと同じく、私たちの関心がともすれば自己の苦、自己の葛藤とそれからの解放に集中していて、あらゆる他者の苦や葛藤やそれからの解放に興味が乏しく、利他の心、慈悲も少なく、それに基づく利他行もほとんど皆無であるからであろう、と。
 こうして中観帰謬論証派の哲学を学びつつ、Kを学ぶことには利点があります。中観帰謬論証派は、勝義(絶対的真理)においてだけでなく、世俗(言語表現)においても、自性による成立は無いとしています。よって、Kの言語表現を読むときもまた、そこに自明の存在は何一つ無くて、すべて新たである、それも根元的な見地から説かれているということになります。唯識派のように、実体として成立したもの(一体である知られるものと知られる)が無くては、虚無論に転落するという考えではないですから、Kが説いている文章についても、そのままに受けとることが可能です。自明の存在、自性による成立の欠けているKの文章を見て、それを欠陥だと見なし、文章に勝手な改変を加える必要がありません。結果的に、自分が無意識的に読み込み投影した自明の存在、自性による成立を、Kのものだと思い込む誤解が無くて、Kの言いたいことに毎回新たに接することが可能です。Kの『自我の終焉』の冒頭に彼自身が、専門的に定義された術語によって真理を伝えることはできないとして、「日常的な平易な言葉により深い真実を伝えたい」と述べていることに、応ずることができるのです。
 さらに、中観帰謬論証派は、否定の論証方法である言葉についても、自明の存在、自性による成立を、認めません。これに対して、ブハーヴィヴェーカ(清弁)など中観自立論証派は、究極的(勝義)においては自明の存在、自性による成立は否定されるが、言語表現(世俗)においてはそれらを認めなくてはならない。そうでなければ、虚無に転落し、何の否定も肯定もできなくなる、と考えます。Kは『自我の終焉』の冒頭に、「私(K)は間違っているのかもしれません。あなたが正しいのかもしれません。しかし、今はまず私の話を聞いて、ともに考えましょう」といったことを、述べています。これは、K自身が言語表現(世俗)においてもまた、自明の存在、自性による成立を、承認していないという意味であろうと、思われます。もしKが、中観自立論証派のように、言説において自明の存在、自性による成立を承認しているならば、この文章は、「私(K)が正しいのかもしれません。あなたは間違っているのかもしれません。ですから、今はまず話を聞いて、ともに考えましょう」といって、正反対になっているのではないでしょうか。かつての私自身もそうでしたし、今も出版されているKの邦訳の中にも、以上のような形での自明の存在、自性による成立を、勝手に読み込んでいる翻訳が、かなりあります。その場合、『自我の終焉』の冒頭から例証されるように、Kの翻訳のつもりであっても、実はKの言葉と正反対のことをKの言葉だと思うことになるわけです。結果としても、ナーガールジュナが『中論』第24章において、「空が成立するものにはすべてが成立する。空が成立しないものにはすべてが成立しない」と述べているのとは正反対に、「自明の存在が成立するものにはすべてが成立する。自明の存在が成立しないものにはすべてが成立しない」と思っていることになるので、ナーガールジュナによれば、果も成立しないということになります。Kの読者の中でも、現にそうなっている事例があるのではないかと思われます。
 以上で筆者の言いたいことは、一応尽きています。以下の旧稿はかなりひどいものです。正しく理解するには、ナーガールジュナ、チャンドラキールティ、ツォンカパの論書を或る程度知っていることが必要かもしれません。そして、それを知っているなら、以下の旧稿はもはや読む必要がないかもしれません。深い内容を平易に説明することができてこそ、理解は完成していると言えるでしょう。よって、以下の論述が分かりにくいのは、私自身が未熟であるということを露呈しているにすぎません。にもかかわらず、このような論述でさえも必要があるとすれば、そんな未熟な者により完膚無きまでに論破されるほどのKへの曲解が、世の中には行われている。そして、それを充分に批判できる人もあまりいない、という状況のためであろうかと、思っています。
2005年7月9日



  クリシュナムルティと仏教の交照
    − 玉城康四郎氏の誤読を正す (1)
                               藤仲孝司

玉城康四郎氏は、東京大学名誉教授で、我が国の仏教学の重鎮であり、その著作は仏教を中心として、東西の比較思想など、たいへんに量が多い。クリシュナムルティに関しても、いくつかの論文を公にしている。氏の『仏教を貫くもの』(大蔵出版)という書物が昨年出版されたが、その第三章「仏教の周辺」には、論文「クリシュナムルティの世界」というのがある。これは、玉城氏がクリシュナムルティに関して発表した論文の内、現在入手困難なもの、「クリシュナムルティにおける人間」(1987)、「クリシュナムルティの人間に関する精神分析」(1985)、「ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題」(1987)をもとに全面的に書き改められたものである。そして、この論文と、『仏教と異宗教』(平楽寺書店 1985)における氏の「仏教と他の立場との対比・交照−クリシュナムルティの場合」と合わせると、同氏のクリシュナムルティに関する論文は一通り揃うことになる。後者の内容の杜撰さに関して、筆者は以前に「独我論の罠」という論考の注釈において、少し指摘したことがある。
  玉城氏が自己の論旨を支えるために引用しているKの言葉を原文に当たってみると、その誤読の方向は筆者がすでに論じつづけた問題点に他ならないし、誤読の典型である。本当に真剣なKの読者であるなら、まともに相手にすべき内容ではないが、未熟な読者であるなら、当惑せざるを得ないことが数々述べられている。Kの邦訳書として出ているもののなかにも全く同じ誤読が多数存在するし、多くの読者はそういう読解の誤解を第一次的な資料として与えられている場合も多いからである。玉城氏は自分自身の不注意な読解によってそういう誤読をしたうえで、その誤読から結論を導き出しているのである。まず誤読の仕方に言及しないなら、玉城氏の奇妙な結論の一々に、反論しても意味は乏しいと言えるであろう。
  今日、「Kの教えは様々な教師のなかでも究極の教えである」といった発言を聞くことがある。すなわち、彼らの勝義(究極)として認めることは、Kにおいては世俗であり、Kの勝義(真実)は、それらの上に位置する最高の真理、あるいは真実在であるとでも言うのである。自分自身とKを同一化して熱心にやっている人の発言としてはありうることである。しかし、この考えにも問題がある。ツォンカパが自分の中観帰謬論証派の教えに関して、勝義(究極)と世俗(便宜的慣用)とに関して説明したことが思い出される − 「ある人たちは、(小乗の部派仏教の)実在論者が勝義(究極)とすることは、中観派の世俗であると主張するが、それは論書の趣旨に無知であることに他ならない。世間の教えが出世間の教えと一致することはありえないからである」(長尾雅人「西蔵仏教研究p.117」)と。筆者は同感である。さらにツォンカパの言葉に倣うと、実有論に転落したKの誤読を含めるのなら、実有論者またはKの誤読が世俗として計量することはKにすればそれはすでに勝義としての成立であるし、実有論者またはKの誤読が勝義として成立するとすることを、Kは世俗として計量することさえあるのである。すなわち、月称、ツォンカパなどの中観帰謬論証派は、自らの体系を他のどの体系とも共通せず独特であるとし、それこそが仏陀の真意に契合するのであると、論理と経典より論ずるのであるが、私たちもまた彼らと全く同じ問題意識を持って、Kの教えは他のどんな教えとも、Kの誤読とさえも共通せず、独特であると言うことが、できるのである。したがって、その他と共通しないのはどういうところなのか、そしてKの誤読とさえ共通しないのはどういうところなのかを考え、明らかにすることは、Kを言っていることを真摯に受け取るのなら、重要なことであると思われる。これらが明瞭に理解できないのでは、Kの言っていることと言っていないことが区別できないということであるし、盲者に導かれた盲者が荒野を行くようなもので、まがいものの教えによって自他を欺き、破壊するということになりかねないだけでなく、現にそうなっていると思われる。
  たとえば、前に拙稿「『真実在』妄想」で誤訳を指摘した『瞑想と自然』p.18 の文章によれば、reality を誤訳は「真実在」としている。これは、論理的究明に耐えない虚偽的存在ではなく、それ自体の力で成立している真の実在という意味であり、勝義として認めているのである。しかし、Kは reality に the という冠詞をつけて、まさに唯一その名にふさわしい reality としているのでもなく、Reality と大文字Rで始めているのでもない。ただの言説的な名付けのみとして、世俗として表現しているのである。また同訳本p.177 は「リンゴの木の種子があくまでもリンゴであり・・・それ自体としてあるように」といった表現を用いていて、それによって「リンゴの種子」の世俗的成立を意図しているが、Kによれば、それはもはやそれだけで論理的究明に耐えるものとして認められたうえで立てられているのであるから、勝義として成立することになるのである。
  ゆえに、筆者は、かつて同論文の最後のページの第三段落において、「瞑想と自然」p.177 の第10 行目に「ただ存在するだけです」と翻訳されている部分に関して、「不必要な付加であるが正解である」と述べたことを、撤回する。この部分で、「ただ〜のみ」という言葉が何を排除し、何を意味しているのかということに関しては、Kとその訳本との間には、明確に違いがあるからである。これはツォンカパが、仏教経典における「ただ名のみ」「ただ仮設のみ」「ただ言説のみ」という表現における「ただ〜のみ」という言葉が何を排除し、何を立てるのかに関して、唯識派と中観自立論証派と中観帰謬論証派とでは意味するところがそれぞれ異なっていると指摘し説明したおかげで、理解できたのである(『了義未了義善説心髄』R.Thurman の英訳ではp.296など)。すなわち、訳本の理解では、Kの「知るものは知られるものである」という言葉に対する不正確な理解、唯識的な理解に基づいて、「ただ〜のみ」という言葉によって、実体的に別々である知るものと知られるものとの二を排除し、自体として成立するところの一体である知るものと知られるという実在を立てることを、意図している。他方Kは、「ただ〜のみ」という言葉によって、同じ拙論のp.5に詳しく述べたとおり、名づけの力により成立する以外の実在の事物を排除し、名づけすなわち事物の成立であることを、意図しているし、中観帰謬論証派の理解に一致する。したがって、訳本『瞑想と自然』は、Kの意図とは違ったことをKに帰しているのであり、世間的な言説と出世間の言説は全く一致しないのである。
  玉城氏は部分的にはKを賞賛しながらも、誤読ゆえに無意味な議論、珍妙な結論に陥っているの。したがって、少なくとも知的には、Kが何を言っているのかを正しく理解することの重要性が、ますます痛感される。そこで、原文を引用しながら、問題点を指摘することにする。Kを読むための一助になるし、玉城氏が仏教学者であることもあり、仏教との脈絡を抑えることにより問題点をより鮮明にすることもできると思われる。そのなかでは、我が国で一般に仏教と思われているものの非仏教性を、考えざるをえない。筆者としては毎月参加している読書会の状態からして、こういう微妙な議論がどれほど理解されるのか、かなり懐疑的である。多くの人には意味がないのかもしれない。しかし、拙論を辛抱強く注意深く読んでくださり、励ましてくださる読者に感謝しつつ、自分の勉強のためだけでも考察しよう。しかし、玉城氏自身の文章がさすがに「理路整然」とした誤読であるのに対して、筆者は愚鈍であるうえに、玉城氏の論考のあり方、氏が論拠として提出するKの翻訳の誤りを指摘、立証し、さらに氏の言っていることが仏教からしても過失があることを議論するという複雑な作業をこなさなければならないので、とても理路整然とは行かないであろう。同じ論点が重複して、読みづらいかもしれないが、どうかご容赦いただきたい。そしてまた、筆者としては徐々に論証してゆくつもりであるが、Kの立場は、ものごとすべてが関係しあって存在するし、ゆえに自性として空であるという立場、すなわち中観帰謬論証派の立場と異ならないと考えるし、その考えから議論を進めることになるので、ご了承いただきたい。順番としては、まず初めに「仏教と他の立場との対比・交照−クリシュナムルティの場合」を、次に「クリシュナムルティの世界」を扱うことにする。

「仏教と他の立場との対比・交照−クリシュナムルティの場合」(以下、「対比・交照」と略称する)について、まず、玉城氏によるこの論文の構成を示すなら、次のようである:
一 はじめに
二 クリシュナムルティの立場
   1 伝統の拒否
    2 冥想すなわち宗教
    3 心の構造
        a 二つの視点
    b 両者の関係
三 仏教とクリシュナムルティとの比較思想
   1両者の対比
   2クリシュナムルティの問題
a クリシュナムルティの基本見解に関する疑問
b 基本見解にある人生経験
α 最重要の宗教経験
β 冥想三昧と生活の中の模索
γ 冥想三昧の習熟
   3両者の交照
a 合致せる根本態度
b 目標達成
c 問題
では、各部分について問題点を指摘しよう。

一 はじめに p.371(「仏教と異宗教」におけるページ数を示す。以下同じ)
  本論の序論である「はじめに」において、玉城氏は、Kの短い紹介と取り上げる理由を述べた後で、自らの基本的な立場を示す:
「・・・いったい、すべての伝統から離れた宗教の立場とはいかなるものであろうか。その立場の表現はクリシュナの個性に発していることはいうまでもない。その限りにおいて、クリシュナ個人の見解であることは明白である。にもかかわらず、そのような個性に彩られながら伝統離脱の立場を明らかにしようとする。この後者の点に注目し、伝統離脱の特徴を一つの一般名称に限定して、仏教がかかる立場とどのような立場とどのような交照を持ちうるのかを考察しようとするのである・・・」
  筆者としてはKの立場が「すべての伝統から離れた宗教の立場」であることに異論はないし、そのことに反論する人はいないであろう。そして、この立場が、勝義(真理)と世俗(事実)の立論ということにおいて全く他と共通せず独特であるという意味では、きわめて個性的であると言えるのである。このことは、Kは事実を立論し、人を絶対的真理に悟入させるという意味である。それは、専門用語では、未了義を方便として了義を悟らせるという意味である。仏典でもKでも、さまざまな説き方、説明があり、一部分で絶対とされることも余所で説かれることにより反駁されたりして、どれが究極的な意味(勝義)なのかを理解することは、単に文言に依るのみでは困難である。論理的にも立証されて、さらに文言からも立証できなければならない。中観派はこの問題に関して、『三昧王経』『無尽意所説経』などに依りながら、不生、不滅、空、無自性、無我など見がたく理解しがたい最高の真理(勝義)が了義であり、それへ導き入れる手段としてものごとの存在、非存在、生、滅、我、自性などを実は存在しないにもかかわらず、あたかも存在するかのように説くものが未了義であるとする。そして、前者のみが勝義であり、後者は世俗の言説であるとする。もちろん前者のみが真実在、後者のみが非実在の虚構であるといった「梵我一如」もどきの実有論に堕落するということではない。これからすると、「すべての伝統から離れた」ということは、妥当な認識手段(量)により設定されているなら、見がたく理解しがたいのであるが、了義すなわちそれ以上解釈の必要も余地もない決定的な意味、勝義すなわち絶対的真理である。そしてそのとき、そのことが妥当な認識手段(量)により設定されているのかどうか、すなわちすべてを否定しながらその「すべて」には何らかの例外を設けられて、自分自身がその「すべて」という規定を破っているのかいないのかいるのかどうか、ここでいう「宗教の立場」があるのかないのか、あるのならそれがいかなるものなのかということを、考察してもよいであろう。ツォンカパは、「すべては空・一切法空」ということなら、実有論者の考えるように主張も立場もなく虚無に帰してしまう、ということはない。仏教者として中観派として主張、立場はあるし、自立論証を用いることは不必要なだけでなく、ものごとすべてが関係しあって存在することすなわち縁起ということに抵触して有害でもあるということを、龍樹の『根本中論』や『廻諍論』を引用しながら、明確に論証するのである。そして、以前に拙稿「自己にのみ甘いことがすべてを否定することではない」に論じたとおり、Kもまた否定において自己のみを例外とすることなく、それ以上解釈の余地も必要もない決定的な真理、絶対的な真理を説くのである。それは、KはK自身の立場、伝統をも自明のものと決め込むことなく離れている、または離れつつあるのであるし、そのとき、それはもはや誰かの真理ではないし、相対や知的虚構の存在することはありえない。
  ところが、玉城氏は「その立場の表現はクリシュナの個性に発していることはいうまでもない。その限りにおいて、クリシュナ個人の見解であることは明白である。にもかかわらず、そのような個性に彩られながら伝統離脱の立場を明らかにしようとする・・・」と言う。筆者には意味が理解不能である。玉城氏は、「すべての伝統から離れた」ということが世俗として説かれた、すなわちそれは虚偽的な知の対象であると言うのだろうか。それなら、玉城氏にとっては問題そのものが成立しえない。あるいはまた勝義として説かれた、すなわちそれは真実の知の対象であるというのだろうか。それなら、これは玉城氏が自分が実有論者であり、あれこれを固執していることを自ら公言しているというだけのことである。そしてまた、ブッダパーリタ(仏護)は言う、「如来すらも世間世俗によっては、如来は老いたまえり、如来は涅槃したまえりとなどといって無常なることも述べられる。しかし、勝義を意趣するときには、如来そのものも許されず、いわんやどうしてその老や涅槃が許されようか」(長尾『西蔵仏教研究』書p.222)と。厳密には、クリシュナムルティの存在さえ認められないし、彼の立場も存在しない。Kが、語り手であるKは少しも重要ではないが、言われていることの真実を理解することが重要であるとたびたび述べているとおりである。「にもかかわらず、そのような個性に彩られながら伝統離脱の立場を明らかにしようとする伝統離脱の立場を明らかにしようとし」ているのは、玉城氏自身なのである。
  拙訳『子どもたちとの対話』p.72 に言う:
「・・・私たちはいつもで大師は誰か、識者は誰か、絵を描いた画家は誰かを知りたがります。画家の素性に関係なく、絵の内容を自分自身では決して発見したがることがないのです。美しい詩だと言うのは、作者が誰なのかを知ったときだけです。これは俗物根性で、単なる評価の反復です。それでは、作品の真実についてのあなた自身の内的な知覚が滅んでしまいます。絵が美しいことを知覚して、大いに感動するのなら、誰が描いたのかということが、あなたにとって本当に問題ですか。あなたの唯一の関心が絵の内容、真理を見出すことならば、そのとき絵は意義を伝えてくれるでしょう」
  言葉の絵を描いた人が誰なのかを知りたがり詮索しているのは、玉城氏自身である。玉城氏は、自らのなしている行為をそのままに理解しなければならない。
  したがって、すべてを否定するといいながらも、妥当に矛盾なく、量り知るためのもの、量り知られるもの、量り知るものを設定しなければならないし、その妥当性、矛盾の有無こそが問題なのである。そして、矛盾のないこと、妥当性が示されたのなら、Kの言っていることは真理であって、そのとおりなのであり、それはもはや個人的なもの、個性の問題ではないのである。

二 クリシュナムルティの立場 p.374
   1 伝統の拒否
玉城氏はこの節の初めにまず述べる:
「クリシュナムルティの思想は、けっして明快であるとは言えない・・・どうしてそういう連結になるのかという疑問が時折おこってくる。しかも、彼が強調している重要な趣旨に関してである。また、その思想は、組織性や理路整然という性格からは遥かに遠い。もともとかれは、哲学的あるいは宗教的な体系や、論理的な思惟過程には真理は存在しないと見ているからである。むしろ、重要なことは、どこまでも事実を事実として瞬間から瞬間へと究明しようとしている点であり、そのことを言葉に盛りこもうとすれば、分かりにくくなることが当然であるということができよう・・・」
  ここには具体的な内容は言及されていないが、次のことを確認すれば十分であろう − すなわち、Kの立場のように(少なくとも筆者はそうであると考えるのだが、)すべてが空であるのなら論理的にも組織性や理路整然ということはありえなくなるし、すべてが虚無に転落し、哲学的体系、宗教的体系、論理的思惟はありえなくなる、と氏が認めているということである。したがって、玉城氏によれば、哲学、宗教、論理的思惟といった営みは、日常の事実とその究明、日々の生活、行為から、完全に遊離して孤立的に存在しうるし、むしろそうであってこそ組織性や客観性を獲得するのだということであるし、そういう哲学、宗教、思惟過程には頷けるということである。そして、日々の事実と行為と、哲学、宗教、論理的な思惟とは、一方が他方を犠牲にしなければ成り立たないということである。
  そして玉城氏は述べる:
  「クリシュナは心の宗教を明らかにするためには、伝統を徹底的に拒絶する。のみならず、さらにすすんで、あらゆる先入見、あらゆる予見的公式化を退ける」
と、Kの排除するものとして、さまざまな事例を列挙している。そして玉城氏は結論においても述べる:
「以上、五つの項目に分けて、クリシュナが拒否している問題を述べてみたのである。第一は寺院・教会・モスクなどの建造であり、第二は『バガヴァット・ギーター』や『聖書』などの古典であり、第三は信仰であり、第四は冥想・禅・マントラなどの宗教的実践の作法であり、そして第五は分析心理学である。これらを通観してみると、宗教に関わるすべての伝統、並びに、いかなる意味でもの先入見であり、いいかえれば、宗教に関わる形あるもの(心像をも含めて)はことごとく排除されているということができよう」
  これらは、'The first and last freedom' 'Beyond Violence' 'Freedom from the known' 'The impossible Question' といったKの著作からの要約として示されるのであるが、この列挙自体、すでにある種の「予見的公式」に陥っている。まず玉城氏の考える否定対象が問題である。氏は、このように聞き手に成立していることに依らずに排除されるものを列挙し、自立論証的なアプローチをとっている。有情を流転に束縛する生来の我執、無明の妄想している対象ではなく、知的に構想された対象のみを排除しているかのような要約、紹介をしている。すでに充分にKらしくないのであるが、玉城氏の記述を辿りつつ、代表的な誤りを指摘しよう。
   p.376において玉城氏はKの言葉を要約する:
「・・・あるいはまた、仏教の禅によって解脱が達成されるという。インドのある箇所や日本に旅して、訓練のために数年を過ごした人もあり、想念を越えたあるものが覚知されている。しかし、これもまたトリックであり、愚かな行為である。クリシュナ自身も、いわゆる宗教経験をしばしば得たことがあった。しかし、よく反省してみると、こうした超越経験は、結局「自己」を強化するのみである。その経験に専入すればするほど、「自己」は強まってくる。そして、ついには、人格・智慧・信念の強化となり、人々から隔絶された孤独の道を辿っていく。'The first and last freedom' のp.77 から 79 の要約」と述べている。
  玉城氏によればKはいかにも不遜傲慢な人である。なぜなら、想念を越えたあるものが覚知されていると言いながら、何の理由も示さずに外側から、これもまたトリックであり、愚かな行為であると決めつけているからである。そしてまた、自分自身もいわゆる宗教経験をしばしば得たことがあったなどと自認するほど慢心がありながら、その因縁を究明してそれを滅尽させるのではなく、過去の経験を反省してみて、それも結局「自己」を強化するのみであるといって、部分的なもののみを断罪し、排除しているからである。玉城氏には論証の妥当性はどうなのかといった意識がないようであるし、さらに、智慧と知能、知力との区別もないようである。智慧は、Kにおいても仏教においても、自己とすべてのものごとが関連しあっていて(縁起しており)、関連のうえにのみ成立するのであり、何者も何事も孤立しては存在しさえしないのであり、そのことを悟る智慧である。それが強化されることは、Kも仏陀も望むところに他ならない。玉城氏がここにおいて論拠とする 'The first and Last freedom' の pp.77-79 においてKは、私たちは今現在部分的に、たとえばビジネスのみで intelligent でありがちであるが、そうではなく integrally 総合的、統合的に intelligent であることが必要であるということ、そして、人、ものごとは孤立しては存在さえもできないのに、経験によって強化された我執からそれを追求しようとすると、闘争、破壊に至るということを、述べている。そういう部分的のみに intelligent であり、総合的な知見を欠くために、自他の破滅に至るほどのことは、世間の言説からしても、智慧があるとは言えない。「人々から隔絶された孤独の道を辿っていく」といったこと、独我論は、世間からしても不可能であると示されている。にもかかわらず、玉城氏はそれが可能であるかのような要約を示している。同じく、結局自己を強め、人を孤立させ、闘争と破壊に至るようなものが、そもそも超越経験であるなどということは、世間の常識からしても否定される。いずれにしても、玉城氏は世間の義に関して誤っているのであり、引用が杜撰である。
  p.377 の第五の否定対象として分析心理学が挙げられている部分では、玉城氏はKが分析心理学における意識と無意識の区別を批判し、その「区別が人為的なものであると頷かしめようとしている」と言及している。しかし、ここにおいても顕著なことは、Kが非常に微妙に言葉を用いて言語と認識の問題に深く入り、意識と無意識の区別が恣意的で人為的であることを立証するなかで、時間、認識、意識が無自性、空であることを、含意として説明としているにもかかわらず、玉城氏がそれらの微妙な含意を全く削除し、問題を「分析心理学の排除」として矮小化し特定化してしまうということである。これは、ツォンカパの説明を用いるなら、玉城氏が、知的に形成された(所遍計の)煩悩のみを取り扱っているのに対して、Kは生きる者たちを輪廻に拘束する生来的な煩悩、すなわちいかなるもの・ことにも存在しえない自性による存在を構築し執着せざるを得ない汚染された無明への対治(治療的対処法)として、それらの自性により成立したものごとがありえないことを知らしめるためにのみ語っているからである。にもかかわらず、玉城氏は、生きる者たちを生死流転に束縛する妄執から解放するという視点でものごとを考えないし、事実から遊離した知的な対象の善し悪しのみを云々する。すなわち、対象的認識によってのみ対象を構築し、考えるという性向があまりに強いのである。
  少し長くなるが、この部分において玉城氏が 'The Impossible Question 'の pp.163-164 より要約しているKの言葉(とされるもの)を、段落ごとに示し、問題点を指摘しよう:
  「まず初めに、なぜ意識と無意識との区分があるのか。あなたはこの区分を認知しているのか。それとも、日常生活で多くの区分を経験しているから(1)、この区分があるのか。そのどちらなのか。意識は隔離した運動なのか、深層的なものこそそれ自身の運動なのか(2)。それとも、この全体が分けられない全体なのか。このことを明らかにすることはきわめて重要である。というのは、社会の要求やわれわれ自身の衝動(3)に従って、われわれは意識的な心を訓練してきたし、教育してきたし、形成してきたからである」
  (1)は、原文は We have divided consciousness: in this division there are many fragmentation, many divisions などとあり、区分に関して、私たちがそれを造ってきたということが明言されている。ところが、玉城氏は、まるで区分が自然に因もなく本来的に存在していて経験されるとか、外部の心理分析家が私たちに課した区分のみが、存在しているかのような記述をしている。この文章は「日常生活で多くの区分をするから・・・」または「日常生活で多くの区分をしてきたから・・・」でなければならない。玉城氏は後に「業異熟」すなわち業と果報を重視して、それをKが真に実在するものとして設定しないことを理由として、Kを論難するのである。しかし、この程度の誤訳を犯し、なすものとなされるものの設定に気づかないようであるなら、人のことを言う前に自分自身を非難したほうがよい。
  (2)は、「深い諸層 deep layers には、それ自体の運動があるのか」でなければならない。玉城氏の翻訳は、意識を「深層的なもの」へ還元しようという態度、表面的なうつろうもの・ことを、論理的精査に耐える確固たる実在物に帰着させようという態度である。これは、アーラヤ識としての「業異熟」の設定をほとんど絶対的に必要とする氏の解釈と軌を一にする。しかし、勝義と世俗に通暁し、世俗のものごとを世俗のすがたのままに立論することのできる人にとって、そういう還元主義は不必要なだけでなく、有害である。
  (3)は、「われわれ自身の衝動、攻撃性」でなければならない。ここには、「 violemce 暴力」を「荒々しさ」と翻訳する態度、私たち人間の攻撃性を見落とす態度といい、いかにも粗暴さを嫌って見ようとしない主知主義の態度であるが、翻訳者が勝手に付加したものにすぎない。

  「さて、無意識的なもの、深層的なものは、教育されないのか。われわれは表層的なものを教育してきたが、深層的なものを教育しつつあるのか。或いは、それはまったく触れられないのか。どうなのか」
  ここでも前の段落の(2)で述べたことが妥当する。 the unconscious を「無意識的なもの」、deep layer を「深層的なもの」、superficial layer を「表層的なもの」と不正確に翻訳するのであるが、この態度は、後で玉城氏がp.389 において、アビダルマ仏教を取り上げてそれと比較対照するなかで、「あるとおり事実の観察・理解としての」教義が「定型化され概念化されて、それ自体が修道の対象になってくる・・・たとえば『倶舎論』のなかで、苦集滅道がさらに四つの観念に区分・並置されて、観察の対象となっている」と述べていることに関連する。玉城氏は、自分自身が述べているとおりに、氏自身によりKの言葉が定型化され、概念化され、原語をも無視して「表層的なもの」と「深層的なもの」とに区分・並置されて、観察対象とされている。玉城氏は、このアビダルマの小乗仏教の教理に関して、「あるがままの観察・理解としての」教義が、このように教理として権威化され定型化されてきたことは、ブッダの趣旨には沿わないのであり・・・クリシュナの・・・採らざる所であろう」と述べている。それを応用するなら、玉城氏の要約は、Kの趣旨には沿わないのであり、Kの採ざるところである。氏はすでに第一段落の(1)において自らが不注意にも犯した過失もあって、恣意的な区分を行いつづけ、ここにいたって自己矛盾、撞着に転落していることが顕わになった。氏の要約にはこれ以降も、「表層的なもの」と「深層的なもの」、「かくかくのもの」と「しかじかのもの」というこの恣意的な区分・並置が続出しつづけるし、さらに不注意と思われる欠落もあるが、それらはこれ以降、()のなかで補正する。さらに進めよう:
  「深層的なもの(「深い層」に訂正)のなかに、新しいものを見出す源泉があるかも知れない。というのは、表層的なものは機械的になっており、条件づけられており、繰り返されるもの(反復的であり)、模倣的なものだ(模倣的である)からである。そうしてみると、驚くほど素朴で純真な深層のなかにこそ(1)、何か新しいものの源泉があるかも知れない。逆に(2)、意識の全内容はまったく機械的なのか」
  (1)「こそ」とあたる言葉は原文には存在しないし、存在してはならない。この「こそ」は、直前の「深層のなかに」を強調し、それ以外のもの、すなわち「表面的な層」を排除するという意味であり、「表層的なもの、表面的な意識ではなく、深層にこそ」という含意となる。玉城氏の翻訳では、すでに以前の段落で「表層的なもの」と「深層的(なもの)」を二つに区分、並置したうえに、うつろう表層を実在する深層に還元しようとする態度が見られることを指摘したが、この「こそ」という付加もそれである。
  (2)「逆に」は、原文の or の翻訳であるが、意味的には不適切である。「それとも、深い層にも教育がふれてきたのであり、ゆえに」と訂正すべきである。玉城氏は、すでに指摘したところの区分・並置を恣意的に行ったうえに、(1)のように「深層(的なもの)にこそ」と一辺に走るかと思いきや、「逆に」とたちまちそれを翻してその対極に走る。主題を二者択一的に限定して、両極端に振り回したうえに、しかも氏自身が言うように「単に思想的に説くのではなく、聴衆に語りながら質問を投げかけつつ、聴衆とともに探求していく。最後まで質問の形でとおし、答えは聴衆にまかせる」(p.377)のであるなら、氏自身が繰り返し言うとおり、論理的な筋道がはっきりせず意味が不明瞭であるのも当然である。しかし、これはそういう誤読をする人の自業自得である。有の辺(極論)と無の辺(極論)という両極端に転落したから、そうなってしまっただけである。

  「すると聴衆のなかから質問が起こった:
どうしたら無意識的なもの(「無意識」に訂正)について知ることができるでしょうか」
「では、知るということだけに限定してみよう。単に言葉としてではなく、注意深く入ってみなければならない。いったい、知るということはどういう意味なのか。たとえば、『昨日おこった或ることを私は知っている』、『昨日私はあなたに会ったから、私はあなたを知っている』。そうしてみると、知るという結果のすべての知識は過去のものであり(1)、知るというそのことは、或る時間帯のなかにあることが分る。もう一例を挙げると、『それは飛んでいる飛行機である』と私が知るとき、飛んでいることはこの瞬間におこっているのが、それが飛行機であるという知識はすでに過去のものである。表層的な心(「表面的な心」に訂正)がどうして深層領域(「深い層」に訂正)を知り得ようか」
  この部分をKの原文 'The Impossible Question' に照らし合わせて、筆者なりに要約し、提示すると次のようになる。
  「知るというそのひとつの言葉にしてください。他の言葉を導入しないでこれに入ってください。知るという言葉はどういう意味なのでしょうか。たとえば『昨日おこった或ることを私は知っている』、『昨日私はあなたに会ったから、私はあなたを知っている』と言います。知るという知識は過去であり、知るということは、或る一定の時間帯のなかという意味あいです。もう一例を挙げると、『それは飛んでいる飛行機であると私は知っている』と私が言うとき、飛んでいることはこの瞬間におこっているのが、それが飛行機であるという知識はすでに過去についてです。表面的な心がどうして深い層を知りうるのでしょうか」
  どちらも要約なので、問題はあるが、玉城氏の翻訳で第一に着目されるのは、Kが言葉の問題、言語と認識と存在との関係を微妙に取り扱っているのに対して、玉城氏はそのあたりのことをすべて無視し、削除してしまうということである。Kにおいては「知るという言葉は・・・」などと述べているが、玉城氏は「単に言葉としてではなく」などと述べている。すなわち、Kにおいては、言語的仮設、名づけがすなわちものごとの存在を意味するが、玉城氏によれば単なる言語的設定は、名づけは、ものごとの非実在という意味でしかない。氏は論文中でしばしば対象的認知あるいは対象への執着の問題を取り上げるし、もう一つの論文「クリシュナムルティの世界」ではそのことこそを理由としてKを批判している。にもかかわらず、自分自身が対象的認知の態度に耽溺し、対象の実在性を固執したうえに、そういう自分の作為を忘れて、Kに転嫁しているのである。
  執着のもう一例が、of the past (過去の、過去について)という語句をすべて「過去のもの」と翻訳し、...implies within a certain period of time を「或る一定のなかにある」とすることである。時間の流れを自明のものとして、その時間帯のなかにおける知るという作用の存在という全くの世間的言説に転落しているのである。それに対してKは、知るということがすでに時間のなかということを含意すると述べている。言い換えるなら、知るということが成立するなら、時間が成立すると述べているだけである。Kは時間に自性による成立を認めていないが、玉城氏は時間に関して自性による成立を、なぜか自分勝手に決め込んでおきながら、それを他者に転嫁しているのである。

    2 冥想すなわち宗教 p.378
玉城氏は、Kのいう真の宗教について、「宗教に関するいかなる観念を捨てること」、「完全に心を空にすること」「自然、環境、人間関係、自己自身について、悲喜の感情を離れて、その『ありのままのすがた ”What is”』を、そのとおりに観察し、理解していくことである」であると要約し、さらにKの文章を引用しながら、説明を加える。ここでは、最も顕著な問題点のみを指摘しよう。
  玉城氏の要約において注意すべきは、 ”What is”という語句の翻訳である。この語句は直訳すれば「有るもの」「存在するもの」であるが、この語句は、 is という be 動詞が存在を意味すると同時に、それが単数形で示されているように、現象世界の多種多様さを意味するのではないところに特徴があり、翻訳のむずかしさがある。「あるがままのもの」といった翻訳をする場合もあるが、「あるがままのもの」という言葉の、本来的に存在する事物という含意が、ものごとは関係においてのみ存在するとか、孤立した存在はありえないということに抵触すると思われる場合には、「あるがまま」といった訳語が使用される。玉城氏の訳語「ありのままのすがた」は、本来的に実在する事物の形象といった含意があり、そこに問題を含んでいる。
  玉城氏はp.379 において、「・・・生活の中の行動的な事実観察こそ、冥想であり、宗教である、とクリシュナは強調する。そして彼の立場はここに尽きると考えられる。この点に立ってみれば、すべての宗教行事、古典、集中としての冥想、マントラの唱念など、ことごとく排除された意味がようやく明らかになってくるようである」といって、自分の得意の分野に入ってきたといった口振りであるが、さらに「しかしながら、振りかえってみえれば、あるがままのことをそのとおりに観察するということは、けっして生やさしいことではない。そのためには、きわめて慎重な態度が要求されるのは当然である」と述べている。Kはそれらを否定するとき、きわめて巧みに勝義と世俗を、特にそれらにおいては世俗を立論しているのであるが、玉城氏はそれに気づかない、またはそれを無視するために、無意味な虚勢を示す。これは 'Beyond Violence' より原語を示して説明される:
  「かれによれば、『強烈に注意深い心(intensively attentive mind)』、あるいは『感覚の最高の手法(the highest form of sesitivity)』、あるいは『恐ろしい程の静寂という特性(a tremendous quality of silence)』、もしくは『異常なほどの思慮深さ(a peculiar kind of suriousness)』などを必要とするのである。それがいかに困難な態度であるかということが想像できよう」
  しかし、残念ながら、それらは原語を見ただけも四つのうち三つまでが不正確な翻訳であり、よって、氏の述べていることも見当はずれであることが、分かってしまう。すなわち、the highest form of sesitivity は「最高の形態の敏感さ」、a tremendous quality of silence は「ものすごい性質の静寂」、a peculiar kind of suriousness は「特有の種類の真剣さ」でなければならない。玉城氏の誤訳の発想であるが、第一のは what is を「ありのままのすがた」と翻訳したとき生じた罠に自らはまったのであり、諸感覚(さらに意識)の対象に本来的に住する相があることを執着したうえに、こちらからむこうへと何らかの連続性を考えて form (形態)という単語を、それに至る「手法」と考えた誤訳である。第二、第三の誤訳も「恐ろしい程の」「異常なほど」と誤訳して、どちらも量的な程度の問題に改変しているが、それぞれ原語の quality(性質)、a peculiar kind(特有の種類)が示すとおり、程度の問題ではなく、質や種類の問題なのである。ここでもまた、玉城氏はこちらからむこうへの連続性、言い換えるなら真理へのアクセスを安直に決め込んだうえで、「恐ろしい程の」とか「異常なほどの」といったすごい形容詞を付けて、その「困難さ」を強調するのである。しかし、それは鬼面人を驚かすといったことであり、意味がない。(p.386の profound attentin を「きびしい注意力」とする誤訳、同じくp.386 の「異常なほど静かになっている」という程度を計量する記述も同じである)。こうすると、「強烈に注意深い」とか「最高の」とか形容詞もまた、自己の知に驕った慢心である。それに対して、「最高の形態の敏感さ」、「ものすごい性質の静寂」、「特有の種類の真剣さ」が覚者により世俗諦として立論されるときは、すでに勝義諦への悟入が生じつつある。玉城氏は、龍樹が『根本中論』第二十四章にいう、自性空であるときにのみ生滅が成立するし、四聖諦などもよく成立するということを考えないから、こちら岸から向こう岸への連続性を決め込んだうえに量的ないし程度の問題、難行苦行の問題にすり替えるという非常に虚しいことを、行っているのである。

    3 心の構造 p.382
        a 二つの視点p.382
    b 両者の関係p.385
玉城氏はまず、「a 二つの視点」において、「クリシュナが思いめぐらしている心の構造について考察してみよう」といって、「一つは心の現実のありのままのすがたであり、もう一つは観察の結果顕わになってくる身心の本来のすがたである」として、Kの言葉を要約し、紹介する。玉城氏は、「しかしながら、このような構造を浮き立たせて明らかにすることは、けっしてクリシュナの本意には沿うまい。そのためにかえって構造の方に捕われて、本旨の事実観察がなおざりになるからである」と述べて、この二つの視点への分析が「事実観察へ越えていくための、理解の一つの踏み台であることに十分注意を払いながら、この問題を考えてみたい」と述べて、要約、紹介する。それらは氏の結論によれば、「一つは現実のすがたであり、苦・楽・葛藤、混乱、無秩序、分裂・崩壊などで充満している心であり、もう一つはそれとちょうど対照的な本来のすがたであり、しかもそれは身体と調和せる心である。きわめて感受的かつ知性的であり、健康で歪みなく、それ自身に点火されたともしびである」。
  そして、「b 両者の関係」においては、あることとなりゆくことの決定的な違いなどを手がかりとして、一方から他方への移行を説明するのである。そして結論として、「結局、両者の関係は、心の現実のすがたを歪みなく、好き嫌いなく、あるがままに観察することが、心の本来のすがたの顕わになってくる唯一の道であるということに尽きると思われる」と述べるのである。
  しかし、玉城氏がその「心の本来的なすがた」として述べていることを見るなら、不可解である。玉城氏はそれに関して 'Beyond violence’から紹介する。たとえば同書のp.49を要約し:
  「それは単に心だけではなく、もっと心情を含んでおり、さらに進んで、身心関係の全本性のに及んでいる。この全本性は、高度に感受的であり、しかもその感受性は、同時に知性を含んでいる、という」
またp.50 を要約し:
  「さらに、身心関係のなかの、身体についてもまた、それは驚くほど感受的、かつ生き生きとしており、身体自身にも知性がある、という」などという。
  しかし、原文を読めば分かることであるが、Kはそれらを「心の本来的なすがた」として述べているわけではない。前者の場合には、自分自身の希望、恐怖の投影ではないもの、ずるがしこい心が考案したり、私たちの強烈なさびしさから生まれたのではないものがあるのか、ないのか(強調は筆者による)をどんな他者にもよらず自分自身で見出すために当然必要とされる心として、提示されている。後者の場合には、自己欺瞞や自己催眠への逃避ではない冥想のために生活の基盤として身体的エネルギーとともに必要とされる秩序ある状態として、提示されている。他の何かのために必然的に要請される心の状態が、いったいどうして、心としての「本来のすがた」だと言えるのであろうか。例えば、学校に遅刻しないで行くためには、朝寝坊をしてはならない。学生からすれば、「朝寝坊をしてはならない」ことは「本来の姿」なのかもしれない。しかし、それは学生という身分を前提として成り立つことである。赤ん坊や老人や病人を含めて、万人が「朝寝坊をしてはならない」ことが「本来の姿」であるというわけではない。しかも、Kは筆者が強調した部分から分かるとおり、探究されるものにさえ、本来的な存在はないかもしれないと、述べている。よって、玉城氏のやっていることは、氏自身の自戒や注意にもかかわらず、「自分自身の希望、恐怖の投影、ずるがしこい心が考案したり、私たちの強烈なさびしさから生まれたもの」の類にすぎないし、そういう氏にあっては、自分自身で見出すことも自己欺瞞や自己催眠への逃避ではない冥想もありえないということが、推測されてしまう。このように、「あるがまま」と「あるべきもの」を弁別しながらも、「あるがまま」に自相による成立を認めることは、もうすでにそれを自明のもの、「あるべきもの」と決め込んで固執していることなのである。
  さらに、玉城氏はp.384 において、Kの述べる心と身体との偉大な調和に言及し、「その心こそ宗教的な心であり、事物を直接的に注視し、無媒介的に理解することができる、したがって、それ自身にともされた光であって、けっして他によってともされることはない、というのである」と要約、紹介する。さらに玉城氏はそれをさらに「それ自身に点火された光」と呼び、後にp.393 などでもそういう本来的存在、「時間を離れた光が顕わになる」ことに関して議論を展開する。
  しかし、p.384 で論拠となった 'Beyond Violence' の p.125 の原文を見ると次のようになる:
  「そういうのが、宗教的な精神です。なぜなら、それはそれ自身にとって光であるからです( becouse it is a light to itself. )。その光は、他によっては灯されません(Its light is not lit by another)。他によって灯された光は、たちまち消されうるのです。そして、私たちの信念、教義、儀式のほとんどは、宗教的な生活とはいかなる関わりもない宣伝の結果です。宗教的な精神はそれ自身にとって光であるし、ゆえに、賞罰はないのです( therefore there is no punishment or reward )。」
  よって、玉城氏の紹介は部分的にしか正しくないことが、分かる。この光は、ものごとを直接的に見、無媒介に理解することのできるという文脈で示されているのであり、自他の信念、教義、儀式などという権威によらず、自己にとってものごとすべてを照らし出して見せ、理解させてくれるところの光という意味である。「自分自身にとって光」と翻訳されるべきである。そして、Kは、その光は他によってはともされないという。しかし、玉城氏の提示する「それ自身にともされた光」や「それ自身に点火された光」という訳語は、外的なものごとを極端に切り捨てた恐ろしく内省的、内向的な存在であり、意味をすり替え、誤解を奨励するものである。
  それに対して、Kの述べていることは当然ながら、仏陀の「自灯明、法灯明」の教えを思い起こさせる。すなわち、仏陀をも含めていかなる他者にも依存せず、合理的に思慮し判断する自己を拠り所とすべきであり、師である仏陀の不在にあっては、教えられた真実である法を拠り所とすべきであるという教えである。もちろんそこで、「灯明」と翻訳されている原語 diipa は、学者によれば、「灯火」と「島、中洲」という二つの意味があり、「自灯明、法灯明」という場合には後者の「島、中洲」という意味であるという(たとえば、中村元『ブッダ最後の旅』岩波文庫p.231)。すなわち、輪廻の生存を大洪水にたとえて、そのなかで依るべき所としての島、中洲という意味であり、他者ではなく自己を拠り所とし、仏陀の不在においても仏陀が悟って説いた法を拠り所とすべきであるというのである。しかし、いずれにしても、ものごとを他に依らず自己で直接的に見、無媒介に理解する能力に言及しているのであり、それに関しては違いはない。Kがその直前で、いかなる団体、組織にも所属しないことを強調しているとおりである。
  しかるに、玉城氏は、この光についてそれ以降、そういう意味とはすっかり切り離し、その真理の光の顕現をさかんに問題にし、氏自身のお好みの、「全人格的思惟を営みつつある主体者に顕わになる形なき純粋生命」という形而上学的な存在と結びつけ、その顕現の達成を究極的な事態として議論を繰り返す。自他の権威からの自由ということは無視されて、そういう極度に内省的、内向的な光、いいかえれば公的な立証を欠如した光に、権威性が付与されてしまう。しかも、そういう操作、歪曲を行ったうえで、玉城氏はp.405 などで「しかしながら、かれの主張するとおりに、いかに慎重に注意深く、事実の観察・理解に専念しても、第三者(ここでは筆者 [すなわち玉城氏自身] )にとって、クリシュナの説くような世界が実現してこない」などと述べている。氏の「かれの主張するとおりに、いかに慎重に注意深く、事実の観察・理解に専念しても」という言葉は虚偽である。「かれの主張するとおりに」どころか、むしろ「かれの主張するところを自分自身の先入観や定式に合わせて改変して」いるのである。そのことは以下にも示すであろう。氏は自分で文章を歪曲し、有所得の立場を固執するから、問題の 'Beyond Violence' の文章の直前で、Kが注意していること:
  「あなたはこれらを受け入れつつあるのでしょうか。拒否しつつあるのでしょうか。受け入れも拒否もしないでください。これはあなたの楽しみ、私の楽しみではないのです。なぜなら、ここにはいかなる権威も、語り手のそれも他の誰かのもないからです」
で言う、受け入れる、拒否するのどちらかに転落して、自分自身にとっての光、自灯明にも法灯明にもなっていないことを、自ら実証しているだけである。

三 仏教とクリシュナムルティとの比較思想 p.387
   1両者の対比 p.388
玉城氏は「いかなる伝統も、また既成の見解や実践も拒否したクリシュナと、仏教との間ではたして対比・交照が可能であろうか。しかしながら、これまで見てきた所のクリシュナの諸見解のなかには、仏教の主張する所といちじるしく類似しているいくつかの点を指摘することができる」と述べて、「もっと基本の立場において両者が合致する所のものへ」の「探索もおこってくる」と述べている。そして、「はからずも思い浮かんでいることは、クリシュナは極力伝統を退け、ただみずから頷く所のみを究明しているというが、ブッダもまた同様に、一切の伝統を拒否し、みずからの実践と判断のみで解脱に到達したということである。いかなる他にも依らず、ひたすら自にのみもとづいたという点で、両者は合致しているのであり、かつそれぞれにとって、それこそが究明の原点であるということができよう」と述べる。玉城氏が権威からの自由を指摘しながら、実質的にその内容を抹殺していることはすでに指摘したが、ブッダの到達した果の境地を、単なる解脱とする点も問題である。このことは後に議論しよう。
  氏は第一に、Kが「根本見解」として「世界・環境・人間関係・自己自身について、その通りのままを歪めることなく観察し、理解することを強調」するということを挙げ、仏教におけるブッダの如実知見あるいは天台の諸法実相を想い起こして、「いずれもそれぞれの根本立場」であるとして対比する。しかし、それは氏が「想い起こす」と言っている程度の対比、文字の並置のみであり、内容的に見るべきものはない。さらに、「しかしながら、ブッダの後のアビダルマ仏教となると、事情が変わってくる。あるとおりの観察・理解としての苦集滅道が・・・定型化され、概念化されて、それ自体が修道の対象となっている」と述べて、『倶舎論』の四聖諦十六行相を列挙したうえで、「あるがままの観察・理解としての苦集滅道が、このように教理として権威化され定型化されてきたことは、ブッダの趣旨には沿わないのであり、権威や概念の一切を排除するクリシュナのもとより採らざる所であろう」と述べるのであるが、なぜ定型化、概念化、権威化することが問題なのかについての考察は一切ない。それらの罠に自ら転落しながら、全く気づいていない氏が、この問題に関して何ら語るべきものを持たないのは、当然である。
  第二に、Kが「心を空にする」と述べていることに言及し、「『心を空ずる』とか『心が静寂になる』ということは、もとより思想や理論ではなく、生活の中の実践である」と述べ、さらにブッダの空または空性の見解に言及し、「空あるいは空性の所見もまた、生活や禅定の中で展開している」ことを、南伝の中部経典の『大空経』などによって議論し、「かくして、空もしくは静寂という点で、クリシュナとブッダとは基本的に一致しているといい得るであろう」と述べるのである。
  しかし、玉城氏の考える空とは、空にすることとしてのみであり、本来的に空である自性空ということは全く考えられていない。このことは、無自性空を含意するKの言葉をすべて改変してゆく氏の態度として、すでに見てきた。したがって、氏は「ただナーガールジュナの『中論』は、ブッダにおける空の実践的意味の理論化されたものであり、クリシュナの趣旨には合わないと考えられる」と述べるのみであり、その根拠も何も示されないのである。
  ちなみに、ブッダ生誕二千五百年の西暦1956年にインド政府から招待されて、インド各地の仏蹟を巡礼中の若き日のダライラマは、マドラスに滞在中にKの話を聞いて、一言「龍樹のような人だ!」と言って、側近の意見も無視して直ちに会いに行き、会談からの帰途で「偉大な人だ。大した体験だ」と述べたという(Pupul jayakar 'Krishnamurti A Biography' p.202)。玉城氏のとは、正反対の見解である。チベット仏教、特にダライラマの属するゲルク派における「龍樹のような人だ!」という発言には、われわれが考える以上のものがある。我が国でも龍樹または龍猛は八宗の祖と言われ、すべての宗派において開祖として崇敬されるが、大乗仏教のなかでも唯識思想を未了義、中観思想と了義と見るチベット仏教全般にあっても、ツォンカパに始まり具足戒を受けてきびしい出家、学道の生活を送るゲルク派では、それがさらに徹底していて、顕教は龍樹の中観思想、またはそれと親密な関係にある般若思想に始まり、終わりと言ってもいいほどである。そのうえに、密教、特に彼らの誇りとする無上タントラヨーガの「秘密集会」の修法でさえも、聖者流すなわち密教行者としての「ナーガールジュナ」のものを最高とするからである。
  本論に戻ると、玉城氏は、事実観察としての如実知見に言及しながらも、道聖諦である八聖道が、有と無の二辺を離れた中道の如実知見、正見にこそ始まることには、一切言及していない。筆者としては、「すべての伝統から離れた宗教の立場」として、すべてが空であるとき、生滅、四聖諦、世間と出世間のすべてが成り立つとする述べる中観の立場が、仏陀の真意を開顕するのと同じく、Kの意図を開顕すると信じている。Kに関して玉城氏の言っていることが正しいのか誤っているのかということは、玉城氏がいかにKの語句をあちらこちらで歪曲し、自分の解釈に合致するように改変していることを見るなら、おのずと明らかである。
  第三には、Kのいう「何ものにも依存しない心」を取り上げ、「何ものにも依存しない心にとって、いかなる恐怖もなく、それゆえに心は究明することができる、という。そしてそのような心が、そのまま観察し、学習するが、学習はすなわち行動である、という」と述べたうえで、『金剛般若経』の「応無所住而生其心(まさに、住するところなくして、しかもその心を生ずべし)」を引用するが、「表現上は符節を合する。しかし、これは、必ずしも表現上の偶然の一致ではないように思われる」と述べるだけであり、何の考察もなされていない。
  第四には、Kについて玉城氏が「心の現実のありのままのすがた」と「心の本来のすがた」を捏造していることはすでに指摘したが、ここではその「心の構造に関する二つの視点が、『大乗起信論』の心真如・心生滅の二つの門と類似している点が指摘されよう」と述べるのである。玉城氏が強調したいのは、心の本来的なすがたとして、どちらにも「言葉も思想も離れている」ものが説かれているということであるが、しかし、氏自身が「クリシュナの二つの視点と、『起信論』の二門との、それぞれの区分の仕方が、必ずしも合致しているわけではない」と結論するとおり、これもまた単なる語句の羅列、並置のみである。
  第五は、いわゆる業と果報の問題であるが、玉城氏が「これはきわめて重要な問題である」と言うとおり、玉城氏の解釈では重要な点であり、次のように述べられる:
  「それはブッダのいわゆる業異熟の見解であり、この見解に類似するものに、クリシュナもまた注目しているという問題である。業異熟とは・・・無限の過去から、ありとあらゆるものと交わりつつ営んできた行為の蓄積が、いまここに実現しているところの実体である。それはもとより心だけの領域だけではなく、心も頭脳も魂も、そして身体もまた一体になっている所のものであり、いわば人格的身体とも呼ばれるべきものである。このような業異熟に類似せるものが、クリシュナの見解にも現れてくる。クリシュナについては先にも触れたように、心は、過去の荷を背負っており、その内容は、無数の諸経験の結果であり、知識や記憶の巨大な蓄積である、という」。
  ここで、一言言うのなら、そういう業の異熟は、福智の二資糧を完成して、勝義を倒錯なく証得する仏陀の立場においてのみ、正しく了解されるし、世俗として倒錯なく設定される。出離、正覚に関係のない単なる世間の雑談としては、過失なく設定されない。勝義を倒錯なく証得するには、正覚者の言説諦を正しく聞き、思い、修することが必要不可欠である。ところが、玉城氏は、業と異熟の設定がまるで近代科学の純粋に客観主義において成立する発見であるかのように説明し、勝義を悟らずとも設定できるかのように記述している。これはとても正しいとは言えない。もっとも唯識説を仏陀の了義説であるかのごとく考える玉城氏においては、そのような設定も可能である。しかし、後に述べるとおり、玉城氏には、Kまたは仏陀が達成した果の境地は、無上正等覚ではなく単なる解脱と考える傾向がある。したがって、すべてのものごとの普遍的な関係性・縁起ゆえの、生きとし生ける者たちへの大慈悲心、無限の菩薩行、廻向といった視点を欠くので、大乗仏教の唯識説と言いながら、理想主義の全くない単なる観念論に転落している。さらに、玉城氏には「如是我聞」という声聞的な謙虚な態度もなく、自己の先入観にあうように人のことばを改変するのであるから、どうしようもない。「業異熟」など仏教の用語を用いながらも、その意味するところは非仏教的であると言わざるを得ない。仏教においては、玉城氏が言うように、過去の業すなわち行為の果報として現在の人間存在があるというだけではない。そういう主体のそれは有情世間と言われるが、それだけでなくもっと広汎に、外的な環境世界いわゆる器世間もまた、有情の過去の業による果報であるというのである。こういう外と内との関係性、相互依存の動的な関係を無視することは、とても如実知見とは言えない。宇宙全体を含めた環境世界が、有情の業の果報であるということは、現代人の科学主義、客観主義からすれば、奇異に思われるかもしれないが、これは、道元が:
「いま人間には、海のこころ、江のこころをふかく水と知見せりいゑども、龍魚等、いかなるものをもて、水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見するを、いずれにたぐいも水にもちゐるらんと認ずることなかれ(正法眼蔵 山水経)」
と言うように、いかなる事物の存在もその享受においてその享受者の観点においてのみ成立するのであり、生きとし生けるものすべてにとって共通的に客観的に成立しているものごとなど存在しないということを理解するなら、分かりやすいであろう。
  そして、この第五の問題は、玉城氏自身がここでは多くを述べず、「問題は単に両者の対比・類似性のみに終わるのではない。ことに第五の業異熟、あるいは身心一体の見解をめぐってもっと深い課題へと向かうことになる。これは両者の対比から、さらに交照へと進むのであり、しかもこの路線には、筆者自身の主体性の問題が必然性にかかわらざるを得なくなるのである。けだしこの論稿における最重要の課題となるであろう」と言うのであるから、次の節に譲ることにしよう。

   2クリシュナムルティの問題 p.393
a クリシュナムルティの基本見解に関する疑問
玉城氏は、Kの著作にはさまざまな問題が論じられ、無数の主題が取り上げられていると述べたうえで、「クリシュナの論述は必ずしも明快であるとはいえず、できるだけ筋道を立ててまとめてみたのであるが、つづまる所の基本の立場は、きわめて簡単明瞭である。すなわち、事実を事実を事実のままに観察・理解することによって、断片的な自己・人生の全体が見えてきて、言葉や思想を越えたあるもの、あるいは時間を離れた光が顕わになる、というものである」と述べるのであるが、こういう還元主義的な態度や叙述の杜撰なことはすでに指摘したとおりである。
  その上で、玉城氏は「問題は、そのような見解がかれの論述を通じて、第三者(ここでは筆者 [すなわち玉城氏自身] )に、果たして理解・体認され得るのか、否か、もし可能であるとすれば、どのように理解・体認されるか、ということである」と述べて、理解・体認の主体者としての自己を、「第一は、対象的思惟者としての自己、すなわちA」「第二は、全人格的思惟者としての自己、すなわちB」「第三は、全人格的思惟の内容がいかに表現されているか、いいかえれば全人格的思惟がいかに対象的思惟にかかわっているのかについて、評価判断するものとしての自己、すなわちC」「第四は、実際にこれら三者がつながり合っている総括者としての自己、すなわちD」と、四種類に区分して一々議論するのである。しかし、玉城氏が自己の思惟方法を貫徹するために、対象としてのKの言葉を歪曲しつづけ、それをKに転嫁しつづけていることを見てきた私たちとしては、何と虚しい議論であるかと言うほかはない。関連事項にのみ注意を喚起することにしよう。
  氏はたとえばこんなことを言う:
  「・・・Cにとって、クリシュナの論述は必ずしも勝れているということはできない。たとえば、クリシュナはすべての伝統を退け、したがって古典のウパニシャッドや『バガヴァッド・ギーター』をも無視してきた。そのかれもまた、多くの著述を世に問うている。ウパニシャッドや『ギーター』とかれの著述を並置した場合、Cにとっては、退けられたはずの前者の方がはるかに微妙に感応してくることを否定することはできない」
  Kの言葉を自己に感応するように改変しつづけてきた人の感想としては、当然のことである。私たちはここで、仏教者の皮を被ったアートマン論者、梵我一如論者の感想など聞く必要はない。ただ、何が否定され肯定されるのかに関して、チャンドラキールティ、ブッダパーリタ、ツォンカパという真の仏教者の次の言葉を、少し長いがそれぞれ引用しておくのみで十分である:
  「論における考察は、論争に愛着せしめるためになされるのではなく、 [生来の我執、我所執によって輪廻し苦しむ有情を、苦から] 解脱せしめるために、真実を説くのである。もし真実を解説するとき、対論者の本典が破滅するならば、[われわれには] 過失はない。自らの見解に愛着し、同様に対論者の見解に激怒するそれが、分別というものである。     (入中論第六現前地第118〜119偈 小川一乗『空性思想の研究』)」
  「縁起(関係における存在)を説くことには、どういう意図があるのかと言えば、答えて言う。大悲をその本性としたまう軌範師は衆生が種々の苦に悩まされているのを御覧になって、彼らを [苦から] 解脱させるために物事の真実を顕示しようと思われ縁起をと説きになったのである。『真実ならざるものを見ることは結縛であり、真実を見ることは解脱である』と説かれているからである。物事との真実とは何か。答えて言う。無自性であることである。愚癡の闇に眼を覆われた愚者は、物事を自体があるものと分別してそれらに欲望(貪欲)や怒り(C恙)を生ずる。けれども、縁起を知る明かりによって愚癡の闇が除かれて、智慧の眼によって物事に自体がないことを見るそのときに、[物事の自体という] 所依所はなくなって、それに対する欲望も怒りも生じなくなる。             (根本中論・仏護注  小谷信千代、ツルティムケサン『仏教瑜伽行思想の研究』p.95)
  「このように、中道論者が言説として自らの教義を設けて、生死・涅槃を立論することと、実有論者が自己独自の考え方としてさまざまな対象の言説的存在を仮設することを否定する道理とは、この二つはきわめて難解であるから、[世俗諦と勝義諦という] 二諦の立論を無倒錯に理解することは、ほとんど皆無のようである。なぜなら、実有論者の考える世俗的存在を否定するには、論理の考察をなして否定すべきである。しかし、自分が世俗として生滅などの存在を認めようとするときにもまた、分別ある者が [それを] 認めるのか認めないのかということが、[それを] 成立させるのかさせないのかということであり、それはまた論理に順ずることによるものと考える。こうして、論理をもって観察し、自らが認めるところの世俗的なものと、実有論者が構想するところの両者は、論理によって損傷されるときは同じく損傷され、損傷がないときはどちらも損傷されないと考えるにいたる。そしてさらに自在天や自性などが言説として存在しないと言うならば、色などもまた存在しないと考えなければならないし、またそれが言説として存在するならば、自在天などもまた存在すると認めるべきで、二者同様であると考え、そしてどんなものごとに対しても自分の宗としては正しい、正しくないとの認識、認知がなされるべきではない、これが中道論者の真実の意味に達することであると慢心する。このような理解にしたがって何ものも知るものは得られないと立てて、それが見を清浄にし義を修習することであると解するものは、きわめて多いように見受けられる。しかし、以上のような考えは智者を悦ばせるものではない。前に述べたとおり、論理による否定対象を正しく把握しないで、自性を否定する論理でもって言説として立てられたすべてを破壊するのであるから、正見と邪見について、一が誤りなら他も誤りとし、一が正しければ他も同じく正しいとするところの、大いなる倒錯の見であるからである。ゆえにこのようなものを長期、修しても、少しも正見に近づけないだけでなく、かえってはるかに遠ざかるのである。それはすべて生死と涅槃との縁起を立論するところの、自宗 [すなわち仏教] としてふさわしい縁起の道と、きわめて矛盾することになるからである。」(長尾雅人『西蔵仏教研究』p.172)
  したがって、仏教仏教と言いながら、縁起の道、有と無の二辺を離れた正見、中道に一切言及しない玉城氏が次のように告白することは、当然の結果である:
  「では、Dにとってはどうであろうか。これが最も重要な問題である。遺憾ながらその論述は、Dにとってまったく不可能であることを告白しないわけにはいかない。そのまとめられた筋道から基本見解に至るものに、いかに専念し、いかに心を砕いても、どうしても理解から体認への扉が開かれてこないのである。クリシュナもまた、すでに触れたように、「異常なほどの思慮深さ(玉城氏のこの訳が誤りであることはすでに指摘した)」「強烈に注意深い心」の必要であることを強調する。しかし、その「思慮深さ」は、自己を統制するとか、あることに向って自己を訓練するとか、そういう手法とはまったく異なっていることも、かれの主張するとおりである。ひたすら、事実を事実のままに観察・理解することに尽きるのであり、その行為に驚くべきほどの慎重さを期するということである(これが誤りであることもすでに指摘した)。そうすれば、分断されている自己・人生の全体が見えて、時間を離れた世界が顕わになるというのである。しかしながら、いかに慎重に思慮を払っても、クリシュナの主張するように、言葉も思想も越えた光はともってこないし、心は静寂に帰することができないのである」
  ここでも私たちは、Kが「最初の一歩が最後の一歩である」とよく述べていることの真実を、思い知らされる。玉城氏は最初の一歩を誤っているから、どれほど努めても、自己の先入観に慎重を期するだけであり、誤りが出てくるだけである。
  しかし、氏は自らの誤りに気づかないから、「それは、いったいなぜであろうか」と問いを立てて述べる:
  「クリシュナも強調する所であるが、心が静まるのは、表層的な意識だけではなく、深層的な無意識にまで及ぶ。それは過去のすべての記憶・経験の蓄積している領域である。この領域は、すでに対比したように、ブッダの業異熟に比定される所に他ならない。このような人間存在の果てしなく深い記憶・経験の堆積が、単に事実の観察・理解という程度で一掃されうるものであろうか。どれだけそのことに慎重を期しても、観察・理解は表層的意識より深まることはありえないであろう。クリシュナ自身は、そのような観察だけでかれの目指す目標を達成したのであろうか」
  氏は自問しながら、直ちにKの神秘体験、冥想三昧の生活に答えを見出して、跳びついてしまう。それが次節の主題となるが、ここでは次のように述べられている:
  「実はそうではないのである。かれの著述には現れていないが、その根本見解を裏づける人生経験の経歴が背後に渦巻いていることが知られる。そこから逆観して著述を見ると、背後の過程は切り落とされて、ただ結果として達し得た境地のみが事実観察としてまとめられたものであることに気づくであろう・・・」
  これもまた誤った思考法である。このことは、いわゆる教師の握り拳のある、なしを信ずるのかどうかという問題である(注 仏陀は自分はすべてを分け隔てなく語ったのであり、握りしめて隠匿した秘密の法など存在しない、なぜなら、自分は修行僧を導いているとか彼らは私に頼っているという思いがあるなら、以前に誰にも話さず隠しておいて、死の前に特定の弟子にのみ語ることがあるであろうが、そういうことは一切ないから、と晩年に述べた。cf.中村元『ブッダ最後の旅』岩波文庫 p.61)。この問題とその含意に関しては、次の節における玉城氏の記述を見ながら議論することにするが、ここでは次の経典の意味を考えておくのもよいであろう − 智慧第一の舎利弗が、賢者聖者の三昧、根本、備えるべきものとは何なのかを問うたところ、仏陀は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念であると答えられて、これらの正道の七つの支分という拠り所の行為をなしおわると、心は一つに安定し、第八の支分として三昧すなわち正定が実現されると答えられた(『雑阿含経』第二十八巻 cf.『国訳一切経 阿含部二』p.574)。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念はすべて、生活の行為、作用という事実の観察・理解のみである。いかなる行為、作用であろうと、そのままに観察・理解されなければならない。それができたとき、心は安定し、三昧に入る。したがって、玉城氏が、事実の観察・理解を放っておいて跳びつくような冥想三昧への専念は、八正道の正定に当たり賢者、聖者が修する禅定ではなくて、単なる世間的な禅定なのである。また言い換えればそれは、あらゆる行為、作用という事実の観察・理解を欠いて、ゆえに人間関係における妥当性をも欠いているから、単なる逃避としての自己催眠や自己欺瞞である可能性さえ有している。これでは後に氏が強調する、業とその果報の設定という点に照らしても、過失がある。
  しかし、ここでは確かに、事実の観察・理解のみでKのような状態に至ることはありえないと言えるであろう。けれども、このことは、玉城氏が言うように事実の観察・理解のみではなく冥想三昧に専念するなら、それが実現できるということではないのである。龍樹が『宝行王正論』に言うとおり:
  「声聞乗には、菩薩の誓願と行道と廻向とが説かれていません。したがって、この声聞乗によって、どうして菩薩となりえましょうか。
  (声聞乗には)菩薩が菩提(=正等覚)正覚を得るための(、真理への決意、施与への決意、煩悩滅尽への決意、智慧への決意という四つの依るべき)依が説かれていません。いったい、ほかのだれが勝利者(=仏陀)を凌駕して、このことに関して権威となりえましょうか。
  (四つの)依、(四)聖諦、(自他の)利、(七つの)菩提分をそなえている道が声聞の道と共通であるならば、それによって、だれが仏陀というすぐれた果報を得ましょうか。
  (声聞乗の)聖典のなかには、菩提(=正等覚)への道を実践するために説かれたことばはありません。しかるに、大乗には説かれています。それゆえに、賢者たちによって大乗が受持されるのです」
                    (瓜生津隆真『大乗仏典14 龍樹論集』p.299)
  まずここでは、玉城氏自身が単なる小乗的、声聞的な解脱と仏陀の無上正等覚を全く混同していること、したがって、正覚を、きわめて内省的、内向的でゆえに妥当性さえ疑われる光の顕現の問題に還元したうえで、正覚者の出現のための無限の慈悲の行いを全く捨て去っていることが、問題なのである。しかし、Kは、事実の理解・観察といっても、他者との関わり合いという外的事実を排除して、内的事実に専念しているわけではない。そして、自己が他との関係においてのみ成立しうるのであり、他者もさらにそうであっていかなる例外もないという事実を広く深く理解するとき、それは、普遍的な大慈悲を含意せざるを得ない。龍樹が上に述べる小乗の解脱のための道と同時に、菩薩の誓願と行道と廻向という正等覚への道となるものを、Kは同時に説いている。これがKの教えが際だって勝れている所以である。
  Kは、神智学協会が作り上げたもの、星の教団などをすべて拒絶して出ていったが、世界教師であることはけっして否定せず、むしろその世界教師という言葉の持つ権威の妥当性、それを考える人における意味を問いはじめたのであった。彼はまた世界教師について、「人類の涙が世界教師を造り出した」と語ったという(映画 'With a Silent Mind'」)。これもまた、苦からの解放を求める人類が救済者として「世界教師」の存在を作り上げたという意味と、大悲を因として世界教師が出現したという意味を、一言で表現した含蓄深いことばである。筆者としても、Kが直ちに無上の正等覚を成就したとは言わない。なぜなら、Kが何ものなのか、またそれが何を意味するのか、そして無上の正等覚が何なのかを、正確には知らないからである。しかし、大乗の菩薩の十地においても、菩薩が聖者となる第一歓喜地においてさえ、部分的には無分別智、法身が成就されると言われることを考慮するなら、無上の正等覚は、行道の最終局面においてのみ成立するのではないことが理解されるし、単なる解脱と無上正等覚との区別はやはり重要であると言えるのである。

b 基本見解にある人生経験p.395
α 最重要の宗教経験p.396
ここでは、玉城氏は Mary Lutyens によるKの伝記に全面的に依拠して、Kが目標を達成した背後の事情を説明しようとする。そして、彼の十五歳、十七歳、そして二十七歳のときオーハイで始まりその後三年間断続的に続いただけでなくさらに五十歳をすぎても名残が見えるような「宗教経験」に言及している。そして、その最後のものに関しては、「この経験がかれの人格を根底的に転換させたように思われる」と述べて、その詳細については他の論文に譲っている。したがって、私たちもその内容はもう一つの論文「クリシュナムルティの世界」における考察に譲ることにしよう(。そこでは主に、オーハイでの初めて根本的体験に関する弟ニトヤの観察記録とK自身の記録とに依拠して、紹介がなされている)。
  玉城氏はここで述べる:
「ただ一言付言すれば、それはまったくの錯乱状態という外はなく、単に精神的な苦悩だけではなく、身体の苦痛を伴のう全人格的な迷乱と、それを抜け出ようとする志向との葛藤である。しかも、底知れぬ無意識層から噴きあがってくる抜き差しならぬ運命的なものであり、それ自体は不合理であり、無智であり、闇であり、無限の過去からの営みの絡まり合うどす黒い渦巻きである。この長期にわたる全人格的な葛藤が、後のクリシュナの著作に示されている「過去の無数の諸経験の結果」や「知識や経験の巨大な蓄積」にかかわっていることはいうまでもない。そしてそれがブッダの業異熟に比定される所である・・・」。
  これもまた粗雑な説明である。Kの経験したことは、単ある錯乱状態、心身全体の異常や疾病ではない。Kのそれらの過程、特に生理的な進展状況は、たとえば、後期密教の無上タントラヨーガの究竟次第において類似したものが見られるのであって、単なる錯乱や異常や疾病ではない。それらとの弁別はなされるべきであるし、Kも周囲の人たちもそういう態度を取っている。次節に示される資料から分かるとおりである。ところが、玉城氏には単なる混同が見られるのみである。氏の高く評価する唯識説の『摂大乗論』(増上慧学分第九の一)でさえも、無分別智とは何なのかということに関して、それは分別、思考を欠くといっても、熟睡や気絶といった無思考ではないこと、思考の営み(尋伺)のを越えた禅定といった世間的禅定ではないこと、想と受の滅した無心の禅定ではないこと、知性もなく思慮もない物質的なものを本質とするのではないこと、真実を対象としてさまざまに想像することではないことという以上五つとは異なっていることを、丁寧に弁別している。氏の記述は単なる混同であり、何の理解にも役立たないだけでなく、誤解を助長するのみである。自分の見知らぬ事態に驚いて、思慮もない発言がなされているだけである。

β 冥想三昧と生活の中の模索p.396
ここでは玉城氏は、オーハイでの根本的経験以降の生活経験からめぼしいものに言及する。まず三十一歳のときの発言:
「新しい命、新しい嵐が世界を掃き清めた。それは、一切を吹き払うすざまじい烈風のようである。樹々から埃をわれわれの心や感情からはクモの巣をはらい、完全にわれわれを清浄にした・・・」
を取り上げた後で、同じく伝記から五年後の三十六歳のときのロンドンでの講話を取り上げて、宗教体験から思想への動きを辿ろうとしている。この講話は「生の完全性 the completeness of life 」についてであり、この講話の邦訳(『実践の時代 メルクマール社』)における誤読は、以前にチャンドラキールティの『入中論』における如来蔵(如来の母胎ないし胎児、すなわち仏性)は未了義とする説明と対比して示したから、ここでは全文には触れないこととするが、『実践の時代』のも玉城氏のも、有と無の二辺に転落した典型的な誤読である(参照 クリシュナムルティ研究ノート4)。生の完全性にしても如来蔵にしても、それは、すべての生命、人間に本来的に内在していると教えられる全体性・完全性が何を意味するのかということである。玉城氏の翻訳から問題点を指摘しよう:
  「・・・あなたが無としてあるとき(原文は when you are nothing )、あなたは一切である。そのことはけっして自我の個性の拡大や強調によるのではなく、意識(原語 consciousness )の持続的な消失によるのである。意識こそ、権力、貪欲、羨望、所有欲、虚栄心、恐怖、情念を生み出す。絶え間なく自己冥想することによって、あなたは十分に覚知的に( fully conscious )なり、心や心情を解放し、完全性という調和を知ることができる」と。
  語学的にはここだけでもいくつも誤読が見られるが、内容的な誤りのみに言及しよう。第一の文章であるが、率直に「あなたは何でもないとき」とすべきである。英語の be 動詞は、「〜である」と「存在する」を二者択一的に表現する。「無としてある」などと両者を同時に表現することはない。にもかかわらず、「無であるとき」ならばまだしも、「無としてある」などというのは、恣意的な改変である。有と無の二辺への転落を示している。「あなたは無である」あるいはむしろ「あなたは何ものでもない」とは、関係によってのみ存在する、すなわち縁起するのであるから、それ自体として実体がないし、存在しない、空である、といった意味である。
  さらに問題なのは、翻訳の第二の文章の後半以降である。原文は、not by aggrandisement, not by laying ... , but by the continual dissipation of that consciousness which creates powre, greed, envy, possesive care, vanity, fear and passion... である。特に関係代名詞 which が制限用法であり、先行詞の consciousness を限定するのであるから、正しく翻訳すると次のとおりである:
  「・・・権力、貪欲、妬み、所有の気づかい、虚栄、恐怖、情熱を生み出す意識の継続的消去によってです。継続的に自制することにより、あなたは十分に意識するし、そのときあなたは精神と心を解放し、調和を知るのですが、これが完全性なのです」
  Kは、意識一般の消去を主張しているのではない。権力以下のものごとを生み出す意識、特定の種類の意識を消去するというのである。ところが、玉城氏は、意識はすべて権力、貪欲以下の善くないものごとを生み出すのであり、それを消去することがよい、意識のないこと、あるいは意識をなくすることが善である、という。氏は、意識の消去を主張しながら、同じ単語が形容詞 conscious としてその直後に出ると、なぜだか意識、思慮分別が巧妙に働いて自己の解釈を擁護するために、「意識」という正しい訳語を抹殺し、「覚知的」という別の価値付けの訳語に改変する。これが意識的なことでなくて何なのだろうか。
  こういう姑息な改変は、衆生に本来的に実在している仏性を悟り、たちどころに無念無想を実現するいわゆる頓悟などを仏教の究極とするなどと思われている国ならではの錯乱である。あるいは、氏は、自分の高く評価する唯識における転識得智、知識を転換して智慧を得るという意味合いを、教えてやったとでもいうのであろうか。しかし、それはもはやKの文章ではない。意識を消去するなら意識は全く存在しなくなるし、覚知あるいは智があるならそれは真に実在するという、これまた有と無の二辺に転落しただけのことである。ここでこのような、意識の消去、無念無想で事足りるとする立場へのカマラシーラの反論を見よう。ただし [] の中の補足は筆者による:
  「何ごとも思わないと言うのは正しい個別観察を捨てることである。正しい根本智の根元はこの個別観察であるから、これを捨てては [、単なる無念無想の世間的禅定にとどまって、] 輪廻を越えるための般若の智慧は得られない。 [しかも、] この正しい個別観察がなければ瑜伽行者は無分別の境地に [さえも] 到達することができない。もし、一切諸法 [ものごとすべて] を憶念することもなく、想念することもないならば、一切の経験は活かされない。もし、ただ何も想うまいと思うならば、そのときはそのまま甚だしく憶念する事態になる。単に憶念がないというのみで事足りるならば、卒倒や乱心のときに無分別の境地が得られるであろう。正しい個別観察がなければ一切法の [、相互に関係し合って存在すること、ゆえにそれ自体として実体を欠いて、] 無自性なることはわからない。このように空を悟れないでは、 [自他の関係性をも理解できないから、生来の我執に催されて衝動的に行動するのみであり、] 罪障は除かれない。したがって、 [誓願を立てて利他行を行い、廻向して福徳と智慧の資糧を蓄積することもないので、] 仏の一切法を得ることもできない。」           (山口瑞鳳『チベット 下』p.215)
  玉城氏には、記されていることを正確に読む個別観察が基本的に欠けている。意識や思考分別はすべて相を執するものであり、善い分別も悪い分別もすべて消去すべきであるなどという主張は、自分のその言説さえも意識により構成されているという存在根拠を破壊し、自己矛盾を犯しながらそのことにも気づかず、自己にのみ甘い態度を取ることなのである。それは世間の義からしても反駁される。氏が先に言う「全人格的な迷乱と、それを抜け出ようとする志向との葛藤である。しかも、底知れぬ無意識層から噴きあがってくる抜き差しならぬ運命的なものであり、それ自体は不合理であり、無智であり、闇であり、無限の過去からの営みの絡まり合うどす黒い渦巻きである」という叙述は、こういう人にこそ妥当する。
  ここで氏は、この講話の思想とKの後の著作に見られる思想とのつながりなどを考察しようとしているが、氏の考える後の著作でのKの思想なるものは、すでに私たちが「心の二つの視点」の項で見たとおり、ものごとの設定ということに関してすでに倒錯を犯していて誤った理解であるし、氏はその倒錯し誤った前提によって議論するから、私たちがあえて取り上げるべき内容は何もない。さらに氏は述べている:
  「この時点でもう一つ注目しておくべきことは、単に宗教体験から思想性が現われ出たというだけではなく、この頃クリシュナは冥想三昧に専念しているという点である」と述べて、Kの手紙を引用する:
  「私はいま、適切な思索と冥想を試みている。いいかえれば三昧である・・・」
原文は I am having a good thinking and 'meditating'. In other words Samaadhi... であり、「私はいま、善い思考と「冥想」をしています。いいかえれば三昧です」と。Kは 'meditating' と引用符つきで記している。これは、冥想についての固定的観念や自明の存在を許さない、冥想の自相による成立を認めないということである。玉城氏が引用符を無視するのは、冥想についてその対極にあるということである。氏には、Kのような慎みや謙虚さは存在しない。そして、氏はそういう自明のものとして成立した冥想をKが試みていると言うのであるが、good という単語に、「適切な」という、目的意識、有所得の立場を意味する訳語を当てている。Kにそういう有所得の意識はないし、善い思考といわゆる冥想とでも言うしかないものを、いますでに行っていると述べているのである。この有所得の問題に関しては、後に述べる。
  さらに玉城氏には、次の伝記作者の言葉を引用する:
  「このような三昧の状態の中で、クリシュナは、こうした肉体的な苦しみの頂点に達したように見えた。彼が過去の記憶をほとんどすべて捨てたのは、意識の新しい段階に達したこの頃であったように思われる」
  そして次のとおり論評する:
  「過去の記憶をすべて捨てた、と判断するのは作者の主観にすぎないであろう。また後に論じたいと思うが、生きている限りは完全に捨てられるものではないという見解も、当然ながら起こってくる。それはともかくとして、クリシュナ自身が、いつの時点か、この頃の前後にか、過去のすべての記憶を離れたと意識したことは、確かであろう。それが後の基本見解となって現れてくる」
  氏は p.404 にも述べる:
  「クリシュナやその周囲の人々が、クリシュナにおいてはすでにいつの時点にか、経験の蓄積が消失したかの如く見るのは問題である」
  玉城氏は、メアリー・ルティエンスによる当の伝記に全面的に依拠しているにもかかわらず、伝記の pp.34, 44, 127, 170, 183, 197-198, 235 に示されているとおり、全くの記憶の欠如と正確な記憶の併存という状態を、Kや伝記作者が気づいていないとでも言うのであろうか。そして、Kは記憶から自由になったといって、言葉を含めてすべて忘却してしまったとでも言うのだろうか。それにもかかわらず、記憶から自由であることを論ずるとするなら、Kや伝記作者は世間の義に関しても錯誤していることになるが、それなら玉城氏はなぜ彼らの言説、記述に全面的に依拠するのだろうか。これは、玉城氏が自己にのみ甘い論理を使用しているために、伝記作者が「記憶からの自由」を述べるとき、ここでもまた自己にのみ甘い論理が使用されているにちがいないと即断しただけのことである。したがって、記憶からの自由と言われるときには、玉城氏が考える記憶の非存在という意味ではなく、別のことが意味されているのである。
  その手がかりであるが、玉城氏には、p.399 の自らの論評の直後に引用し紹介するKの言葉の含蓄に、全く気づいていない。これは、Kの教えは高踏的すぎて、競争社会に生きる人には役立たず、現実からの逃避になるのではないかというエミリー夫人 Lady Emily の問いに対するKの答えである。氏の翻訳、紹介は語学的にも錯誤があるから訂正すると:
  「私は、悲しみ、無執着と執着のこの苦しみ、死、生の持続、人間が毎日経てゆくものごとすべてを理解したかったし、征服したかったのです。私はそう(理解・征服)しました。だから、私のエクスタシーは現実的で無限であり、逃避ではありません」
  玉城氏は、「無執着と執着のこの苦しみ this pain of detachment & attachment 」という語句において、なぜ「無執着と執着 detachment & attachment 」と二つの単語が&によって結合されているのか、気づかない。これは、凡庸な生きる者たちが生来の無明によって対象がそれ自体として成立している自明の存在と考えるから、それが楽を与えるなら愛好、執着すること、苦を与えるなら嫌悪を感じて、ときには憎悪さえ感じて、その単なる存在さえをも認めようとしないこと、その対象が楽も苦も与えないときにもまたその存在に無関心、無頓着なままにとどまって、それの本性と構造に関する愚癡は継続するのみという過程に、言及するのである。すなわち凡夫が、有と無との二辺(極論)に執着し、ものごとをありのままに見ないので、いつまでたっても、苦であり、悲しみである生死を離れることができないことを、含意する。この含意に気づくなら、過去の記憶のほとんどすべてを捨てるということが、玉城氏の跳びつく単なる記憶の欠如状態、すなわち無の辺、極論ではないということに思い至るのは、当然である。玉城氏のいう「生きている限りは(過去の記憶は)完全に捨てられるものではないという見解」も、Kが記憶からの自由を説いているのを、記憶の無、非存在と誤解する見解にすぎない。さらに、Kの説く記憶からの自由を聞く人々であり、有と無との二辺から解脱していない凡庸な人々から、そういう疑問が提出されつづけるということは、何の不思議もないだけでなくきわめて当然のことである。そういう批判が出ることにKが影響されるわけがない。影響されて見解を修正するぐらいなら、ただの凡俗の振る舞いである。さらに、玉城氏が同ページに、「クリシュナ自身が、いつの時点か、あるいはこの頃の前後に、過去のすべての記憶を離れたと意識したことは確かであろう。それが後の基本見解となって現れてくる」と推論することは、今度は、「過去のすべての記憶を離れたと意識すること」という有の辺、言い換えるなら自体として成立している虚無の実在を捉えるという極論に転落したのである。まことに、凡人の所行であり、賢聖の求める法ではない。凡夫は有と無の辺を執して生死を解脱することがない。如実知見を言いながら、時間を超えた本来的な真実在とでもいうべきものを妄想し、意識を消去した無念無想の禅定を自明のものとして固執しつづける一方で、有と無の二辺を離れた正見、中道を捨てて顧みない人にすれば、これは当然のことであろう。しかし、Kは「・・・すべてを理解したかったし、征服したかったのです。私はそう(理解・征服)しました。だから、私のエクスタシーは現実的で無限であり、逃避ではありません」と言うのである。これは、ブッダの言葉:
  「われは一切にうち勝った者、一切を知る者である。一切のものごとに汚されていない。すべてを捨てて解脱している」(『中村元選集第11巻ゴータマ・ブッダ』p.472)
という言葉を思い起こさずにはいられない。仏道は二辺を離れた中道であって、次から次へと二辺に転落しつづけることではないのである。
  こうして、二辺を離れた中道によって解脱、解放が成就されると言うのである。しかし、たとえば仏教においてその学道の究極に至ったアラカンについてさえ、喜びのあまり猿のように跳びはねるとかカーストが低い者に対して軽蔑的であるといった性向は残っているとされる。Kは神智学協会のレッドビーターによって「(神智学協会内の他の自称アラカンはいざ知らず、)少なくともあなたはアラカンだ」と評された(伝記『実践の時代』における「あなたは少なくともアラカンだ」は誤訳である)のであるが、若き日のKは寛大な性格ととも全く空っぽとしか言いようのない空漠とした性格であり、最初から他のどんな人とも異なっていたことが伝えられている。正覚者から教えられてその生涯に成就される個人的解脱、解放だけではなく、人格的性向からの全面的な解放は、仏教においては無上正等覚者すなわちブッダにおいてのみ問題となることである。この問題は、いくらか間接的にではあるが、特にルティエンスの伝記において「Kは誰なのか。何なのか」ということで、一貫して問われていることである。重要な問題であるから、後にまとめて議論することにしよう。
  論文に戻ると、玉城氏はさらにKの手紙を紹介するが、次の部分は全くの誤訳である。すなわち、玉城氏の和訳はこうである:
  「私にとって逃避でも回避でもなく、迷信でもなく恐怖でもないものを、慎重に選びました。けれども、この盲目的な混乱状態を通じて、私の願っているものが手に入っていないのに気づきました。しかし、それが分かったからといって、なぜ私は、この盲目的なあわただしさ、羨望などの中に跳びこまねばならないのでしょうか」
  前後関係がよく分かるように、原文によってもう少し長く紹介すると:
「一定のものごとが自分にとって不必要であると分かるとき、それは跳びこまないことは逃避ではありません。私は魅惑と関わり合いのすべてをともなう家庭生活は、私には要らないことが分かったので、それに入らなかったのです・・・私は、この盲目的な錯綜をとおして私の願うものは得られないことが分かりました。それがそこにないと知ったので、なぜ私は、この盲目的なあわただしさ、嫉妬などのなかに跳び込んだりするでしょうか」
  原文を参照すれば明らかなように、玉城氏は時制の一致( I saw ... what I wanted was not to be had. )を誤るだけでなく、「けれども」「しかし」などという接続詞を勝手に挿入している。玉城氏はどうも「この盲目的な錯綜状態」を、K自身の状態、神智学協会に保護されている境遇のことと理解しているようであるが、この手紙は、ここに玉城氏が紹介するとおり、親しいエミリー夫人 Lady Emily が、重い家庭への責任を負って競争社会に生きる人々にはKの教えは助けにならないのではないかという問いに対して、Kは自分がなぜ家庭生活をしないのかの理由、なぜそれが現実生活からの逃避にはならないことを、世間の義としても妥当するするように、説明しているのである。
  それに続く部分においても、玉城氏の翻訳は誤っている:
  「私は人々へかける橋を造りながら、生から離れるのではなく、生のもっと豊かなものを持つことを明らかにしようと勤めています(1)。私はそのことを先月とくに感じました。私は、生にいっそう大きな充実したものを与える或るものを知りました。まだうまく表現できませんが、それについて絶えず表現し、かつ語りながら(2)、ますます明らかにしていきたい(3)と思っています。私はこれこそが(4)唯一の救いであり、あらゆる混沌や不幸から脱出する道であると思います。生から離れるのではなく、生そのものの中に入っていくことです(5)・・・しかし、本当の意義を出していく(6)のには時間がかかります。そして絶えず言葉を変えていかねばなりません(7)。いい表せないものを表わすということがいかにむずかしいか、あなたにはお分かりにならないでしょう。表現されたものは真理ではありません」
  (1)の部分では I am trying to make it clear, trying to build bridge for others to come over... と、「それを明らかにしようとし(ている)」と「他の人たちが渡ってくるための橋を架けようとしている」という二つが同格で表現されているのであり、二つは同じことなのである。ところが、玉城氏は「造りながら」と翻訳して、二つの別々の行為が同時になされていると理解している。さらに、続く箇所(原文は I feel that, especially last month, I have realized something that gives greater fullness to life)も構文を取り違えたうえに、未熟な誤読を犯している。逐語訳すると、次のとおりになる:
  「私はそれ(筆者注 自己の悟った真理)を明らかにしようとします。他の人たちが生を離れて(渡ってくるの)ではなく、生をもっと豊富に持つために渡ってくる橋を架けようとしているのです。私は、特に昨月、私が生にもっと充実を与える何かを実現したと感じます」
  玉城氏の翻訳では、生とは別に存在する「いっそう大きな充実したもの」を、生に与えてくれる或るものを知ったということである。「知った」と「実現した」とでは意味が全く異なる。玉城氏の翻訳は、語学的にも内容的にも、でたらめである。
  以下、原文による拙訳を示すが、意味を明確にするために省略なしに訳出しよう:
  「これらはひどく表現されているので、それについて絶えず表現し語ることにより(2)、ますます明らかにしたいと思います。私はこれこそ − 私の言うこと − が、唯一の救いであり、このすべての混沌と不幸から脱け出す道であると思います。生から離れてではなく、生そのものの中において、です。少数から大衆は造られるのですが、少数は最高の努力をしなければなりません。私は、できるだけ多く(の人)を正しく生きるように駆り立てようとしていますが、おお神さま、だいじょうぶな人はほとんどいないのです!まったくふしぎです。私は熱意を失うことはできません。それどころか、それは強烈ですし、私は行って、人々に改め、幸せに生きるよう駆り立てたいのです・・・しかし、私が「実現した」ことについて考えれば考えるほど、私はそれを明らかに言葉にし、橋を架ける助けにできるのですが、それには、真の意味を示すために、時間と継続的な語句の変更が必要です。表現不可能なものを表現することがどんなに困難なのか、そして表現されたものは真理ではないことは、あなたには見当も付かないでしょう。それで、続くわけです!・・・」
  (3)(5)(6)(7)は、原文通りの「〜する」ではなく、「〜していく」「〜している」と表現されているが、これはすでに指摘しとおり、玉城氏が時間またはその流れ、継続を自明のものとしているからであり、そのなかでの自己の目標、方針を持って行動するかのような改変がなされている。しかし、Kにはそういう匂いはない。時間の継続、流れを自明のものとし、そのなかで我執の対象、自分の目標、方針をもって行動することにより、結果的に生死に捕らわれ苦しみ、悲しんでいる人たちが、生死のままで(「生を離れてではなく生において」)生を充実させ、豊かに幸せに生きるための橋を架けるとは、その執着によって再び我執の対象に転落することのない誤解の余地なき明確な表現をするということである。ゆえに、Kは自分の表現の不充分さを嘆きつつ、適切な表現に努めるという。氏の翻訳が含意するように、自分自身が時間の継続、流れを自明のものと決め込んで、そのなかで行動しながら、それに気づいていないような不覚者が、他の者たちを苦しみや悲しみをありのままに理解し、助けることなどできるわけがない。時間の存在を自明のものとしないというこのことは、解放へ直結する道である。玉城氏は無視するが伝記において直後に示される二つの手紙が、それを明らかに示している:
  「私は私の感じていることについてあなたに話せたらなと思うのです。それは空虚さ空しさではありませんが、光とは何なのでしょうか。空虚、空しさがあるから、光、強烈な精力と生命力があるのです。だから、自分が私的な観念と感情すべてについて(すべてを欠いて)空であるとき、生のエクスタシーがあるのです」
  「人はどんな信念も、観念さえも持ってはなりません。それらは、あらゆる種類の反応と応答に属するからです・・・もしあなたが現在において鋭敏で、諸観念、諸信念等から自由であるなら、あなたは際限に知覚するし、この知覚が喜びです・・・いまやあなたは正直に言えるのです、信念は不毛である、未来に生きることは理解と両立可能ではないし、人は蓄音機ではありえないことを。・・・智慧は方向を持ちません・・・」
  第一の手紙は、精神的、内的な光が無自性空であり、玉城氏が構想しているようなものではないことを指摘する。第二の手紙は、上に指摘したことをそのまま述べている。しかし、ここで玉城氏は批評する:
  「この一連の手紙の中には、生活の中で模索・苦闘がありありと現れている。冥想三昧に専念するという日々を過ごしながら、その境地から語り出されてくるクリシュナの教えは、形なきいのちの力にみなぎっていることは感じられても、結局それは、表現できないものを表現しようとする繰り返しではないか。そういう批判が起こっていた。もっと具体的なもの、もっと現実的なもの、生活そのものの中に根づいているものを、クリシュナは求めつづけていたのである」
  これもまた誤りである。「結局それは、表現できないものを表現しようとする繰り返しではないか」などという感想は、ものごとを自明のものと決め込む人、ものごとの自性による成立を認める実有論者にのみ、成立する。玉城氏その他の、Kの話を正確に聞かずに自分勝手な解釈を振り回す人たちにのみ、成立する。彼らが自分の過失を他者に転嫁しているだけのことである。しかも、ものごとの自明性を決め込む人においては、そもそも表現不可能なものを表現するために勤めつづけるといったことさえ成り立たない。表現不可能なものはあくまでも表現不可能であるし、理解しない人はあくまでも理解しないことになるからである。さらに氏の論評によれば、「表現できないもの」と「もっと具体的なもの、もっと現実的なもの、生活そのもの」は別々のものになってしまう。しかし、これは、冥想三昧を日常生活の事実の観察とは別に立てる氏の態度から出てくる誤謬に過ぎない。自分勝手にものごとを自明のものと決め込んでおいて、後になって他人により批評されてから、それが「具体的なもの、現実的なもの、生活そのもの」とは関係が無いと気づく、愚か者の立場である。自他が平等無差別である日常生活の事実の観察に即してのみ冥想三昧を立てる覚者においては、「表現不可能な」真理は、自他の生活についての甚深な真理である。それを離れていかなる真理もあるわけではない。大乗仏教において、「色即是空、空即是色」などと説いて、勝義と世俗あるいは空性と縁起が全く一致するものとされていることである。
 しかし、そういう自分勝手な愚かな人たちをも含めて、他者の苦に気づく人は、彼らを即時にそのままで助けなければならないと熱望していたし、そのための方便という問題に取り組んでいた。もっと誤解の余地なく明確に直接的に人々が自らの生を理解し、充実させて、豊かに幸せに生きるようにしたいと願って、自利利他の円満のために努めていたのである。
(つづく)



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